ep.092 心臓の凍傷
ナタリアとライはノルデンリヒトの基地を走る。濃密な血の匂いを帯びた二人を止める者などどこにもいない。ガンマの保有する区画であるため人が少ないのもそうだが、ガンマにおいてナタリアとライの顔と実力を知らない者はいないからだ。
エルシオの身体を抱えたライはずっと唇を噛み締めている。灰色の廊下はいつからか白く色を変えていた。
「ライ、なぜエルシオを連れてきたのですか?」
もう動かないのに、なぜ。
「……あんな場所に置いていけないだろう。それに人が死んだときは親しい者の手で埋葬するのだと聞いたから。エヴァンの元に返してやるのが筋だと思う」
「そうなのですね。知りませんでした」
理解できない。とうに命を失くした身体に何の意味が残るというのだろうか。いずれ朽ちる身体なら、どこに置こうが同じこと。地に埋めることの利点は考えられるけれど、敵陣の真ん中からわざわざ輸送することではないように思える。沈痛な面持ちをしたライのこころがナタリアには見えなかった。
基地を出て、合流予定地へ急ぐ。粉雪がちらちらと舞っていた。春も近いから、もうあまり積もらないだろう。けれど、足跡を消すには十分。ナタリアとライの刻む足跡はゆっくりと消えていく。ライの方はナタリアのものよりも消えるまでに時間がかかった。エルシオの分だけ深く刻まれていたから。
白い息を吐いて歩いていけば、人影が見えた。ルカとエルザ、それからもう一つはエヴァンだろう。
「ライ! ナタリア!」
エルザが呼んでいる。白く染まった車の脇でエルザは手を振っていて、ルカは暇そうに車のボンネットに指先でラクガキ中だ。犬だか猫だか判別できない生き物を生産している。そんなルカの前には赤髪の少年が彫像のように立っていた。
「……にいさん、は?」
エヴァンが問う。ナタリアが何か言う前に、ライが腕に抱いたエルシオをそっと雪の上に下ろした。
「……ぁ、あ、ああああああああああああああああぁ」
身体を引き裂くような慟哭が小柄な少年から放たれる。ライの顔が一層悲痛に歪んだ。
「にいさん、目を開けて。ねぇ、兄さん、にいさん、」
もうエルシオが死んでいるのは事実だというのに、エヴァンはエルシオの肩を揺らしている。そんなことをしても無意味だと言おうとしたナタリアの手をライが引く。困惑してライを見れば、ライは首を横に振った。
「……ねぇ、僕を置いていかないでよ。ひとりに、しないでよ。ねえ、なんで、なんでだよ、約束したじゃん、一緒に戦うって!」
エヴァンはエルシオの冷たい頭を抱きしめる。赤髪にこびりついた血はとうに固まっていて、二度と変わらない体温は外の寒さに触れて氷のようになってしまった。動かない身体は固く重く、エヴァンの細い腕は震える。
「言ったじゃん、大丈夫だって……。嘘だよ、僕は大丈夫じゃない、ぜんぜん、これぽっちも、だいじょうぶなんかじゃないのに」
エヴァンは顔を上げた。エルシオと同じ翠の瞳が燃えている。その先に映るのはライとナタリアの顔だった。
「……どうして、兄さんを見殺しにした?」
唸るようにエヴァンが尋ねるけれど、ライとナタリアは答えを持たなかった。
「エルシオ大尉はわたしたちが見つけたときにはもう息をしていませんでした」
「うるさい! うるさいんだよ、暗殺人形。お前たちが帝国で一番強い兵器なんだろ? なら! 兄さんだって! 救えたはずなんだよ!」
「……」
ライは黙り込んだ。何を言えばいいのか分からなくて、沈黙する。大事な人を失った人に掛ける言葉を覚えてこなかった。見かねたエルザが口を開く。
「ここに長居はできないわ。エヴァンくん、エルシオさんを埋めてあげて。エルシオさんを連れては行けないから」
「でも──ッ」
「なら、エルシオさんを雪の上に置き去りにするとでもいうの?」
「それは──」
俯くエヴァンにエルザはスコップを手渡した。車とともに渡された装備一式の中にはスコップもあったのだ。元より戦場はそういう場所。死ばかりが生まれる地獄だから、死者を埋めてやる機会もごろごろ転がっている。
エヴァンはスコップを支えにしてのろのろと立ち上がった。顔を上げて近くの高い木の根元にスコップの刃を突き立てる。
黙々と穴を掘る少年の姿にエルザは深く息を吐いた。いつまで、こんなことを繰り返せばいいのだろうと思わずにはいられない。戦争が終わらない限り、今日もどこかで理不尽に多くの命が奪われる。
