ep.081 ロヤリテート
かつて憧れた黒い軍服。父も兄もその袖を通してきたけれど、エヴァンにその日は訪れないとばかり思っていた。
帝国軍の軍服にエヴァンもまた袖を通す。金の装飾が薄暗い牢の中で鈍く光を弾いていく。エヴァンは形のいい眉を微かに寄せた。手に取ったときにはそうは思わなかったのに、いざ纏ってみれば漆黒の軍服はとても重たかった。
「支度はできたか?」
鉄格子の向こうで灰髪の男が問う。エヴァンは燃えるような赤髪の下で翠の瞳を細めた。
「はい」
年老いた狼の毛皮のような髪色の男──カイン・マクシミリアン大将が顎をしゃくれば、部下の兵士が牢の錠を外した。
こつ、と軍靴で牢の硬い床を叩く。エヴァンは促されるままに牢を出た。兵士が警戒に満ちた面持ちでエヴァンの後ろにつくと、カインは歩き出した。
目的地に着くまで沈黙が連れ添っていた。カインが足を止めたのは、つい先日までエヴァンが時を過ごしていた拷問室。カインは橙赤色の目で確かめるようにエヴァンを見た。
「……」
言葉も視線も返さない。そして、カインの方もそんなものは求めていない。ただ無言のままで二人は拷問室へと入っていく。
血の匂いが漂っていた。鉄格子の向こうには、硬い椅子に縛り付けられた傷だらけの男が一人。指先から血が滴り落ちて、ぽたりぽたりと血溜まりに波紋を作る。
「バーレイグの代表がこの男だというのは本当か?」
「……」
カインの声に薄らと目を開けた男を、エヴァンはよく知っていた。バーレイグを任せたことをよく覚えていた。臣下の顔をエヴァンは決して忘れない。忘れないことを自らに課した。
「お……う……?」
しゃがれてしまった声が部屋の中に響いた。エヴァンは臣下の声を聞いても顔色を変えずに無表情を貫く。男は鉄格子の外で帝国軍の軍服を纏うエヴァンの姿にやがて気がついた。
「王……よ、なぜ」
エヴァンは何も答えない。翠の双眸を凍てつかせ、氷像のような姿を保つ。じっと、黒い軍服の重さに耐える。
「王よ、……あなたは、私たちを、裏切ったのですか」
エヴァンは何も答えない。呼吸すらも止まってしまいそうなほどの静寂の質量。ここでエヴァンに許されているのは無表情であり続けることだけだ。
「……あなたはッ! 私たちを棄てたのかッ! 答えろ、答えろよッ!」
男が喚く。冷静さと帝国への敵愾心を買ってバーレイグを預けた男は今、口の端から唾を飛ばさんばかりの剣幕で叫んでいた。血走った眼をしてガタガタと椅子を鳴らす。先ほどまでは頽れそうな男の身体を支えているように見えた拘束椅子は、今は猛獣を縛り付ける枷のようだ。男は最後に吐き捨てた。
「この裏切者が……!」
──エヴァンは何も、答えられない。
***
ヨゼフ・マクシミリアンはハブられていた。……もとい、空気扱いされていた。
エルシオ・リーゼンバーグから《死神》の居場所を伝えられ、不眠不休で反逆軍デアグレフ支部まで駆けつけた。そして、マクシミリアンの名が反発を生じさせることを承知で身分を明かした。……なので、覚悟はしていた、そうなのだ。
だが、何か手伝おうと手を出せば避けられ、せめて食事の配膳係でもと持ち上げた鍋はいつの間にか手から消え失せ、挨拶すれば生返事か無視……とくれば、いくら嫌われ者扱いに慣れているヨゼフとて落ち込む。
「マジで役立たずすぎるじゃん……俺……」
呟いたのは地下室の隅にて。仕事が回ってこないので、勝手にデアグレフ支部の所有している資料を漁っている。薄暗い部屋の中で、机上に地図を広げて見下ろす。帝国軍の基地の位置と反逆軍の砦の位置が詳細に示された機密情報の塊。
「……もし、ガンマが一枚噛んでるなら、エヴァンはノルデンにいるだろうな。噛んでないなら、ソフィリア」
帝国の北に位置するノルデンリヒトはガンマの本部が置かれている。それゆえに、ノルデンリヒトにおける帝国軍はガンマの影響が強い。
『僕がすぐに殺されることはないはずだ。僕は《茨の王》、奴らは僕の握っている情報が欲しいはず。なら、一先ずは僕を拘束するだろう』
エヴァンの言葉が耳朶に蘇る。確信めいた言い方。反逆軍の王を情報を引き出す前に殺してしまうことはない……それが軍なら。けれど、ガンマならエヴァンだけを処分することだって考えられる。エヴァンがそれを考えないはずがない。
「なら、可能性としてはガンマは関わってないって方が高いよな……」
