ep.080 戦場の霧
リュエルとルカはイリーナのあとに続いて冷え込んだ下水道を歩いていた。冬の下水道は凍りついていて、ふとすると足元の薄氷に足を取られて転びかねない。……というか、実際にリュエルは何度も転びかけたのだ。その度にルカがリュエルの腕を引っ張り、頭から地面に突撃するのを防いでいる。
は、と白い息を吐きながら、リュエルは足を動かす。動いていなければ足元から凍りついて、氷の彫像になってしまいそう。イリーナに貸してもらった毛皮のコートを着ていても、帝国の冬の寒さは防ぎ切れない。リュエルの隣を歩いているルカも鼻先を赤くしている上に、ずっと目を細めている。イリーナの方はリュエルとルカよりも軽装であるにも関わらず、けろりとしているけれど。
「寒い中たくさん歩かせてすまないねぇ。共和国は帝国より暖かいから、帝国の寒さは堪えるだろう?」
「……はい、流石にだいぶ寒いです」
震えながらリュエルが答えると、イリーナは笑って足を止めた。
「着いたよ。中に入れば少しは暖かいはずだ」
分かれ道の手前、壁と見分けがつかないほどに劣化した扉がある。その扉をイリーナは押し開け、中に入っていく。続いてリュエル、ルカ。ルカが扉を閉めたが、扉の内側は比較的新しい。閉めたときにルカの腕に伝わった重さからして、分厚い金属板が内側には充てられている。
「さてと、私は元情報屋でね。といっても、人づてに情報を手に入れるのもそうだけど、私が得意なのはそこじゃない」
リュエルとルカが通された部屋は、資料であふれている書棚と入り切らなかった紙や本が散乱していた。紙は黄色みを帯びているように見えるけれど、それは電灯の色のせいだけではないだろう。そして、何よりも。部屋の奥には黒光りする無線通信機が鎮座していた。
「私が情報を手に入れる手段はだいたいはこいつでね、通信傍受ってやつさ」
リュエルは澄んだ水色の瞳を煌めかせる。
「私をここに呼んだ理由はそれですか」
イリーナに手伝ってもらいたいことがある、と言われて連れてこられたのが、ここ。ルカはリュエルの護衛として。
「うん。もしかしたら、君なら解けるかもしれないと思ってね」
大量の文字や数字が羅列された紙たちがどさりとテーブルに載せられる。
「旧式の帝国暗号は既に解読済みで、現在使われている新式も、だいたいは解読できているから問題は無いんだが、最近新しい暗号が使われ始めているんだ」
データはだいぶ集まったんだけどねぇ、とイリーナは机上の紙の山を指す。リュエルはずれてもいない銀縁眼鏡を押し上げ、一番上の紙片を手に取った。
「……確かに、旧式と新式のどちらともパターンが違いそうですね」
「ちょっと見ただけでもう分かるのかい!?」
深緑色の目を大きくするイリーナに、リュエルは紙片から顔を上げて軽く頷いた。
「はい、いずれの暗号も鍵となる法則や解読表が頭に入っているので、解読を試みるのは簡単です」
「ははっ……、なんとも、凄まじいな……。君、もしかして共和国の魔術師だったりするかい?」
額に手を当て、呻くようにイリーナが言う。リュエルは、ぱちりとまばたきをした。
「センパイのことを知ってるんすか?」
すかさずに問いを挟んだのは、当然ながらルカだ。
「ああ、君であるという確証はなかったけどねぇ。少し前から共和国側の《無名の魔術師》の名前を聞くようになっていた。なんでも、ものすごい天才だというじゃないか。もしかしたら……と思って尋ねてみたら、まさかねぇ……」
君たち戦力過多じゃないかい? 、ともはや呆れたようにイリーナは溜息をついた。《死神》に《死天使》に《無名の魔術師》。今、静かにリュエルを見ているルカも、策があったにせよ殺戮人形と正面から戦って生き延びている。エルザという女も秀でた能力を有しているに違いない。
「──と、それは置いておいて、本題に入ろうか。現在、通信の傍受と送られてきた通信文は可能な限り収集している。この部屋は私の部屋兼資料保管室みたいな感じさ。帝国各地の砦で通信は交代制で傍受している。私は今はその総括と暗号解読を主にやっているわけだ」
「この体制を確立したのは、《茨の王》ですか?」
「そうだねぇ。私は個人で趣味的にやっていたんだが、王さまに引き抜かれて通信傍受網を作るのを手伝ったってところかなぁ」
リュエルは唇に力を込めた。そうしなければ、笑みを浮かべてしまいそうだったから。
──反逆軍の王たる少年は紛れもない天才だ。
情報こそが戦における大きな武器。無線通信という技術が表に出てから日は長くない。けれど、情報の価値を知る者たちは早い内から戦場を、領土を、飛び交う通信を傍受することの重要性に気がついていた。《智恵の魔女》もその一人。そして、《茨の王》も。