置物のように雪を積もらせているライとナタリアの元でエルザは足を止めた。
「二人ともお疲れ様。大変、だったわね」
「……エルザ、エルシオが死んだのは、俺たちのせいなんだろうか?」
エヴァンから目を離さないまま、ライは呟く。本当は手伝ってやりたいところだが、エヴァンが許しはしないだろう。
「いいえ。でもね、あの子は誰かに理由を押しつけないではいられなかったのよ。悲しみは容易く怒りへと転化するわ。特に、大切な人を失ったときは」
「よく、わからない。俺にはまだ、エルザの言葉の意味を理解することはできないみたいだ。でも、少しは……」
目を伏せる。ライは自分の中に言葉を探す。けれど、どれだけ探してもエヴァンの気持ちを説明するものは見つからなかった。
「──少しは、わかりたいと思ったんだが、やっぱり俺にはまだ駄目みたいだ」
アリアの前で立ちすくむような自分では、まだ。
ライの横顔が寂しげに微笑んでいたから、ナタリアは思わずライの袖を引いてしまった。ライが視線をナタリアに向ける。
「人のこころを理解するのは、……とても、難しいな、ナタリア」
「……はい」
人を殺す方法なら、いくらでも分かるのに。
エルシオを埋めたきり動けなくなってしまったエヴァンを車に押し込んで、ナタリアたちはデアグレフへと帰還した。
「みんな、お帰り」
会議室では、リュエルの疲弊した声に出迎えられる。デアグレフ支部にいる構成員の少なさに目敏く気がついたルカは、早速リュエルに詰め寄った。
「ここにいた人たちをどこへやったんすか?」
分かりやすくリュエルは視線を彷徨わせた。
「えっと……、ソフィリアだよ。だ、大丈夫ここには十分人いるし!」
リュエルの額でルカのデコピンが炸裂。情けない悲鳴を上げてリュエルは赤くなった額をさすった。
「あのっすねぇ! あー! もー! そんなことしてたら、あんた死ぬっすよ!? いい加減、自分の価値ってもんを理解してほしいっす!」
「べ、別に私だってちゃんと考えてるし! ──って、こんなことに時間を使ってる場合じゃないんだった!」
リュエルの視線が素早くナタリアたちの上を移る。
「エヴァンさんは……?」
本来ここにいるはずの少年の姿が見当たらない。慌てて全員で周囲を見渡しても、やはり赤髪の少年は見つからなかった。
「嘘、間違いなくここまで連れてきたのに」
「エルザ、ここまでエヴァン・リーゼンバーグが同行していたことは確認しています。なので、いなくなったのは先程かと」
リュエルがルカに叱られている間にエヴァンは消えてしまったのだろう、とナタリアは予測する。その瞬間は、ナタリアとライもリュエルとルカに意識が向いていたから。
「ありがとう、ナタリア。私が後で探しにいくよ。……今は、もっと優先しなきゃいけないことがあるから」
リュエルは眼鏡を押し上げ、《無名の魔術師》の顔をした。
「現在、カイン・マクシミリアン大将が死亡したことを確認しています」
感情を押さえた声。リュエルの顔は無表情で、分かりやすい感情の符号は顔にはないのに、どこか苦しそうだとナタリアは思う。
「ですが、依然として私たちは苦しい状況に立たされています。想定以上に、帝国軍が各地に割いた人員が多く、一部の支部や砦は劣勢に追い込まれています。なので、少佐たちには劣勢に立たされている箇所へ応援に行っていただきます」
地図を指差しながら、リュエルは続けた。示された場所は何か所もあり、ライとナタリアが別々に動く必要があるようだ。
「分かった。早速行って来る。俺は西から、ナタリアは東から支援に回ろう」
「了解しました。では、作戦行動に移行します」
「待って」
すぐさま会議室を後にしていくナタリアとライをリュエルは呼び止めた。銀色の青年と赤茶色の少女が振り返る。その姿にリュエルは違和感をひと匙、感じ取った。どこか冷えた温度を纏う二人。そう、ライが微笑むのに失敗している。ナタリアは無表情が普段よりも固い。
「……大丈夫、ですか?」
ライが微笑んだ。今度は絵に描いたような完璧な笑み。ナタリアは普段と同じ無表情で頷いてみせる。
「ああ。俺たちは大丈夫だよ」
「そう、ですか」
理由を尋ねることはできなかった。戦力として最強を誇る二人だけれど、誰よりも柔らかい心を持っていることを知らないリュエルではない。
「では、お気をつけて」
