05. 小さな迷子と帰る場所
「ここは、聖都市の路地裏。空はどこまでも青く晴れているのに、私の気持ちは沈んでいます──そう! 迷子になったのです!」
ミシェルの声に、返事はなかった。代わりに、雀たちがちゅんちゅんとさえずっている。
護送任務初日。
タカセとグレイが目を離した隙に飛び出した結果がこれだ。
「あぁーーー!!! タカセさんのご迷惑にならないようにと思っていたのに……」
歩けば歩くほど見覚えのない景色になる。
海沿いの屋敷周辺とは違い、路地は入り組み、人通りも少ない。
(どうしましょう……)
その時だった。
前を見ていなかったミシェルは、誰かにぶつかった。
どん。
「ひゃっ」
反射的に顔を上げる。
そこにいたのは──背の高い男だった。
黒い上着と鋭い目つき、首筋に大きなタトゥー。お世辞にも、優しそうとは言えない顔。
「ひっ」
思わず声が漏れる。
「ご、ごごごごごめんなさい……!」
(絶対、裏社会の悪者です!! こいつマフィアです!!)
ミシェルは慌てて頭を下げた。
(こ、怖い……!)
反射的に脳裏へ浮かぶ。タカセ。そしてグレイ。
「タカセさん……たすけて……」
半泣きで漏れたその名前に、男の眉がぴくりと動いた。
「──タカセ?」
低い声に、ミシェルはびくりと肩を震わせる。
男は少しだけ目を細めた。
「お前、今タカセって言ったか?」
・
一方、その頃。
「ぜんっぜん見つからねぇじゃねぇか」
グレイは苛立ったように髪をかき上げた。
屋敷周辺から海沿いまで探した。だが、ミシェルの姿はどこにもない。
「お嬢様って、意外とすばしっこいんだな」
タカセは端末の地図を睨みながら呟く。
「......想定外すぎる」
その時だった。
グレイのスマホが震える。
表示された名前を見て、グレイは眉を上げた。
【レイン】
「おっ」
グレイは通話ボタンを押す。
「どうりでラボのメンバー足りねぇと思ったら、お前だったわ」
レイン。
ラボ所属の研究者であり武器職人。
普段はイノウエの部屋に入り浸り、四人で他愛のない話をしていることが多い。
「ずっと不在で寂しかったぞ〜。次いつ帰ってくんの?」
『冗談はいい』
「感動の通話の最中で悪いんだが、今は電話どころじゃ──」
『ミシェルっていう子に心当たりあるか』
グレイとタカセが同時に足を止める。
「なんでレインがその名前知ってんだ?」
『質問に答えろ』
「大アリだよ。今まさに探してる」
数秒の沈黙。そしてレインは淡々と言った。
『ここにいる』
「は?」
『ミシェルだ。俺の前にいる』
グレイは勢いよくスマホを握り直した。
「確保しとけ!」
『犬猫じゃない』
「逃がすなって意味だよ!」
通話が切れる。
一瞬の静寂。タカセとグレイは顔を見合わせた。
「行くぞ」
「ああ」
そして二人は全力で駆け出した。
・
バー喫茶Dickeybird。
木の扉を勢いよく開けると、コーヒーの香りが鼻をくすぐった。
店内のカウンター席。そこにミシェルはいた。レインの隣に、ちょこんと腰掛けている。
「……ミシェル!」
タカセの声に、ミシェルが勢いよく振り返る。
「タカセさんっ!」
ぱっと表情が明るくなる。
その顔を見た瞬間、タカセはようやく肩の力を抜いた。
「──怪我はないか?」
「はい。大丈夫です」
グレイも大げさに息を吐く。
「いやぁ、マジで焦ったぞ。お前、護送対象だからな? 初日に行方不明は勘弁してくれ」
立て続けに言われて、ミシェルは肩を縮こまらせた。
「……ごめんなさい」
しゅん。
目に見えて落ち込む。
グレイはそんな様子を見て苦笑した。
「ま、とんだお転婆お嬢様ってことだ」
ミシェルが顔を上げる。
「お転婆……」
「護送任務も飽きずに済みそうだな」
からかうような声。責める気がないことは伝わったらしく、ミシェルは少しだけ安心したように笑う。
「この方に助けていただいたんです……」
そう言って隣を見る。
レインは相変わらず無愛想な顔のまま腕を組んでいた。
グレイが親指で示す。
「こいつはレインだ。見た目は怖いけど、一応俺たちの仲間だ」
レインが低い声で返す。
「一応ってなんだ」
気にせずグレイは続ける。
「強面でびっくりしただろ?」
「……少しだけ」
ミシェルの返答は素直だった。レインが露骨に眉をひそめる。
「ほら見ろ」
グレイは笑った。
「事実だから仕方ねぇだろ」
