ep.082 曇天を突いて
煙るような重苦しい灰色の空の下、青を棄てて灰色に染まった海がうずくまっている。風がほとんどないせいで波もなく、のっぺりとした海水面がずっと先まで続いている。まるで、キャンバスに絵具をのせたきり、そのまま伸ばすことを忘れてしまったみたい。
今や失われた海辺の街、リンツェルンに向かう途中にナタリアが眺めた海と同じ海。けれど、春先に見た紺碧の海はここにはない。
海から視線を外し、ナタリアは黒いフードを目深に引く。そして、灰髪の男の後を追った。ナタリアの隣をルカ、後ろをエルザ。それから、男が二人続く。
デアグレフから友軍として派遣が決まったのは、亡命組からはナタリア、ルカ、エルザの三人と、反逆軍からはヨゼフ・マクシミリアンと戦闘要員の男が二人で三人。合わせて六人だ。およそ同緯度とはいえ、反逆軍に対して厳しい警戒態勢が敷かれる中を突破してのバーレイグ入りを果たすことのできる最高人数と言ってもいいだろう。もちろん、ナタリア単独でならばもっと速く動けるが、殺すことが目的ではないのだからナタリアが先行したところで利点はない。
「静かね」
石畳を歩きながら、エルザが呟いた。靴音ばかりがひどく大きく響いている。
「昼間なのに変っすね」
どんよりとした曇り空に組み敷かれた街並みは暗い。石造りの建物ばかりが並ぶから、余計に重苦しく見えた。誰も外に出たがらないのも理解できる。
「帝国はずっとこんな感じだ。……ガンマが表に出てきてからは一層酷くなった。みんな最低限しか外に出ないんだ」
ヨゼフが振り返らずに言う。横には空っぽの学校があった。今日は休日で、子どもたちはそこにはいない。
「賑やかな場所があるとするなら、もう学校くらいだな……といっても、前よりは断然静かになっちまったけどな」
ナタリアは抜け殻みたいな校舎を横目にする。今まではこの静けさが異様であることさえ知らなかった。夜の中ばかりに身を深く沈めていたから、というのもあるけれど、それ以上に人をナタリアは知らなかった。人は生きているだけで騒がしいものだから、息を潜めることの方が難しいはずなのに。
「まだ戦闘は始まっていないようです」
ぽつりとナタリアは呟いた。硝煙の匂いも血の匂いも静寂の中には漂っていない。あるのは、消え入りそうな潮の香りひとつ。
「そうっすね。でも、この静けさはたぶん──」
「──戦闘開始直前のもの」
ルカの言葉を継いでエルザは目を細めた。ぴりりと張り詰めた空気は、戦闘開始まで秒読みであることの証左だ。
「ああ、俺もそう思う。急がないとな」
そうヨゼフが口にした矢先、銃声が灰の空へと轟いた。は、とヨゼフが口から白い息を漏らす。ナタリアは懐に忍ばせた拳銃に手を伸ばす。体温でじんわりと温い黒鉄が指先に触れた。
「では、手筈通り」
「頼んだ」
ナタリアはヨゼフと一言だけ交わし、石畳を蹴った。走り出せば、冷たい風が顔を叩く。石壁を足掛かりに屋根の上へ登る。赤茶の髪が棚引く。硝子のような琥珀の瞳で見据えるのは、反逆軍バーレイグ支部の砦。広場の脇にあるこじんまりとした事務所のことだ。そして、ナタリアは灰色の街の上を駆けた。
真っ直ぐに立ち上る煙がある。その下に砦があることは明白。黒い軍服の波が広場に見えた。
屋根の端を蹴って、次の屋根へ飛び移る。軽やかに躊躇いなく、銃声の轟く方へ。黒いコートの裾がなびくままに走り抜ける。そして、虚空へと身を投げ出した。瞳に空を映し、黒い軍服たちを映す。赤茶の髪とそれを結わえる黒いリボンがはためく。
