質問・傷
「私が一緒でなければ許可しない」
リヒターの声は静かだったが、さっきまで共有スペースで映画を見ていた時とは明らかに違っていた。表情にも声にも余計な揺れがなく、エレジには、ハッシュヴァルドが来ると分かった時から続いていた緊張がさらに強くなったように感じられた。
ハッシュヴァルドはすぐには答えなかった。しばらくリヒターの顔を見ていたが、そこに譲る様子がないと分かると、わずかに目を細めた。
「お前が許可する立場になったのか?」
「エレジをあなたと二人にはしない」
「話すならここで話せ。俺も残る」
カイルがそう言うと、ハッシュヴァルドは彼へ向き直った。
「必要ない。これは班への聴取ではない。ヴァイス中尉本人への保全上の確認だ」
「俺の部下だ」
「承知している。だからといって、必要のない者を同席させる理由にはならない」
ハッシュヴァルドの言い方には、カイルと争うつもりがあるようには聞こえなかった。
自分にはその判断を通せるだけの権限があることを前提に話していて、相手に納得してもらうことまでは必要としていないらしい。
「グレイ少佐、ロート少尉、ファルク大尉は下がれ」
マティアスはすでに眠そうな様子を失っており、ヨナスも片づけかけていた機材には触れていなかった。二人とも事情は分からないはずだが、名前を聞いた時から様子の変わったリヒターを残していくことに抵抗を感じているのは、エレジにも分かった。
「リヒター大尉もだ」
「私は残る」
「必要ないと言った」
「私は必要だと言ってる」
「理由は?」
「あなたとエレジを二人にはしない」
リヒターはそこだけは譲るつもりがないらしく、ハッシュヴァルドもすぐには返さなかった。
二人の間に沈黙が続いたあと、彼はリヒターが引かないと判断したように、何でもないことのように告げた。
「残りたければ残れ。ただし、口を出すな」
返事を求めることもなく話を終えたハッシュヴァルドに対し、カイルは納得しているようには見えなかった。それでも、ここで権限を争ってもエレジの状況が良くなるわけではないと判断したのか、彼女へ向き直る。
「何かあれば呼べ」
「はい」
エレジが答えると、カイルはリヒターにも確認を求めるように目を向けた。リヒターが頷いても、マティアスとヨナスはすぐには動かなかったが、彼女自身から「大丈夫よ」と言われてようやく受け入れた。
マティアスは諦めたように息を吐き、ヨナスも彼女とエレジの様子を最後まで確かめてから、カイルと一緒に共有スペースを出た。
護衛二人は廊下側に残り、扉が閉まった。さっきまで五人で過ごしていた部屋に三人だけが残ると、同じ場所なのに空気まで変わったように感じられた。
ハッシュヴァルドはエレジの正面に座り、リヒターは少し離れた隣に残った。いつもなら何かあればすぐに言葉を挟んでくれる距離だったが、今は約束した通り何も言わない。
「始める」
「はい」
ハッシュヴァルドは手元の資料を開いた。
「氏名はエレジ・ヴァイスだな」
「はい」
「二十六歳」
「はい」
「南部出身」
「はい」
「父親はいない」
「はい」
「兄が一人」
「はい」
「現在、母親とは連絡をとっていない」
「はい」
「兄も同様」
「はい」
ここまでは記録にある内容を確認されているだけだった。答えを考える必要もなく、エレジは相手がすでに知っている事実に間違いがないと認めていけばよかった。
最初に感じていた緊張も、質問が続くうちに少しずつ形を変えていった。何を聞かれるのか分からない怖さよりも、聞かれたことへ正確に答えればいいという感覚の方が強くなっていた。
ハッシュヴァルドは資料を閉じた。
「北部勤務を希望した理由は?」
今度は、はいかいいえでは答えられない。
「南を離れたかったからです。北で働きたいとも思っていました」
「今も北にいたいか?」
「はい」
「理由は?」
以前なら、南へ戻りたくないことを先に考えたかもしれない。今は理由を探すまでもなく、答えがあった。
「この班にいたいからです」
「この班をどう思っている?」
「好きです。任務でも信用できますし、一緒にいて安心します」
ハッシュヴァルドはその答えを評価せず、次の質問へ進んだ。
「グレイ少佐はどんな人間だ」
「判断を任せられます。私がどうしたいかも聞いてくれます。信用しています」
「ロート少尉は?」
「周りをよく見ています。必要な時に自然に入ってくれます。一緒にいて楽です」