反逆軍が帝国を相手にここまで戦ってこられた理由は、情報戦で勝ち続けてきたからに他ならない。だからこそ、反逆軍は大きくなりえた。
「……エヴァン・リーゼンバーグに、会ってみたい」
ぽろりとリュエルは呟きをこぼした。
ガンマに滅ぼされた帝国貴族、リーゼンバーグの生き残り。まだ十代の少年でありながら、反逆軍を組織し、育て、導く王。先見の明を持ち、優れた判断力と非情さを兼ね備えた、生まれながらの人の上に立つ者。
間違いなく、エヴァン・リーゼンバーグはアリアと同じ舞台に立てる。彼なら、この帝国を変えられる。
ここで失うにはあまりに惜しい。
「できる限りの資料を私に回してください。《無名の魔術師》の名にかけて、すべてを解いてみせます」
氷を削り出して作った刃のような目をして、リュエルはイリーナを見た。獲物を定めた鷹のような視線。王さまと同じ目をしている、とイリーナは思う。リュエル・ミレットもまた、支配者の目をしていた。
「うん。頼む。何か必要なことがあったら聞いてくれ」
イリーナの言葉に返事はない。既にリュエルは紙片と思索の海に沈んでいってしまっていたから。代わりにルカが頷いた。
「センパイ! いい加減! 飯食って! くれっす!」
幾度とないルカの呼びかけ。けれど、すっかり暗号解読作業に夢中になっているリュエルには全くもって届かない。センパイ、センパイ、センパイ、センパイ。しつこいくらいに呼んでも駄目。イリーナが気を利かせて暖房を強めに入れ、部屋が快適な環境になっているせいも少しはあるだろう。
「セーンパイ!」
不貞腐れた呼びかけも役目を果たさずに虚空へ消える。ルカの堪忍袋の緒もそこでぷつんと切れた。テーブルにシチューとパンの載った盆を置き、紙とにらめっこをしているリュエルの後ろに回り込む。両手を伸ばして、リュエルの眼鏡を奪う。
「センパイ、そろそろ何か食べないと餓死するっすよ……」
低く囁いても全然聞こえていないらしい。眼鏡はルカの手の中だというのに、リュエルは顔をしかめ、紙に鼻がくっつかんばかりに接近するばかり。はぁ、と溜息をひとつ吐き出して、ルカはとうとうリュエルの目を塞ぎにかかった。
「ひゃぁっ!? ルカ!? いたの!?」
「……あんたのルカ・エンデはずっとここにいましたっすよー」
心の底から驚いている様子のリュエルに、ルカは半眼になった。けれど、それで自分の使命を忘れるルカではない。眼鏡をリュエルに掛けてやりながら口を開く。
「エルザがここまで食事を持ってきてくれたっす。ずっと飲まず食わずで作業するのは身体に悪いって言ってたっすよ」
言いながら、すっかり冷めてしまったシチューとパンを指差した。冷めてしまっていてもその匂いは健在で、意識を傾ければふわりと仄かに甘い香りがする。リュエルの腹が、くぅと鳴った。リュエルの口の中にはもう唾液があふれていて、どれだけ腹を空かせていたかを十二分に思い知らされることになる。
「エルザさんに感謝しないといけないね、私」
いただきます、と言い終わる前にリュエルの手は黒パンに伸びる。硬いパンをシチューに浸して頬張ると、あまりの美味しさに思わず唸ってしまう。よく煮込まれた肉は柔らかくて、口の中でほろほろと崩れていく。
「おいひい……」
リスのように頬を膨らませているリュエルの姿に、ルカはふっと表情を和らげた。極度の集中状態にあったリュエルは無機質な顔をしていた。感情も、それを表現するすべも、失ってしまっているような、そんな顔。だから、今の伸びきった表情にルカはいくらか安心したのだ。
「暗号の解読作業はどうっすか? 進んでるっすか?」
「ん、もう終わるよ」
「は? 今なんて?」
聞き間違えたかとルカは思わず聞き返す。
「だから、解読はもう終わりそうって──」
「はぁ? たった二日で? 暗号解読を本業にしてるイリーナたちが解けなかったもんを?」
リュエルは唇の端についていたパンの欠片をぺろりとやる。
「うん。後は解読方法を分かりやすくまとめて、解読したものも書き起こしておこうかなーって感じだよ」
「……さすが、センパイ。やっぱり、ボクのセンパイはすごいっす」
ろくな誉め言葉を知らないルカだから、これが精一杯の賛辞。学のないルカには本当の意味でリュエルの能力を理解できないけれど、リュエルがとてもすごいというくらいなら分かる。ルカがセンパイに選んだ女は、共和国中どころか帝国中を探してもなかなかお目に掛かれないほどに賢いのだと。
