ep.089 漆黒に哭く
暗い。
ガタゴトと暗闇の中を揺さぶられながら、時間が流れていった。おそらくエヴァンが乗せられているのは列車だろう。扱いは荷物同然だったから、エヴァンの身体はあちこち悲鳴を上げている。足元から這い登る冷気にまとわりつかれているけれど、帝国軍支給のコートのおかげで耐えられていた。
──ヨゼフを頼む。
耳朶にカイン・マクシミリアンの声がこびりついている。ヨゼフと同じ色の髪と目をした老将はエヴァンの手のひらにすべてを載せていった。
もちろん、それは彼が味方になるということではない。カイン・マクシミリアンは最初から最後までエヴァンの味方にはならない。カインの忠誠は帝国のものだから。
けれど、彼はエヴァンを逃がす道を残した。ヌディスベルンの監獄へエヴァンを送ることを通信に流し、反逆軍がエヴァンの位置を知ることができるように取り計らったのだ。《死天使》がいるのなら、奪還は容易いだろうと踏んで。
海の方にあるヌディスベルンは、内陸にあるソフィリアよりも暖かい。なので、エヴァンの身体を包み込む冷気はだんだんと和らぐはず。だというのに、時間が過ぎるごとに空気が冷えていく。暗闇の中で自分の肩を抱いてうずくまる。ガタゴトと相変わらず箱は揺れていた。
「出ろ」
振動が収まると、エヴァンは背中を蹴られて箱から出された。黒い布で目を塞がれたまま、地面を転がる。幸い柔らかい雪の上で、痛みはない。けれど、ここがヌディスベルンでないことは間違いないようだった。
春が近づく今の季節、雪は解けたり凍ったりを繰り返して固くなる。柔らかい雪は帝国領の中でもかなり北でないと存在しない。なら、ここは──
「いつまで這いつくばっている? 行くぞ」
ぐい、と乱暴に襟首を掴まれて強制的に立ち上がらされた。背中に固いものが押し付けられ、促されるままに歩き出す。下手を打てば、背中に当たる銃がエヴァンの身体に穴を開けるに違いない。
地面の感触が雪から硬い地面へと変わる。建物の中へ連れていかれるようだった。エヴァンは足を動かしながら、カインがエヴァンを裏切った可能性について検討をする。
ヌディスベルンに送ると言いながら、北の基地にエヴァンを送る。通信に誤情報を流し、反逆軍の行動を攪乱させる。筋は通るが、あまり意味のない行動だ。エヴァンの奪還は《死天使》を含めた少人数で計画されるだろうから、その程度の人数しか動かせない策に戦略上の意味はない。となると、カインもまた騙されたか。
「罪人のノルデンリヒトへ輸送任務が完了しました」
「ご苦労。あとはこちらで牢へ移動させる」
「は」
エヴァンは肩をぴくりと動かした。エヴァンが連れて来られたのは、帝国最北の大規模な基地であるノルデンリヒトということだ。つまり、ここはガンマの本拠地。そして、アリアの過ごす場所。
カインはガンマの介入を危ぶんでいたので、やはり目的地の変更はカインの仕業ではない。帝国最高議会の席に座る資格を持ち、かつ「クリムゾン」作戦の総指揮官たるカインを出し抜くことができる相手は、ガンマ以外ありえない。だが、アリアは約束を守る。それならば、動いたのは──
どん、と背中を強く蹴られて、エヴァンの軽い身体は踏ん張りきれずに転がった。手枷が耳障りな音を奏でる。思考は中断され、床に叩きつけられた痛みに呻く。
「──っぁ」
次に聞こえた音は鍵が掛かる音だった。
「坊ちゃん、長生きできるといいなァ?」
嘲笑で塗りたくられた言葉が耳にへばりつく。エヴァンは思わず唇を噛んだ。けれど、兵士は軍靴をうるさく鳴らして去っていく。
「なんだよ、うるさいな……」
兵士に聞こえないよう小声で悪態をついた。さっさと目を覆っている布を外したいけれど、後ろ手にがっちり固定されてしまって手が使えない。
「……予定が狂ったからには、僕も動き方を考えないと」
当初の予定では救助を待つだけでよかったが、ガンマのお膝元で座して待つのはリスクが高い。が、ガンマの誰が動いたのかエヴァンには知るすべがない以上、むやみに動くのは避けたいところ。……まあ、目隠しすら自力で取れないことをまずは何とかすべきだけども。