美しい少女はそうして戦場と化した広場に降り立った。
「なん──!?」
見慣れた帝国軍の軍服を纏った男たちへ向かって、引き金を引く。兵器として研ぎ澄まされた肢体が躍る。瞬きの間にナタリアは兵士たちを倒していく。
銃口が向く。──遅い。
刃が走る。──遅い。
手が伸びる。──遅い。
そのすべてをナタリアは一呼吸の間に屠った。
雑兵にナタリアの速度は越えられない。圧倒的な戦闘能力を持つナタリアの前では、あらゆる攻撃が意味をなさない。だって、届かないのだから。殺戮の中で、ナタリアは返り血すらも纏わなかった。
緋色の世界でただ一人だけ無垢なまま。芸術作品のように端正な姿は、あまりに場違いだ。けれど、溜息が出るほどに美しい。
静寂が波紋のように落ちた。
「…………な、んなんだ」
地面に倒れていた男が掠れた声で呟いた。ナタリアは視線を声の方へ向ける。男は軍服を着ていないから、始末対象ではないと即座に判断した。けれど、透明な視線を向けられた当人は目玉を落としてしまいそうなほどに目を見開いている。
「わたしは、エヴァン・リーゼンバーグの命でここへ来ました」
用意していた通りの言葉を口にした。
「……王の?」
「はい」
「……っはは、そう、か。やっぱり、王は裏切ってなんかないじゃないか」
男は肩を震わせた。脇腹に受けた銃創が痛むようで、呻き声が混ざっている。それでも、彼は笑っているように見えた。
「助けてくれて、ありがとう」
立ち去ろうとしていたナタリアは思わず振り返った。周りには負傷した反逆軍の構成員たちがいて、遠巻きにナタリアを眺めている者もいる。けれど、先の言葉は確かにナタリアへ向けられたものだった。振り返ったら、男と目が合う。すぐに逸らされてしまっても、身体に染み込んだ言葉の温もりは消えたりはしなかった。
「……わたしは」
血に染まった石畳が水音を立てた。その上で帝国軍の兵士たちが骸を晒している。そして、同時に、助かったと安堵を顔に浮かべる生者たちがいる。
不意に分からなくなった。
ナタリアの指先は命を選別した。基準はただ、帝国軍の証である軍服を着ているか否か。奪った命と奪わなかった命に何の違いがあるというのだろう。
「──ただ命令に従っただけです」
言葉と一緒に思考を不必要と切り捨てた。こころを知りたいと言ったくせに、こころを切り捨てようとする自己矛盾に蓋をした。
「ナタリア」
エルザの声に顔を上げる。血で顔を汚したルカと、ぽかんとしているヨゼフと反逆軍の男二人。
「道の途中でコソコソしてたヤツらは皆殺しにしてきたっす」
「そうですか。ここを襲った帝国軍はすべて処理したという理解で構いませんか?」
「んー、先輩の指示で一匹くらいは逃がしたっすかね?」
エルザは頷いた。
「ええ、リュエルからの指示でね、ナタリアを利用させてもらったわ。おそらくこれでこちらに《死天使》がいることは向こうに伝わったはず。それなら、向こうも簡単に攻めて来れなくなるはず──と」
「──いや待て待て待て、お前らはこれが当たり前なのか!? どう考えてもムチャクチャだろ!?」
痺れを切らしたようにヨゼフが叫ぶ。この時ばかりは反逆軍の男たちもヨゼフに激しく同意し、首がもげそうなくらいにがくがくと頷いている。
「無茶苦茶、とは? どの辺りがその表現に当たるのか詳しく教えていただけますか?」
ナタリアがそう返答し、ルカは首を軽く傾げる。ヨゼフは朝焼け色の目を丸くした。
「……マジなのか。これが、お前らの、普通なのか……」
