ep.084 金木犀
「みんな! お帰り!」
バーレイグからデアグレフへ戻ると、リュエルが千切れそうなくらいに手を振って出迎えていた。ルカはぱっと目を輝かせ、一直線にリュエルへと走り出す。
「セーンパイ! ただいまー!」
盛大に両手を広げると、ルカはリュエルに抱きついた。リュエルが目を白黒させているのもお構いなしに、リュエルの肩に頭を載せて息を吸う。
金木犀のような匂いがした。リュエルはいつも不思議と甘い香りを纏っている。食べてしまいたい、と思ってしまうくらい美味しそうな香り。
いつからかルカの鼻は血の匂いだけでなく、この匂いでも狂うようになってしまった。このおめでたい女はルカがそう思っていることにさえ気づいていないだろうけれど。
「……ヨゼフ・マクシミリアンは怪しい動きは見せていないっす。次は何をすればいいっすか?」
「ありがとう、ルカ。そろそろ、カイン・マクシミリアン大将にも探りを入れないといけない頃かも」
「分かったっす」
囁けば、リュエルはルカにだけ聞こえるように返事をした。付け加えると、リュエルは公衆の面前で抱きつかれて真っ赤だし、ナタリアを除く周りの面々は呆れ顔でお届けしている。
「……ちょっとルカ、いつまでくっついてるの!」
とうとうリュエルがしびれを切らした。ルカは少しだけぶすくれて、意趣返しにリュエルの耳に息を吹きかけてみる。
「ひゃっ!? もう! ルカ!」
リュエルはびくりと肩を震わせた。おまけに涙目でルカを睨んでくる。流石にそろそろリュエルに叱られてしまいそうだ、とルカは大人しくリュエルから手を放すことにした。が、もちろん離れるなんていう選択肢はない。
腕は解いたものの、リュエルにくっついたままでいるルカを放置し、デアグレフへ派遣された面々はバーレイグ支部へと帰還した。閑散としたロビーを抜けて、地下の会議室へと足を運ぶ。
中央にある大きなテーブルでは地図が磔にされていた。既に会議室にはデアグレフ支部の構成員たちがテーブルを取り囲むように集まっており、テーブルを挟んで向こう側の中央にはイリーナが立っている。
「さてと、みんなお帰り。ご苦労だった。帰ってきたばかりのところ悪いけど、報告をお願いしてもいいかなぁ?」
「はい。私が報告しますね」
エルザは誰よりも先に説明を買って出た。エルザ以外に説明が得意な人間がいるとは思えない上に、ヨゼフに説明させるのは何かと不安だ。
「バーレイグ支部に私たちが到着した時刻と帝国軍がバーレイグ支部を襲った時刻はほぼ同時でした。手筈通り、ナタリアが先行して帝国軍を掃討し、一名を目撃者として逃がしました。これで向こうには私たちの方に《死天使》がついていることが伝わったでしょう。そして、バーレイグ支部長との話し合いの結果、彼はエヴァンさんへ向けた矛を一旦は収め、この事態が収束するまでは静観することを約束してくださいました」
バーレイグでの交戦の様子とバーレイグ支部長ジャスパー・アロンとの話を手短にエルザがまとめた。
ヨゼフがズタボロのジャスパーを殴った件は意図的に省いていた。……これ以上不名誉な伝説を増やすのは可哀相かと思ったのと、必要性を感じなかったのが理由だ。
「つまり、あの堅物は一応敵ではなくなった、ってことか。うん、よくやってくれた。じゃあ、バーレイグ支部長からの全体への通信は帝国軍から我々への揺さぶりだったということにしておこう。……というか、尻拭いくらい自分でやってくれよ」
イリーナはぼやく。だが、やる気のないような表情とは裏腹に、直ちに人を通信機へと走らせていた。
「では、こちらの状況も話すとしよう。非常に頭の痛い話ではあるんだが、やはり王さまが捕らえられたという話は既に広がっていてね……。おまけにあのふざけた通信だっただろう? お陰様で、反逆軍は二つの派閥に分かれてしまった」
イリーナが二本の指を振ってみせる。
「一つは私たちと同じように王さまを信じている一派。まあ、これが多数派だ。で、もう一つは王さまに反感を持った一派だ。とはいえ、この件で王さまへの不満が噴出した形になるというだけだ。数は少なかったけど、いかんせんピーチクパーチクうるさくてねぇ」
凶悪な笑みを口に浮かべたイリーナの姿に一瞬、空気が凍り付く。
