3ページ目 — 「約束 」
「いつか、誰かに『お前には価値がない』と言われる日が来るだろう。そんな言葉は気にしなくていい。君には、そんな言葉よりもずっと価値がある。僕も何年も後になって、同じことを言われたんだ。」――ロート
タツは、テーブルを囲む4脚の椅子の1つに座っていた。サトゥの母親は背を向けて、食事の支度をしていた。
朝の日差しは心地よく、まぶしすぎず、暑すぎることもなかった。果物を切る包丁の音が耳に響き、まるでリズミカルなビートのように聞こえた。
彼女は笑顔で食事の支度をしていた。サトゥ――いや、タツ――と別れようとしているにもかかわらず、彼女は幸せそうだった。
「お母さん……」
タツは少し躊躇いながら口を開き、視線を落とした。すると、母は手を止めてタツの方を向いた。
「今日が、ここでの最後の日なんだ。少なくとも、しばらくの間はね。」
「そうなのね。それで、どうして?」
まだ包丁を握ったまま、母はそれを、料理を用意している調理台の上に置いた。
「その……ここを離れる前に、お母さんに伝えたいことがあるんだ……」
彼は自分の手を見つめた。まだ傷の痕は残っていたが、痛みは昨日のうちに消えていた。
「みんなに伝えたいことがあるんだ……」
彼は何の問題もなく、手を握ることができた。
母親は戸惑っていたが、状況がよくわからないままタツに近づいた。
「大丈夫よ、サトゥ……」
タツのすぐそばまで来ると、髪を撫でながら、彼の目を見つめた。
「お父さんと私で、あなたの話を聞くわ。いいかしら?」
タツの目が輝き、唇がわずかに開いた。ほんの一瞬、タツはその女性の姿に、自分の母親の姿を重ねて見た。
「うん……」
涙をこらえようと、タツは奇妙な表情を浮かべた。
「ありがとう……」
タツは腕で目元を素早くぬぐい、こぼれそうになった涙を拭った。
「お母さん……」
すると、彼女は再びあの誠実な笑顔を見せた。しかし、彼女の目は嘘をついていなかった。彼女は心配していたのだ。
彼女は背を向け、再び食事の準備に取り掛かった。
「サトゥ!」
外から大人の声が響いた。そして、誰も反応する間もなく、家のドアが勢いよく開いた。
「サトゥ!」
サトゥの父親は満面の笑みを浮かべ、一歩踏み出そうとした。しかし、サトゥの母親に平手打ちを食らい、それ以上進むのを阻まれた。
「おい、そこの君! その調子だとドアを壊しちゃうぞ!」
「いててて!」
彼は平手打ちを食らった頭をさすりながら、ぴょんぴょん跳ねていた。
「また壊したら、私に助けを求めに来ないでね。」
彼女は顔を背け、腕を組んだ。
「ごめん! 忘れてた!」
彼はまだ両手を頭に当てていた。
「それ、もう何度も聞いたわ。」
「本当に、今回は……」
タツは一連の出来事に驚いたが、笑みを抑えきれなかった。
「ところで、サトゥ、友達が君を探しているよ。」
「サトゥ!」
突然、少年と少女らしき二つのシルエットが、玄関へ向かって駆けてきた。サトゥの両親はそろって食事の支度に戻った。
「サトゥ!」
二人がようやく到着すると、タツは彼らが誰なのかわかった。
男の子は先ほどの少年だった。髪はほんのり緑がかっていて、ヘアクリップをつけていた。彼は、所々に白い斑点のある、暗緑色のマントのようなものを羽織っていた。マントの下には茶色い革製の服を着ていた。何の動物の革なのかまではわからなかった。
一方、その少女は彼がこれまで見たことのない人物だった。彼女は紫色の髪を黄色いリボンで結んでいた。フード付きの白いコートのようなものを着ていた。その時はフードを被っていなかったが、いつでも被れるようになっていた。服装はシンプルで、ラベンダー色とミントグリーンのオーバーオールを着ていた。
「まだここで何してるの?!」
少年はタツの腕を引っ張り、家の外へ連れ出した。
「え、あ…何?!」
少女は少し前かがみになり、軽く頭を下げて言った。
「サトゥはすぐにお返ししますね、おばさん。」
「いいよ、レナ。楽しんでね。」
「はい、ありがとう!」
少女は外へ出ると、すぐに他の子たちの後を追って走り出した。
少年は笑顔を浮かべてタツを引っ張っていた。その笑顔は、まるで競争に勝つ直前のように、まぶしいほど輝いていた。
(昨日のあの子と同じだ……。なぜか、あの女性を思い出した。でも……今はもう、そうは思わなくなったのだろうか……?)
