第八話 兄妹の乗馬
ケルンテン公ニコラウス・フォン・ホーエンシュタウフェンは侍従のヨハン・フォン・ハーゼベルクを連れて、居住している薔薇の宮殿から皇宮へ向かった。
バイウヴァリー大公妃ヒルデガルトは帰国の途についており、ニコラウスは気兼ねせずに皇宮を歩けた。
だが、すれ違う貴族たちはニコラウスの姿を見ると、気まずそうに顔をそむけた。
ニコラウスが幼少の頃は、彼らはひそひそと蔑み、皇女ユーリア出奔中は媚びるように挨拶をしてきたものだった。
ニコラウスは己の扱いが異母妹によって変わることをまざまざと見せつけられた。
初めは皇帝の部屋へ向かったが、生憎、皇帝は寝ているらしい。ニコラウスは諦めて、皇女ユーリアの部屋へ向かった。
だが、皇女ユーリアも不在だった。
「皇女殿下は乗馬されに行きました」
そう答えた侍女は、黒い瞳だが顔立ちがユーリアに酷似していた。ニコラウスは異母妹に似ている侍女を見て、心が騒めくのを感じた。
ニコラウスは宮廷も自分も、異母妹によって左右されていることに気付き、溜息を吐いた。
四年もいなかった皇女がもう影響力を持っている。
ニコラウスはハーゼベルクと共に皇宮の厩へ向かった。
黒いローブを纏う長身の女の後姿が厩から見えた。佇まいは美しく、その女が至高の身分であることをうかがわせた。ニコラウスには後姿だけ見ても、それがユーリアであることはよくわかった。
ブルグントに到着した初日こそ、ユーリアは菫色のローブを纏っていたが、その翌日からは喪服を纏っていた。ブルグントの織物商がユーリアを訪ねたが、ユーリアはローブを注文することに対して良しとしなかった、と聞いている。
それもそうだろう、とニコラウスは思った。残念ながら、ブルグントの織物商の扱う絹織物は、上質とは言い難い。それも、ここ一ヶ月ほどは特にそうだった。
アルジャン女公にして、ブルグント皇女ユーリアが、上質な絹織物を卸すアルジャンの織物商との通商を止めたからだ。それは、織物商だけではなかった。
今、ニコラウスはブルグント商人たちに責められて窮地に立っていた。ニコラウスは、通商を止めさせた張本人であるユーリアと話さなければならない。
「――ユリー」
ニコラウスは黒いローブの女に声を掛けた。
女は振り返り、美しい顔に笑みを浮かべた。その笑みを見て、ニコラウスは年月を感じた。美しい笑みだったが、幼い頃のような純粋性は失われ、演技性を嗅ぎ取ったのだった。
「――ニコラ、どうしてここに?」
「侍女から乗馬すると聞いた」
「そうなのね」
ユーリアはそう言うと、目の前にする白馬の顔を撫でた。白馬は軽く嘶いた。
「ユリーの行き先を教えてくれた侍女は、ユリーにとても似ていた」
「その侍女はユルシュル・ダルジャンですね。彼女はユラン伯の妹です」
「……ユリーの侍従の?」
「そうです。元はお母様に仕えていた者たちです」
「そう……」
ニコラウスはこの話題は続けたくない、と思った。その様子を知ってか知らずか、ユーリアは続けて言った。
「ニコラ、私はユラン伯とこれから乗馬をしますが、ご一緒しますか?」
ニコラウスはユーリアの言葉を聞いて、胸の奥に重いものがのしかかったような不快感を覚えた。
――ユラン伯。
厩の奥に、美麗な男が立っていたのを、ニコラウスはずっと無視していた。
褐色の髪に榛色の瞳という地味な色合いの持ち主ながら、ユラン伯はその端正な顔立ちで目立つ男だった。
薔薇の宮殿の侍女などの女の召使たちは、皇女ユーリアと共に帰還したユラン伯に対して、黄色い歓声を上げていたのだった。
それはユラン伯が皇后ヘレーネに仕えていた頃から変わらなかった。
そのように美麗な男が異母妹の側近くにずっと侍っている。
四年前、皇后の落馬事件が起こる前まで、ユラン伯はユーリアに関心を持っていたようには、ニコラウスには見えなかった。
だが、皇后の事件を契機に、ユラン伯はユーリアに急速に近づいたように見えた。その上、共にアルジャン公国へ出奔した。
ニコラウスは、ユーリアがアルジャン公国で過ごした四年間を知らない。だが常にこの男が側にいたかと思うと良い気分はしなかった。
