「十二湖は、今日も蒼い」15
陽菜ちゃんの素早い行動をまともに評価できたのはカールだけだった。
襲われた私にだって見えていない。
ミニバン。そのスライドドアのガラスをも割るほどに、車体深くめり込んだ男。
安潟社長が落ちた包丁を、取り出したハンカチで持ち上げ、男にこう言った。
「君はうちの娘をあろうことか熊に向かって突き飛ばして逃げたそうじゃないか、剛典くん?」
「お父さま、多分聞こえていませんよ?」
陽菜ちゃんの言う通り、剛典と呼ばれた包丁男は完全に白目を剥いている。
気絶していると考えるのは当然だろう。
「八峰さんはご無事ですか?」
安潟社長が心配してくれるのだが、それより目の前にいる陽菜ちゃんへの驚きが強い。
「大丈夫です、陽菜ちゃんが守ってくれたみたいです」
そう言っておいて気が付く。
―そんなわけあるか
「ご無事であればなによりですが、まずは現場の処理をしましょう。
八峰さんには日を改めてお話しさせていただけますでしょうか」
「やっぱり、私を狙った、んですよね?」
目の前の出来事だが、何かまだ実感が湧かない。
おまけにめり込んだ男を引きはがし、車内へ連れ込む手際のよさ。
……考えないでおこう。
「この男の”処分”については、私にお任せいただけないでしょうか?」
うーん、と考えてしまった私を見て、慌てたように安潟社長がこう付け加えた。
「八峰さんが想像してるような”法に触れるような真似”はいたしませんよ。
社員が少しばかり暴走した面をお見せしましたが、わが社が至極まっとうな建設会社ですから」
あの善知鳥とかいう男性を見る限り、社長の言をそのまま解釈していいかは怪しい。
陽菜ちゃんを見遣りながら、こう返答した。
「陽菜ちゃんが困るようなことにならないなら、お任せします」
「わかりました。ご迷惑ついでに1つお願いを聞いていただけないでしょうか?」
「なんでしょう?」
「私共はこのまま急いで向かう所があります。よければ陽菜と食事でもしていていただけませんでしょうか」
「お父さま?」
陽菜ちゃんが声を上げた。
「陽菜ちゃんがいいならかまいませんが、その後はご自宅にお送りすればよろしいでしょうか?」
「ご迷惑でなければ私はずっと、遥さんとお話ししていたいです」
陽菜ちゃんはそう言って私の腕を取った。
「……お手数でなければお願いできますでしょうか?」
了承し、少々歪んだミニバンを見送る。
あの歪み具合、警察に見咎められなければいいのだけれど。
「ところで陽菜ちゃん?あの暴漢をどうやってぶっとばしたのかしら?」
顎下に人差し指を当てて、少し考えた後、こう言った。
「剛典さんが遥さんを襲おうとしてたので、両手で突き飛ばしただけです」
相撲の突き出しよりも激しい結果と、陽菜ちゃんの可愛い仕草のギャップが凄まじい。
あと、名前を知ってるってことはあの男が陽菜ちゃんの彼氏、ってことかしら。
『陽菜、遥。二人とも怪我はないか?』
「ええ、陽菜ちゃんのおかげで傷一つないわ」
「私も無事です、カール」
『それはなにより。
どうだろう、陽菜の父が言った通り、昼過ぎだし折角だから、さっきの喫茶店に戻って昼食を取りながら一息つくというのは?
