ep.096 仮面の愚者
長らくお待たせいたしました。
しばらく二日に一回更新で行こうと思います。
朝目覚めると、アルバはいつも天井を見上げる。
つるりとした白い天井。それで気づく。ハルバトアの病院をアジトにしてライたちと過ごしていた日々はもう手の届かない場所へ行ってしまったということに。
鉛のように重たい腕を持ち上げて、手の甲を額に乗せる。体温は正常、普通よりも少し低いくらい。けれど、それが少しずつ少しずつ下がってきていることも分かっている。毎朝、重くて重くてたまらない錆びついた身体と下がりつつある体温が、アルバス・カストルの身体の限界を克明に知らせていた。
ゆっくりと、ひどく緩慢な動きで上体を起こして足を床に着けた。木張りの床からひんやりと朝の冷気を裸足に感じながら、立ち上がる。全身に巻かれた包帯がほんの少し食い込んだので眉をしかめた。下着以外に纏うものはないはずなのに、包帯のせいで服を着ているように見えてしまう。
深く息を吐き出せば、胸が針で刺されたように痛む。けれど、この両足はしっかりと床を踏みしめている。
今日も起き上がることができた、と安堵した。毎日毎日朝になるたび祈るような気持ちで目を開ける。いつ動かなくなるともしれない身体だから。
それから顔を洗いに行く。初春の水はまだ冷たくて、おそるおそる顔をつける羽目になるけれど、眠気覚ましにはうってつけ。あちこち悲鳴を上げている身体もいくらかしゃんとするというものだ。それでもまだ寒いので、慌てて顔を濡らす水を拭き取ってしまうのだが。
次は、木で作られたクローゼットに手を伸ばす。開ければ、甘い据えた匂いがふわりと立ち昇った。かかっている白いシャツ、紺の軍服を無造作に順に身に纏っていく。薄暗い早朝の静寂に衣擦れの音だけが響く。ボタンを留めて、その後に階級章。銀の階級章が示す位は大佐。しかし、通常の士官のものとは少々作りが異なる。花をついばんだ白鳥が宿るこれは、特務大佐であることを示すものだ。そして、最後に白い手袋。きゅっと深くはめて、余った部分はきっちりと袖に隠した。これで袖から覗く包帯も見えなくなった。
けれど、朝の準備は後一つ残っている。
朝日を遮るカーテンには手を付けないまま、アルバは鏡の前へと向かう。そうして毎朝必ず己の顔を鏡に映し込むのだ。
雪のように真白の髪。空の彼方のような碧眼。それらを持つ、自分のものではない顔。
アルバはそっと顔に手を当てる。鏡の中のアルバも同じ動きをした。手のひらから伝わる体温も本物。そう、これはアルバの顔でしかない。ただ、これがアルバの本当の顔ではないというだけ。
そもそも、アルバス・カストルを構成している要素は何一つ自分のものではない。
この軽薄な笑みが似合う顔も、経歴も、性格も。
──七という数字さえも。
何もかもを、アルバス・カストルになるはずだった人間から奪ったのだ。
今ここにいるアルバス・カストルは偽りでできている。
だから、アルバは毎朝鏡に向かって己を問う。
──自分は誰だ?
