ep.091 それは無慈悲な夜の女王
「……へェ、アタシとヤル気か?」
全身をエルシオの血と自分の血とで染めたミラは初めて嗤いを消した。ざわりと空気が震えるような殺気が噴き出す。けれど、ナタリアとライには響かない。冷たい顔をした《死天使》と《死神》はミラを見据える。
ミラはその怪力と血流を狂わせる技で知られている暗殺者だ。ガンマの中では上位に入る実力者ではあれど、最凶兵器である暗殺人形には劣る。もちろん侮るようなことはできないが。
「血流操作だけには警戒してください」
「分かった」
短い会話が戦闘の始まりを告げた。閃くようにライの握った拳銃が銃弾を吐き出す。ミラは首だけを動かし、銃弾を軽く避けてみせる。ナタリアの撃った弾を姿勢を低くすることでミラは回避。倒れ込む勢いを利用し、大きな一歩でナタリアたちとの距離を一気に詰めに来る。
「アンタたちと殺し合う日が来るなんてなァ!」
からからと嗤いながら、ミラは風切り音と共に蹴りを繰り出した。ナタリアの前髪がふわりと風圧で舞い上がる。ナタリアはまばたきすらしないで後ろへ跳んで、ライと立ち位置を入れ替える。
銀の刃が電灯の白い光を弾く。冷え切った輝きが流星のような軌跡を描いた。真っ赤な血がぱっと散る。ライはナイフから手を放し、空いた手で拳を作った。ナイフが腕に刺さったミラの身体を下から捉える。
「ぐァッ!」
ミラの身体が折れ曲がり、ミラの口から血が吐き出される。だが、ミラは嗤った。ニタニタと、普通の人間ならば悪寒が止まらないであろう気味の悪い笑みを浮かべている。刃を腕に突き刺したまま、ライの無防備な右手を掴みに行く。
「ライ!」
ナタリアの足がしなる。赤茶の髪も髪を結わえる黒いリボンも置き去りに、強烈な回し蹴りが放たれた。右手で握った銃口は蹴りに合わせてライを掴む寸前の手に押し付けられる。くぐもった銃声。そうしてミラの左手がひしゃげる。
「ありがとう、ナタリア」
ライが綺麗に微笑んだ。ナタリアは小さく頷く。ライの身の安全を維持することもまたナタリアの役割だ。武器は持ち主がいなければ無意味な存在となってしまうのだから。
からん、と金属が床を叩く音が響く。ミラの腕からは血が伝い落ち、その足元に血溜まりを広げていく。ぽたりぽたりと赤い雫が波紋を作る音がする。先のエルシオとの戦いで抉った肩の傷も堪えているようだった。
そろそろ終わりにする時間だ。
ナタリアとライは同時に足を動かした。灰色の世界の中で、赤ばかりが鮮烈だ。ナタリアが床を蹴ると赤が跳ねた。一歩、二歩。先ほどミラを蹴り飛ばした分の距離だけ前へ。
動きを封じるために足を撃つ。避けられることは分かっているから、本命は足をへし折るための蹴り。そして、床に沈めるための上から振り下ろす拳。足からミラの骨が砕ける感触があった。けれど、拳の方が空を切る。
「アッハァ!」
読まれた。ナタリアの腕にミラの指先が這う。ぞわり、と嫌な感覚が背を走り抜ける。弾けるような一瞬の痛み。このままでは両足を折られたミラに地面に引きずり降ろされ、血管の破裂で腕が使い物にならなくなる。
ナタリアの冷静な思考は腕と任務を天秤に掛けた。結論を出すのも一瞬。腕を捨て、ミラを討つのが最短だ。ナタリアは抵抗することなくミラに腕を預けようと力を抜く。
「それは駄目だ」
ライが鋼鉄の左手でミラの右手首を掴んで砕いていく。ナタリアの腕を這い上がろうとしていた痛みが消え、腕から負荷が消える。潰されそうになっていた手首は紫に変じているけれど、稼働するには十分だった。
確かに、計算式は間違っていた。ナタリアはライの存在を考慮に入れ損ねていた。ライがいるのなら、腕を差し出す必要などなかった。
ライは暗殺人形として同じだけの動きが可能な唯一の存在。言葉を交わさずとも、ライはナタリアのすべてを理解している。ならば、先ほどの状況下では一歩退いて、ライにとどめを任せるべきだった。
ミラが呻いた。もう耳障りな哄笑は聞こえない。両手両足を壊され、戦う力を失ったのだから、彼女はもう嗤うことはできない。ライはすっと銃口をミラの頭に向けた。
「……で」