凡庸な言葉で見送る。もう少しくらい気の利いた言葉が言えたらよかったのに、とリュエルは思う。リュエルにはほんの少し未来が見えるけれど、本当に必要な言葉は何も見えなかった。何かを言いたそうなエルザとルカに先んじて、口をもう一度開いた。
「私は、エヴァンさんを探してきますね。二人は休憩をしていてください」
「セン──」
ルカの声を後に、リュエルは地下の会議室を出ていく。自分が何を焦っているか分からないまま、オンボロホテルの方へ向かった。どこにエヴァンがいるのかだけは、なんとなく分かる気がして。
ホテルの最上階から、外へ出る階段に続く扉を開く。見れば、足跡が階段に積もった雪に刻まれていた。リュエルはほんのりと唇を緩める。独りになりたいとき、リュエルもよくここに来る。エヴァンもきっと同じだろうという予想はどうやら当たっていたみたいだ。
屋上へ出ると、一際冷たい風が頬を刺した。視界の端で黒いコートと赤い髪が揺れているのを捉える。少年は屋上の縁に立っていた。細い身体を頼りなさげに風に遊ばせている。
「──っ!」
考えるよりも先にリュエルは走り出した。凍り付いた雪に足を取られながら、エヴァンへ手を伸ばす。だって、あれは。
「エヴァンさん!」
辛うじてエヴァンのコートの裾を掴んだ。と、同時にリュエルの足も滑った。ふわりと身体が浮く。ぎゅっと目をつむる。
「だからっ! いつもっ! 気をつけろって! 言ってるんすけどっ!」
ぐいっと身体が持ち上げられる感覚にリュエルは目を回す。けれど、根性でエヴァンは離さないで。
「……ごめん、ルカ。たすかった」
固い地面に転がったままリュエルは深く息を吐く。ルカはリュエルの頭をはたくと、同じように地面に転がっているエヴァンににじり寄った。
「あんた、何考えてるんすか! センパイはお人好しのバカなんすから、そんなことされるとセンパイが死にそうになるんすよ! 自殺するならセンパイのいないところにしろっす!」
エヴァンにはルカの声も届いていなければ、ルカの姿も近づくリュエルの姿も見えていないようだった。虚ろな翠の目で灰色の空ばかりを見つめている。自分の身体が凍ったコンクリートの上に横倒しになっていることにさえ、やっと今気づいたばかり。全身が鉛でできているような鈍い動きでエヴァンは上半身を起こした。
「エヴァンさん」
名前を呼ぶ。ややあって、エヴァンがぼそりと返事をした。
「……なに?」
反逆軍を組織し、今日まで帝国相手に戦い続けてきた少年王なら、リュエルの呼びかけの意味に気がつかないはずがない。まずはリュエルの正体を確かめ、反逆軍の置かれた状況を把握し、次の一手を考える。そうするはずだ。
けれど、リュエルの目の前でぼうと遠くを見つめている少年は、思考する力はおろか立ち上がる力さえも失ってしまっているようだった。痛々しく切れた唇には渇いた血がこびりつき、指先も赤黒い。細い身体は今にも砕け散ってしまいそう。
「エヴァンさん、反逆軍は今、帝国軍の攻勢に遭っています。王であるあなたから、全員に帰還したことを伝え、次の行動の指示をお願いしたいんです」
くつくつと喉を鳴らす音が聞こえた。赤髪の少年王が嗤っている。歪んだ笑み。けれど、その顔は泣いているように見えた。
「……反逆? それに何の意味がある? もう、兄さんはいないのに」
「え、エルシオさんですか?」
馬鹿みたいにリュエルは聞き返した。エヴァン・リーゼンバーグの兄はエルシオ・リーゼンバーグしかいないと分かっていたのに。
「ああ、そうだよ。僕が、……僕が、僕の手で、兄さんを埋めたんだから」
じゃあな、と爽やかに笑った赤髪の優しい狙撃手はもういない。ナタリアとライは間に合わなかったのだ。だから、二人は……。リュエルは唇を噛んで俯いた。
「……僕が、まちがってたんだ。兄さんに頼ったのがまちがってたんだ。復讐ばかり追いかけたのがまちがってたんだ。……僕が、馬鹿だったから兄さんが死んだんだ。僕のせいで、兄さんが死んだんだ。ぼくが、にいさんを、ころしたんだ」
壊れた玩具のような嗤い声がする。エヴァンの傷だらけの指先は意味もなくコンクリートを引っ掻いていた。傷が開いて血が滲んでも止まらない。自らを罰するように、エヴァンは血塗れの指先を削り続ける。
「……もう、やめる。ぜんぶ、やめてやる。反逆も復讐も、……何もかもが馬鹿馬鹿しい」
この空を、同じ色の瞳で見上げてくれる人はいなくなってしまったから。
──もう、エヴァン・リーゼンバーグは戦えない。




