ep.079 泥水を泳ぐ
地下室での会議が終わり、ヨゼフはナタリア、リュエル、ルカ、エルザの四人とともに廊下を歩いていた。一応ヨゼフは《死神》に会うためにここまで来たので、顔合わせくらいはしておくべきだろうというリュエルの判断だ。
五階の端部屋へと続く深緑のカーペットを黙々と進む。ナタリアが足音を立てることはないので、足音はナタリアを除いた四人分だ。
「結局、あの殺戮人形とやらはどうなったんだ?」
会話のなかった空間にヨゼフが問いを放った。殺戮人形の所業を思えば、共和国でも殺戮の限りを尽くしたであろうことは容易に想像がつく。
「わたしが殺しました」
返事をしようとして言いよどんだリュエルに代わって、ナタリアが答えた。
ぼたん雪の降る中で、ナタリアの手は殺戮人形の首を斬り落とした。純白に深紅が広がって、やがて再び純白の中に消えていく様子を眺めた。あまりにも呆気なかったあの最期。
「そう、か」
赤茶の髪をした美しい少女が顔色一つ変えずに言うものだから、ヨゼフは言葉に詰まった。リュエルも得体の知れなさを潜めてはいるけれど、ナタリアという少女は別格だ。ヨゼフには《死天使》の二つ名を持つ少女が同じ人間であるとは思えなかった。
「着いたわよ」
ナタリアの言葉を聞いて眉間に皺を刻んでしまっていたエルザだったが、努めて明るく振る舞って扉を開ける。窓際の寝台には、やはり包帯でぐるぐると縛り付けられたライがいた。来客の気配を感じ取っていたライは、既に顔だけ扉の方へ向けている。
「お帰り。……そちらの方は誰だろうか?」
ホントに縛られてる、物理的に、と呟きつつ、ヨゼフは銀髪の青年を注視した。夜空色の双眸を持ち、端正な顔立ちをした彼には、確かに《死神》の名がよく似合う。
「俺はヨゼフ・マクシミリアンだ。反逆軍の王、エヴァン・リーゼンバーグの副官をしている。今は帝国軍に捕まったエヴァンを救出するために動いている。その過程で、ある人からデアグレフにいる《死神》に助けてもらえと言われたんで、急いでここに来たんだ」
「──ライ」
ナタリアは思わずライの名を呼んだ。リーゼンバーグの名に覚えがあったから。ライもまた、ナタリアの視線を受けて深く頷いた。
「こんな状態で申し訳ないが、俺の名前はライ・ミドラスだ。《死神》という名前で知られている……というのは言う必要がないか。ところで、君に俺のことを話したのは、エルシオ・リーゼンバーグという名前の人物じゃないか?」
ヨゼフが目を見開く。当たりだった。
「なんで、それを」
ライは微笑んだ。
「俺とナタリアは元はガンマの所属だった。エルシオは俺たちの同僚なんだ」
ガンマにあって、最もガンマらしくないエルシオ。エルシオは本来ならガンマに所属することもなかったはずだ。もしも、アリアがリーゼンバーグを滅ぼさなければ。
エルシオが自らアリアの手を取ったことをライは覚えている。弟を守るためにアリアと契約したことを。今のライには苦く思えるその記憶。ライの知らぬ間に、生かされた弟の方は反逆軍の王となる道を選んでいたのか。
「……なるほどな。エルシオは誰よりもエヴァンを大事に思っている。そんな男がわざわざお前さんを名指しするわけだから、だいぶ信頼されてるんだな」
ライの藍の瞳が瞬いた。
「信頼、か。信頼か……、エルシオが俺を信頼してくれているというのは……なんというか、嬉しいな」
はにかんだように笑う青年は、噂に聞く冷徹で無慈悲な《死神》だとは到底思えない。まるで子どものようで、彼より歳下であるエヴァンの方がずっと大人に見える。変なヤツ、とヨゼフは心の中で呟いた。
「今すぐとはいかないが、傷が治ったら君の力になろう。他ならないエルシオの頼みでもあるみたいだし。その間は……ナタリア、頼んでもいいかな?」
「はい、了解しました」
ナタリアは迷うことなく返答する。ライの望むことなら、完遂するまでだ。
「──ということで、しばらくは俺の代わりにナタリアが君の力になる。早く、君の主を取り戻すことができるといいな」