丘を登るにつれて、彼らの歩みは次第に遅くなっていった。そしてついに、柵のすぐ後ろにある丘の頂上にたどり着いた。
「わあ…! そろそろだぞ、サトゥ!」
タツは背筋を伸ばし、村の門を通り過ぎる馬車を眺めている少年の隣に立った。二人は村を見下ろせる小さな丘の上にいた。その馬車は高価そうに見え、それを引いている動物たちは、タツの知っている動物とは明らかに違っていた。
「あれは何?」
タツは馬車を引いている動物の一匹を指さした。その動物だけは、他の動物たちとは違っていた。他の動物たちは毛色が濃く、それぞれ色が違っていたが、その一匹だけは毛色が薄く、なぜか他の動物たちよりも軽そうに見えた。
「あれはトラヤのトカゲよ。頑丈な動物で、重い荷物を運ぶことができるの」
レナが二人のすぐ後ろに現れた。少し息を切らしていた。
「あんなに重いのに、驚くほど速く動くよね?」
タツはためらうことなくその情報を受け入れた。
「見て!」
少年は指をさしながら叫んだ。馬車は止まり、人々が降り始めた。まず、鎧を身にまとった数人の男たちが降りてきた。彼らは皆、剣を携えており、鎧も頑丈そうだった。続いて、真ん中の馬車から一人の女性が降りてきた。彼女は黒髪で、鎧も身に着けていた。そして最後に、杖をついて歩く老人が降りてきた。他にも数え切れないほどの馬車があったが、それ以外からは誰も降りてこなかった。
女性は、待っていた他の住民たちのところへ行き、何かを話し始めた。
「サトゥ、レナ……」
(じゃあ、彼女の名前はレナなんだな……?)
「もうすぐ僕たちの番だ。」
突然、少年は二人に振り向いた。
「提案がある。」
「試験が始まる前に、ちゃんと準備ができているか確かめたいんだ。だから、君たちに決闘を申し込む。」
「え……えっ?」
タツはぎこちない笑みを浮かべた。
「決闘だよ。」
「え……本当に?」
喧嘩をしたこともなく、いつもそうした状況から逃げてきたタツにとって、その突然の申し出は予想外で、ありがたいものではなかった。
「あ……まあ、そうなら……」
レナは少し距離を置いた。中央に立つと、彼女は言った。
「じゃあ、いつものように、私が審判を務めるわ……」
「待って……ちょっと待って!」
タツは手を振った。周囲を何度も見回した後、彼は言った。
「無理だよ、はは。装備を持ってないんだ、はは……」
「そんなこと、気にしなくていいよ。」
少年は微笑みながら、茂みの中から木製の剣を取り出した。
「僕たち、いつもここに隠してるんだ」
タツは、まだ目を閉じたままのレナを見た。そして、微笑んでいる少年の方を見た。
「えっ……」
「どうした、サトゥ? 負けるのが怖いのか?」
その後、彼は自分の手を見つめ続けた。
(でも……ちくしょう……)
(いつもこうだった……)
タツは間違いなく、日和見主義者だったと言えるだろう。19年の人生を振り返ると、楽しい瞬間も、暴力的な出来事も、日和見的な振る舞いも、次々と思い浮かんだ。タツがこれまでやってきたことを考えれば、彼に忠実な友人ができたとは少し信じがたい――少なくとも、彼自身はそう思っていた。
ある時、彼は人生でよくあるありふれた状況に直面した。誰もが人生で少なくとも一度は経験するような出来事だ。彼は英雄になるチャンスがあったが、恐怖に屈してしまった。もしその暴行に介入していれば、加害者たちは当然の責任を問われただろうが、その代わりに、彼は数え切れないほど、ただ逃げ出すことしかできなかった。そして、すでに述べたように、それは何度も繰り返された。
「だめ……無理だ……」
タツは小さく呟いた。その声は、誰にもはっきり聞き取れないほどか細かった。
それでも、彼はいつもそのことを自分のせいにしていた。まさにそんな時こそ何かすべきだったと分かっていたが、彼には力と決意が足りなかったのだ。