あの店はスティックサラダが付いたジャマイカンカレーが有名らしい』
「確かに美味しいわよね」
そう言うと、陽菜ちゃんがじっとこちらを見つめてきた。
「遥さん、私……」
「どうしたの?」
「すごく……お腹が空きました」
熊の時と言い、なにかしらの緊急回避行動を取るとお腹が空くのかしらね。
「よし。2時過ぎてるし、デザートに名物のフルーツパフェも注文できるわよ」
「フルーツパフェ?」
「そうよ。ここのは午後2時過ぎないと注文できないのよ。
食べたこと、ないのね?」
「このお店自体、初めてでした」
「お茶だけでもいいけど、食事メニューはどれも美味しいわよ。
じゃあ、店に戻って食べましょう」
陽菜ちゃんは結局、セットメニューでジャマイカンカレーを食べた後、ミートソーススパゲティも平らげ、更にフルーツパフェも綺麗に食べきった。
「お昼ですからこのくらいで我慢しておきます」
―我慢してこれか
一体、彼女のあの軽く華奢な体のどこに消えているのだろう
「ところで陽菜ちゃん、聞いていいかしら?」
「なんでしょう?」
「あの”たかのり”、って男が、陽菜ちゃんを置いて行った男なのかしら?」
その名前を聞いて、少し悲しそうな眼をした彼女だったが、一度落とした視線を私に向けた。
「遥さんに”彼氏”とは言いましたけど、幼馴染で家同士の付き合いで許嫁の間柄でした。
私も浮かれて彼氏だと言っていましたけど、ああいう状況で人柄って出るんですね」
そう言って紅茶を一口飲み、改めて続けた。
「おまけに私を助けてくれた遥さんに逆恨みですよ。
まるで私が助かったのが悪いような彼の行動に、思わず突き飛ばしちゃいました」
そう言いながらはにかんだ微笑を浮かべる。
「今後、どうするの?」
「お父さまから相手側の親には連絡をしているそうです。
ただ、今日の一件でどうするかは話し合い次第じゃないでしょうか」
「私が訊いてるのは陽菜ちゃんの事よ」
「え?私のこと、ですか?」
「そうよ。今回の一連の騒動で一番割を喰ってるのは陽菜ちゃんじゃない。
このまま許嫁とか続けるのかしら?」
頭を振り、こう答えた。
「いいえ、私にはもうそのつもりはありません。
元々幼馴染とは言え、ある意味政略結婚のようなものでしたし、少なくとも私には恋慕の感情は綺麗さっぱり無くなりました」
はっきりした答えに、テーブルに肘をついて顎を載せてこう言ってしまった。
「そうよねぇ」
「あそこまでされて、一緒に居られる気はしません」
陽菜ちゃんは感情が失せたような顔でそう告げた。
普段の可愛らしい顔との落差が激しいだけに、余計に心境がはっきり見える気がする。
振動音が聞こえ、陽菜ちゃんがバッグからスマホを取り出した。
「お父さまからです。ちょっと出てきますね」
そう言って店の外に出て行った。
『遥、彼女の感情を揺さぶるような質問にはひやっとしたよ。
どうしてあんな事を聞いたんだ?』
カールは最初から彼女の”憤怒”への移行をしきりに気にしていたから、当然よね。
「陽菜ちゃんが日常生活でも熊を倒した時のような状態にすぐなるようだったら、よろしくはないでしょ?
今のうちに確認しておこうかと思って」
『君の探求心がそうさせるのだろうが、ここは喫茶店だ。
万が一彼女が”憤怒”状態になったら大惨事が起きるんだぞ』
「多分、それはないわ」
『……理由を聞いても?』
「陽菜ちゃんのコントロールを全部できていないんじゃない?
彼女には常軌を逸する筋力だけは残っているけど、人智を超える”憤怒”にはなれないんじゃないかしら」
『ふむ、君の見立てはある程度正しいだろう。
”憤怒”が私と同等ならば、陽菜に”憤怒”の能力を十全に発揮させるには完全な制御下に置く必要がある。
しかし”憤怒”は何故か彼女を完全制御はしていなかった。
それは陽菜を見ていれば間違いないと分かる』
「どういう理由でなのかしら」
『いくつか推測できるが、決定打に欠ける。
そして”憤怒”は未だに私の本体からの問いかけに答えてこない』
「じゃあ、もう一度現地に行って直接話をしてらどうかしらね?
陽菜ちゃんが一緒に居ればあなたの問いかけに応答しそうじゃない?」
『それは一考の余地がある』
そんな話をひそひそ声でしていると、陽菜ちゃんが戻ってきた。
「遥さん、家に戻っていいですか?」




