第二十一話|ほろ酸くて、ほろ甘いレモンキャンディ
カラオケボックスの個室は、ほのかに酔ったような灯りに包まれていた。
カラフルな光が壁を滑り、歌声と笑い声が溶け合って、ゆるやかな温もりを生み出している。
「社員の集まり」と言いつつも、実際は若い同僚たちが勝手に企画した夜のカラオケ会。
上司の目もなければ、堅苦しいマナーもいらない。
ビール缶の軽い衝突音と、遠慮のない笑い声だけが響いている。
**曉雨**は部屋の隅のソファに腰かけ、両腕を胸の前で組みながら、静かに中央を見つめていた。
そこには、マイクを握る筱月。
にこにこと目を細め、軽快な日本語の曲を歌っている。
声は甘く、語尾は弾むよう。
ときどき即興で小さな身振りを加えては、場を笑いで包み込む。
曉雨の口元が、思わずゆるむ。
けれどすぐに引き締める。
誰にも見られたくない、そんなふうに。
もちろん知っている。
みんなが筱月を好きなこと。
春風みたいに笑う人。
自然に近づきたくなる人。
優しくて、頼りたくなる人。
少し意地悪で、でも絶妙な距離感を知っている、気まぐれな猫みたいな人。
会社の人間ではないのに、
誰よりも早くこの輪に溶け込んだ。
何度か、同僚にからかわれたこともある。
「彼女のほうが人気じゃない?」
そのときは鼻で笑って、
「別に気にしてないし」と言った。
でも胸の奥は、少しだけ酸っぱかった。
そして今、その酸味がまた浮かび上がる。
酔って頬を赤くした女性同僚が、
ふらふらと筱月の隣へ寄り、
その腕にするりと収まった。
体をぴったり寄せ、マイクを掲げる。
「ここ私歌える〜!一緒に歌お!」
曉雨の眉がぴくりと動く。
視線が冷える。
指先が、無意識に膝を強く掴んだ。
「なに?嫉妬?」
同僚が酔った目で振り返り、にやにや笑う。
「誰が。」
曉雨はすぐ顔をそむける。
声は固い。
まるで毛を逆立てた小動物。
「ただ、音程外れてるのが気になるだけ。」
部屋が爆笑に包まれる。
筱月も声を立てて笑うが、否定はしない。
その代わり、曉雨に向かってそっとウインクする。
瞳の奥に、悪戯な光。
——ああ、わかってる。
この子、ちゃんと焼いてる。
そして、正直に言えば。
それを少し楽しんでいる。
曲が終わり、曉雨は「トイレ」とだけ言って立ち上がった。
胸の奥のざわつきを、少し落ち着けたかった。
数秒後。
筱月も立ち上がる。
「ちょっとスナック取ってくるね〜。誰かカップ麺いる?コーラは?」
返事はない。
みんな歌に夢中だ。
彼女は静かにドアを開け、
廊下の薄暗い灯りの中を、軽い足取りで女子トイレへ向かう。
ドアを押し開けると——
曉雨が洗面台の前で、冷水を顔に当てていた。
鏡には、赤い耳と、困ったような表情。
「なに隠れてるの?」
ドアにもたれながら、柔らかい声。
曉雨はびくっとする。
振り向いて、すぐに顔を強張らせる。
「隠れてない。ただ……顔洗ってるだけ。」
「うんうん、知ってる。」
筱月は近づき、後ろから腰に腕を回す。
顎を肩に乗せる。
鏡の中で、二人の顔がぴたりと寄り添う。
「君ね、機嫌悪いときか、後ろめたいときは絶対顔洗う。小学生みたい。」
「後ろめたくない!」
身じろぎするが、完全には離れない。
筱月はくすっと笑い、腕を少し強くする。
「さっきの人、酔ってただけ。ちょっと抱きつかれただけで、私は何もしてないよ。」
「別に……気にしてない。」
声が小さくなる。
「ほんと?」
くるりと体を向けさせ、頬を両手で包む。
わざとゆっくり問いかける。
「じゃあ、私が他の人にこうやって抱きついても、睨まない?唇噛まない?こっそり拳握らない?」
言葉を失う。
顔が一気に赤くなる。
筱月は楽しそうに鼻先をつつく。
「素直じゃないなぁ。こんなに私のこと気にしてるくせに。」
「そっちこそ子ども!」
ようやく押し返すが、すぐに腰を引き寄せられる。
「うん、子どもだよ。」
鼻先が触れそうな距離。
「でも、そんな私が好きなんでしょ?」
視線は鋭いのに、
瞳はとろけるほど柔らかい。
しばらくして。
曉雨は小さく呟く。
「……次は、あんなに近づかせないで。」
「じゃあ誰ならいいの?」
わざとらしく尋ねながら、さらに抱き寄せる。
「……私。」
目を閉じる。
「私だけ。」
その一言に、
筱月の胸がわずかに震えた。
悪戯な笑みは消え、
静かな優しさに変わる。
額に、そっと口づけ。
「わかったよ、私の小さなヤキモチ屋さん。」
廊下の向こうでは、まだ歌声が響いている。
けれど洗面所の灯りの下、
二人だけの静かな世界が、そっとできあがっていた。
まるで舌の上で溶けるレモンキャンディのように——
ほろ酸くて、
ほろ甘い。