「何?」
些細な出来事が彼の人生を形作っていった。それはトラウマとなるような道のりだった。友人たちは、彼が苦しい人生を送ってきたことを知っていたので、そんな彼を責めなかった。しかし、実のところ、タツは誰にも心配をかけたくなかった。彼はいつも人前では強がり、状況をコントロールしているふりをしていた。それはプライドからではなく、恐怖からだった。
「もう言っただろ……無理だ……本当に無理なんだ……」
「ごめん……」
(これは俺じゃない……誰を騙そうとしてるんだ? こんな人生は俺のものじゃない……)
少年は剣を地面に投げ捨て、タツに近づこうとした。その時……
「やめて!……お願い……」
「この場所も……ここにあるものも、みんなも……完璧に見えるけど……」
「これ……僕のものじゃない……」
(なぜ僕はずっとこんな風に振る舞ってきたんだ? なぜ結局、これを受け入れてしまったんだ? これらはどれも僕のものではない……)
「サトゥ?」
「ここに来てから……ずっとおかしかった……知らない土地の丘の上で目を覚ました!知らない女に襲われて、死にかけた……なぜ……なぜ今、こんなことが起きているんだ……?」
(みんなは僕に優しく接してくれた……)
タツはひざまずいた。周りにいた皆は、明らかに心配している様子だった。
「サトゥ……何のことを言っているんだ……?」
「わからない! わからない……何もわからない! なぜここにいるのかもわからない。自分が何をしているのかもわからない……どうすればいいのかもわからない……僕……わからない……」
タツは拳で地面を叩いた。
「全部うまくいっていたのに。仲直りして、おいしいものを食べて、一日中のんびり過ごして楽しむはずだったのに……」
彼の目から涙がこぼれ始めた。
「すべてを失った……みんなを失った……」
「サトゥ……落ち着いて……」
レナはもう少し近づいた。
「落ち着けって?!」
「何を馬鹿なこと言ってるんだ。君は何も分かっていない……誰も何も分かっていない……」
彼はもう一度、拳で地面を叩いた。
「この場所が完璧すぎるから、僕はこれを受け入れてしまったんだ……でも、それは間違っている……僕……僕は……」
太陽は少しずつ空を進み、風が皆の髪を揺らしていた。周囲の草木も風に揺れていた。
「僕……こんなの望んでいない……僕にこんなものを受け取る権利なんてない。」
「俺はすべてを台無しにしてしまった。そして今回も、またすべてを台無しにしてしまう!」
「なぜ俺は、誰のためにも何もできず、今まで誰のためにも何一つしてこなかった、ただの役立たずなんだ? 俺にできることといえば、他人の犠牲にすがって生きることだけだ。みんなを利用して、まともに何一つできない……」
彼は再び拳で地面を叩いた。
「もし彼女が死ななければ……もし僕が彼女を殺さなければ……」
「僕……もう……これ以上……チャンスなんて……いらない……」
「だって、またすべてを台無しにしてしまうから……」
突然、タツはバランスを崩した。両腕で体を支えようとした。目を見開き、冷たい戦慄が背筋を走った。内側から締め付けられるような感覚に襲われた。
(そう思う……少なくともそれだけは確かだ。俺にはこれを受け取る権利なんてない……)
「サトゥ!」
緊迫した状況の中でも、タツはもはや何も感じなくなっていた。手も、足も、自分の体の重ささえも――何も。まるで大海原の真ん中で、ゆっくりと沈んでいくかのようだった。
(みんな良い人そうだけど、それは僕とは関係ない……)
汗が頬を伝った。
タツは激しく震え、誰も予想していなかったことに、ついに血を吐いた。
(これが俺の運命なのだろうか……?)
