ep.083 裸の王
ことり。
沈黙ばかりが支配していた部屋で、木片が木片を打つくぐもった音がした。カイン・マクシミリアンの無骨な右手は黒い騎士の駒を盤上に置いていく。エヴァンは無言で白い歩兵の駒を斜め前に動かした。そこにあった黒い歩兵の駒を取って。
ここはソフィリアの陸軍本部の一角。高級士官用の空き部屋にエヴァンは押し込められていた。ただし、一日に三食も提供され、縛られもせずに。その部屋を出られないことと外部との連絡が一切取れないこと、支給されるのが帝国軍の軍服のみであることを除けば、不満も不自由もない状態。いわゆる軟禁状態というやつだ。
部屋も高級士官用なので、柔らかい寝台から飴色の文机まで用意されている。貴族趣味の調度品すら置かれている始末だ。たとえば、今、エヴァンとカインが腰掛けている椅子は臙脂のベルベットが張られていて、向かい合うテーブルには緻密な彫刻が随所に入っている。
捕虜にする待遇には到底思えない。反逆軍の王として各地を転々としていた時と比べれば、軟禁されてさえ今の生活は贅沢なものだ。挙句、敵であるはずのカインは時折チェス盤を持ってエヴァンの元を訪れるのだ。
落ち着いていて淀みのない静寂の中で、ただ駒を動かす音だけが響く。会話はない。けれど、一手打つたびに、新しく遊戯を始めるごとに、相手がどのような思考の持ち主であるかがつまびらかになっていく。
エヴァンから見たカインは、厳格そのもので、何よりも自分に厳しい人のようだった。そして、搦め手よりも正攻法を好む。しかし、経験に裏打ちされた正攻法には綻びがない。だから、一度完成されてしまえば崩すことなどできないのだった。
逆にエヴァンはというと、どちらかといえば搦め手の方が得意だ。持ち前の発想の柔軟さと思い切りの良さで勝ちを掬う。何度も対戦を繰り返すうちに、カインから正攻法を学び、その裏をかくことを覚えた。それを利用することも。
結局、両者のチェスの腕はほとんど伯仲していた。経験が浅い分、エヴァンの方が少しだけ負け越しているけれど。
敵の腹の中で生殺与奪の権を握られているはずなのに、カインとチェスをするこの時間だけは不思議と落ち着く。空気に温かみはひとかけらもないのに、まどろむような穏やかさがあった。
もしも、エヴァンの父親が生きていて、向かい合ってチェスをするようなことがあったのなら──。
たん、と一際高い音が盤上で響いた。エヴァンの指先が女王の駒を滑らせた音だった。馬鹿げた考えを振り払うように、エヴァンは口を開く。
「チェックメイトです」
白の歩兵と女王に囲まれて行き場をなくした黒の王。エヴァンは冷ややかにそれを翠の瞳で見下ろした。
まるで、僕みたいだ。処刑されるのを待つばかりの、憐れで愚かな丸裸の王。
「今日は私の負けのようだな」
カインはそう言うと、ヨゼフと同じ色の瞳を細めた。その視線の先は盤上に注がれてはいるけれど、見ているのはもう駒ではなかった。
「──まさか、反逆軍が《死天使》というカードを切ってくるとはな」
思いもよらない名を耳にして、身動ぎしてしまいそうになる身体を押さえつける。決して、動じてはならない。表情の制御は駆け引きの初歩中の初歩だ。だから、動揺の代わりに悠然とした微笑みを唇に乗せた。
「僕の臣下は優秀ですから」
ともすると、ヨゼフが上手くやったのだろう。そして、何らかの方法でエルシオは《死天使》を用意した。呆れ返ってしまうほどに完璧な、最高の切り札を。
やっぱり、僕の兄さんは最高だ。エヴァンは内心でほくそ笑む。
帝国と共和国の双方において《死天使》を超える戦力はそう用意できるものではない。文字通りの最凶兵器、絶死の天使。一度放たれたが最後、それから逃れるすべはないという。そんな怪物が一時でも反逆軍の力になるのなら、願ってもないことだった。
「これで、勝負はどう転ぶか分からなくなりましたね」
「その通りだな。《死天使》に対抗できる戦力など、もはやガンマをおいて他はない」
エヴァンはアリアが動かないことを知っていた。アリアはエヴァンたちが刃として研ぎ澄まされるのを待っている。狂っているから──そうとしか言えないけれど、アリアはエヴァンがアリアを殺しに行くまで何もせずに微笑み続けるだろう。あるいは最期の瞬間まで。そして、ガンマが当初の想定通り動かないのならば、《死天使》を味方に加えた段階で勝敗は決している。
「なら、あなたはどのような手を打たれるおつもりですか? ガンマに働きかけますか?」
問いかけながらも、エヴァンはその問いの無意味さを理解していた。カインは何も言わないだろう。そして、ガンマはアリア以外の誰にも動かせない。
「私が貴様に話すわけがなかろう。そして、たとえ《死天使》が敵になろうとも、私たちの任務は変わらない」
カインはゆっくりと立ち上がった。軋む椅子の音。それから、カインが文机から紙の切れ端と万年筆を持ち出す音。灰髪の男は顔色ひとつ変えずにエヴァンの前に座り直した。万年筆が紙片を滑らかに走る。
「……して、もう一局どうだ、エヴァン・リーゼンバーグ?」
カインの言葉はいつも通りの鋼色。けれど、カインは言葉と一緒に紙片に書かれた文字をエヴァンに見せた。盗聴を避けるための手段であることに疑いはない。
几帳面で流麗な文字を、頭を動かさずに視線だけで追う。まだ乾き切っていない濃紺の文字は思いもよらない言葉を綴っていた。
「──もちろん、お受けします」
目を大きくしたのはほんの一瞬。自然に会話を続けて、そっと言葉にもう一つの意味を忍ばせる。視線を上げれば、朝焼け色の双眸が微かに微笑んだ気がした。
「貴様ならそう言うだろうと分かっていた」