「そいつらの回線、全部切ってやったんだ。たぶん、他も同じ対応をしているだろうねぇ。実質の追放さ。私たちは、王に対する裏切りを決して許さない。軍に売らなかっただけマシな方だけど、他の支部ならやつらを売っているかもねぇ。ま、私たちが知ったこっちゃない」
これが反逆軍の規律だ。王からの庇護を受ける代わりに、王への絶対の服従を誓う。それは同時に背信には重い処罰が下るということだ。
「王を信じる限り私たちは同志であり、仲間だ。王の臣下である限り、私たちは同志を見捨てない。だが、王を裏切るのなら最も冷酷な手段で裁きを下す。今回は対象が分かりやすくて、掃除がラクで良かったよ」
「では、バーレイグ支部長も処分されるということですか?」
立場は真逆だが、裏切者へのガンマと反逆軍の対処は似ている。ならば、王への不信を唱えたバーレイグ支部長も例外ではないのだろう、とナタリアは考えた。
「ああそうだねぇ。少なくとも支部長の座からは下ろされるだろう。だけど、あれは有能で帝国への恨みも人一倍強いやつだ。王を誰よりも信じているからあのような言動を取ったということも理解できる。抒情酌量の余地があるだろうねぇ。具体的な処分は王さまに任せるさ」
イリーナの言葉に、ナタリアは先ほどの反逆軍への評価を取り消した。ガンマと反逆軍は違う。
ガンマでは、いつだって一度目が最後だ。二度目も、呵責も、温情もない。いかなる理由であろうと、どれほどの罪であろうと、裏切りと失敗は死を意味する。ナタリアすらも例外なく。
「──王さまに対して疑いを広めたバカどもは掃除したから問題はないんだが、一番の問題は王さまを信じている一派の中の過激派だ。『王さまを助け隊』の連中は王さまを探すためになりふり構わない動きをしている。独断専行で闇雲に勝手に出ていって、不用心にウロウロしてるんだ。そのせいで軍と何度か衝突しているんだよ」
軍と衝突が起きているのは、王が軍に捕まったという情報だけで動いているから当たり前のこと──なのだが、万全を期して対処に当たりたいデアグレフ支部としては看過できない要素だ。なお、『王さまを助け隊』とかいうマヌケな名前はイリーナが勝手に授けた。
「アホっぽい名前はさておいて、それは確かにマズいな……」
「こちらからは止めさせることはできないのかしら?」
「無理。私にできるのは要請までだからね。反逆軍は構造上、大小すべての支部が対等な位置に置かれ、それぞれが独立している。残念ながら、他の支部の行動を止める権限は持たされていないんだ」
反逆軍では帝国各地域ごとに支部が置かれ、その中に砦と呼ばれる拠点がある。支部も砦も基本は独立しているが、支部がその地域の情報を管理する形になっている。そして、各支部が従属する相手は王以外いない。
「いち早くエヴァンさんの居場所を見つけることの重要度が増しましたね。彼らを止めることができないのなら、正しい方向性を与えればいいわけですから」
リュエルの言葉はもっともだった。しかし、状況が苦しいことは依然として事実。肝心の情報が手に入っていない現状では動くに動けない。リュエルもそれが分かっているから、思わず険しい顔ばかりしてしまう。
「うーん、それなら暗闇に向かって猛突撃してるヤツらを助けつつ、各地に探りを入れたらいいんじゃないか? 俺だって一刻も早くエヴァンを見つけたい。でも、それでこの組織を崩壊させるわけにはいかないし、人数だって減らしたくないしな」
ヨゼフがそう口にすると、地下室は水を打ったように静まり返った。何かマズいことでも言ってしまったのかと、ヨゼフはキョロキョロする。発言を撤回しようかと思い始めた頃、イリーナが腹を抱えて笑い出した。
「ご、ごめん……! 君があまりに、マトモで賢いこと言うから!」
「──っ、俺をなんだと思ってたんだ!」
思わず反射的に叫んだ。これでも士官学校は首席で卒業した身だというのに、周りの目が氷点下を割っている。一応中佐なのに。
「え? 猪突猛進で周り見えてなくてすぐに手が出るおじさん?」
真顔でイリーナが言う。ついでに他の反逆軍の構成員たちの顔にも同じ言葉が書かれている。リュエルとエルザは苦笑いをし、ルカはにやにやと笑っている。唯一何の表情も浮かべていないのはナタリアだ。ヨゼフは思わず暗殺人形を神と崇めたくなった。