「サトゥ! サトゥ!」
(結局のところ……今まで俺がしてきたことといえば、逃げることだけだった。あの時も逃げ、その後も逃げ、今も逃げ続けている……)
視界がぼやけ始めた。すべてが伸びていくように見え、音も途切れ途切れに聞こえては消えていった。
突然、すべてが真っ白になった。
タツは顔を地面に押し付けたまま倒れていたが、ゆっくりと上体を起こし、膝をついた。
一筋の髪が視界を横切った。それを整えようとしたとき、彼は無意識のうちに、指で額の傷跡をなぞった。
「お前。」
突然、タツのすぐ後ろから誰かが声をかけた。振り返ると、そこにサトゥが座っていた。
二人の視線が交わった。二人の目は同じだった。生気も輝きも失われていた。
そして、その瞬間、タツは命を奪われたあの人の姿を目にした。
その空間は少し奇妙だった。部屋のように見えるものの、始まりも終わりも見えず、すべてが真っ白だった。ただ、土星の環のようなものが壁を貫いているように見えた。もっとも、その「壁」自体は見えなかった。
「サトゥ…?」
タツの背筋に寒気が走った。
「こ…ここはどこ?」
タツが尋ねた。
「わからない……でも、どうやら僕たちは特定の『場所』にはいないみたいだ。」
匂いも、物音さえもなかった。聞こえるのは、タツとサトゥの声だけだった。
「な…なぜ…僕たちはここにいるんだ?」
タツは両手で目をこすった。
「無駄だよ。」
サトゥは眉を上げて言った。
「え…?」
「もうあらゆる手を尽くした。でも、ここから出る方法はないみたいだ。」
「そ…それって…どういうこと?」
「何が起きたのか、なぜこんなことになったのかも分からない。でも、どうやらここに閉じ込められているようだ。」
「隅々まで探したけど、何も見つからなかった。この白さは、視界の限り広がっている。」
すると、タツは部屋の片隅に視線を向けた。その空間の果てはすぐそこにあるように見えた。だが、同時に、そうではないようにも感じられた。
「でも……」
「どうしようもない。受け入れるしかない……」
サトゥは両腕を枕にして横になった。彼は落ち着いており、この状況に対して微塵の好奇心も示していなかった。
タツは立ち上がり、部屋の中を行ったり来たりし始めた。歩いても、歩いても、歩き続けた。しかし、振り返ると、その場から一歩も動いていないことに気づいた。
「えっ……どういう……?」
「もう言っただろ? 諦めなよ」
「でも……どうして……そんなことがあり得るんだ?」
しかし、それについて考える暇もなく、タツはため息をついた。
「そうは言っても……今まで見てきたことを考えれば、それほど珍しいことでもないんだけど……」
「そう思ってくれてよかった」
「この輪は何なんだ?」
タツは輪の一つに近づこうとしたが、近づこうとすればするほど、それらは遠ざかっていくように見えた。振り返ると、自分はその場からまったく動いていないことに気づいた。
「これ……氷のようなものか?」
「そういうわけでもない。動くことはできる。ただし、ここから出ようとしたり、何かを理解しようとしたりしている時には動けないんだ。少なくとも、僕の場合はそうだった。」
「で、君は……? ここで何をしているの? どうやってここに来たんだ?」
サトゥはゆっくりと体を傾けて座り、両手を地面について体を支えた。
「えっと……あまりよく覚えていないんだけど……たぶん、練習が終わった直後だったと思う。どこかの丘で少し休もうとしたら、つい眠ってしまって……」
「でも、目が覚めたら、ここにいるんだ……」
「その後のことは、タツ、君がすでに知っていることしか分からないんだ。」
「えっ……どういうこと?」
自分の名前を呼ばれて、タツは少し驚いた。なぜサトゥは僕の名前を知っているのだろう?