かつんこつん、と規則正しい軍靴の音が近づいてくる。背中に氷水を流し込まれたような感覚に、エヴァンは身体を強張らせた。これが刺客であったとしたら、今のエヴァンは何の抵抗もできないまま、簡単に命を失う。笑ってしまうくらいあっさりと、エヴァンは死ぬ。
「……」
死の一文字。それでエヴァンの身体はどこまでも冷たくなる。奈落がぽっかりと口を開けて、エヴァンが落ちてくるのを待っている。悴んだ指先が震え、内腑がひっくり返ってしまいそうだった。
足音はもう、すぐ側までやってきていた。距離は分からないけれど、じきに扉に手が触れる頃だろう。
まだだ。まだ死ねない、まだ終われない。なのに、エヴァンの身体は動かない。がりっと唇を噛み切った。痛みと鉄錆の味で恐怖を殺す。大丈夫、まだ足掻ける。まだ、戦える。
鉄格子の軋む音がした。その人は真っすぐエヴァンの元に歩いてきて、しゃがみこんだ。
「──エヴァン」
温かい手がエヴァンの目から布を取り去る。そこで眉を下げて微笑んでいたのは、エルシオだった。
「兄、さん」
ああ、とエルシオがエヴァンの手枷を外しながら頷く。それから手を伸ばして、エヴァンの唇からこぼれた血を親指で拭った。
「痛いよ、兄さん」
「あー、悪い。ごめんな、エヴァン」
エルシオが本当に申し訳なさそうな顔をしたから、エヴァンは勢いよく首を横に振った。エルシオは静かに笑ってエヴァンの頭をわしわしと撫でる。
「間に合ってよかった。早く逃げよう。立てるか?」
「うん、行ける」
差し出された手を取ってエヴァンは立ち上がった。本当は自力でも立てたけれど、それは悟られないように気をつけて。エルシオの手の温もりが嬉しくて、唇が緩んでしまった。
「よし、じゃあ脱走といくか」
エルシオが走り出す。エヴァンは迷わずその背中を追いかけた。まるで、銀の死神殺しのためにたった二人で帝国軍と戦っていたあの頃みたいだ。もう二度と、共に戦えないと思っていた。アリアと結んだ契約がエルシオとエヴァンを生かしていたがゆえに。
「……兄さん」
「ん?」
「大丈夫なの? こんなことして。アリアは兄さんを──」
エヴァンよりも大きな背中に問いかける。エルシオはちらと振り返ってニヤッと笑って見せた。
「まぁ、なんとかなるだろ!」
ああ、嘘だ。
エルシオは明るく笑っているけれど、あの女は契約違反を許すほど甘くない。だが、エヴァンにはエルシオを問い質す勇気がなかった。それにエルシオが言うのなら、本当になんとかなるかもしれない、なんて。
「……それより、まずはここから逃げ切らないと、だよね」
どれだけ進んでも灰色の廊下と扉が繰り返されている。その上、ノルデンリヒトの基地は複雑怪奇な構造をしている。そんな基地をエルシオは迷わずに進んでいく。
ガンマの《魔弾の射手》として、エヴァンとは全く違う世界で生きてきたのだと思い知らされる。エルシオの過ごした日々はエヴァンには窺い知ることはできないものだけれど、決して平坦なものではなかったことだけは確か。
人気のない道をするすると通り抜けていきながら、追っ手の気配にエヴァンは絶えず気を配っていた。兵士も見かけないことを思えば、この辺りはガンマの有する区画なのかもしれない。
「アハァ! やっと見つけたよ!」
けたたましい哄笑が静けさを切り裂いた。足音もなかったはずなのに、髪を金と紫に半分ずつ染めた女はエルシオとエヴァンのすぐ後ろに立っている。女は真っ赤な唇に大きな笑みを浮かべ、蛇を思わせる視線でエヴァンたちを撫でていた。
「チッ、来やがった。エヴァン行くぞ!」
走り続けて疲労の溜まり始めた足を無理矢理動かす。ねめつくような視線から逃げるように二人は逃げる。捕まったらおしまいだと本能で理解していた。
灰色の廊下を左に曲がり、次の角を右に。階段を駆け上がって、十字路を真っすぐ。それから角を右、右、左。複雑な道筋を全力疾走で駆け抜ける。
だというのに。
女は嗤いながらついてくる。ゆっくりと動かしているようにしか見えない足の動きで、ぴたりとエルシオとエヴァンの後をついてくる。悠然とした態度のまま。
「逃げちゃうのかーい? アハハッ! 楽しいねェ?」
