第5話(最終話):それぞれの道へ
私の平手打ちは、ヒマリの錯乱を止めるには十分だったようだ。
腫れ上がった頬を押さえ、ヒマリは呆然と私を見上げている。その瞳には、恐怖と混乱、そして私への恨みが滲んでいた。
それでいい。
恨まれてもいい。どうせ、これが最後なのだから。
私はヒマリの胸ぐらを掴み、自分の顔を近づけた。
「ヒマリ、あんたとは絶交よ」
「……え?」
「これが友達としての最後の忠告。今度はちゃんと聞きなさい。……絶対に、あいつから逃げ切るのよ」
私は、噛み砕くように言葉を続ける。
「あいつは前科もあるし、今回の件でしばらくは塀の中から出てこない。でも、一生じゃない。いつか必ず出てくる。そうしたら、あいつは必ず私とあんたを探すはず」
ヒマリの体が震えるのが伝わってくる。
恐怖を植え付けるためじゃない。現実を教えるためだ。あいつは執念深い。一度味を占めた獲物を、そう簡単には逃さない。
「もし見つかったら、あんたの就職先だろうが結婚先だろうが、あの調子で乗り込んで大騒ぎするわ。被害者面して、あんたの幸せを全部ぶち壊しに来る。……分かるでしょ? あいつはそういう生き物なの」
「そ、そんな……」
「だから、逃げるのよ。名前を変えて、住む場所を変えて、痕跡を消して。私だけじゃない、大学時代の友達とも全部縁を切りなさい。どこから情報が漏れるか分からないから」
私は胸ぐらを掴む手に力を込めた。
視界が涙で滲む。
本当は、抱きしめて慰めてあげたかった。
でも、私がそばにいれば、ヒマリはまた「ケンジの娘の友人」として狙われる。私という餌がある限り、彼女も安全ではないのだ。
だから、私は鬼になる。
「いい? 絶対に逃げ切るのよ。……分かったわね?」
ヒマリは泣きじゃくりながら、小さく、けれど確かに頷いた。
「……うん、分かった……」
私はパッと手を離すと、背を向けた。
これ以上ここにいたら、決心が鈍る。
「さようなら、ヒマリ」
背後でヒマリが何かを叫ぼうとした気配がしたが、私は一度も振り返らずに病室を出た。
廊下を歩きながら、止まらない涙を袖で乱暴に拭った。
あんなクズのために、私たちの青春も友情も、滅茶苦茶にされた。
絶対に許さない。
けれど、私はもう立ち止まらない。私もヒマリも、あいつの人生の脇役になんてなってやらない。
◇
――それから、数ヶ月が過ぎた。
ケンジには実刑判決が下った。
過去の余罪や、今回の悪質極まりない犯行が考慮され、当分の間はシャバの空気を吸うことはないだろう。
もちろん、あいつが出所する頃には、私は法的な措置も含め、二度と関われないように鉄壁の準備を整えているつもりだ。
私は無事に大学を卒業し、希望していた会社で働き始めた。
忙しくも充実した日々を送っている。
ヒマリとは、あれ以来一度も会っていない。
連絡先もブロックし、共通の友人たちとも疎遠になった。
風の噂では、実家に帰り、療養していると聞いた。
傷が癒えるには長い時間がかかるだろう。一生消えない傷かもしれない。
それでも、彼女がどこか遠くで、平穏に暮らしていることを願うことしか私にはできない。
オフィスの窓から見上げる空は、どこまでも高く、青かった。
「……せいせいするわ」
私は小さく呟き、大きく伸びをした。
孤独かもしれない。冷たい人間だと罵られるかもしれない。
けれど、私は私の人生を守り抜いたのだ。
私はヒールの音を響かせ、前だけを見て歩き出した。
もう二度と、誰にも私の幸せを邪魔させたりはしない。
(完)