「実は、目が覚めたのはここじゃなかったんだ。本当は、丘の頂上で、君の隣にいたんだ。でも、君は僕の体と声を持っていた。君に話しかけようとしたけど、まるで僕が透明人間になったかのように、君には気づいてもらえなかった。」
「君が丘を下りていくのを見たよ。あの女性を助けているのを見た。僕の友達から逃げているのを見た……僕の約束を思い返しているのを見た……僕の両親を抱きしめているのを見た……一人で星を眺めているのを見た。変だよね? 頭がおかしいんじゃない? 星を見上げながら、まるで誰かが隣にいるかのように話していたんだから。」
「でも、それよりももっと大切なものを見たんだ。君はそれを楽しんでいた。母や父との会話……君は一瞬一瞬を最大限に味わっていた。本当にそれが好きだったんだね? 僕になりすまして、僕であるかのように生きることを……」
「え?」
「このすべて……もちろん、僕は見ていたよ……」
「サトゥ……」
「みんな君を信頼している。みんなこの瞬間を待っていたんだ。君はついに、あの約束を果たすんだ……」
「僕のやったことが正しかったとは言えないけど、良い面を見てよ。何しろ、君はついに、ずっとなりたかった自分になれるんだから。」
タツはそう言って微笑んだ。彼は幸せそうだった。長い間自分を苦しめてきたこの状況を、ようやく解決できるのだと思っていた。
「何の話をしてるんだ、このバカ」
サトゥが口を挟んだ。
「結局、お前に俺の何が分かるっていうんだ?」
サトゥはゆっくりと立ち上がった。一方、タツは微動だにしなかった。サトゥの言葉を聞いて、彼の表情がわずかに変わり、唇がほんの少し半開きになった。
「その約束がどういう意味か、君にはさっぱり分かっていないんだろ? 君はただ逃げようとして、他人が俺について言うことを盲目的に信じていただけだ。」
「結局、何を望んでいるんだ? 俺の居場所を奪おうってのか?」
サトゥは近づき始めた。その表情は憎悪に満ちていた……
「サトゥのふりをするのは楽しかっただろう? でも、もう長くは続かないよ。」
サトゥはわずかに前かがみになり、言葉に合わせて腕を動かした。
「君の家族……友達……みんな君を頼りにしている……」
「だから何だ?」
まるで腹を殴られたかのような衝撃だった。タツは今、長い間自分を苦しめてきた言葉を耳にしたのだ。彼自身も、これまで数え切れないほど多くの人に同じ言葉を口にしてきた。それは自分には関係のないことだった。正しいか間違っているかの問題でも、誰かが何かをすべきかどうかという話でもない。ただ、「放っておけばいい」というだけだった。ほかにも、それを実行できる人はいた。自分よりずっとうまくできる人たちがいた。自分がその責任を負う必要はない――だからこそ、タツは何度も「だから何だ?」と繰り返してきたのだ。
「みんながどれほど心配していたか、君には想像もつかないだろう……」
サトゥはタツの頭を叩き、言葉を遮った。
「何でも知っているようなふりをしないで」
タツは床を転がった――いや、そこは本当の床ではなかった。少なくとも、それが何なのかは分からない。ただ、白く何もない「床」のように見えた。彼は仰向けに倒れていた。鼻から血が流れていた。
「本人よりも事情を分かっているつもりか? お前はただの役者だ。他人の人生に首を突っ込もうとしているだけだ。」
彼はタツに近づき続けた。
「でも、結局のところ、お前は崖から落ちてしまうだろう。いつもそうなんだ。」
十分に近づくと、彼はタツに蹴りを入れた。その衝撃で、タツはさらに遠くへ転がり、出血はさらに激しくなった。
「ほら、見てみろよ?」
「反撃すらできないのか……この役立たずが。」
「お前は、決して俺のようにはなれない。」
彼は蹴り続けた。
「さっさと死んで、俺の人生を返せ!」
彼は蹴り続けた……
