ep.088 贖いの炎
エヴァンに出会った日のことをヨゼフは思い出す。
それは、バーレイグの反逆軍所有の工場で、殺戮人形と戦おうというときだった。
帝国軍が恐れる王というにはあまりに小柄な人物が、広い工場の中央で立ち止まった。フードによって隠されていた顔が露わになったあの瞬間。燃えるように鮮やかな赤髪に冷たい翠の瞳を持つ孤独な少年王を見たあの刹那。
きっと、それがヨゼフが運命を見つけた瞬間だった。
元々ヨゼフは父であるカイン・マクシミリアンからの命で反逆軍に潜入した。身分を隠して反逆軍を探り、情報を集める任務。おそらくこのときから陸軍による反逆軍殲滅作戦は始まっていたのだろう。……まあ、ヨゼフは涙が出るほど最速で軍の方を捨てたのだが。
だから、軍を敵に回すことになるとは分かっていた。けれど、ヨゼフは父親を敵に回すことになるとは考えもしなかった。
カイン・マクシミリアンは英雄で、百戦錬磨の陸軍大将で、今は十二しか席のない帝国最高議会に席を持つ大貴族。ヨゼフの憧れで、すべてだったのに。
……いや、だからこそ、その可能性を無意識に排除していたのだろう。
「ほとほと自分のおめでたさに反吐が出る」
吐き捨てるように呟く。
「急にどうした、ヨゼフ?」
反逆軍の男がヨゼフに気づかわしげな視線を向けた。ヨゼフに同行する仲間たちは皆、ヨゼフが厳しい役目を負っていると知っている。ヨゼフは彼らを心配させないよう、軽く笑って手を振ってみせる。
「いや、何でもない。もうすぐ目的地に着くんだから、俺もしっかりしないとな」
夕闇に紛れてヨゼフたちはソフィリア郊外に入ったところだった。カインや軍に反逆軍の動きを気づかれないよう、ソフィリアの隣の地域からじりじりと目的地への距離を詰めたのだ。
ソフィリアの地に入ったところで車を置いたので、今は徒歩。解けて凍ってを繰り返してざくざくと音を立てるようになった雪を踏んでいく。
まだ冷え込むけれど、季節はもう冬を越える頃だ。木々は新芽をつけて春をじっと待っている。帝都とはいえ、中央から離れたソフィリアはぽつぽつと家が並ぶだけ。街路樹というには大きすぎる木々もあちこちに生えているのだった。
本来、マクシミリアンの領地はデアグレフだ。だが、多くの貴族と同じようにソフィリアにマクシミリアンも別邸を持っている。特に、作戦指揮を執らなければならない現在のような状況ではデアグレフの本邸に帰ることはできないだろう。
ではなぜソフィリアの軍本部でなく、カインは別邸にいるのか。
確かに、帝国各地で展開されている作戦に対し、どこにいても指示は飛ばせるだろう。そもそも、作戦の最高司令官の仕事など最終判断くらいで、実際に指揮はほぼしないものだ。だが、ヨゼフはカインが現場にすべてを任せるような愚鈍な指揮官でないことを知っている。そう考えると、今のカインの行動は違和感だらけだ。
出発前にリュエルに疑問をぶつけた。すると、リュエルは微笑んで理由を口にした。カインがマクシミリアン邸にいること自体が、彼が作戦に乗り気でないことの証明だと。そして、おそらくカインがヨゼフを待っているからだと。
そうだったらいい、と思う。そうあってほしい、と思う。
念じるように歩みを進めて、気がつけば見知った屋敷が目の前にあった。
夕闇が溶け去り、どろりと粘つくような宵闇が屋敷を包んでいる。正面の門には灯りがついているけれど、門番はいない。いくつもある窓にはほんの一部だけに明かりが灯っている。
──違う。これはヨゼフの知っている別邸ではない。
軍の情報部で働いていたときはこの屋敷から軍本部に行っていたのだから間違うはずがない。離れたのだって数か月前だ。けれど、違う。
ヨゼフの知っている屋敷は、どの窓にも明かりが入っていた。ヨゼフが帰れば、門番が立派な鉄の門を開けて、使用人が出迎えてくれた。もっと、明るい場所だった。カインが厳格で規律が服を着て歩いているような人間だとしても、決して冷え切った寂しい場所ではなかったのに。
「……っ」
動揺なんてしている場合か、と頭を振った。共に作戦に当たっている仲間たちを振り返る。
「これから作戦を開始する。俺は入って親父を説得するから、あんたたちはこの屋敷を包囲して待機してくれ。……一時間経っても俺が出て来なかったら、突入してくれ」
「分かった。おまえも無理するなよ」
銃を抱えた男が言う。ヨゼフは思わず苦笑した。ここまで心配をしてもらえるようになったのか、と照れたのもある。だが、彼らの手にある銃を使わせたくないと場違いにも思ってしまった自分への自嘲がほとんどだった。
「ああ、行ってくる」
踵を返して屋敷の門をひとり、くぐった。正面の重い門は開けられないから、脇の通用門の方を。削った氷みたいにざらざらの雪で埋もれた庭を無言で通り過ぎた。