地図の上で指を滑らせ、ソフィリアの上で止めた。
「でも、ソフィリアってのは分かりやすすぎるしなー。いや、でも、ソフィリア以上に適した場所もないと思うし……。ああ、ヌディスベルンは監獄があるから、それも考えられるな……」
あーでもない、こーでもない。ヨゼフの思考は彷徨って、混乱の沼へ沈んでいく。
「うーん」
腕を組んで目を閉じて唸る。唸り声は高い音から低い音へと下がっていき、消えていく。それでもやっぱり答えは出ない。
「あ、こんなところにいたんだ」
ぎぃ、と扉の開く音がした。ヨゼフは飛び上がる。暗闇の中から、ぬっと顔を出したのはイリーナだ。
「王さまの居場所を探してるんだね」
イリーナは歩みを止めず、地図の載ったテーブルの側までやってくる。
「ああ……、このくらいしか、俺にはできないから」
朝焼け色の瞳を伏せた。エヴァンを追うにはヨゼフという個人は実に無力だ。
「さて、質問をしよう。悪いニュースと、もっと悪いニュース。どっちから聞きたい?」
「は?」
顔を上げる。目の前にいるイリーナは軽い口調とは裏腹に真剣な顔をしていた。だから、いくら提示された選択肢が酷かろうと、真面目に返すのが筋だろう。
「じゃあ、もっと悪い方から」
「分かった。先程、リュエルさんが我々が解読に難航していた暗号を解いた。それで、帝国軍を飛び交う通信の内容が分かった。問題はその内容だ」
探るような深緑の目。ヨゼフは知れず唾を呑み込んだ。
「──王さまを捕らえている可能性の高い人物の名は、カイン・マクシミリアン陸軍大将だ」
「──ッ!?」
声さえ出なかった。詰まった呼吸にむせそうになる。視界が真っ暗になっていく。身体にはおもりが括り付けられたよう。
「……親父、が、なんで」
顔を手で覆った。エヴァンを取り戻すことは、父親を敵に回すことだというのか。
「悪いニュースの方がその理由にあたると思うよ。帝国軍は反逆軍を潰すために大規模作戦を開始した。その総司令官にカイン・マクシミリアン大将が指名されたんだ。そして、大規模作戦の名前はクリムゾンだ」
はっ、と乾いた笑いがヨゼフの喉を震わせた。真紅が何の色であるか、ヨゼフは知っている。
それは、かつて帝国の剣であったリーゼンバーグの家紋が縫い取られた布地の色。民のために流す血潮を誇りとするために染め抜かれた色。二振りの黄金の剣を象った家紋の下に据えられた覚悟の色。
「……奴らは、今度こそリーゼンバーグを滅ぼすつもりか」
奥歯を噛み締めて、拳を握る。これ以上、俺の王を愚弄されてたまるか。
「イリーナ」
「なんだい?」
返事はすぐにあった。
「親父の所へ行ってみる。エヴァンの居場所が分かるかもしれない」
「は!? 君、正気かい!? 話聞いてた!?」
「ああ。闇雲にエヴァンを探すより、直接聞く方が速い。俺の立場が役に立つなら、使わない手はない」
唇を歪めた。
「幸か不幸か、総司令官は俺の親父だからな。俺一人でなんとかしてみるさ」
大きな溜息がイリーナの口からこぼれた。灰髪の男は度しがたいまでに大馬鹿者だ。最初に諦めることを覚えてしまったから、やっと見つけた自分のやりたいことに夢中になりすぎている。
「……馬鹿なのか、君は。一度冷静になってくれ。君は致命的に周りが見えてないよ」
人差し指でヨゼフの胸を突く。ヨゼフは前のめりになっていたから、軽い衝撃を受けてよろめいた。
「君は自分が今どんな立場に置かれているか考えるべきだ。無視されているんだろう? で、たった一人で敵側の総司令官の元へ行くって? 私でさえ、容認できないよ」
「なんで……!」
少し考えれば分かるはずだよ、とイリーナは目を冷ややかに細めた。
「私たち反逆軍は裏切りを決して許さない。君が裏切る可能性がある以上、敵のねぐらに一人で行かせるわけにはいかない」
「でも、俺は──」
「君の気持ちは関係ない」
言い切られてしまえば、ヨゼフは続きを声に出すことはできなかった。けれど、引き下がるわけにいかないのはヨゼフも同じ。
「それでも、エヴァンの居場所を掴むにはこれが一番確実だ!」
「あのねぇ、君の親父さんが嘘をつく可能性だってあるんだよ。下手をすれば、こちらの状況だって軍に知られかねない。君が、君自身が、王の足を引っ張るというのかい?」
ヨゼフは目を見開いた。エヴァンを探し出すことばかりを考えていた。エヴァン自身の望みを顧みようともせずに。