悪寒が止まらなかった。エヴァンとエルシオは彼女にとっては獲物と同義だ。そして今、女は心の底からこの狩りを無邪気な少女のように愉しんでいる。
「兄さんッ」
噛み殺した悲鳴を上げる。この先は行き止まりだ。足を止めたら狩られるとエルシオも分かっているはず。けれど、エルシオはそのまま走り続けた。エヴァンにできるのはただ兄を信じることだけ。
エルシオが拳銃の引金を引くと、壁を塞いでいた金属板が弾け飛ぶ。そして、小柄な人が一人通れるほどの穴がぽっかりと開く。通気口だ。
「エヴァン、ここをずっと行けば外に出られる!」
エルシオはエヴァンを通気口へと押し込んだ。ちょうどエヴァンがぎりぎり通れるくらいの大きさの穴だった。エヴァンよりも少し背の高いエルシオも少し無理をすれば通れるだろう。エヴァンはエルシオに向かって手を伸ばす。
女の哄笑はすぐそこに。
「アハッアハハッ! 鬼ごっこはもう終わりかァ? エルシオ、アンタがこんなバカなことするなんてェ? せっかくイイ腕してるからウチでもっと働いてほしいと思ってたのによォ! でもダメだろォ! アリア様を殺そうだなんて、……あぁ、それは万死に値する。なァ! エヴァン・リーゼンバーグ!」
女の目が残忍な輝きを帯びた。目に昏い炎を宿し、女は白い手袋をはめた手でエヴァンとエルシオを指差す。冷たい汗がエヴァンの背中を伝い落ちた。女が飛び掛かってくるまでに時間がない。
「っ! 兄さんも早く!」
エルシオの背中が視界いっぱいに広がる。その一瞬前にエルシオはひらりと笑った。エヴァンと同じ、沼底の翠の目が鮮やかな赤髪の下で微笑んでいた。
「行け! オレは大丈夫だから、先へ行け! 早くッ!」
何度でも聞いたその言葉が、エルシオの口から発されるとは思ってもみなかった。
──私たちは大丈夫ですから、王さまは逃げてください!
──俺がここで死ぬのはいい。だが、あなたは駄目だ。
──逃げてください! ここは僕たちが何とかしますから!
──任せましたよ。
たくさんたくさん見殺しにした。自分が生き残るために多くの人間を切り捨てた。なのに、誰もが笑って死んでいく。任せたと、生きて欲しいと、自分は大丈夫だからと。
──僕は全然大丈夫じゃないのに。
「早く行け、エヴァン。外に出たらライやナタリアがきっとお前を助けてくれる。心配するな、大丈夫だから、早く逃げろ」
駄目だ。それだけは駄目だ。そんな言葉は聞きたくない。これが別れの言葉だとエヴァンは痛いくらいよく知っている。多くの臣下から何度も何度も同じ意味の言葉を聞いたけれど、エルシオはいけない。
兄さんを、僕は──
「そんなの嫌だッ! 認められない! 兄さんは僕と逃げなきゃ駄目だ!」
喉がおかしくなりそうなくらい叫んでも、背中は振り返らない。エルシオは吹き飛ばした金属板を銃弾で壁に撃ち付ける。エルシオの背中ももう見えない。
金属板を押しても、エルシオが塞いでいるのかびくともしない。金属板を引っ掻く指先から血が滲む。さっき嚙み切った唇の傷からまた血がこぼれた。
「兄さんッ! ねえ、兄さん!」
声が届いているのかも分からない。エルシオが返事をしてくれないから。
暗い。
明かりのない通気口は狭くてどこまでも暗い。闇に飲み干されてしまうみたいだ。聞こえるのは女の耳障りな笑声と乾いた銃声ばかり。
それでも、もう先へ進むしかないからと、ひりひりする指先で狭い通路を進み始める。今は、ただ、エルシオの嘘を信じて、縋ることしかできなくて。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょう、ぶ、だい、じょう、ぶ、だ、い、じょ、う、ぶ」
黒々とした闇の中を独りで進む。大丈夫の言葉の意味を見失うほどに繰り返し繰り返し声にする。外から流れ込む凍えた風の吹く方へ、のろのろと手足を動かした。
「だいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶ、ぼくのにいさんはつよいんだから、だいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶ」
──ダイジョウブ。
──ナニガ?




