第二十話|幸せって、なんだろう?
午後の陽射しが斜めにリビングへ差し込み、
**曉雨**はソファに丸くなって座っていた。
裸足のつま先が布張りの縁にちょこんと乗り、
スマホの光が幼さの残る丸い頬をやわらかく照らしている。
口元には小さな笑み。
可愛い猫の動画をスクロールしながら、
その目は子どもみたいに真剣だ。
そのとき——
視界の端を、茶色い影がすっと横切った。
まるで澄んだ水に墨を一滴落としたみたいに、
一瞬で空気が乱れる。
彼女は勢いよく跳ね起きた。
スマホが床に落ちそうになる。
「きゃ——!」
声が裏返る。
「どうしたの?」
キッチンから顔を出した**筱月**は、
洗ったばかりのグラスを手にしていた。
一目で状況を理解する。
どこからともなく現れたゴキブリが、
ソファの肘掛けをゆっくりと歩いている。
触角がかすかに揺れ、
騒ぎなど気にも留めていない様子だ。
曉雨はすでに壁際まで後退していた。
慌ててティッシュを何枚も引き抜き、
ぐしゃっと握りしめる。
最後の防衛線を握る兵士のように。
目を見開き、体が小刻みに震える。
「こないで……あっち行って……」
筱月は小さくため息をついた。
けれどその目はやわらかい。
正直、彼女だって虫は苦手だ。
あの素早くて、ぬるりとした存在は。
でも悲鳴よりも、
「武器があればなんとかなる」という現実主義を信じている。
戸棚から殺虫スプレーを取り出し、
軽く振る。
中の液体がちゃぷんと揺れる音に、
少しだけ安心する。
振り返ると、曉雨はまだ固まっていた。
ティッシュは今にも火花が出そうなほど強く握られているのに、
一歩も踏み出せない。
「ねぇ……」
筱月はくすっと笑う。
「そんなに握りしめて、ティッシュで説得するつもり?」
その瞬間。
バサッ、と羽音。
ゴキブリが飛び上がった。
「きゃあああ——!」
曉雨は完全にパニックになり、
後ろへ跳ねる。
足がもつれ、転びかける。
筱月は素早く噴射ボタンを押した。
「シュー——」
白い霧が広がり、
正確に命中する。
その生き物は空中に弧を描き、
ぱたん、と床へ落ちた。
動かない。
筱月は手際よくティッシュで包み、
ゴミ箱へ放る。
振り向くと、
曉雨はまだ壁に寄りかかっていた。
顔は真っ赤。
唇は小さく尖り、スプーンでも引っかけられそう。
筱月は歩み寄り、
そのまま腕の中へ引き寄せた。
顎を頭頂に軽くのせる。
笑いがこみ上げる。
「笑わないで!」
曉雨はもぞもぞと抵抗する。
「怖いんだよ……誰だって怖いでしょ……」
「はいはい、笑わない。」
わざと真面目な声。
でも口元はどうしても緩む。
次の瞬間、また小さく笑ってしまう。
胸がわずかに震え、
抱きしめる腕が少し強くなる。
「……やっぱり笑ってる。」
耳まで赤い。
「うん、笑ってる。」
筱月は額に軽くキスを落とす。
甘く、やわらかく。
「でもね。
笑うのは君にだけ。いい?」
午後の光は相変わらず床をやさしく照らしている。
空気にはまだ少し殺虫剤の匂いが残っている。
けれどそれよりも濃いのは、
抱きしめ合った体温と、
静かに広がる甘さ。
——もしかしたら。
幸せって、
こういう瞬間のことを言うのかもしれない。