「まぁまぁ」
柔らかな声が割って入る。
カウンターの奥から現れたのは店主のエミリだった。
「みんな無事に合流できてよかったわ」
穏やかな笑みと同時に、柔らかく垂れた大きな瞳がゆるやかに細められる。
声の調子も動きも角がなく、店内の空気ごと少しだけ温度を下げるような落ち着きがあった。
無理に踏み込まず、けれど自然と距離を詰めてしまうような、不思議な安心感。
カウンターの木目に手を添えながら、エミリは静かにミシェルを見た。
「タカセとグレイに会えて、ほっとしたでしょう?」
「……はい」
「なら、今なら何か飲めるかしら?」
ミシェルは少し困ったように目を伏せた。
その様子を見て、タカセが首を傾げる。
「どういうことだ?」
エミリは苦笑する。
「この子ね。緊張しちゃって、ここに来てから何も口にしてないの」
「え」
タカセがミシェルを見ると、彼女は気まずそうに目を逸らした。
「……すみません」
「謝ることじゃない」
タカセは即座に返す。
それから、横にいるレインへ視線を流した。
「──ミシェル。レインはともかく」
「おい」
間髪入れずにレインが突っ込む。
タカセはピッチャーを手に取り、備え付けのコップへ水を注ぐと、ミシェルに差し出した。
「エミリは怖くない。ちゃんと水分補給するんだ」
「雑にまとめるな」
レインの抗議は、最後まで届かないまま流されていく。
そのやり取りに、ミシェルは思わず吹き出した。
「ふふっ」
その笑い声を聞いて、エミリも小さく笑った。
ミシェルは水をくぴくぴ飲む。
その様子を見て、グレイはミシェルへと体を向けた。
「ミシェ子、腹減ってなか? もう昼過ぎだ」
「え?」
ミシェルがきょとんと目を瞬かせる。
その瞬間だった。
ぐぅ。
小さく、しかしはっきりとした音が店内に落ちる。ミシェルはみるみるうちに耳まで赤く染めた。
「……少し」
消え入りそうな声だった。
グレイは吹き出しそうになるのを堪えながら、紙皿のポテトを差し出した。
「ほら、食え」
「えっ」
ミシェルはポテトとグレイの顔を交互に見た。
しばらく固まったあと、おずおずと口を開く。
「こういうお店で食べたこと無くて……上品な食べ方はありますか?」
「ねぇよ」
グレイは一本つまむと、そのまま口へ放り込む。
「こうだ」
「そんなに雑でいいんですか?」
「ポテトだからな」
あまりにも説得力のない説明。ミシェルはしばらく真剣に考え込んだあと、もう一つの不安を口にした。
「タエさんに怒られませんか……?」
「大丈夫大丈夫」
グレイは軽く手を振る。
「ミシェ子と、俺らだけの秘密だ。国家機密ってやつだな」
「スケールがデカすぎる」
レインが即座に突っ込む。
エミリも堪えきれず、肩を震わせて笑った。
ミシェルは少し迷ったあと、恐る恐るポテトを一本つまむ。
そして、小さく口へ運んだ。
ぱくり。
「……!」
目が丸くなる。
「……サクッと軽い食感。ほどよい塩気……! おいしいですっ!」
思わずこぼれた声は、さっきまでの遠慮が嘘のように弾んでいた。
グレイが満足げに口角を上げる。
「だろ?」
ミシェルはこくこくと頷くと、小さな口でポテトを頬張った。
一口、また一口。
まるで小動物が餌を大切に食べるみたいに、頬を小さく動かしながら味わっている。
さっきまで緊張で固まっていた少女とは思えないほど、表情が柔らかい。
しばらくして。
ミシェルは頬を動かしながら、ゆっくりと店内を見回した。
木の温もりが残る店内。壁には、柔らかな色合いの絵がいくつも飾られている。
光の入り方、描かれた人々の表情。どこか優しい空気をまとった作品たちだった。
「……すごく、綺麗な絵がたくさん並んでいて、素敵なお店ですね」
「あの絵たち、私が描いたのよ」
エミリが優しく笑うと、タカセが補足する。
「エミリは作家なんだ」
「すごい……」
ミシェルは小さく呟いた。その声には、純粋な憧れが混ざっていた。
エミリは少し考えたあと、カウンターの奥から紙とペンを取り出した。
「ミシェルも、好きなものを書いてみる?」
「好きなもの?」
「ええ。なんでもいいの」
なんでもいい。
その言葉を聞いた瞬間、ミシェルの手が止まった。
ペンを持ったまま、紙の上で動かない。
──好きなもの。
考えようとするけれど、何も浮かばなかった。
(タカセさん……は、ものじゃ無いし……)
好きな食べ物は?