「俺は第七位使徒、白。アルバス・カストル特務大佐だ」
刻む。自分は嘘偽りなくアルバス・カストルであることを己に騙る。深く、深く刻みつける。決して暴かれぬように、決して露見しないように。自分自身すら騙しきってみせる。重ねた嘘はもう、解くことなどできないのだから。
……だから、なのだろう。
アルバは唇を噛んだ。手を伸ばして触れた鏡面には、泣き出しそうな顔が映っている。
……いつからか元の自分が思い出せなくなってしまったのは。
仮面を被り続けた代償に、アルバは自分を失った。元の顔も、元の性格も、あまつさえ記憶すらも。全部全部手の中からこぼれ落ちて、後には何も残らなかった。
カーテンの隙間から差し込む朝日の雫を鏡は弾く。アルバの指先は鏡の中の自分の顔にくっついてしまったように動かない。歪んだアルバの顔を気にも留めずに、ぽろぽろとガラスの上を光の雫は滑っていく。
「……ルクス」
この名前だけはまだ憶えている。これを手放してしまったら、きっと元の自分は本当の意味で死ぬのだろう。そして、後はかつての自分が遺した願いをただ叶えるだけの絡繰り人形に成り果てる。けれど、それは今のアルバとどれほどの違いがあるというのだろうか。ライの背中を撃ってまで成し遂げたい願いの始まりを、とっくに忘れてしまったというのに。
「お前は、……俺は、誰だったんだろうな」
それでも、アルバは歩みを止められない。死へと滑り落ちていく恐怖でも、自分を失った空虚でも、罪を重ねる罪悪感でも、すべてを欺く孤独でも、この足を止めるには足りない。奥底に焼き付いた願いが崩れそうな身体を駆り立てる。たとえ、理由を忘れ去ってしまっても。
こちっ、と時計の針が鳴った。
火傷をしたように指先を鏡から離した。慌てて拳銃やらナイフやらが転がっている机の上の時計を見ると、午前八時を指していた。もう行かないと。
特務に支給される一世代先の拳銃を懐にしまい、小ぶりのナイフも同様に。弾倉もいくらか内ポケットの開いている場所に押し込んで、アルバは部屋を出た。
「十七、こんなトコで待ってなくていいのに」
癖のある白金の髪を肩口で切り揃えた女が扉の前で佇んでいた。白い仮面をつけた彼女はふるふると頭を横に振る。
「第七位使徒である大佐の補佐がワタシの役目ですから」
そう言ってディセットは歩き出したアルバの後にぴたりと続く。
「いやー、ただ第二位使徒に会いに行くだけなんだけどー」
「アナタの副官として、アナタについていくのは当然のことです。それにワタシとて非力ではありません。十番台ですし、一桁の大佐には劣りますが、ある程度の戦闘能力は持っています。ですので、アナタの足手まといにはならないと思います」
そっかそっか、とアルバは苦笑した。ぽんぽんと軽くディセットの頭を撫でると、ディセットが仮面の下で頬を膨らませるのが分かった。
「ワタシは本気です、大佐」
「分かってるよ。ディセットが俺のコトをめっちゃ心配してくれてるのも、めっちゃ一生懸命なのもね」
片目をつむってみせれば、ディセットの肩が震える。
「大佐! か、からかわないでください!」
ディセットの反応は、からかったときのリュエルの反応と似ていた。今歩いている部屋の整然と並ぶ廊下はハルバトアの病院とそう変わりはない。エルザに身体の限界を悟られたあのときと同じように、二人の話し声以外に音はしなくて……。
「……大佐? どうかしましたか?」
「いや、何でもない。少し、考え事をしててさ」
ここは使徒化計画の被検体たちに与えられる部屋が集まる区画だ。使徒化計画──人体実験によって身体を弄られた人間は存在自体が機密扱い。番号を付された彼らは、任務以外でこの牢獄のような場所から出ることは許されない。それは一応アルバも同じなのだが、番号が一桁、そして使徒であるために、ある程度の自由が許されていた。
「ここは相変わらずだな。静かだ」
