ep.086 星に手を
さらさらと紙にペンを走らせる音がうるさいくらいに響いている。
デアグレフの地下、通信と暗号解読を行っている部署の置かれた部屋は、ここのところずっとそうだった。四六時中休むことなく通信傍受と通信内容記録、暗号の解読が行われている。また、他の支部からの報告や反逆軍が各地に放っている密偵からの報告もここで処理されていた。
一度手にしていた紙を机に置くと、銀縁の眼鏡を外してリュエルは目を擦る。ずっと紙を見ているとどうにも目が乾いてしまうのだ。
上がってくる報告すべてに目を通していたけれど、目ぼしい情報は得られずにじりじりとした日々を過ごしている。ここまで、エヴァンに関する言及がないとエヴァンが死んでいるという最悪の想定すら首をもたげてくる。もしも、そうであるなら──。
「リュエルさん! 報告です! 軍の通信にて、王の名を確認しました!」
暗号解読班の女が悲鳴のように叫んだ。皆が黙々と作業を続けているため、紙の音しか聞こえていなかった空間が不意に沸き立つ。不安と期待がないまぜになった熱気が立ち込める。
「通信文を読み上げてくれますか?」
「は、はい!」
女は全員に聞こえるように声を張った。
「『反逆軍の《茨の王》をヌディスベルンの監獄へ輸送する。大罪人につき、輸送には厳重な警戒態勢を取って臨まれたし』とのことです!」
歓喜の声が地下室を震わせた。たった二文の通信でエヴァンの生存と行先が分かったのだ、当然と言える。何より、ひと月にわたって部屋にこもり続けたことが報われたことになるのだから、リュエルも一緒になって叫び出したいくらい。けれど、冷静な頭脳がそうさせてくれなかった。
「それはどっちの暗号を解読したものですか?」
「えっと、改一式と改二式のいずれも同じ文でした!」
「そうですか……」
それならこの情報の信ぴょう性はかなり高そうですね、と喜ぶ声を遠くに聞く。リュエルの思考は水底へ沈んでいくように深くへ潜っていく。ひやりとした思索の深海へと。何かが引っかかる。はっきりとは分からないけれど、違和感がある。本当に、この情報を信じてもいいのかと直感が囁く。
まだ熱狂に包まれたままの部屋をリュエルはするりと抜け出した。ひとり、こつこつと靴を鳴らして地下道を行く。ホテルまで戻って、裏口から外へ出た。不用心だとは重々承知していたけれど、どうしても頭を冷やしたくて。
吹き付ける冷たい風に一気に身体が冷えた。コートを羽織ることも忘れてしまったから、骨の髄まで凍り付いてしまいそう。深呼吸をすれば、凍えた空気で肺が痛む。寒さもここまで来れば痛みと同じだった。
人目を避けて路地を歩く。正面の広い通りとは違って、裏側の道は入り組んでいて迷路のようだった。ふとすれば迷子になってしまうだろう。リュエルに限ってはそのようなことは起こりえないのだが。
霜の降りたパイプ、トタンの屋根、ゴミ箱。凍った土くれ、ネズミの死骸。どの扉もぴったりと閉ざされて、人の気配はどこにもない。まるで世界からすべての人間が消えてしまったみたい。石畳を叩く靴音はリュエルのものだけ──ではなく、もうひとつ。
リュエルの前から黒い人影が真っすぐ歩いてくる。黒いそのコートは帝国軍支給のものであることにリュエルは即座に気がついた。逃げなければと思う反面、街に住む人間と変わらない服装をしているリュエルを反逆軍に与する人間だと見抜くすべはないとも思う。ゆえに、街の人間が普段軍人に対して取っている態度を脳内で再生、リュエルもそれと同じように壁際によって敬礼をする。
「──その必要はない。オマエがリュエル・ミレットだな?」
吸い込まれてしまいそうなほどに美しい翠の双眸がリュエルを見ていた。
「……」
何も答えずにいると、燃えるように赤い髪を持つ男は肩を竦めた。
「あー、確かに警戒するような、そりゃ。オレが先に名乗るのが礼儀か」
そう言って男は軽く頭を下げてみせる。
「オレはエルシオ・リーゼンバーグ。反逆軍の王であるエヴァンの兄で、ライの、……古い友人だ」
エルシオは最後の言葉を少しだけ躊躇いがちに口にした。悪い人ではないのだろう、とその一瞬の逡巡の中にリュエルは見て取る。
「……あなたがそうでしたか。失礼しました。私がリュエル・ミレットです。私に何かご用ですか?」
「ああ。オマエらは軍の通信を傍受して作戦を立てているだろうし、《無名の魔術師》の異名を持つオマエなら、すでにある程度の解読ができていると思う。多分、エヴァンがヌディスベルンの監獄へ移されるという話まで分かっているんじゃないか?」
情報が速すぎる。こちらはついさっきその通信を受けたというのに、エルシオは通信内容を知っている上にタイミングが完璧すぎる。
「……もしかして、その情報はもう古い?」
エルシオがふっと微笑んだ。
「流石、察しがいいな。本来なら今頃は、ソフィリアからそう遠くないヌディスベルンにエヴァンは移されている最中のはずだった。そして、『クリムゾン』作戦にあたっている軍の連中もそう思っている。だが、どうやら目的地が変更されたらしい」
奇しくもリュエルの直感は正しかったようだった。
「では、どこへ?」
エルシオの顔が苦くなる。
「ノルデンリヒト」
思わずリュエルは息を呑んだ。ノルデンリヒト、すなわち帝国軍最北の軍事基地が置かれた地だ。何よりも、そこにはガンマの本部が置かれている。つまり、ヌディスベルンの監獄に侵入するのとは比にならないほどに攻略難易度が上がるということ。