「おかしなトコなんてあったっすかねぇ?」
「ライがいないので、戦力の低下が見られることでしょうか?」
「はいはい、二人ともの言う普通は普通じゃないわよ? あと、バーレイグの支部長さん見つけたわ」
不毛な会話をエルザが断ち切る。ナタリアの介入が迅速だったため、戦闘の激化を防ぐことできた形だ。
「……ありがとう。俺が話をつけてくる」
常識の断絶に言葉を失くしていたヨゼフは、ようやっと衝撃から立ち直る。そのまま、エルザの指した方へ足を向けた。
「あなたがバーレイグ支部長で間違いないだろうか?」
弾痕の刻まれた事務所の中に入って、階段を登った先。ひしめく人を押し退けていくと、通信機を握りしめた男がいた。両手には包帯が巻かれている。拷問で受けた傷が原因だろう。
「──あなたは誰です?」
つり目を細め、神経質そうな男は問う。
「ああ、名乗り忘れていた。俺はヨゼフ・マクシミリアン。エヴァンの、──王の臣下だ」
「マクシミリアン?」
男の声がやけに大きく響いた。周囲で動いていた反逆軍の構成員たちも手を止め、じっとヨゼフの方を見つめる。居心地の悪い視線にヨゼフは無意識に唾を飲み込んだ。
「マクシミリアンは、私たちを潰す作戦の司令官の家名だろう! その家の人間が王の臣下を名乗るだと!? 馬鹿馬鹿しいにも程がある! ああ、そうか、王はマクシミリアンと手を組んで私たちを裏切ったからな! 当然と言えば当然か! 何が望みだ? 私たちが同士を売ることか?」
ヨゼフのこめかみがぴくぴくと動く。が、大丈夫俺は大人だ大丈夫、と自分に言い聞かせて、拳を振り抜く。ごすっ、という鈍い音がして支部長と思しき男が吹き飛んだ気がする。
「き、貴様ッ!」
左頬を腫らした男がヨゼフを睨む。そして、当初は呆気に取られていたバーレイグ支部の構成員もヨゼフに向けて殺意のこもった視線を向け始める。
「あ、やっべ……、や、じゃなくて、えっと、ちょっとデカイ虫がそこに止まってて……」
ヨゼフは慌てて拳を下ろした。冷や汗をかきながら必死に弁明の言葉を探す。けれど、ヨゼフが滅多刺しにされるのは時間の問題。
「……話をつけるっていうのは拳で語り合うってことなんすかねぇ?」
後ろでルカが笑っていた。血を拭き取ったらしいというのに、まだ鼻先に血をつけている。
「これは、そのーぅ」
「まあ、ぶん殴っちゃったのは仕方ないから、謝るべきね。それからゆっくりお話しましょ?」
ね?、とエルザが微笑んだ。穏やかな声と表情をしているけれど、霜が降りたような冷気がその場に充満する。
「は、はい、すみません」
気づけばヨゼフは頭を下げていて、バーレイグ支部長はぽかんとしていた。
「話はエルザが進める方が効率的のようですね」
遅れて部屋に踏み入ったナタリアは口にする。傍から見れば、エルザが事務所を制圧しているような有様だった。
無事にヨゼフがごめんなさいをし、エルザの言葉によって強制的にバーレイグ支部長は鎮静化させられた。そうして、未だに戦闘後の浮ついた空気を残しつつも対話をする余地が生まれる。
緊張した面持ちで成り行きを見守るバーレイグ支部の構成員たちをそのままに、エルザは優雅に頭を下げた。
「こんにちは。私はエルザ・レーゲンシュタット。反逆軍デアグレフ支部から派遣された者です。あなた方に対する襲撃を察知したので、助力に参りました」
「……助けには、感謝する。ジャスパー・アロン、それが私の名だ」
眉と眉の間に刻まれた深いシワは消えなかったが、ぼそりとバーレイグ支部長は言う。