「今は朝食の時間ですからね。それに、朝食の後は訓練がありますから。……寝床でしかないですよ、ここは」
「そうだったな……」
長いこと離れていたから忘れていた。ライの監視を任務として過ごした歳月は、無視できるほど短くはなかった。
しばらくして第二位使徒の牙城とも呼べる区画に入った。両足を砕かれ心臓に爆薬を仕掛けられた幼女がここに住んでいる。共和国最高の頭脳を持つ魔女の城、あるいは鳥籠だ。
優れた知能を持つ代わりに一切の戦闘能力を持たない彼女を守るため、最高峰のセキュリティが敷かれている。あちこちに監視カメラやら赤外線センサーやらなんやらが埋まっているという話だ。アルバの来訪はとっくに主に伝わっていることだろう。
「ソフィアちゃん、来たよ~」
笑顔で執務室の扉を軽やかに開けると、虫けらでも見るような視線がアルバに二つ突き刺さった。
「気持ち悪いわ、この阿呆めが!」
小さい身体で喚く魔女さまはまだいい。問題は、腰に佩いた長刀の鯉口を切っている男の方。頬に傷があるせいで凄みが増し、殺意が本物のように……殺意は本物だった。
「うわー! 殺される! ディセット助けて!」
「……今のは大佐が悪いと思います」
頼みの綱であるディセットにすげなくあしらわれ、アルバはがくりと肩を落とす。どうやら誰も味方にはなってくれないらしい。悲しい。
「……とまあ、ふざけんのはこんくらいにしよう」
視線をやると、優秀な副官はこくりと頷いて扉を閉めた。話が終わるまで部屋の外で待機していろ、という命令をアルバの顔に見て取ったのだ。
「そなたには過ぎた副官じゃな」
ソフィアは既に来客対応用のローテーブルに車椅子を寄せ、テーブルに乗っている皿からクッキーをつまんでいる。皿には数種類の茶菓子が山のように積み上げられているせいで、せっかくの洒落たデザインが台無しになっていた。
刀を抜きかけていたとは思えないほどの落ち着いた様子で、キリクは小動物よろしく茶菓子を貪る主の前に紅茶のカップを置いていく。そして、隣にもう一カップ。しれっとソフィアの隣のソファに腰を下ろして優雅にカップを傾け始めた。
「あのー、俺のは?」
二人の向かいに座っていたのに肝心の茶が出てこなかったので、アルバは手を上げてみる。
「ああ、忘れていました失礼」
全くもって謝罪の意思が見当たらないが、キリクは渋々立ち上がるともう一つティーカップをアルバの前に置いた。空のカップにキリクは茶葉をそのまま放り込み、熱湯をおざなりに注いだ。
「粗茶です」
茶葉がぷかぷか浮いた湯を見下ろし、アルバは顔を引きつらせた。
「……だろうな」
それを見たソフィアが喉を鳴らして笑い始めたものだから、アルバの顔は一層渋くなった。どうやらソフィアちゃん呼びはまずかったらしい。
「で、ご用件は何でしょう、第二位使徒様?」
いつものように角砂糖を紅茶に大量に投入していたソフィアが口を開いた。
「あやつらが帝国から帰ってきたようじゃ。棚ぼたに接触するつもりじゃろう」
ふっとアルバの顔から表情が消えた。
「そりゃ、俺の出番ってわけだな」
「うむ。じゃが、此度は《死天使》が最初から同行しておる。《死神》を仕留めるのは容易ではないぞ?」
「……分かってるさ」
そして二度は失敗できないことも。
「なんでそこまであいつを殺したがる?」
星屑のような銀の髪と夜空のような藍の瞳をした青年の姿が目に浮かぶ。使徒に匹敵する戦闘能力を有し、帝国の皇族の血すら引いているけれど、その意味をライは全くと言っていいほど理解していない。皇族であることを言いふらすこともないとなれば、差し当たって脅威にはならないはずだ。
「殺せぬと言うのか?」
意地悪くソフィアは嗤う。だが、アルバはその挑発には乗らなかった。
「いや、これは純粋な疑問だ」
「なに、簡単なことじゃ。妾は皇族が嫌いじゃからな」