「ではガンマの介入があったということでしょうか?」
「そうだ。正確には、ガンマの《血塗れのミラ》が独断で動いた。それに一部の上層部の連中が便乗した形だ。そして、アリア様はそれを静観している。……ところで、オマエらが解読した暗号は二種あったな?」
「はい」
「一つは軍の汎用暗号。そして、もう一つは最高議会やガンマが使う特殊暗号だ。特殊暗号は汎用暗号とほぼ同じ方式で解けるが、そこに本来の意味は入らない。解けること自体が罠なんだ。ここまで言えばオマエなら解けるだろう」
殴りつけられたような衝撃にリュエルは目を見開いた。解けたと思っていた。その傲慢さがまた足を掬う。無意識にリュエルは唇を噛んだ。
「そう自分を責めるな。むしろ自力で解いたことに驚くね。……ああ、あと、こんな場所を一人で出歩くのはもうやめた方がいい。しかもそんな薄着で。オマエ死ぬぞ?」
「どうしてそこまで私の心配をするんですか?」
思わず問う。エルシオは明後日の方角に顔を向けた。
「……オマエが死んだらもう誰もエヴァンを助けられないだろ。あの脳筋どもが司令官なしでマトモに動けるわけがない。特にライとか、ナタリアとか」
その言い分にリュエルは激しく納得してしまった。確かにダメな気がする、色々と。ルカも間違いなくダメそうだし。
「ってことで、オレは行くからな。じゃあな」
リュエルとすれ違うように赤髪の男は歩み去る。足早に、けれどひらひらと右手を振ることを忘れずに。行き先をその背中に問うことはしなかった。もうリュエルは彼の足の向かう先を知っていたから。
エルシオの忠告通りに、リュエルは急ぎ足で地下室へと舞い戻った。喜び合っている人々の中、ただ一人唇を引き結んで改二式の暗号を見直す。全部を頭に詰め込んで、パターンを解析する。改一式とはわずかに異なる暗号方式。解くとするなら、その差異が鍵になるはずだ。
「っ、本当だ。どれも全然違う意味になる」
改一式に比べて改二式の方が数が少ない理由も、改二式が特殊暗号に当たるからだ。その上、改二式は意図的に改一式と似たような文面を取っている。すべては、解読を試みる人間を騙すために。
解読し直した文を読むと、軍の裏では、上層部の手で直接エヴァン・リーゼンバーグを殺すための動きがあることが分かった。それほどまでにエヴァンは恐れられている。
反逆軍はアリアがエヴァンを気に入っているために放置され続けた。ゆえに、陸軍が勝手に起こした行動に乗じ、上層部は《血塗れのミラ》の動きを利用してエヴァンを確実に葬るつもりだ。
そしてそれは同時に上層部がカイン・マクシミリアンに疑いを抱いていることの証左でもある。それとも、ただ、エヴァンに楽な死に方をさせたくなかっただけかもしれないけれど。
いずれにしても、エヴァンの身柄は陸軍からカイン・マクシミリアンを除いた帝国最高議会に掠め取られた。二重に展開された作戦を上手く捌かなければ、反逆軍はすべてを失うことになる。リュエルに突き付けられた難題はそういうものだった。
「大丈夫、全部取ってみせる」
──何一つ、取りこぼさずに。
だって、リュエル・ミレットは甘くて、欲張りだから。
***
リュエル・ミレットと別れ、エルシオは無心で足を進めていた。
リュエルに偉そうに忠告したものの、エヴァンの本当の行き先を知ったのはエルシオもつい先ほどだった。
陸軍がエヴァンの身柄をヌディスベルンへ移動させる最中に、ガンマが介入してノルデンリヒトへ行き先を変える。そういう命令が汎用暗号の内容と被せるようにして特殊暗号で流されたのだ。
元々エルシオはリュエルに暗号が二種類あることを伝えるためにデアグレフまで足を運んだ。手紙、通信、伝言、どれも機密を教えるには適さない。いずれも途中で内容を書き換えられるか、握り潰されるかするのが関の山だ。だから、こればかりはエルシオが直接伝える必要があった。もう、なりふり構ってはいられない状況であることを理解していたから、時間さえも選ばなかった。
かつて、リンツェルンの街でエルシオはライたちを試した。ナタリアを連れて帰るという目的だけならば軍を動かすこともなかったが、エルシオはライたちの能力を測るためだけに軍を使った。
エヴァンを託せるだけの実力があるかどうか、知りたかったから。
それから、エルシオはナタリアとライに賭け、そして賭けに勝った。ナタリアはライを撃たず、ライとその仲間たちを選んだ。
だから信じられると思った。
我ながら分かりにくくて面倒なことをしている。けれど、その甲斐はあった気がする。彼らなら大丈夫だろうと確信できたから。それに、今のエヴァンにはヨゼフ・マクシミリアンとかいう男もついている。
エルシオは、ひゅうと口笛を吹いた。誰もいない灰色の路地で掠れた音が反響する。特に意味のない行動。
ナタリアなら「任務に支障をきたす可能性があるので、不用意な音を立てないようにすべきです」とでも言うだろうか。ライなら……、もう今のライをエルシオはあまりよく知らないのだった。
苦笑し、エルシオは唇を引き結んだ。
「早く行ってやらないとな」
行き先は決まっている。ガンマであらねばならないだとか、任務だとか、そういうものはもうどうだっていい。
「オレでも時間稼ぎにくらいにはなるだろ、たぶん」
背負っている愛用の狙撃銃の重みをなんとなく確かめてから、走り出す。アリアの手を取ってエヴァンと別れてから過ごした日々の中で、一番軽い足取りで。
遠く北の、ノルデンリヒトへ。