「クリティカルヒットっすねぇ、これは」
「る、ルカ、やめてあげて?」
リュエルの優しさが痛い。今すぐ首を掻き切ってしまいたくなってきた。それか、ナタリアに殺してほしいと泣きつくか。
「……い、いや、でも私も君と同意見なんだ。君が言わなければ私か、リュエルさんが同じ提案をしていたと思う。それがまさか君の口から出るとは思わなくてだねぇ!」
イリーナはまだ目の端に滲んだ涙を拭っている。明らかに貶されているな、これは。
「はい、イリーナさんの言う通りです。なので、ヨゼフさんの提案をこれからの方針とすることにしましょう」
ヨゼフの発案であったにも関わらず、リュエルの言葉に異論はひとつも出なかった。
「まじか」
いざ採用されてみれば信じられなくて、ヨゼフはぽろりと声をこぼす。かなり嫌われていたはずなので、すんなりと意見が通るとは思っていなかったのだ。リュエルとイリーナのお墨付きがあるにしても、睨まれるくらいはあってもいいと思ったのだが。
「……でも、なんか、うん、いっか」
少しは進めたかも、なんて。
ヨゼフ・マクシミリアンは困惑していた。
会議室(今は食堂)に食事を取りに行ったときのこと。反逆軍の男たちにヨゼフは囲まれてしまったのだ。
「な、なんだなんだ!?」
つい先日までハブられていた身としては恐怖しか覚えないところなのだが、ヨゼフを取り囲む男たちはそんなことなどすっかり忘れてしまったよう。しきりに話しかけてくる。
「おまえ、バーレイグ支部長をソッコーでぶん殴ったんだって?」
「え、あ、ああ」
大変不本意だが何も間違っていない。大変不本意だが。
「おれたちでさえそんなバカなことしねーのにな。おまえ、マクシミリアンのくせにおれたちよりバカなのかよ」
「うっ……」
非常に残念だが何も言い返せない。非常に残念だが。
「てか、誰がバラしたんだよ!?」
思わず叫ぶと、視界の隅で二人の男が斜め上を向いた。よく見ると、バーレイグにヨゼフの監視役として同行した二人だ。どうもヨゼフのやらかしを吹聴して回っていたらしい。
「お、ま、え、ら!」
これ以上やらかしたら、本当に尻を蹴られて追い出されてしまう。そうなったらこいつらのせいだからな、と自らの所業をまるっと棚上げして男たちに罪を擦り付ける。
「──でも、君の本気は伝わったよ」
落ち着いた女の声がてんやわんやしていた食堂に響いた。ざわついていた食堂はそれで一度に静かになる。
「君は証明した、君の王への忠誠心と覚悟をね。エルザさんたちの助力はあったにせよ、一番危険な役目を買って出て、見事に成し遂げた。おまけに、周りが敵かもしれないという中で、王さまの悪口を聞いた瞬間に命知らずにも拳を振り抜いたっていうじゃないか。そんな馬鹿野郎なんて、どうあがいてもスパイになんかなれないね」
橙色の髪を揺らし、イリーナが鮮やかに笑った。
「もう私たちは君を疑わないよ。そうだろう? みんな」
ヨゼフを取り囲んでいる男たちは頷く。すでにテーブルに着いてパンを齧っている者も例外なく。
「むしろ、あんたが軍の中佐だって方が疑わしいぜ。こんなバカ中佐がごろごろしてんなら、おれたちの仕事はもっとラクだったはずだぜ」
そうだそうだ、と野次が飛ぶ。ヨゼフは頬をかいた。これでも士官学校を首席で卒業したし、本当に中佐なのに。けれど。
「ははっ、確かにな」
表情筋が緩んだ。笑い声が口から転がり出す。
あのまま軍に居続けていたら、ヨゼフはきっと笑うことすら忘れてしまっていたかもしれない。こんな馬鹿な話で盛り上がることもなくて、そのまま灰色の世界で燻ったまま終わっていたかもしれない。
自分を殺して、命令を遂行するだけの装置であることばかりを望まれて。そう在ることが軍人という生き方ならば、棄ててしまえ。
何もかもを諦めて引きこもるばかりになってしまった帝国の民とは別の道を選んだ彼ら。たとえ死と隣り合わせの日々を送ろうとも、彼らは死人のように生きることを拒絶した。沈黙することを選ばなかった勇気を、帝国の腐敗を正すことを選んだ高潔を、決して棄てないで。
たぶん、生きるというのはこういうことなのだろう、とヨゼフは思う。
そして、選ぶのなら気高いその生き方を。