夜が深くなっていくのを感じる。扉の横で灯されている光を目指して、鉛のような足を動かして。
冷えたドアノブを回して、中へ入った。広い正面玄関には誰もいない。カインは華美な装飾を嫌うから派手な調度品は置かれていないけれど、長く受け継がれてきたものはそのまま飾られている。たとえば、金の鳥の彫刻だとか、大きな飾り時計だとか。……ああでも、時計はカインも気に入っていたのだったっけ。
人の気配がない屋敷は寒いくらい。薄暗くて、空っぽで、不気味。本当にカインがここにいるのかだんだん自信がなくなってきた。奥へ奥へ、書斎の方を目指す。
どくりどくりとヨゼフの心臓は跳ねている。息苦しいのは呼吸が浅くなってしまっているからだと分かっているのに、どうにもならない。
いつもは固く閉ざされている書斎の扉は半分開いていた。漏れ出した光がヨゼフの顔を橙に染める。息を呑んで、それから深呼吸。
「父上、ヨゼフです」
扉の前でそう言うと、返事があった。
「お前を待っていた。入りなさい」
鋼のような声。幾度もヨゼフが聞いてきた父親の声だった。
「お久しぶりです、父上」
執務机からの朝焼け色の双眸と目が合う。説得するために用意した言葉も質問もすべて、それで消えていった。何を言えばいいか分からなくなって、無意味に口を上下させた。けれど、カインはヨゼフを急かさずにヨゼフの言葉をじっと待っていた。
「……皆はどこへお遣りになったのですか?」
空っぽになってしまった屋敷。消えてしまった使用人たち。数か月前にはいたのに、今ではまるで初めから存在しなかったかのよう。
「暇を出した」
何でもないことのようにカインは答えた。
「父上のことを少し前から調べていたのですが、あちこちでマクシミリアンの財産が奇妙な動きをしていました。全部をデアグレフに集めるような動きです。それも、気をつけなければ分からないくらいに巧妙に動きを隠しながら」
リュエルの命を受けたルカからの情報だった。正確には、ルカが集めた情報をリュエルが整理してヨゼフに渡してくれた、というのが正しいけれど。
「理由を聞いてもよろしいですか?」
「その前に、お前がここに来た理由を聞きたい」
カインは椅子からゆっくりと立ち上がり、ヨゼフの前までやって来る。かつては途方もなく大きく見えた身体だったが、改めて見るとヨゼフとそう変わりはない。けれど、灰色の髪は半ばから白くなっていて、顔に刻まれた皺も数を増やし、一層深くなっていた。こんなにも父上は老いていただろうか、とヨゼフは自分に問うた。
「──『クリムゾン』作戦の停止を、お願いします」
ヨゼフはカインの視線を真正面から受け止めて、言い切った。感傷を振り切って、与えられた役目を果たす。そして、これはヨゼフ自身の意志でもある。
「なぜだ?」
「帝国は変わるべきです。ガンマによる恐怖政治と、この無意味な戦争を終わらせるべきです。それができるのは反逆軍だけです。だから、反逆軍を潰させるわけにはいきません」
鷹のような目がわずかに和らぐ様をヨゼフは見た。
「王を守るため、とは言わないのだな」
「……それとこれとは話が別です。確かに俺はエヴァンを守りたい。ですが、それだけで軍に喧嘩を売るわけではありません。俺は、エヴァンに未来を見たから、だからエヴァンを支えたいと思いました」
息を吸う。このまま、すべてぶちまけてしまおう。
「俺は、この国が嫌いです。軍はもっと嫌いだ。どうして皆、従うのですか? 彼らに正義などないというのに。殺し合いさえ娯楽として、笑いながら人を殺す軍なんて間違ってる。こんなの、何のために戦うのか分からない。父上の背を追うことさえ、良いことなのか分からなくて……」
暗闇の中で独りもがくのは怖かった。だから、目と耳を塞いだ。こんなにも世界は狂っているのに、そのことに気づいているのは自分だけみたいで。底の見えない深い穴に永遠と落ちていくみたいで。
「ああ、知っていたとも。だから、私はお前を反逆軍に送ったのだからな」
ヨゼフは目を大きくする。カインの言葉はヨゼフの理解を越えていた。
「……どう、いうことですか」
カインは肩を竦めただけで答えない。その代わり、ヨゼフの頼みに対して答えを返す。
「私には『クリムゾン』作戦を止めることはできない。私はこの作戦を完遂する義務がある。ゆえに、お前の望みは叶えられない」
「──っ」
なぜですか、と叫ぼうとした口はカインの次の言葉で縫い留められた。
「そこで、保留していたお前の質問に答えよう。マクシミリアンの財産がデアグレフへ集められている理由についてだ」
お前たちを動かしている軍師ならば既に気づいているやもしれんな、と前置きして。
