第4話:地獄からの救出
私に近づいてくるケンジの目は、完全に据わっていた。
この男は、自分の支配領域に踏み込んできた異物を排除することに躊躇いがない。
恐怖で足がすくむ。逃げ出したい。
だが、今ここで逃げれば、私は二度とヒマリに会えなくなる気がした。
私は腹の底に力を込め、近所中に響き渡るような大声を張り上げた。
「ヒマリ! 動けるならドアを閉めて!! きゃあぁぁぁぁぁー!! 助けて! 強盗よ! 殺されるぅぅぅ!!」
私の絶叫に、ケンジがギョッとして立ち止まる。
まさか私がここまで騒ぐとは思っていなかったのだろう。彼は慌てて周囲を見渡し、そして憎悪に満ちた目で私を睨みつけた。
「おい……殺されたいのか? そこを動くなよ」
低い声で脅しながら、ポケットから何かを取り出そうとする。
ナイフか? それともスタンガンか?
心臓が破裂しそうだった。死ぬかもしれない。
震える足で後退りしようとした、その時――。
ウウゥゥゥゥゥ――!! ファンファンファン!!
けたたましいサイレンの音が、路地の向こうから急速に近づいてきた。
パトカーだ。しかも一台じゃない。
日本の警察の到着時間は世界トップクラスだと聞いたことがあるが、これほど感謝したことはない。
「チッ……!」
ケンジが舌打ちをして、アパートの中へ戻ろうとする。
逃がすか。
「そいつが犯人です!!」
到着したパトカーから飛び出してきた数人の警官に向かって、私は指をさして叫んだ。
「部屋の中に、そいつに襲われた人がいます! 早く助けてあげてください!!」
私の言葉に、警官たちの動きが変わる。
逃走を図ろうとしたケンジを、三人がかりで瞬時に取り押さえた。
「離せ! 俺はここの住人の関係者だ! 娘みたいなもんなんだよ!」
往生際悪く喚き散らすケンジを無視し、別の警官たちが部屋へと突入していく。
「確保! 被疑者確保!」
「救急車! 至急要請!」
部屋の中から怒号と緊迫した連絡が飛び交う。
そして、担架に乗せられて運ばれてきた人物を見て、私は息を呑んだ。
「……ヒマリ……?」
それは、私の知っている明るく綺麗なヒマリではなかった。
顔は腫れ上がり、露出した肌には無数の痣と傷が刻まれている。服はボロボロに引き裂かれ、虚ろな目はどこも見ていなかった。
想像を絶する惨状。
私は駆け寄ることも、声をかけることもできず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
◇
病院の無機質な個室。
治療を終えたヒマリは、ベッドの上で小さくなっていた。
命に別状はないというが、心の傷はどれほど深いのか想像もつかない。
病室に入ると、ヒマリはビクリと肩を震わせた。
私の方を見ると、すぐに顔を背けてしまう。
「……ヒマリ」
私は努めて冷静に、けれど優しく声をかけた。
「言いたくないかもしれないけど……どうして、あいつがヒマリの部屋にいたの?」
長い沈黙の後、ヒマリは震える声で語り始めた。
どうやら、私のガードが固くて近寄れないケンジは、ターゲットを私と一緒にいたヒマリに変えたらしい。
『娘と仲直りしたい』『相談に乗ってほしい』。
そう言葉巧みに近づき、ヒマリの警戒心を解き、いつの間にか部屋に上がり込むようになっていたという。
「……それで、急に豹変して……」
そこまで話すと、ヒマリの中で何かが弾けたようだった。
彼女は涙を流しながら、鬼のような形相で私を睨みつけた。
「サエのせいよ……!」
「え……?」
「サエがちゃんと言ってくれなかったから! それに、サエがお父さんを引き取っていれば、私がこんな目に遭わずに済んだのに!!」
ヒマリは錯乱していた。
被害者である彼女が、一番身近な人間に刃を向ける。それは防衛本能なのかもしれないが、あまりにも理不尽な言葉だった。
「どうしてくれるのよ……私、何回も何回も乱暴されたんだよ!? 殴られて、犯されて、写真まで撮られて……うわあああああん! 私の人生返してよ!!」
泣き叫び、私に掴みかかろうとするヒマリ。
その姿を見て、私の中で「同情」とは別の感情が湧き上がった。
――ああ、この子はもう駄目だ。
あいつに壊された。そして今、その破片で私を傷つけようとしている。
私は無言でヒマリに近づくと、その頬を思い切りひっぱたいた。
パァン!!
乾いた音が病室に響き、ヒマリの叫び声が止まる。
驚いたように目を見開くヒマリを、私は冷たく見下ろした。




