1-70 本
「んん……」
どうやら私は気を失っていたらしい。目を開けて最初に見えた見慣れた自室の天井でそう判断した。
はて、今は何時なのだろうか? そうボンヤリとしながらもゆっくり体を起こしたことで、だんだん全身に血が巡って意識もハッキリしてきた。
「あれ? 私、どうやって家に帰ってきたんだっけ? あと本当に今何時?」
そう、明らかにおかしいことに気が付いたのだ。だって私、さっきまでノコギリ荘にいたはず。
そして、そして……
順序立てて気を失う前のことを回想し、鮮明に思い出した辺りで羞恥からボッと顔が噴火した。
「あわ、あわ、クロユリさんに……」
無意識のうちに毛布を手繰り寄せ顔を隠すが、誰もいないこの部屋において顔を隠すなんて無意味でしかない。それでもそうせざるを得ないほど、私は心理的に追い詰められていた。
ああ、いや、追い詰められるとは言ったが、悪い意味ではなくて。ええと、その……
そう己に対して言い訳をしているところで、コンコンとノック音が響いた。
「ヘデラでございます。エンレイ様、お目覚めでしょうか?」
「ヘデラ! ええ、起きているわ!」
これ幸い、第三者から現状を聞くことができる。ヘデラの存在に希望を見出した私はパタパタと急ぐように部屋を駆け、廊下に続く扉をバタンと開け放った。
「っ、エンレイ様?」
その音があまりにも大きかったらしく、ヘデラはビクッと肩をすくめていた。あまりにも焦っていたとはいえ怯えさせてしまっただろうか、と反省し、ある意味そのおかげで頭が冷えた。
「ご、ごめんなさいね。ちょっと、えと、その……」
冷えた頭でまず考えたのは、やっぱりクロユリさんのことで。ああ、これが悪循環か、とジワジワ顔が熱くなっていった。
「エンレイ様、もしかしてお熱が……?」
「あ、えと、違うの! これは……」
「取り敢えず、お部屋にお邪魔いたしますね。」
ポッポと熱くなった顔を隠すように頬を手で覆う。すると何かを察したのかヘデラが私を抱き上げて部屋にズカズカと入った。ヘデラと私は同じくらいの背丈だというのに軽々抱えられたこともとても衝撃的で。
考えることが増えすぎてパンクした頭はフリーズして、ヘデラにされるがまま移動させられた。
優しく降ろされた先はさっきまでいたベッドの上で。まさか本当に熱があると思われているのか、と勝手にショックを受けていると、その間にヘデラは椅子を持ってきて彼女自身がそこに座った。
「さて、エンレイ様。一体何があったのでしょうか? お風邪を召されたわけではないと仰るのなら、それ相応の理由を教えていただけますよね?」
言い逃れは許さない、という雰囲気を醸し出すヘデラに、私はなすすべもなく正直に話すことしかできなかった。人に話す、というだけなのに恥ずかしい思いをするだなんて、この時の私はまだ知らなかった。
…………
「ふむ、なるほど。だいたいのことは把握しました。つまりあれですね、エンレイ様はクロユリ様にドキドキして仕方がない、ということですね。」
穴があったら埋まりたい気分になり、代わりに布団に埋まったままヘデラと会話を続ける。声がくぐもるのは許してほしい。
「ま、まあ、そういうことなんだけど、淡々と言葉にされるとそれはそれで恥ずかしい……」
「何を恥ずかしがることがありますか! いやぁ、あの幸せすらご存知なかったエンレイ様にまさか春が訪れようとは、これはもう、祝杯を挙げるしかありませんね!」
「……ヘデラ、今は夏だよ?」
「あーはいはい。」
何か変なこと、言ったかな? 明らかにヘデラは私の言葉を聞き流したよね? それもテキトーに。
布団に埋めていた顔をヒョッコリ出してヘデラに不満顔を見せる。
「私が主人なのに、テキトーな扱いを受けてる気がする。」
「え? 仕方ないですよね? だってエンレイ様って感情というものに対しては赤ちゃんレベルじゃないですか。」
「ムムム……」