「──私は、マクシミリアン家のすべてを、エヴァン・リーゼンバーグに託した」
何でもないように、いつも通りの厳めしい顔でカインは言い切った。
え、と間抜けな声がヨゼフの口から転げ落ちる。脳が思考を停止して、何一つ考えられない。理解できない。なぜ。
「どうして……。父上は、作戦を止められない、とおっしゃっていたのでは、ありませんか……」
「ああ。その通りだ。私は最後まで陸軍大将としての責任を果たす。だが、この国を憂いているのはお前だけではない」
そう口にするカインの目はどこか遠くを見ているようだった。
「だから私も、お前と同じように賭けただけのこと」
思考停止に陥っていたヨゼフの脳は少しずつ言葉の意味を理解し出す。マクシミリアン家当主としてのカインはエヴァンの作る未来を選んだ。マクシミリアンのすべてを賭け金にして。
「なんで、そんなにも……、こんなの父上らしくありません」
カインの慎重さはヨゼフのよく知るところだ。エヴァンの立場は決して盤石なものでもなければ、エヴァンが帝国をひっくり返すことができるという確証もどこにもない。そんな人間に全賭けするような酔狂な博打、カイン・マクシミリアンなら絶対にしないとヨゼフは断言できるのに。
「そうかもしれない。……だが、彼はお前の選んだ主だろう?」
朝焼け色の目を見開く。
「……父上。父上は初めから──」
言いさしてヨゼフは唇を噛んだ。この問いにカインはきっと答えない。そう思ったから、ヨゼフは代わりに深く、そして長く頭を下げた。
「ありがとうございます、父上」
「いつまで頭を下げている? お前にはやるべきことがあるだろう?」
ゆっくりと顔を上げると、目が合った。それは、朝焼けの──黎明の空の色。夜が死んだばかりの空と同じ色彩。
「はい」
震えた声で返事をする。もう全部、ヨゼフは知ってしまったから。たった独りでカインがヨゼフを待っていた、本当の理由を理解してしまったから。
「行きなさい、ヨゼフ」
こんなにも優しい声を掛けてもらったのは、初めてだった。そして、これが最初で最後だということも同時に分かってしまった。
「はい、父上」
もう一度、返事をして。
さようなら、と呟いて。
踵を返して書斎の扉を背中越しに閉めた。ずるりと扉に背を預けて座り込んで、目を閉じる。終わりの音を聞くまで、じっと動かずに。
静かな夜に、銃声がひとつこだまする。
ヨゼフはそれから立ち上がった。ふらふらと覚束ない足取りで廊下を歩く。途中にぽつぽつと置かれた燭台を、順番に床に叩きつけながら歩いて行く。
「クソッ、クソッ、クソッ、クソッ、クソッ、く……」
敷き詰められたカーペットに火が移る。じりじりとした炎の熱さに追い立てられながら、ヨゼフは屋敷を後にした。
庭に立って亡霊のような顔で屋敷を見つめる。真紅の炎に何もかもが包まれてしまうまで、ずっと、ずっと……。
「ヨゼ──」
動かずに庭に佇むヨゼフを気にかけ、声を掛けようとした反逆軍の男はヨゼフの顔を見ると言葉を呑み込んでしまった。
「……ヨゼフ」
長い沈黙の末にヨゼフは名前を呼ばれた。ああ、行かないと。
「何が、あったんだ?」
燃え落ちていく家から視線を引き剝がし、掠れた声で返事をする。
「……何も。ここには初めから、誰もいなかった」
──そう、誰も。
***
扉の向こう側に消えていったヨゼフの後ろ姿に、カイン・マクシミリアンはふっと息を吐き出した。それから書斎の奥に飾られている写真立てに視線を向ける。
士官学校を卒業したときの写真だった。仏頂面のカインの肩に腕を回して笑う青年が写っている。彼は燃えるように赤い髪に、沼底のような翠の瞳をしていた。
──コルネリウス・リーゼンバーグ。
親友の名を忘れたことなど一日たりともない。コルネリウスと過ごした日々のことを忘れたことなどない。そして、コルネリウスの処刑を決めた日のことも。
ただ、アリアが怖かった。アリアにすべてを奪われることが怖かった。だから、コルネリウスを差し出した。
カインの承認によって最高議会は全会一致でリーゼンバーグを消し去ることを決定した。ガンマがすべてを壊し尽くし、暗殺人形がコルネリウスとその家族を殺し尽くした。治安局が情報操作を行うことでリーゼンバーグは記録からも消し去られた。
──はずだった。
反逆軍の王という道を選んだ少年の姿を思い出す。エヴァン・リーゼンバーグはコルネリウスに本当によく似た少年だった。彼の、激しく輝く星のようなまなざしが脳裏に焼きついて離れない。その翠の双眸に宿る確かな意志に、カインは未来を見たのだ。
ゆっくりと執務机の椅子に腰を掛け、引き出しから拳銃を取り出す。
これは贖罪でもある。かつて殺した友への唯一の。