「ファルク大尉」
「分からないことを曖昧なままにしません。聞けばちゃんと説明してくれます。信用しています」
「リヒター大尉は?」
名前を出されると、隣にいるリヒターの存在をいつも以上に意識した。彼女は何も言わず、答えを促す様子も見せていない。前を向いたまま、エレジ自身が答えるのを待っていた。
「いろいろなことを教えてくれます。私が自分で決めることも尊重してくれます」
「四人をどう思う」
「信用している仲間です。大事に思ってます」
「傷ついてほしくないと思うか」
「はい」
「いなくなってほしくないと思うか」
「はい」
「これからも一緒にいたいか」
「はい」
ここまでは難しくなかった。聞かれているのは、自分がこの場所でどう過ごしているのか、四人をどう思っているのかということだけだった。答えるたびに、それぞれと一緒にいた時のことが浮かび、今ここにいたいと思う理由も自分の中ではっきりしていった。
ハッシュヴァルドは、そのまま別の方向へ質問を進めた。
「自分だけが危険になる選択なら、自分で決めていいと思うか」
訓練時代に、自分自身も判断に含めるよう何度も求められたことを思い出した。
「……いえ、自分を数に含んで考えるのが大事だと思います」
「ある選択で、他人まで危険になる場合、どう判断を決める」
「その人たちのことも考え、決める必要があると思います」
「その『危険が及ぶ可能性のある人間』が、危険の全容を知らなかった場合、その人たちを危険に巻き込む選択をとるべきだと思うか」
「……いいえ」
「危険に巻き込む選択が、自分の希望に近い場合、選択するべきだと思うか」
自分が望んでいることかどうかで判断を変えてはいけないはずだと考え、少し迷ってから答えた。
「……いいえ」
「人に必要のない負担をかけることについて、どう思う」
「避けるべきだと思います」
そこで初めて、エレジは質問のつながりを意識した。一つ一つは難しくなく、聞かれている内容も理解できる。
それでも、前の答えが次の質問の前提になり、少しずつ自分が最初に話していた場所とは違うところへ進んでいるような感覚があった。
ハッシュヴァルドは、その変化について何も説明しないまま本題へ移った。
「お前を取り巻く状況が今後変わる可能性がある」
「どういう意味ですか」
「お前の価値が、今後上がる可能性がある」
エレジには、その言葉が何を指しているのか分からなかった。
「報酬の額ということですか」
「今、お前が知る必要はない」
「私のことですよね」
「そうだ」
「何が変わるんですか」
「お前に接触しようとする人間が増える可能性がある。確保しようとする側も含めてだ」
「確定しているんですか」
「していない」
「なら、まだ何も起きていないですよね」
「そうだ」
ハッシュヴァルドはそこを否定しなかった。
「今すぐ何かが起きるとは言っていない。だが、危険度が変わる可能性があると言っている」
その答え方には反論しにくかった。確定していないことを確定したものとして扱わないのは、エレジ自身が任務で繰り返してきた判断と同じだった。
相手が何を根拠に危険度の変化を考えているのかは分からなくても、だからといって可能性そのものまで無視していいとは思えなかった。
「今、お前自身はその危険の全体を知っているか」
「いいえ」
「グレイ少佐は?」
「知りません」
「ロート少尉は?」
「知りません」
「ファルク大尉は?」
「知りません」
「リヒター大尉は?」
リヒターについてだけは、自分が知らないことをどこまで知っているのか判断できなかった。
「分かりません」
「では少なくとも、お前と三人は十分な情報を持っていない」
「はい」
「それでも、この班にいたいか?」
「はい」
「なぜ?」
「四人と一緒にいたいからです」
「さっき、相手が危険を十分に知らない状態で、自分の希望を優先して危険を負わせるのはよくないと言ったな」
すぐには答えられなかった。
「今のお前は違うのか」
違うと言いたかったが、その違いを説明する言葉が見つからなかった。四人は自分と一緒にいることを選んでくれているし、自分がこの班にいることも受け入れてくれている。
けれど、それは今まで分かっていた危険を前提にした上でのことだった。自分自身にも分からない新しい危険についてまで、四人が分かった上で選んでいるわけではない。