ユラン伯のニコラウスを見る榛色の瞳は、冷静ではあるものの、良い感情が浮かんでいないように、ニコラウスには思えたのだった。
不意に、ユーリアの目の前の白馬が脚を踏み鳴らし、不快そうに嘶いた。ユーリアはその白馬を撫でながら言う。
「大丈夫よ、彼は私のお兄様だから」
よしよし、と白馬を撫でているユーリアは、慈愛に満ち溢れた聖母のように、ニコラウスには見えた。
「――コンケットは人見知りね」
ユーリアの言葉を聞いて、ニコラウスは思わず言った。
「コンケット?」
「この子の名前です。この子の隣にいる栗毛の子はゲール――名前に反して大人しい子です。ゲールの隣の青毛の子はファミーヌ――この子は優しい子よ。ファミーヌの隣にいる芦毛の子はモール――この子は臆病なの」
ユーリアの慈しみに溢れた声を、ニコラウスは胸を詰まらせながら聞いた。
コンケット、ゲール、ファミーヌ、モール。それは、アルジャン公国やリュクサン公国でも使用されるレグザゴン語で、それぞれ、支配、戦争、飢餓、死を意味する言葉ではないか。
黙示録に出てくる、終末が訪れる時に現れる四人の騎士だ。馬の体色はそれぞれに相当している。
ニコラウスはユーリアの名付けに冷や汗を掻いた。どうして、こんなにも掻いてしまうのか。
ユーリアは何を決意しているのか。
「そういえば、ユリーの名付けは昔から酷かった。怪我をした鷹を拾ったとき、ユリーはなんて名付けたか覚えている?」
「……確か、あのときは“イカロス”と」
「後々、酷いと思ったよ。太陽に近づきすぎたと決めつけたみたいに」
「そんな昔の話を持ち出して……」
そう言って、ユーリアは可笑しそうに笑った。
「はは、懐かしいな」
「ニコラったら」
ニコラウスはユーリアの美しい笑顔を見て、この瞬間だけは昔と変わらない笑顔だと思った。
「ねえ、ユリー、乗馬に誘ってくれたのだろう? ならご一緒したいものだな」
「――では、ニコラは好きな子を選んでください」
ユーリアはあっさりとそう言うも、ニコラウスは選びあぐねた。
馬の名前が名前だ。
ニコラウスは熟考の末、優しいと言われていたファミーヌを選ん
だ。
ユーリアはコンケットを、ユラン伯はゲールを連れて、厩から中庭へと向かった。
皇宮の中庭には、今の時期、リンデンバウムの薄黄色の花が咲いている。その甘い香りが風に乗って、ニコラウスの元へやってきた。
――そういえば、ユリーはリンデンバウムのお茶が好きだった。
ニコラウスは、白馬に乗るユーリアの横顔をちらりと見た。
ユーリアはリンデンバウムの繊細な黄色の花に目をくれず、どこか虚空を見ているようだった。
白馬とユーリアの黒いローブの色合いは対照的で、彩がないというのに、ニコラウスの目には鮮やかに写ったが、主のように掴みどころがないように思えた。
「――ユリー」
ニコラウスが異母妹に声を掛けるも、先に反応したのは、ユーリアの斜め後ろに控えていたユラン伯であった。
ユラン伯は、その理知的な榛色の瞳をニコラウスに向けていた。
「なんですか? ニコラ」
ユーリアは、ニコラウスに美しい顔を向けた。
「――通商の件だが、急に取りやめられて、ブルグント商人たちが困っている」
「――困っているのはニコラも、ですね」
ユーリアは微笑んでいた。その笑みは嘲りの色があるように、ニコラウスには見えた。
「ユリー!」
ニコラウスは思わず叫んだ。
四年も姿を隠したかと思えば、帰国を前後にちらちらと存在を表している異母妹とは、もうかつての関係には戻れないのだろうか。
「……ニコラ、通商は再開させます。お父様にもそう話をしています」
「では……」
ニコラウスの心の霧は晴れていった。だが、ユーリアの次の言葉で、ニコラウスの心は霧ではなく、闇に包まれる。
「皇帝陛下は私を摂政にする、と仰っております。ブルグントを預かる身としては、通商を再開させる所存です」
ユーリアの表情は、氷のように冷たかった。
ニコラウスは己の立場が急激に失われていくことに気付き、目の前が暗くなるのを感じた。
まだ太陽が高く昇る午後の日差しが、ニコラウスの身体を焼いた。




