第二十七篇|七夕おめでとう
夏の終わりの夜風が窓の隙間から吹き込み、レースのカーテンをふわりと揺らす。夕暮れの残光が木の床に溶け、薄い蜂蜜を垂らしたように広がっていた。
鍵の開く小さな音。
**曉雨**はそっと玄関の扉を押し開ける。足取りは軽いのに、どこか忍ばせるようで、伏せたまなざしの奥には隠しきれない緊張と期待が滲んでいる。
背中に隠していた、丁寧に包まれた淡いピンクと白のトルコキキョウの花束を、こっそりと壁際へ押しやる。その仕草は、不器用なほどに「秘密」を抱えていた。
「おかえり。」
**筱月**の声がリビングから流れてくる。
風のようにやわらかく、耳元をそっと撫でる響き。
にこやかに歩み寄る彼女の髪はゆるく巻かれ、目尻は夕焼けを閉じ込めたようにやさしく弧を描いている。
曉雨は小さく頷くが、無意識に半歩後ずさりし、ドア枠に背をつける。花束をさらに強く隠しながら。
「うん……今日は……まあまあ。」
蚊の鳴くような声で答え、視線は落ち着かない。
筱月は首をかしげ、笑みを深める。
何も指摘せず、両手を背中に回したまま、ゆっくりと近づく。獲物を狙う子狐のように。
「私もね、今日はいい一日だったよ。」
わざとらしく語尾を伸ばす。
「花屋さんの前を通ったら、トルコキキョウを包んでたの。偶然だね、あなたの好きな花だった。」
曉雨の耳先が真っ赤に染まる。
「だ、誰が花なんて買ったって言ったの!勝手に決めつけないで!」
「へぇー?」
一歩、さらに近づく。
「じゃあ背中に隠してるのは何?ゴミ袋?そんなに大事そうに?」
「ゴミって言わないで!」
逃げようとするが、すぐに壁際へ追い込まれる。
もう逃げ場はない。鼓動が早まる。
唇を噛み、視線を逸らしながらも、ちらりと彼女を見る。
筱月は低く笑い、額に温かな息を落とす。
「正直に言ったら、解放してあげる。」
観念した曉雨は、小さく息を吐き、背中の花束を差し出す。
「……たまたま通りかかっただけ。別に、誰かのためじゃないし……」
そして、ほとんど囁きのように付け足す。
「……七夕、おめでとう。」
一瞬、筱月の表情が止まる。
瞳にやわらかな光が満ちる。
花を受け取り、指先で花びらを撫でる。その仕草は、壊れやすい夢を扱うようだった。
そして、そっと身を傾け——
曉雨の唇に、口づけを落とす。
蝶の羽ばたきのように軽いのに、確かなぬくもりを帯びたキス。
「ありがとう、雨。」
額をそっと合わせる。
「手を洗っておいで。待ってる。」
曉雨は真っ赤な顔で頷き、浴室へ向かう。足取りは雲の上を歩くみたいにふわふわしていた。
やがて手を洗い、濡れた髪を拭きながら戻ってくると——
リビングの灯りは少し落とされ、テーブルの上に小さなケーキが静かに置かれている。
初雪のように白いクリーム。
上には苺で描かれた、重なり合う二つのハート。
揺れるキャンドルの灯りが、筱月のやさしい笑顔を照らしていた。
彼女はケーキを抱えるように持っている。まるで夏そのものを捧げるかのように。
「七夕おめでとう、曉雨。」
静かな声。瞳には星が宿る。
「私からも、プレゼント。」
曉雨は目を丸くし、それから笑いながら飛びついた。
「最初から用意してたでしょ!」
筱月は逃げず、そのまま受け止める。
だが次の瞬間、指先に少しだけクリームを取り——素早く彼女の鼻先にちょんと塗った。
「ちょ、ちょっと!」
「ふふ、恒例行事だよ。」
猫のように得意げに笑う。
二人は笑い合いながらソファの周りを追いかけっこし、やがて息を切らして抱きしめ合う。
揺れる灯火が、寄り添う影をやわらかく包む。
時間が静かに止まった一枚の絵のように。
窓の外では、夜が深まり、星がそっと瞬きはじめていた。
この七夕に、華やかな告白も、大げさな誓いもない。
ただ——
二つの心が、自然に互いへと近づいていく。
夏の風に流れる二つの雲のように、そっと触れ合い、
そして——
溶けるほど甘い雨を、静かに降らせた。