「たぶんだけど、イリーナさんたちが解読に苦労していたのは、暗号が二つ混ざっていたからだと思う。よく似ているけど、厳密には違うからパターン化が難しかったんだろうね。私は共和国の暗部で色々と勉強させてもらったことが役に立ったから、なんとかできたって感じかな。帝国の方ではどうかは知らないけど、実は共和国の暗部は外よりもっと先の技術を持ってる。暗号解読も機械を使うことでやっているんだ」
大量の情報をコンピュータと呼ばれる機械に詰め込んで、統計的に解析をする。そこからパターンを読み解き、解読作業に繋げていくのだ。膨大な情報を処理する能力を持たなくとも、機械に処理を任せてしまえば、解読作業にだけ集中できる、という話だ。
「まあ、ここにはその機械がないから私の頭でやったわけなんだけどね」
リュエルは、とんと自分の頭を人差し指でつつく。映像記憶の能力と元来の演算能力、それから共和国で得た多くの知識。すべてを合わせれば、技術的に遅れている外の暗号の解析くらいならやってのけることができる。リュエルくらいにしかできない、とんでもなく規格外なことではあるのだが。
「ルカ、イリーナさんを呼んできてくれないかな? 早く伝えなきゃいけないことがあるんだ」
「了解っす」
慌ただしくイリーナがルカに連れられてやってくるまで、そう時間は掛からなかった。橙色の髪は走ってきたせいでぼさぼさになってしまっているが、イリーナの深い緑の双眸はきらきらと輝いている。
「解けたって話は本当かい!?」
はい、とリュエルは悠然と頷いた。けれど、リュエルがこれから告げなければならないことは、決して落ち着いて聞いていられるようなものではない。
「まず、暗号は二種類ありました。便宜上、改一式、改二式と呼びますね。いずれもベースとなる暗号は未だに広く使われている新式です。なぜ二つの暗号が併用されているのかは分かりませんが、暗号は変わり続けるものですから別段不思議はありません」
解かれた暗号を使い続けることは無線に暗号化していない平文を流すことと同義。安全を期するために作戦ごとに暗号を変えることも珍しくはない。暗号を変えたところで一斉に変えることも難しいので、しばしば以前の暗号と併用されることもある。
「うん。私たちも暗号を頻繁に変えているからねぇ」
「ここまでは特に問題はありません。問題は、解読した暗号文の内容です」
そこでリュエルは一呼吸置いた。テーブルの上には改一式の暗号文と改二式の暗号文が二つの山になっている。いずれも内容自体は重複していることもあって、ほぼ相違ない運用がなされている。違うとすれば、改二式の山が改一式よりも二回りほど小さいことくらい。
「暗号文によれば、現在帝国陸軍では『クリムゾン』という名の大規模な作戦が行われています」
「……なかなか大層な名前じゃないか。深紅だなんて」
「ええ……、クリムゾン作戦は対共和国用のものではありません。国内の反乱分子に対してのものです。──すなわち、反逆軍を、軍は一掃するつもりです」
「なッ!?」
いずれは訪れるであろうとは分かっていた。反逆軍が帝国の脅威であると認められたということでもある。イリーナたち反逆軍の人間であれば、帝国軍がこの組織を潰しに来る日が来ることは覚悟していた。けれど。
「いざこうなってみると、心の準備ってものがねぇ……。でも、それなら私だけじゃなくてみんなに宣言してくれればよかったのに」
リュエルは首を緩く横に振った。大事なのはこの先。
「イリーナさんに最初にお伝えすべきだと思ったんです。なぜなら、クリムゾン作戦の総司令官はカイン・マクシミリアン大将だからです」
「──ッ!」
静かに控えていたルカでさえ肩を揺らした。エヴァン・リーゼンバーグの副官を名乗って現れた男の名もまた、マクシミリアンだ。イリーナの身体がふらりと揺れる。
「あの男を、……私たちは信じるべきだろうか?」
「彼自身は嘘をついているようには見えませんでしたが……、利用されている可能性は排除できません。そして、この情報を反逆軍のみなさんに告げるべきか否か……」
我ながら意地の悪い聞き方だ。どの程度イリーナがヨゼフを信じているのかを、こんなやり方でリュエルは測ろうとしている。けれど、同時にイリーナならきちんと答えを分かっているはずだという確信があった。
「いや、まずはヨゼフに聞いてからだ。その反応次第で決めよう」
「どちらに賭けますか?」
イリーナが笑った。踵を半ば返しながら。
「もちろん、何も知らない方に!」
リュエルは微笑みを贈る。
「なら、賭けは成立しませんね。私もそちらに賭けていますから」