そう言って、神が手ずから彫刻したような美しい相貌の青年はふわりと笑った。月さえも落としてしまいそうな笑みだ。……まあ、縛られているので首から上しか動けない、という情けなさがあるのだが。如何せん顔がきれいなので、どんな状態でもきらきらしているというか。気を抜けば、新しい扉を開いてしまいそうだ。実に危険な男。
「あ、ああ、感謝する」
ライのきらきらとした顔から半ば逃げるようにヨゼフは部屋を後にした。ライの顔が見えなくなって、大きく息を吐き出す。
少し落ち着いて冷静に考えてみた。確かにライはものすごく顔がいい。だが、うちのエヴァンも全くもって負けていない。怜悧な翠の双眸と燃えるように鮮やかな赤髪、それからすっと通った鼻筋。立派に美少年というやつだろう、壊滅的な運動オンチだけど。
「……いや、うちのってなんだよ。……疲れてるな、俺」
「──何を言ってるのかよく分からないけど、疲れてるのは確かだろうねぇ」
「うぉっ!?」
不意に横合いから声が掛かり、ヨゼフは飛び上がった。バクバクしている心臓を押さえながら顔を上げると、赤毛──橙色に近い色の髪を無造作にまとめた女が立っていた。イリーナは壁にもたれて腕を組んでいたが、ヨゼフの動きに沿って歩き出す。
「変な連中だよねぇ、賢いんだか間抜けなんだか。でも、実力だけは間違いなく確かだ。敵には回したくないなぁ」
ぼやくような響きにヨゼフは苦笑した。
「そうだなー。だが、あいつらが帝国に来たタイミングとエヴァンが捕らえられたタイミングがあまりによすぎることだけが気にかかる」
「可能性の一つだねぇ。だけど、偶然ということもある。今の帝国と共和国の情勢は混迷しているからねぇ。まあ、彼らが本当に追われているかどうか、というのが争点になるけども。調べてみればそのうち分かるさ。ま、元情報屋の私に任せてくれ」
イリーナの深い緑の目が五階の端の部屋で止まった。ちょうど共和国軍のリュエルたちのいる部屋から対角線上にある部屋だ。ヨゼフはそのまま部屋に通される。
最初にヨゼフが転がされていた隙間風の吹き荒れる部屋よりも、ずっと良い部屋だった。水回りも完備されているし、暖房もそこそこ効いているし、寝台はまな板じゃなさそうだし。
「ここが君の部屋だ。今朝は安部屋に放り込んですまなかった、あまりに君が怪しすぎたからねぇ」
イリーナは肩を竦めている。どうも反省の色が薄いようだ。とはいえ、ロビーで寝落ちしたのは本当にマズかったとも思うけども。
「……ヨゼフ・マクシミリアン」
寝台を手で押して弾力を確認していたところで声を掛けられた。ヨゼフが振り返ると、イリーナの顔には笑みはなく、真剣そのものだった。
「なんだ?」
「君はまだ帝国軍の所属だと言ったね。私たちの中には君を帝国軍のスパイだと考える者もいる。何よりも、マクシミリアンの名前がその疑いを深めている。私が君を認めると公言したから表立って言おうとはしないだろうけど、ここでの……いや、他の砦でも、居心地は決していいものにはならないだろう。君はそうなることを知っていたんじゃないのかい?」
強大な力を誇る帝国に反旗を翻すこと。それは同時に帝国にありながら帝国の恐怖と戦うことに他ならない。密告があれば即座に帝国軍やガンマに処刑されることになるからこそ、裏切りを決して許さない。そう、エヴァンも裏切りに対しては死をもって償わせることに躊躇いがない。
「ああ、それは分かってた。だが、隠しておくのは誠実じゃない」
あはははは、とイリーナが笑い出した。怪訝を顔に浮かべれば、イリーナは目尻の涙を拭う。
「すまない、君が面白いことを言うから、つい、ね。確かにそういう不利な事実は自分の方から言ってしまう方が痛くない。でも、タイミングというものがあるだろう? 王さまが捕縛されたっていう情報を帝国軍のスパイ疑惑のある君が言うと、私たちを巣から出すための話に聞こえるわけさ。……こういう話をするタイミングというのは実に難しいものだよ。もちろん、君の選択が一番正しいってこともありえるしね」
けどね、とイリーナが続けた。
「君は絶望的に軍人には向いてない。君は軍人になるにはあまりに真面目過ぎるよ」
「軍でサボり魔で売ってた俺が?」