「…………俺、あいつの臣下失格だ」
すべてを尽くして守りたいと、力になりたいと、支えたいと思った。あの少年王が薄い身体に背負っているものを共に背負いたいと思った。考えるべきなのは、エヴァンが何を望んでいるか。
「俺が、すべきなのは──」
「姐さん! 緊急の通信です! バーレイグ支部から、反逆軍全体への通信がありました!」
地下室の扉が乱暴に開け放たれ、男が嵐のように慌ただしく入ってくる。もちろんヨゼフのことは見えていないようだが。
「反逆軍全体、というのは何とも不穏だねぇ。バーレイグの連中はなんて言っているんだい?」
「そ、それが、『王は我らを裏切った。王は我らを帝国軍へ売ったのだ。私はこの両目でそれをしかと見た』と」
「ありえない! 俺たちはエヴァンがどれだけ帝国を憎んでいるか知っているだろ!」
「しかし、通信をしてきた者は帝国を激しく憎んでいることで知られた男です! そして、帝国で拷問を受け、命からがら逃げだしてきたという話です! そのような人間が嘘をつくでしょうか?」
男も動転しているらしく、散々無視してきたはずのヨゼフに反論をする。
「確かに、バーレイグの支部長が軍に捕まったという報告は受けているけど……」
事が事なので、流石のイリーナも言葉に窮している。エヴァンが裏切るとも思えないし、帝国軍を憎悪しているバーレイグの支部長が嘘をつくとも思えない。二つの相反する事象に説明をつけるための方程式が必要だ。
「──先手を打たれましたね。歴戦の将帥はやっぱり手強い」
女の声が張り詰めた沈黙を断った。茶色の髪に藍玉の双眸、それから銀縁の眼鏡。魔術師の異名を持つ若い女、リュエル・ミレットは険しい顔で歩いてくる。
「この状況が分かるのか!?」
「はい。正直に言うと、これが私が想定していた中で最悪の展開です。王をあちらに奪われた時点で私たちの置かれた状況は厳しい。でも、カイン・マクシミリアン大将が打ったこの手は間違いなく、王手です」
リュエルは言いきる。もしも同じ状況であれば、リュエルも同じ手を打つだろう。なぜなら、それが最も効率的だから。
「おそらく、大将はエヴァンさんに綺麗な服を──この場合ならきっと帝国軍の軍服、を着せて、拷問を受けているバーレイグの支部長に見せたのでしょう。その後、彼が逃げ出せるように警戒態勢を緩めた」
「どうしてわざわざ捕まえた捕虜を逃がすんだい?」
「簡単なことです。王への不信を反逆軍全体に植え付けるためですよ。反逆軍は王であるエヴァンさんを核に組織されています。エヴァンさんを構成員のみなさんが信じられなくなれば、反逆軍は内側から崩壊します」
理論的には軍から人員を出さずに反逆軍を潰すことすら可能だ。そして、交戦するにしても統率を欠いた反逆軍などただの素人集団にすぎない。
「それに、バーレイグ支部の位置は支部長の行動によって軍に知られてしまったでしょう。支部長を逃がしたもう一つの理由はバーレイグ支部の位置を特定するためでもあったはずですから」
拷問を受けていた人間が主の〝裏切り〟を知って怒りのままに振る舞う……。そんな人間が後背に意識を割くことのできるとは考えにくい。軍が彼の後を追うのは容易いだろう。
「なら、軍は次にバーレイグに仕掛ける……?」
ヨゼフは顎を撫でて呟いた。
「はい、その可能性が一番高いでしょう。軍がバーレイグ襲撃を成功させたら、エヴァンさんがその情報を流したからである、というように公表し、反逆軍を攪乱させてくると思います」
エヴァンがつくり上げた反逆軍という組織は堅牢だ。どれか一つの拠点を潰したところで、無数の拠点を持つ反逆軍を倒すことはできない。さらに、一つ一つの拠点は独立して動けるような仕組みも整えられている。軍としては非常にやりにくい相手だ。だから、必要なのは武器ではなく毒。組織を内部から壊すための毒を彼らは流してくるはず。
「魔術師、《死天使》を貸してくれ」
そう告げるヨゼフはもう歩き出していた。朝焼け色の双眸で先を見る。
「何をする気だい?」
「エヴァンの名で《死天使》をバーレイグに送る。そうすれば、エヴァンの名は堕ちない」
エヴァンいない今も、ヨゼフがすべきことは変わらない。
「俺もバーレイグに行こう。ここで、バーレイグを落とされたら、俺はあいつに顔向けできないからな。エヴァンが守りたいものを俺は守る。それから、エヴァンを迎えにいくんだ」