好きな色は?
好きなものは?
考えても、自信のある答えが出ない。
ミシェルは俯く。
「……」
その沈黙を見て、タカセは少しだけ視線を落とした。
そして。
「猫」
ぽつりと、一言。
ミシェルが顔を上げる。
「あ」
「好きなんだろ?」
タカセは静かに続ける。
「屋敷で見つけた時、あんなに嬉しそうだった」
「……はい」
小さな返事。しかしその声には、少しだけ温度があった。
自分でも知らなかった、自分の中の“好き”。
それを、誰かが見つけてくれた。
ミシェルは紙へ向き直る。
震える指先で、ゆっくりとペンを動かした。
最初に描いたのは、一匹の猫だった。
・
Dickeybirdを出る頃には、夕方になっていた。
海沿いのベンチ。
昼間の喧騒が少しずつ遠ざかり、街には夕暮れの静けさが降り始めていた。
水平線の向こうへ沈みかけた太陽が、海を赤く染めている。
ミシェルは、タカセとグレイに買ってもらったアイスの棒を、くるくると回していた。
「......ここに来るのは、お父さまとお散歩をした以来です」
いつものような弾んだ声はない。タカセを見つけた瞬間に顔を真っ赤にしていた少女とは、少し違って見えた。
「……タカセさん、グレイ」
「だから、なんで俺だけ呼び捨てなんだよ」
グレイがいつもの調子で返す。
けれど、ミシェルは笑わなかった。
「なんだ」
タカセが静かに促す。
ミシェルは海を見たまま、ぽつりと言った。
「私、覚えていないんです」
その言葉に、タカセの視線が向く。
ミシェルは膝の上で、小さく指を握った。
「お父さまに引き取ってもらう前のこと」
風が吹く。海の匂いを含んだ風が、ミシェルの髪を揺らした。
「お医者さまは言いました。とても大きなショックがあったからだって。だから、思い出せなくても仕方がないんだって……」
言葉の最後が、少しだけ震える。
ミシェルは笑おうとしたが、その表情はどこか寂しかった。
「でも……最近、考えるんです」
一度、言葉を飲み込む。
「私の、観測再現体」
その名前を口にした瞬間、タカセとグレイは
ほんの一瞬だけ視線を交わした。
(──自分の能力のことを、理解している)
まだ幼い少女が、自分自身を“能力”という枠で見ている。そのことに、タカセはわずかに胸が引っかかった。
「使えないんです」
ミシェルの声が小さくなる。
「ギフテッドって呼ばれても……何も起こせない。自分の事を知りたくて、ギフテッドを発現させたくて、たくさんお勉強もしました」
「──だから、あんなに本が置いてあったのか」
タカセの声に、ミシェルは俯いた。沈黙が落ちる。
聞こえるのは、一定のリズムで寄せては返す波の音。
夕暮れの海は綺麗だった。けれど、その美しさすら今のミシェルには届いていないように見えた。
ややあってミシェルは声を落とした。
「……期待に応えられないから、私は、この家を離れるのでしょうか」
タカセは黙って聞いていた。
ミシェルは視線を海へ向けたまま続ける。
「お父さまは優しいです。タエさんも、使用人の皆さんも、優しいです......分かっています」
分かっている。だからこそ、怖かった。
もしこれが、“条件付きの優しさ”だったら。
能力があるから。良い子だから。
──期待に応えるから。
「ギフテッドは特別なんです。でも、その特別を発現できない私は……」
ミシェルは俯いた。
膝の上に置いた手が、わずかに震えている。
タカセは、すぐには言葉を出さなかった。
軽い慰めで済ませていいものではないと思ったからだ。
自分が存在する理由を探す。自分がここにいていい理由を探す。
それは、かつての自分も同じだった。
生きている。ただそれだけでいいはずなのに、何かを成し遂げなければ、誰かの役に立たなければ。
そうでなければ、自分には価値がないような気がしていた。
──あの頃の自分と、今のミシェルが重なる。
タカセは静かに息を吐いた。
「──ミシェル」
ミシェルが顔を上げる。