掠れた声がぽつりと落ちた。
「……ころさないで、ころさないでころさないでころさないで、しにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくない」
ガンマとして、アリアの一番近くで誰よりも殺戮を愉しんでいた女が泣いていた。血で汚れていた顔が涙でさらにぐしゃぐしゃになっていく。涙に溶けた血が顔から流れる。虚ろな目がライとナタリアを見上げて泣いている。殺さないで、死にたくないと、ひび割れた声で懇願する。
「な……」
〝わからない〟が許容量を超過する。暗殺人形には決して理解し得ない生への執着であるがゆえに、ナタリアとライは立ち尽くす。
こつり、こつり。硬いヒールが床を鳴らした。
濃く、深い、死の気配が後ろから歩いてくる。美しい顔を黒の薄絹で覆った黒衣の女はナタリアとライの間をするりと通り抜けた。
「あ、アリアさ──」
そして、虚ろな目に喜色を浮かべたミラの首が、女の手の一閃で落ちる。目を見開いたままの首がごろりと転がる。遅れて血が噴き出し、首を失くした胴が重力に引かれて崩れていった。鮮血が床を濡らす音が静寂をかき乱す。
「二人とも、もう人の殺し方を忘れたのですか?」
澄み切った声。温もりの宿る余地さえ存在しない氷の声。帝国の夜を統べる女がさざめくように笑う。黒い紗の向こうで赤い唇が微笑んでいる。
「……」
ナタリアとライは指ひとつ動かせなかった。身体の髄まで刻みつけられたアリアへの恭順が二人を縛る。こころを知らない暗殺人形がたったひとつだけ持っている本能があるとすれば、……それはアリアへの恐怖だ。
「久しぶりですね、ライ、ナタリア。元気にしていましたか?」
はい、アリア様、とナタリアの口は答えていた。ナタリアの身体は冷えていく。胸の中がどんどん空っぽになっていく。がらんどうで虚ろ、硝子の目をした人形へと巻き戻される。
ナタリアは、赤茶の髪と琥珀の目をしたとびきりきれいな少女の人形。戦場で生きて死ねと言われてつくられた帝国の最高兵器。こころを持たない暗殺人形。アリアの最高傑作。死告げの天使と呼ばれるほどに美しく、そして殺戮を繰り返す存在。ただ、人を殺すためだけに研がれた抜き身の刃。
わたしは──
「……ナタリア」
ライの苦しげな囁きがナタリアを引き戻す。もうナタリアはアリアのものではなくなったのだ。ライの隣でこころを知りたいと願ったのだ。けれど、やっぱりナタリアは動けない。そしてライも。
「二人がとても元気そうで嬉しいです。これでも心配していたんですよ?」
アリアのひんやりとした白い手がナタリアの頬を、ライの頬を撫でる。
「ですが、たかがスカーレットくらいに躊躇っている姿は非常に残念でした。私はきちんとどんな時でも人を殺す方法を教えたというのに」
ナタリアは無理矢理口を引き結ぶ。そうしなければ、申し訳ありませんと返答してしまっていただろう。
「エルシオは約束を破ったので殺してしまおうと思っていたのですが、もう死んでいましたね。それなら、私が罰を与える必要はないようです」
アリアは血溜まりに伏したエルシオを一瞥し、首を失くして事切れているミラへ視線を落とした。
「スカーレットは可愛い子でしたが、駄目ですね。私の言うことが聞けないのなら、必要ありませんから」
少女のようにアリアが笑う。
「そうですね……、ああそう、エルシオが死んだのはあなたたちにとっては痛手だったかもしれませんね。エルシオなら私を殺せたかもしれないのに」
惜しいことをしましたね、とアリアは楽しそうにふわりと言う。血の海を踏みつけて軽やかにくるりと回れば、黒衣の裾が百合のように広がった。黒いベールも揺れるけれど、アリアの顔はやはり見えない。
「また会いましょう、ライ、ナタリア。どうやら私に挑むにはまだ早すぎたようですね。ですが、ええ……、二人の変化を感じることができて私はとても満足しましたよ」
そう言って、アリアはナタリアとライの間をすり抜けていった。こつりこつりと靴音を鳴らして歩き去る。黒いイブニングドレスが完全に視界から消えるまで、ナタリアとライは動けないままだった。




