穏やかなはずの休養日
シュタインタールから戻った翌日は、五人とも休養日になった。
エレジが目を覚ました時には、いつもよりかなり遅い時間になっていた。山に入っていた間は日の出前後には動き始めていたので、時計を見て少し驚いたが、今日は急いで支度をする必要もない。
身体を起こしてからもしばらくベッドの上に座ったまま、窓の外から聞こえる自然の音をぼんやり聞いていた。
共有スペースへ下りると、カイルはすでにコーヒーを飲んでおり、ヨナスはテーブルの端に小さな機材を広げていた。任務用ではなく、自分で調整している通信部品らしい。窓から入る朝の光がテーブルの上に落ち、金属の部品だけが細く光っていた。
「おはようございます」
「遅かったな」
「よく寝ました」
「それならいい」
カイルはそれ以上何も言わず、手元の本へ視線を戻した。
自分の飲み物を用意しながら、山で使った衣類をまだ洗い切っていないことを思い出す。ほかにも装備の確認は残っていたが、今日中に終わらせなければならないものではない。急ぐ理由がないというだけで、いつもの朝とは時間の流れ方が違って感じられた。
しばらくすると、リヒターも部屋着のまま下りてきた。髪は普段より整っておらず、起きてからまだそれほど時間が経っていないことが分かる。彼女は挨拶をしてからコーヒーを淹れ、窓際の椅子に座った。
マティアスはさらに遅く、昼前になってようやく共有スペースへ現れた。眠そうな顔のまま椅子を引き、空いている場所へ腰を下ろす。
「もう昼近いですよね」
「休みでよかったわね」
リヒターがそう返すと、マティアスは安心したように息を吐いた。任務の後だからといって、誰かが特別疲れた様子を見せているわけではない。ただ、五人とも普段より動きが遅く、次に何をするかを急いで決める必要もなかった。
午前中は洗濯や装備の整理をしながら、それぞれ好きに過ごした。エレジは山で使った衣類をまとめて洗濯機へ入れ、乾燥を待つ間に装備の汚れを落とした。
泥の跡や細かな砂が残っているものを一つずつ確認していると、山で過ごした時間がまだ道具の隅に残っているように思えた。
作業が終わると、エレジは共有スペースへ戻って本を開いた。部屋へ戻って一人で読んでもよかったが、今日はそのままここにいたかった。
カイルは書類ではない本を読み、ヨナスは機材の部品を外しては取り付け直している。リヒターはソファで雑誌を眺め、マティアスは横になったまま目を閉じていた。誰も会話を続けようとはしていない。それでも、ページをめくる音や部品が触れ合う小さな音が途切れず、部屋には人がいるという感覚が残っていた。
全員が別のことをしているのに、同じ場所にいることが自然になっている。エレジは、その状態が好きだった。
*
昼が近づくと、リヒターが冷蔵庫の中を確認した。任務前に補充していた食材がまだ残っており、肉も野菜も十分にある。
「今日はちゃんとしたもの作るわ」
「ちゃんとしたもの?」
エレジが聞くと、リヒターは冷蔵庫の中を見たまま答えた。
「五日も山にいたんだから、少しくらい手をかけてもいいでしょう。エレジ、手伝って」
「はい」
リヒターは鶏肉を取り出し、エレジには野菜を切るよう頼んだ。鶏肉のハーブ焼きに、じゃがいもと玉ねぎのロースト、きのこのバター炒め、サラダまで作るらしい。冷蔵庫の中身を確認するうちに、使う食材と料理の数が増えていった。
エレジは頼まれた野菜を切りながら、調理台の上に並んでいく皿を見ていた。リヒターは肉の下味を確認し、焼き上がる時間を考えながら別の料理にも手をつけている。
「こんなに作るんですか」
「今日は休みなんだからいいのよ」
「でも、五人分ですよね」
「五人分だから作るの」
リヒターはそう言って、切り終えた野菜を受け取った。エレジも次に使うものを確認しながら作業を続けた。いつもより品数の多い料理を二人で作っていると、包丁を使う音や焼ける匂いまで楽しく感じられた。