「……問題がないとは言えません」
「そうか」
ハッシュヴァルドは、それを正しいとも間違っているとも言わなかった。
「四人は大事か?」
「はい」
「傷ついてほしくないか?」
「はい」
「お前のために傷ついてほしいか?」
「いいえ」
「人に迷惑をかけるのは正しいことだと思うか」
「思いません」
「自分がここにいたいという理由で、危険に晒すか?」
エレジは答えられなかった。ここにいたいという気持ちは変わらない。山で渡り鳥を見ながら、一人でどこかへ行きたいわけではないと思った。知らない土地へ行きたい気持ちはあっても、行くならこの四人と一緒がいい。
その気持ち自体を間違いだとは思いたくなかったが、そのために四人へ自分でも知らない危険を背負わせていいのかと聞かれれば、肯定することもできなかった。
「お前には選ぶ自由がある」
ハッシュヴァルドは淡々と言った。
「だが、その選択の結果を負うのはお前だけではない。お前が仲間だと思っている人間は、お前と一緒にいることで余計な、本来必要のない危険を負う可能性がある」
胸の奥には重いものが残ったが、それでも今ここから離れたいとは思っていなかった。それだけは、自分の本当の気持ちだと思いたかった。
「私は、ここにいたいです」
「そうか」
「はい」
「では聞く。お前に対する脅威が増えたとして、それはこの班の四人にとって、今までとまったく違う危険になると思うか」
何が違うのかを考えてみても、すぐには答えが出なかった。
「任務に出れば、もともと危険はあります」
そこで言葉を切ることができなかった。答えるのをやめれば、そのまま相手の理屈に呑みこまれるような気がした。
「軍人なら、いつも安全ではありません。任務に出れば命に関わることもあります。私に何か脅威があったとしても、それだけで今までと全部変わるとは思いません」
「つまり、四人は元から命を懸けている。だからお前の事情で危険が一つ増えても、大きな違いではないということか?」
そう言われると、自分が考えていたことと同じなのか、それともどこかが違うのか、エレジには判断できなくなった。違うと言い切れる理由も見つからなかった。
「……そういう意味では、はい」
その答えを聞いて、ハッシュヴァルドは初めて少し間を置いた。
机の上で組んでいた手を外して椅子の背へ体重を預けると、エレジへ向ける目だけがそれまでより冷たくなった。
「それは、軍人は死ぬために生きていると言うやつらと、同じ考えだ」
言葉の意味を理解するより先に、周囲の音が遠くなった。
隣で椅子が動く音がした直後、両耳を温かい手のひらで強く覆われた。
すぐ後ろに移った気配から、リヒターが自分の耳を塞いで音を遮ったのだと分かった。
ハッシュヴァルドの口が動いても何を言っているのかは聞こえず、さっきまで自分へ向けられていた言葉から急に切り離される。
ハッシュヴァルドは、エレジの後ろにいるリヒターへ冷たい目を向けた。
「何のつもりだ」
「口は出してないわ」
リヒターはそれだけを返したあとも手を外さなかった。ハッシュヴァルドも視線を逸らさず、二人の間には、これ以上言葉を重ねなくても互いの意思が分かるほど明確な拒絶が残った。
「手を外せ」
リヒターは答えず、エレジの耳を塞いだままだった。
「命令だ」
それでも動かないリヒターを見て、ハッシュヴァルドはもう言葉で従わせるつもりをなくしたようだった。
エレジが彼の手が腰元へ下がったことに気づいた時には、すでに遅かった。
細い鞭がほとんど予備動作もなく強く振られ、リヒターはエレジの耳を塞いだまま、ほぼ同時に自分の身体を彼女の前へずらした。
乾いた音が響き、鞭はリヒターの腕か肩を狙ったように見えたが、彼女がエレジを庇うために位置を変えたことで、先端が首の付け根から肩へかかった。
服の襟際が強く打たれ、わずかに裂けた布地の下へすぐに赤い線が浮かんだ。
「リヒター!」
耳から手が離れた時には、リヒターは椅子の背へ片手をついて崩れかけた身体を支えていた。息が一度大きく乱れたものの倒れることはなく、それでも、普段ほとんど痛みを表に出さない彼女の顔から血の気が引いているのを見れば、軽い一撃ではなかったことは分かった。
ハッシュヴァルドはすでに鞭を戻していたが、狙いを外したようには見えなかった。
