第3話:沈黙の部屋
ドアの向こうから聞こえた、微かな衣擦れの音。
それは風の音かもしれないし、隣の部屋の物音かもしれない。
私の単なる考えすぎで、ヒマリはただ寝ているだけかもしれない。
――だけど。
もし、私の予感が当たっていたら?
もし、あの男がすでに部屋の中に侵入していたら?
脳裏に浮かぶのは、かつて私が、そして母が味わった暴力の記憶だ。
あいつは閉ざされた空間でこそ、その本性を遺憾なく発揮する。
支配し、痛めつけ、心を壊すことに快楽を覚える化け物だ。
ヒマリのような温室育ちの子が、あいつの毒牙にかかればひとたまりもない。
すでに洗脳されているかもしれない。あるいは、暴力で抵抗できない状態にされているのかもしれない。
(迷っている暇はない……!)
私は震える手でスマホを握りしめ、覚悟を決めた。
確証も証拠もない。勘違いなら、私がただの不法侵入者や器物損壊犯になるだけだ。
でも、それがなんだ。
ヒマリを助けられる最後のチャンスかもしれないのだ。言い訳なんていらない。
私は「110」番をタップした。
『はい、警察です。事件ですか? 事故ですか?』
冷静なオペレーターの声。私は深呼吸をして、あえて切迫した声を作る。
「事件です! 強盗です! 友達の部屋に男が押し入っています!」
住所と部屋番号を早口で告げる。
「強盗」と言っておけば、警察の動きは早くなるはずだ。嘘にはなるかもしれないが、あの男がいるなら、それは強盗よりもタチが悪い「悪魔」がいるのと同じことだ。
通話を切り、スマホをポケットに突っ込む。
警察が来るまで待っているわけにはいかない。中の状況を動かさなければ。
私はアパートの裏手に回った。
一階にあるヒマリの部屋。トイレとお風呂場のあたりに、小さな窓があるはずだ。
足元を探り、手頃な大きさの石を拾い上げる。
ずしりと重い、冷たい石の感触。
「……ごめん、ヒマリ。あとで弁償するから」
私は狙いを定め、渾身の力で石を投げつけた。
ガシャアアアアン!!
甲高い破砕音が静かな住宅街に響き渡る。
窓ガラスが粉々に砕け散った。
これだけの音を立てれば、周囲の住人も気づくし、中にいる人間も無視できないはずだ。
私はすぐに玄関の方へ駆け戻り、物陰に身を潜めて様子を窺う。
数秒もしないうちに、ガチャリと鍵が開く音がした。
ゆっくりとドアが開き、男がぬっと顔を出す。
外の様子を探るように、キョロキョロと首を動かすその姿。
――やっぱり、いた。
ケンジだ。
私の全身の血が逆流する。
あいつは、まるで自分の家であるかのように、ジャージ姿でリラックスしていた。
それが何を意味するのか。
ヒマリはどうして出てこないのか。
怒りと恐怖が入り混じり、視界が赤く染まる。
だけど、ここで感情に任せて飛びかかってはいけない。
私は震える足を叱咤し、あいつに一番よく見える位置へと飛び出した。
「やっぱりあんたか……! ヒマリに何をした!」
私の叫び声に、ケンジがビクリと反応し、こちらを向く。
私を認めた瞬間、その顔が歪んだ。
焦りではない。獲物を見つけた爬虫類のような、粘着質な笑みだ。
「なんだ、サエか……。何の真似だ? いきなり人の家で騒ぎやがって」
人の家だと?
どの口が言っているんだ。
ケンジはサンダルを突っ掛け、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってくる。
「ちょうどいい。お前を探してたんだよ。娘なら、父親の面倒を見るのは義務だろ?」
その手には、何も持っていない。
だが、その余裕こそが恐ろしかった。
部屋の奥は暗く、ヒマリの気配は微塵も感じられない。
(警察はまだか……!)
私は一歩後ずさる。
ここが地獄の入り口であることを、私はまだ理解しきれていなかった。