出来上がる頃には、山にいた間の食事とは比べものにならないほど食卓が賑やかになっていた。皿を並べると、テーブルの中央がほとんど埋まる。
「すごいですね」
「作れる時に作ればいいのよ」
リヒターは大したことではないように言ったが、エレジには、彼女がいつもより気合いを入れていることが分かった。料理の数だけでなく、盛りつけ方も普段より丁寧だった。
五人で食卓を囲むと、しばらくは料理の話をした。マティアスは鶏肉を気に入り、ヨナスはじゃがいもの焼き加減について真面目に感想を言っていた。カイルは多くを話さなかったが、皿に取った料理を残さず食べている。
話は山でのことに移っていった。身体を流した水が冷たかったことを言うと、マティアスが戻ってきた時のエレジはかなり寒そうだったと言い、ヨナスも同意した。
「そんなに分かりました?」
「髪が濡れてましたから」
「それは見れば分かります」
エレジが返すと、リヒターが小さく笑った。大きな笑い声が上がるわけではない。それでも、食卓の空気はずっと柔らかかった。
山では食べること自体が目的になりやすかった。限られた食料を分け、短い時間で済ませ、すぐに次の行動へ移る。今日は食事に時間をかけても誰にも急かされず、食べ終わった後にすぐ移動する必要もない。
エレジは料理の味だけでなく、その違いをゆっくり味わっていた。
*
食後の片づけまで終えると、マティアスがカードを持ってきた。昼食の皿を片づけたばかりのテーブルに、今度はカードが並べられる。
「少しやります?」
誰も反対しなかったので、そのまま五人でテーブルを囲んだ。
何度か続けるうちに、リヒターは相手の出し方をよく見ていて、マティアスもそこを意識して手を変えることが分かった。ヨナスは一度だけ確率の話を始めたが、リヒターに止められると素直にやめた。
「そこまで考えるんですね」
「考えた方が分かりやすいので」
「でも、言わない方が面白いわ」
「分かりました」
ヨナスは納得したように頷き、それからは黙って手元のカードを見ていた。
カイルはほとんど表情を変えない。それでも何度か負けたあと、エレジには少しだけカードの置き方が早くなったように見えた。
普段なら気づかない程度の変化だったが、同じ卓を囲んで長く過ごしていると、そうした小さな違いにも目が向く。
「少佐、少し悔しいですか」
「別に」
リヒターが小さく笑ったので、エレジもそれ以上は言わなかった。カイルは否定したものの、次のカードを置く手はやはり少し早かった。
勝つことより、誰がどんな時に分かりやすくなるのかを知っていくことの方が、途中から楽しくなっていた。
何度か続けた後、マティアスはソファへ移動し、そのまま眠った。横になってから眠りに落ちるまでが早かった。
ヨナスは再び機材へ戻り、リヒターは本を開いた。カイルもコーヒーを淹れ直したので、エレジも午前中に読んでいた本を開いた。
午後の光が少しずつ傾き、窓の外の音も昼間より少なくなっていく。誰も話していないのに、部屋の中にはそれぞれの気配があった。
静かだったが、寂しくない。誰かが話さなくても、同じ場所にいることだけで十分だった。
*
夕食も五人で済ませ、その後は共有スペースで映画を見ることになった。
ヨナスが途中で設定について何か言うと、リヒターが「あとで聞くわ」と返した。ヨナスは素直に口を閉じ、画面へ視線を戻す。マティアスは前半までは起きていたが、途中からほとんど反応がなくなった。
「寝てますよね」
「たぶん」
「昼も寝てましたよね」
「今日はよく寝る日みたいね」
リヒターの声は小さく、マティアスを起こさないようにしていた。エレジも画面から目を離さず、隣で規則正しく続く寝息を聞いた。
カイルはエレジの隣に座っていた。映画の内容も面白かったが、それ以上に、何の目的もなく同じ時間を使っていることがエレジには嬉しかった。