タツは蹴られるたびに身を縮め、目には涙を浮かべていた……
「死ね、死ね、死ね。さっさと死ね、このクソ野郎!」
「死ね、死ね、死ね」
彼の言葉は、蹴りのリズムに合わせて響き渡った。
タツがこれまで何もしてこなかったのも無理はない。何かから逃げたり、ただ何もしなかったりするうちに、何かに挑戦しようという意欲さえ失われていくのだ。たとえ反撃するだけのことでも、やってみようという気持ちがなくなってしまう。
それは、彼がこれまで経験してきたことと大して変わらなかった。正直なところ、今の痛みは、父親に蹴られていた時ほどではなかった。タツの父親はもっと強く蹴ってきた。あの時の痛みの方がひどかった。
「星なんて、結局のところ特別なものじゃないんだね。」
「実は、どれもみんな同じなの。でも、それを特別にする何かがあるの。」
「私が指さしたあの星は、私が見た瞬間に特別なものになったの。」
「ただの星の一つではなくて、私のお気に入りの星になったの。わかる?」
ステラの言葉が、風のようにタツの頭の中を駆け抜けていった……。なぜ今それを思い出したのか、それが適切なタイミングだったのかどうかは分からない。しかし、その言葉のおかげで、タツの頭はすっきりした。そして、ある考えが浮かんだ。
「君……分かってないよ……」
突然、タツはそう言った。
「え?」
すると、サトゥは蹴るのをやめた。
叫び声を上げながら、タツはサトゥに飛びかかり、その首を掴んだ。二人は一緒に床に倒れ込んだ。サトゥの首を絞めながら、タツは言った。
「お前は恩知らずのバカだ!」
「みんな君のことを好きだし、みんな君を気の毒に思っているし、みんな君のことを心配しているんだ!」
タツの目にはすでに涙が溢れていた。
「みんな君を愛している……なのに……それなのに……君は彼らのことをまったく気にかけていない……」
「だから何だ? だから何だ? みんな君に、もっと大きなことを期待しているんだ。誰が『だから何だ』なんて言えるんだ?!」
「お前の母さん……お前の父さん……お前の友達……みんな……」
「みんなはお前を信じることを選んだんだ! でも、それはお前がそう生まれてきたからじゃなくて、誰よりも輝いていたからなんだ!」
サトゥは息をするのもやっとだった。口元から垂れた唾液が、鼻や口から血を流しているタツの手に落ちた。
「なんで?!」
サトゥは歯を食いしばり、タツの顔に拳を叩き込んだ。その一撃で、タツはサトゥを放した。
血を拭いながら、タツは片側で息を切らしていた。向かい側では、サトゥもまた息を整えようとしていた。やがて、二人はそれぞれのペースで立ち上がった。
「この間ずっと、無駄な練習ばかりしてたのか?!」
「そんなの俺には問題じゃなかったよ。何しろ、俺は天才なんだから!」
「そんなの何の意味もないよ、バカ。才能があったって、いつまでもバカのままなら何の意味があるんだ?」
「俺が彼らのことを気にしていないなんて、どこからそんな考えが浮かんだんだ?」
「実のところ、俺にも野心はある。こんな無意味な感情に縛られていたら、決して成長できない。」
「でも……約束は?!」
「あれは子供の戯言だ。知らないことに首を突っ込むな!」
「どうして? どうして君はそんなふうなんだ?」
「僕が聞いてきた話も……みんなが君に接する様子も……みんなの目にも、僕の目にも、君は優しい人だった……」
「誤解しないで。僕はもともとこういう人間なんだ……」
サトゥは軽くうなずいた……
「ただ、君を始末しろと命じられただけだ。そうすれば、僕の人生が戻ってくるって言われたんだ。」
タツにとって、その言葉はまるで自分の心臓の鼓動のように響いた。
「それだけなんだ……ただ、自分の人生を取り戻したいだけなんだ……」
心臓の鼓動が止まらなかった。それは大きな発見だった。一体誰が、彼にそんなことを命じたというのか?