「この状況について、説明を求める。貴様らはなぜ、この襲撃を察知できたのだ? そして、王が裏切っていないという証明もしていただこうか」
痩せぎすの男の身体の動きは、怪我のせいでぎこちない。先の騒動を考えれば激情家のようでもあるけれど、この緊張下でも状況把握に努めようとする冷静さは欠いていなかった。
その様子に、エルザはエヴァン・リーゼンバーグへの評価を一つ上げる。彼の人を見る目は確かだ。
「状況説明は手短に済ませますね」
説明するのは、すべてが帝国軍──カイル・マクシミリアン大将の策であるということ。反逆軍への大規模殲滅作戦「クリムゾン」が展開されていること。そして、エヴァンがヨゼフに反逆軍を託したこと。反逆軍がデアグレフ支部を中心に王を奪還するべく動き始めていること。
「なら、証拠の方がどうなんだ? 王が裏切っていないという、証明が欲しい。私は帝国軍の軍服に身を包む王を見たのだぞ?」
ヨゼフは無意識に拳を握り締めた。ジャスパーが疑うのは理解できる。けれど、エヴァンに対して疑義を唱えるその口を板で打ち付けたいという衝動は消えない。
「証拠ならここにある」
声が揺れないよう腹に力を入れた。ヨゼフの視線はジャスパーからナタリアへと移る。ナタリアは瞬きをした。
「《死天使》をエヴァンは俺たちに寄越した。そして、それが、今の戦いに俺たちが勝利した理由だ。あんたも上から見ていたんだろう? たった一人の女が一瞬で戦闘を終わらせる姿を」
見ていないとは言わせない。ジャスパーの部下を救ったのは、軍の最強兵器だ。それを送ることができたのは、やはりエヴァンの助言とエルシオの言葉のおかげで。ならば、暴論だと言われようが、ヨゼフはこれをエヴァンの手柄にする。
「エヴァンが軍に捕まったのは、俺のせいだ。俺が身分を隠していたから、俺を軍から庇ったんだ。でも、その代わりに俺はエヴァンから戦う方法を教えられた」
ちら、とヨゼフはエルザを見る。エルザが頷く。
「軍に捕まって身動きの取れないエヴァンを取り戻すまで、《死天使》と《死神》は俺たちの力になってくれる。勝ち筋を残してくれたエヴァンが、裏切るわけがないんだよ」
口にしてみれば、確かなことだった。発端や経緯はどうであれ、エヴァンの行動の延長線上にナタリアたちがいる。ヨゼフはエヴァンを信じ、エヴァンは兄であるエルシオを信じ、エルシオはライたちを信じた。
「だから、エヴァンを信じてほしい。そして、エヴァンを助けるために、力を貸してほしい」
ジャスパーは包帯の巻かれた指先で眉間を揉んだ。しばしの焦げるような沈黙の後、バーレイグ支部長の男は口を開く。
「……マクシミリアンの家名を持つ人間がここまで阿呆だとは思わなかった」
「ってことは、協力してくれるってことっすかね?」
「そもそも、そこまでの戦力を持つデアグレフ支部に逆らえるわけがなかろう。……分かった、判断は保留だ。様子見くらいはしてやろう」
ヨゼフはぱっと顔を輝かせた。橙赤色の瞳は目に見えて明るく色を変え、その唇は分かりやすく緩む。あれだけ頑なだったジャスパーが、エヴァンに対する反意を保留した。完全に味方になったわけではないが、敵にならないことが保証されただけでも進展だ。エヴァンを欠いた今、反逆軍内部の不和は致命傷になりうるから。
「……感謝する」
噛み締めるように礼を言い、ヨゼフは深く深く頭を下げた。驚きにも似た色がジャスパーの瞳に閃く。出会ってから至上最速で拳を振り抜いた男が丁寧に礼を言うとは思っていなかったのかもしれない。




