第2話:善意という名の毒
強引にヒマリを引っ張り続け、大学から少し離れた公園までやってきた。
後ろを振り返り、誰もついてきていないことを確認する。
……大丈夫だ、撒けたはずだ。
私が安堵の息を吐くと、腕を振りほどいたヒマリが頬を膨らませて抗議してきた。
「ちょっと、サエ! 乱暴すぎるよ。それに、あんなに必死なお父さんに対して、あの態度はあんまりじゃない?」
予想通りの反応だ。
ヒマリは何も知らない。温室育ちの花のような彼女には、あの男のドス黒い本質が見えていないのだ。
私はため息をつき、できるだけ冷静に説明することにした。
「ヒマリ、よく聞いて。あいつは……あの男は、演技をしているだけなの」
「演技? まさか。あんなに涙を流して土下座までしてたのに?」
「それが手口なのよ。母さんも、何度もあの涙に騙された。反省したふりをして、相手が心を許した瞬間に寄生して、金をむしり取って、暴力を振るう。そういう人間なの」
私は母が受けた仕打ち、そして自分が味わった地獄のような日々を、かいつまんで話した。
話しているだけで吐き気がする記憶だ。
だが、これだけ言えばさすがのヒマリも分かってくれるはずだと思っていた。
しかし――。
「うーん……でも、それは昔の話でしょ? 人間、変わることだってあるよ」
ヒマリは小首を傾げ、困ったような顔で私を見る。
「あの姿には、確かな気持ちがこもっているように見えたんだけどな。お母さんのことがあって辛いのは分かるけど、サエももう少し歩み寄ってみたら?」
愕然とした。
私の必死の告白よりも、さっき見たばかりの「可哀想なおじさん」の姿を信じるのか。
これが、悪意のない善意。
私の言葉は、彼女の綺麗すぎる世界観には届かない。
これ以上説明しても無駄だ。私は諦め、一つだけ釘を刺すことにした。
「分かった。ヒマリがそう思うのは自由よ。でも、一つだけ約束して」
私はヒマリの両肩を掴み、真剣な眼差しで訴える。
「もし、あいつに私の連絡先や住所を聞かれても、絶対に教えないで。これはフリじゃない、本当に命に関わることだから」
私の剣幕に驚いたのか、ヒマリは少し引いた様子で頷いた。
「も、もう……大げさだなぁ。分かったよ、教えないよ」
「絶対よ? もし教えたら、悪いけどヒマリとも友達の縁を切るからね」
「はいはい、分かりましたよーだ。サエは心配性なんだから」
ヒマリは不満そうに唇を尖らせたが、一応の約束は取り付けた。
ひとまずはこれで安心だろうか。
一抹の不安を抱えつつ、私たちはその日はそこで解散した。
それからしばらく、ケンジの執拗な接触は続いた。
大学の帰り道、最寄り駅、バイト先の近く。
神出鬼没に現れては「話を聞いてくれ」と迫ってくる。
私は徹底して無視を貫いた。
周囲の友人たちの中には、「親なんだから一度くらい話を聞いてあげれば?」と無責任なことを言う者もいたが、私は耳を貸さなかった。
関われば終わる。それが私の生存本能からの警告だった。
――そして、ある日を境に。
ふっ、とケンジの姿が消えた。
「……諦めたのか?」
あんなにしつこかった待ち伏せが、嘘のようになくなった。
普通なら喜ぶべき状況だ。しかし、胸騒ぎが止まらない。
あの男が、金づるをそう簡単に諦めるだろうか?
もっと別の、手に入りやすい獲物を見つけたのではないか?
その時、私の脳裏にヒマリの顔が浮かんだ。
「まさか、ね……」
私は慌ててスマホを取り出し、ヒマリに電話をかける。
コール音が鳴ることもなく、無機質なアナウンスが流れた。
――おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……。
嫌な汗が背中を伝う。
大学の友人に片っ端から連絡を取ってみた。
返ってきた答えは全員同じだった。
『そういえば、ここ数日ヒマリを見てないな』
『風邪でも引いたんじゃない?』
悠長な返信に苛立ちながら、私は講義をサボってヒマリのアパートへと走った。
私の考えすぎであってほしい。
単にスマホが壊れて、風邪で寝込んでいるだけかもしれない。彼氏と部屋に籠もっているだけかもしれない。
ヒマリのアパートに到着し、息を切らしながらインターホンを押す。
ピンポーン、ピンポーン。
応答はない。
私はドアに耳を押し当て、中の様子を窺った。
――カサッ。
微かだが、衣擦れのような音が聞こえた気がした。
いる。中に誰かいる。
なのに、なぜ出ない?
私の悪い予感は、確信へと変わろうとしていた。