「待って! それってどういうこと?! 誰が何て言ったんだ?!」
「わからない……」
サトゥは床をじっと見つめた……
「たぶん……女の子だったと思う……いや……子供……髪は白か銀色だった……まあ、いいや……そんなことはどうでもいい……」
「彼女はただ、僕が君を殺せば、僕の人生を取り戻せるって言っただけ……」
鼓動は止まることを知らなかった。
全部、芝居だったんだろうか――タツはそう思った。頭の中で、時計がチクタクと音を立てているようだった……
タツは視線を落とした。髪の陰に隠れた顔は、暗く沈んで見えた……
(誰が……誰が騙されたんだ……?)
「サトゥ……」
「え?」
「君に話したいことがあるんだ……」
「実は、みんなに全部話そうかとも思ったんだ。でも、君には自分で気づいてほしい……」
「私の名前は タツ ナカガリ。友達数人と旅に出た19歳の青年だ。でも……突然、見たこともない場所の丘の頂上で目を覚ましたんだ。そこを出たとき、ある女性に襲われたけど、運よく逃げ切ることができた。そうして、君の村にたどり着いたんだ。最初は、なんだか変な感じだった。みんなが僕を違う名前で呼んだり、僕が覚えていないことを思い出させようとしたり……何のことかさえ分からない約束について話したり……。その点については、君の言う通りだ……。でも、結局のところ、僕は大切なことに気づいたんだ。君はただ才能のある男というだけじゃない。君は愛されている。周りのみんなは君を見て、素晴らしい人だと感じている。誰に対しても優しく、周りから信頼されている人なんだ。君は、その他大勢の一人なんかじゃない。君は選ばれたんだ。そして、君が選ばれたのは、君自身の行動があったからなんだ。」
タツはサトゥに近づき始めた。サトゥはタツの一言一句を真剣に聞き入っていた。
「羨ましかったよ。だって、僕には今までそんなチャンスなんて一度もなかったから。ずっと問題を抱えて生きてきたし、ちょうどいい時にチャンスが巡ってくるような幸運にも、一度だって恵まれなかったんだ。」
サトゥは何か言おうとしたが、最後の瞬間に躊躇した。
「……」
「父はいつも飲みすぎていて、僕はいつも父と母の喧嘩を目の当たりにしていた。結局のところ、二人はいつも仲直りしていた。悲しい瞬間もあったけれど、すべてはうまく収まっていた。でも、母が亡くなった時、すべてが変わってしまった。父は誰に対しても奇妙な振る舞いをするようになり、特に僕に対しては、母の死を僕のせいにし始めた。いくつかの点については同意できるけど……君の両親が君に注いでいたあの愛情を見て、僕もあんなふうに愛されたかった。でも、何かがおかしいと分かっていた。あれは僕には手の届かないものなんだと分かっていたんだ……」
タツはサトゥに近づこうとしていた。一方、サトゥは微動だにしなかった。
「まあ、自分の手でやりたかったんだけど……でも、取引しよう。」
「友達が何人かいるって話したよね。でも、丘で目を覚ました後、彼らを見つけられなかったんだ。だから……そうだ。君が自分の体に戻ったら、一つ頼みを聞いてくれないか? 僕の友達を見つけて、僕が無事だって伝えてほしい。それだけでいいんだ。」
サトゥはこれまでにないほど困惑していたが、その目は少し輝いていた。
「自分のものではないものを手元に置いておく権利はないって気づいたんだ。誰にもそんな権利はないよね? だから、君の人生を返すよ。今まで本当にごめん。これでいいかな?」
サトゥの真正面に立ち、タツは腕を伸ばして握り拳を差し出し、サトゥが拳を合わせてくれるのを待った。
「これが僕たちの取り決めだ。それに、細かいことなら僕もよく分かっているよ。」
タツは微笑んで、軽く頭を下げた……
「サトゥ……」
サトゥはゆっくりと腕を上げた。瞬く間に、二人の拳が触れ合った。
「分かったよ、タツ……これが僕たちの取り決めだよね?」
すべてが暗転した。