「俺は、上手く言葉を選んで君を励ますことはできない……でも」
不器用な言葉。でも、嘘はなかった。
タカセはまっすぐミシェルを見る。
「ミシェルは、元気だ」
「え?」
予想していなかった言葉だったのか、ミシェルの目が少しだけ開く。
「素直だし、よく笑う。猫を見つけたら、護送のことも忘れて追いかけるくらいには」
「……」
ミシェルの頬が少し赤くなる。
グレイが小さく笑いそうになったが、すぐに口を閉じた。今は茶化す場面じゃない。
タカセは続ける。
「それはきっと、大切にされてきたからできる表情だと思う。少なくとも俺には、期待に応えられないから、この家にいられない人間には見えない」
その言葉は、優しい慰めではなかった。
ただ、タカセが見た事実だった。
ミシェルの目に、夕焼けの光が滲む。
赤く染まった海の色が、涙をこらえた瞳の中で揺れていた。
そして、小さく息を吸って。
「──タカセさん。ありがとうございます」
声は、少しだけ震えていた。
しかしその笑顔は、確かに本物だった。
・
タカセとグレイがミシェルを屋敷へ連れて帰る頃には、空はすでに夕暮れの色へ変わっていた。
玄関前には、落ち着かない様子で何度も外を確認する人影があった。
「……ミシェルお嬢様」
タエだった。
普段は背筋を伸ばし、何事にも動じない彼女が、今は珍しく焦った表情を浮かべている。
そして、ミシェルの姿を見つけた瞬間、「ミシェルお嬢様ぁぁぁ!!」大きな声と共に駆け寄った。
「お嬢様! 猫を追いかけて迷子になるなんて……! どれだけ心配したと思っているんですか!」
確かに怒っている。けれど、その声は震えていた。
「おいおい、タエさん。無事に戻ってきたんだから、そこまで──」
グレイが間に入ろうとした、その瞬間。タエの表情が崩れる。
「……お嬢様に、もしものことがあったら、タエは……」
続きは言葉にならなかった。
代わりに、タエはミシェルを強く抱きしめた。
ふっくらとした手が、わずかに震えている。
ミシェルは一瞬驚いたあと、ゆっくりと腕を回した。
「……ごめんなさい」
「本当に、心配したんですよ」
タエは優しく、けれど少し困ったように笑う。
「お嬢様は、自分がどれだけ大切にされているのか……まだ分かっていないようですね」
その言葉に、ミシェルの瞳が揺れる。
「……」
返す言葉はなかった。ただ、その温かさだけが胸に残った。
すると、タエは突然グレイへ視線を向ける。
「──さて」
嫌な予感。グレイが一歩下がる。
「なんだよ、その顔」
「グレイ」
タエは真剣な表情で言った。
「お嬢様をお守りするために、特訓をしますよ」
「……は?」
「執事としての心得を叩き込みます」
「いや待て」
「まずは立ち振る舞いからです」
「俺は執事じゃねぇ!」
「親衛隊としてもまだまだです」
「だから親衛隊でもねぇって!」
抗議は当然のように流され。
グレイはそのまま屋敷の奥へ引きずられていった。
「ちょ、タエさん!? 俺、今日任務明けなんだけど!?」
騒がしい声が遠ざかる。
その様子を見て、タカセとミシェルは思わず顔を見合わせ、小さく笑った。
タカセが静かに言う。
「……タエさん。ミシェルの本当の家族みたいだな」
ミシェルは少し驚いたように瞬きをする。
それから、頬をほんのり赤く染めた。
「……はい」
その返事には、嬉しさが混ざっていた。
「北支部に行っても、時々この屋敷に遊びに来よう」
「え?」
ミシェルが顔を上げる。
「その時は、俺とグレイで護送する」
一瞬、ミシェルは目を大きく開いた。
そして、ゆっくりと目尻を下げる。
「──タカセ様、ありがとうございます」
夕日は完全に沈み、夜の静けさが街を包み始めていた。
遠くで鐘の音が響く。
夜空には、一番星が小さく輝いている。
その光を見上げながら、ミシェルは初めて思った。
帰れる場所がある。待っていてくれる人がいる。
それだけで、少しだけ前を向ける気がした。