反論したいけれども、確かに幸せという感情をこの間ヘデラに教わったばかりだということを思い出して踏みとどまった。そうか、これがぐうの音が出ない、という状況か。
「さて、感情の赤ちゃん様には僭越ながら私がご説明をいたしましょう! そうと決まれば、エンレイ様!」
「う、うん?」
「私は必要なものを揃えて参ります! 一度御前失礼します!」
「う、うん……?」
何かヘデラの中で一本の筋ができたらしく、私の答えを聞く前に部屋を出て行ってしまった。
私は曖昧な音しか返せず、何ならヘデラが戻ってくるまで目をしばたかせ頭の上にハテナを浮かばせるくらいしかできなかったのだった。
…………
それから体感としては数十分、時計を見るに約五分。それくらいの短時間で必要なものを揃えてきたらしいヘデラは、ソレを机の上にドサドサと積み重ねた。そう、ヘデラが持ってきたのは分厚い本五冊だったのだ。
「はい、エンレイ様! どうせ今夜も徹夜で魔法の練習に明け暮れるおつもりなのでしょう? だったらその代わりにこの本を読むことも可能でございましょう? これを読み切るか、徹夜をやめて大人しく眠るか、選んでくださいませ。」
「う、うぉん……?」
ヘデラの意図することが私には理解できず、これまた変な返事をしてしまった。だって私が徹夜するのを誰よりも嫌っていたのに、それを助長させるようなことを言い始めたんだもの。
でも、徹夜していいというお許しをもらえたのは大きい。魔法の練習ができないのはちょっと不満だが、新しい知識を仕入れるという意味でも読書は好きだから良しとする。
「それでは私は夕食の準備に取り掛かりますので、失礼します。何かあればお呼びください。」
「う、うん。分かったわ……」
大仕事をやり遂げた、と言わんばかりな雰囲気を醸し出すヘデラが部屋を出ていくまで、私はその場で固まっていることしかできなかった。が、パタンと閉まった扉の音が耳に入ったことでフッと意識が現実に戻ってきた。
「……さっそく本、読まないと。」
何の本なのかは知らないが、ヘデラが読めと言うのなら絶対意味があるはず。ヘデラが移動させた椅子を元の場所、つまり本が積まれた机に戻しながらソレに座り、一番上の本に手を付けた。
「ええと、『薬指のあざ』っていう題名? これって物語、だよね?」
ヘデラはこの本を読ませてどうしたいのだろうか? まだ分からないけれども、それでも読まなければならないことだけは理解しているつもりだ。気合を入れて一枚ページを開く。
──私には生まれつき左手の薬指に痣がある。まるでそれは結婚指輪のようで、私は勝手にソレに対して運命を感じていた。辛いことも、苦しいことも、この痣に触れるだけで少し和らぐような気がしていた。
その言葉から始まる物語は、私にはとんと縁のない類いのものらしい。別の世界の話のようで、これはこれで面白そうだとどんどんページを捲っていく。
それから何時間読み進めていたのだろうか。分からないくらい没頭していた本の中から意識が現実に戻ってきたのは、これを持ってきた張本人、ヘデラの大声だった。
「エンレイ様! お夕食の準備が整いました! 皆様をお待たせしております! 早く食堂へいらしてください! エンレイ様! エンレイ様!」
「……ヘデラ、あともう少しで読み終わるからちょっと待っ」
「やぁーっと気付かれましたか!? その集中力の凄さを見誤った私が悪いですが、とにかく今は早く食堂にいらしてくださいませ! お客様をお待たせしているんです! もうちょっとも待てません!」
「お客様?」
「そうでございます! だから早く!」
「それならそうと言ってくれればよかったのに。」
「最初から申しております! だから早く早く!」
「もー、分かったわ。今行くわ。」
ヘデラに急かされるまま、私にできる限り早く食堂へ向かった。そこにいたお客様の存在を目にした私がどうなったか、なんて分かりきったことだったろう。