思わぬ言葉にヨゼフは首を傾げる。今まで散々サボり魔の七光り様と呼ばれてきた。こなす仕事量はクビにならないスレスレを狙って……いや、マクシミリアンでなければとっくにクビだったかもしれない。ヨゼフ・マクシミリアンは怠惰でだらしない嫌われ者。家名の力で地位を得たと言われてきた。全くもってその通りだ。真面目とは程遠い。
けれど、イリーナはゆっくりと頷いた。
「そうさ。私の言った真面目さ、というものは仕事への取組みのことじゃあない。君は自分の心に嘘をつけないんだ。そういう意味での真面目さだ。だから、この国と軍の歪さを知って軍のために戦うことができなくなったんじゃないのかい?」
「……」
ぴたりと言い当てられた、と思った。ヨゼフが戦場から逃げ出したのは、己の信じるものを見失ったからに他ならない。それが引き金を引けなくなった理由。
「なんで分かるのか、だって? 今日の君の発言を聞いただけで分かるよ。君は潔癖なんだ、たぶん。軍はそういう人間には向かないと思うんだよ。あそこはもうドブみたいに濁りきっているからね」
吐き捨てるように軍の悪口を言ってから、イリーナはバツの悪そうな表情を浮かべた。
「……そうかもな。自分の信じた道を行くエヴァンに、だから、ついていきたくなったのかもしれない」
泥の中で懸命に咲こうとする花を見つけてしまったから。
ヨゼフはそのために戦おうと思ったのだ。
「うん、そういうヤツは嫌いじゃない。君が帝国のクソ喰らえな貴族出身だとしても、ね。──君が選択した道は険しいよ。それでも、王の隣を歩くことを選ぶかい?」
イリーナはもう、ヨゼフの答えを知っているようだった。そして、ヨゼフも。
「愚問だな。あいつは俺の王さまだ。這いつくばってでもついて行ってやるよ」
華麗にイリーナが笑い、踵を返した。部屋に一人残されたヨゼフは寝台に倒れ込む。柔らかな寝台に沈んでいく。身体も瞼も重い。自分で思っていた以上に疲労が溜まっていたらしい。引きずり込まれるように眠りへ落ちる。
──絶対に助けに行くから待ってろ、エヴァン。
***
掠れた呼吸音が聞こえる。身体中の感覚が朧げで、全身にもう一枚皮でも被っているようだ。軋む身体を押して、エヴァンはそろそろと目を開けた。
「っ……」
灰色の地面に落ちる鈍色が目に入った。口の中には鉄錆の味が滲んでいる。たぶん、あの鈍色はエヴァンがこぼした血。手足を動かそうとしてみると、どちらも何かに引っかかって動かなかった。そういえば、手も足も金属の椅子に縛り付けられていたんだっけ。
「は……ぁ……」
息をすると肺が痛んだ。けれど、帝国軍からの拷問はせいぜい鞭打ちくらいで、予想していたものよりもずっと軽い。……もちろん、回数を重ねればどうなるかは分からないが。
「……まだ……だいじょうぶ……」
呟いてみたけれど、かすかすの声ではあまり大丈夫には聞こえなかった。薄暗くて狭い部屋の中に独りきり。時折訪れる拷問の時間。反逆軍に関する情報はまだ何一つ口にしていないけれど、エヴァンが正気を失えばそこで終わってしまう。
エヴァンは歯を食いしばった。敗北は死を意味する。エヴァンだけでなく、多くの命が潰えることになる。そして、エルシオとの約束があるから負けられない。戦うことを、エヴァンはやめるわけにはいかない。
「随分と、元気なようだな、エヴァン・リーゼンバーグ」
低い男の声が響いた。エヴァンが顔を上げれば、朝焼け色の双眸と目が合う。半ばから白くなった灰色の髪の下には皺の刻まれた顔。険しい表情をした初老の男が鉄格子の向こう側に立っていた。黒い軍服の胸元では大将を示す階級章が鈍く光を弾いている。
「私はカイン・マクシミリアン陸軍大将だ」
マクシミリアン。つまりそれは、エヴァンの目の前にいる男こそがヨゼフの父親だということで。
「……なぜ、そのような、身分の方が、こちらにいらっしゃったのです?」
ヨゼフとの関係を悟られてはいけないと思いながら、問いかけた。カインは唇を歪め、ヨゼフと同じ色の目を眇める。
「簡単なことだ。私が反逆軍狩りの指揮を執っているからだ、《茨の王》」
驚愕を押し殺す代わりに手のひらに爪を立てた。ヨゼフと違って温度のない橙赤の瞳からは目は逸らさずに。
エヴァンがヨゼフに強いるものから、逃げるわけにはいかない。