あっさりとした答えだった。まるで子供が嫌いな物を訊かれて答えるような、軽さ。《智恵の魔女》と畏れられる幼女がたったそれだけの理由で動くだろうか。しかし、この答えを否定できるほどアルバはソフィアのことをよく知らなかった。
「……そういうことにしてやるよ」
アルバはソファから立ち上がった。アルバのカップの中には一度も口を付けられなかった琥珀色の液体と沈んだ茶葉が入っている。
「俺は行く。約束はきちんと果たしてくれるんだろうな?」
魔女の目にはめ込まれた金の瞳がやわらかく微笑んだ。
「当たり前じゃ。そなたは妾につくこと選んでくれたわけじゃからな。望みは叶えてみせよう。同じ願いを抱く者としても、な」
「なら、いい」
一刻、また一刻と過ぎゆく時とともに壊れていく身体を押して、歩いていく。
この命はたった一つの誓いのためにある。
──使徒化計画を葬る、ただそのためだけに。
果たすためならば、自分が誰であろうが……どうだっていい。
忘れてしまうくらいの過去なら、きっと意味なんてないはずだから。
アルバが執務室を出て行くと、ソフィアはふうと息をついた。
「ソフィア、私も気になるんですが、どうして《死神》をそこまで殺したがるんです?」
アルバとソフィアの会話中は静かに紅茶をすすっていたキリクだが、ソフィアの返答に疑問を覚えたようだった。キリクはアルバと違ってソフィアのことをいくらか知っていたから、皇族が嫌いだという理由では納得できなかったのだ。
「ライ・ミドラス──ラインハルト・アフトクラトル・フォン・アイゼナッハが皇族だからじゃよ。あれは皇位継承権第一位じゃ。妾の可愛い弟子ならいずれ共和国が帝国と争う必要がないことに気づくじゃろう」
「共和国と帝国は戦う理由がないと? いやそれは確かに双方が理由を見失っているからそうなんですけど……、でも、どちらも戦う気満々なままですけど?」
「そうじゃ。じゃがな、帝国はあの女に操られているにすぎぬ。この国の犯した最大の過ちはアレを作ってしまったことじゃろうな。あの女に逆らえる者などどこにもおらぬゆえ、あの狂った女に動かされるままに帝国は争いを続けておる」
ソフィアはカップを傾け、胸やけがしそうなくらい甘い匂いのする液体をすすった。
「帝国にとってのすべての元凶は第一位使徒なのじゃ。帝国には二つの敵が存在していることになる。一つは共和国、そしてもう一つが第一位使徒じゃ」
キリクの喉が上下する。ソフィアが薄桃色の小さな唇で発しようとしている言葉をキリクは分かりかけていた。
「──すなわち、帝国が第一位使徒を敵と定めたとき、帝国は共和国と戦う理由を失うのじゃよ。長きに渡って争い続けた共和国は憎いじゃろう。じゃが、帝国の民はそれ以上にあの女を憎んでおる」
「で、ですけど、アリアは皇妃ですよ? どうやって帝国と分離させると……そうか、そういうことか! だから、あなたは──」
膝を打ったキリクにソフィアは底意地の悪い笑みを向ける。
「そうじゃ。皇妃に命じることができるのは、同じ皇族だけじゃ。そして、今の皇帝を排し、ライ・ミドラスが皇帝の座につけば、あの女を追い落とすことができる。そうすれば、帝国は二つに割れ、帝国側は共和国と結んで第一位使徒と戦う道を選ぶじゃろう」
もしも、ライが皇帝の座を望むときが来れば、帝国も共和国も戦争をやめて手を組むことが可能かもしれない。最適解ではないにしても、これなら最小の犠牲で戦争を終わらせることができる。
だが、……そんなシナリオは認めない。
だからソフィアはライの命が欲しい。この醜い世界を粉々に壊してやりたい。腐臭を撒き散らす国が命を長らえさせることなどあってはならない。
こんな世界ならば、いっそ滅んでしまえばいいのだ。
「ゆえに、誰にも気づかせてはならぬ。……帝国と共和国が共に生き延びる道があることに」
ぜひ感想などいただければ幸いです。一言でも大歓迎なので!