むしろ、どこへ当てれば相手の手を離させられるのかを分かった上で振っているように見え、その軌道へリヒターがエレジを庇うために身体を入れたからこそ、本来なら残らなかった傷が首に近い場所へできたのだと理解できた。
ハッシュヴァルドがもう一度鞭を持ち直した時、エレジには考える時間がなかった。すぐにリヒターの前へ入り、次に振れば自分へ当たる位置まで身体を寄せた。
「やめてください」
ハッシュヴァルドはそこで鞭を止めた。
「退け」
「嫌です」
「ヴァイス中尉、命令だ」
「もうやめてください」
後ろから触れたリヒターの手には、まだエレジをそこから退かせようとする力が残っていた。
「エレジ、いいから」
「よくないです」
振り返らなくても、傷がそこにあることは分かっていた。自分にこれ以上聞かせないためにリヒターが動き、その結果として傷ついたことで、さっきまでハッシュヴァルドに聞かれていたことが、別の形で目の前に現れたように感じられた。
ハッシュヴァルドはエレジ越しにリヒターへ言った。
「穏健派の犬が。対象に情を移すからそうなる」
その言葉を聞いた時だけ、リヒターの表情がはっきり変わった。傷の痛みよりも、そちらの方が深く触れたようにエレジには見えた。
「以前のお前なら、対象の安全と本人の希望を混同するような真似はしなかった」
「黙って」
「随分弱くなった」
「黙れ」
それまで抑えられていた声に初めて感情が戻り、エレジにもハッシュヴァルドの言葉が、リヒターの過去の何かへ触れていることだけは分かった。
その二人の間に立ちながら、エレジは自分がさっきまで答えたことを思い返した。今の判断に問題がないとは言えない、四人へ自分でも知らない危険を負わせる可能性もある。自分が知らないことが多いのも事実だった。
それでも、その答えをハッシュヴァルドに決められることだけは違うと思った。
「選ぶのは私です」
ハッシュヴァルドがエレジへ意識を戻した。
「ここにいるかどうかは、私が選びます」
「さっき、自分の判断に問題がある可能性を認めたな。それでもか」
「はい」
そこは否定する必要がなかった。
「私がここにいることで、みんなに何が起きるのかも考えます。でも、あなたに決めてもらうつもりも、従うつもりもありません」
「結果として、誰かが死んでもか」
その言葉にだけは、すぐには答えられなかった。カイルも、マティアスも、ヨナスも、リヒターも、誰か一人でも失うところを想像したくはない。
それでも、怖いからという理由だけで自分の選択を渡してしまえば、ここまで自分で決めてきたことまで失うように思えた。
「それでも、選ぶのは私です」
すぐ後ろにはリヒターがいる。少し前まで、五人で何もしない一日を過ごしていた。誰も同じことをしていなくても、同じ場所にいるだけで嬉しかったことを思い出すと、自分が今何を失いたくないのかだけははっきりしていた。
「私はここにいます」
ハッシュヴァルドはしばらく何も言わなかったが、やがて鞭を腰元へ戻し、上着の内側から小さな紙片を取り出して机の上に置いた。
「気が変わったら連絡しろ」
「変わりません」
「今はそう思っていればいい」
それ以上説得することなく、ハッシュヴァルドは共有スペースを出た。廊下にいた護衛二人も続き、扉が開いた先には、鞭の音とエレジの声を聞いて戻ってきたらしいカイル、マティアス、ヨナスがすでに下りてきていた。
カイルの表情は険しく、マティアスとヨナスもハッシュヴァルドの肩越しに部屋の中を確認しようとしていたが、彼は三人へ何も説明せず、そのまま護衛を連れて玄関へ向かった。
外の扉が閉まる音を確認してから、三人が共有スペースへ入ってきた。
「大尉?」
最初に異変へ気づいたマティアスの視線の先には、リヒターの首の付け根から肩へ伸びる赤い傷と、少し裂けた襟際の布地があった。
ヨナスもすぐに傷の状態を確認し、カイルはリヒターとエレジ、机に残された連絡先を見比べたことで、話だけでは終わらなかったことを理解したらしい。
「何があった」
エレジは答えようとしたが、すぐには声が出なかった。さっきまで自分の耳を塞いでいたリヒターの手は、今は何事もなかったように下ろされ、そのすぐ上には自分を庇うためにできた傷が残っている。
四人は大事か。傷ついてほしくないか。自分のために傷ついてほしいか。どれも迷わず答えたはずなのに、その答えを突きつけられたまま、エレジの中には迷いだけが残っていた。