任務中なら、誰かと同じ場所にいることには必ず理由がある。警戒や移動、情報の共有。けれど今日は、同じ画面を見ているというだけで隣にいる。そういう時間を、エレジはこれまであまり知らなかった。
見終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「今日、何もしてないですね」
「休養日だからな」
「でも、こういうの好きです」
山へ行った時のような達成感があるわけではない。街へ出た時のように新しいものを見たわけでもない。それでも、一日が終わるのが少し惜しかった。明日も休みだった。
「少佐、あの……」
エレジが視線を下げて言いかけると、カイルが後を引き継いでくれた。
「部屋に来るか?」
エレジが笑顔になると、わかりやすさにカイルも笑った。部屋へと移動しようとした、そのときだった。
カイルの端末に連絡が入った。短い通知音が、映画の余韻が残る部屋の中で妙に大きく聞こえた。
カイルは端末を確認すると、眉を顰めた。
「来客だ」
「今からですか?」
「ああ」
時間を見ると夜の八時で、通常の補給や連絡が来る時間ではない。マティアスも眠気が抜けたように身体を起こし、ヨナスも手元の機材から顔を上げた。
「誰です?」
「特殊対象保全監督官だ。名前はハッシュヴァルド」
その名前を聞いた瞬間、リヒターの手が止まった。
ほんの一瞬だったが、エレジにはそれがはっきり見えた。リヒターはすぐに端末へ視線を戻したものの、さっきまでの柔らかさは消えていた。口元から笑みがなくなり、声を出す前から周囲の空気まで張りつめたように感じられる。
「用件は?」
「書いてない」
「一人?」
「護衛が二人」
リヒターは返事をしなかった。
エレジには、彼女が何かを考えているのか、それとも考えを外へ出さないようにしているのか、判断できなかった。
ただ、普段なら流れていく沈黙が、今は誰も近づけないための壁のように感じられた。
マティアスはもう眠そうには見えなかった。ヨナスもリヒターの様子を確かめたあと、広げていた機材をまとめ始めた。二人とも事情は分からないはずだったが、部屋へ戻ろうとはしなかった。
「知ってるのか」
カイルの問いに、リヒターは少し遅れて答えた。
「ええ」
「どういう人間だ」
リヒターの指が、膝の上でわずかに強く組まれた。
「昔、私を訓練した人よ」
それだけだった。
けれど、その短い答えを聞いたエレジの胸には、冷たいものが残った。リヒターが名前を聞いただけでここまで変わる相手なら、ただの上官や訪問者ではない。
何をされたのかまでは分からなくても、リヒターがその人物を警戒していることだけは伝わってきた。
「エレジ」
「はい」
「一人にならないで」
リヒターの声は低く、普段よりもはっきりしていた。
「分かりました」
理由を聞こうとは思わなかった。聞けば、リヒターが答えなければならない。今の彼女は、説明するためにここにいるのではなく、何かに備えているように見えた。
ほどなくして外から車の音が聞こえた。窓の向こうを灯りが通り、拠点の前で止まる。エレジは無意識に背筋を伸ばした。休養日の和やかな空気はもうなかった。
「俺が出る」
カイルが共有スペースを出ていった。
リヒターは動かなかった。エレジに一人にならないよう言った以上、離れるつもりはないらしい。マティアスとヨナスもその場に残り、誰もそれまでしていたことへ戻ろうとはしなかった。
しばらくして、廊下から複数の足音が近づいてきた。
先に共有スペースへ戻ってきたカイルの後ろから、三人の男が入ってきた。
中央の男はヨナスと同じぐらいの背で細身ながら姿勢がよかった。暗い軍装は乱れなく整えられ、銀色に近いブロンドの髪は長めの前髪が頬骨のあたりまでかかっている。
彫刻のように整った顔立ちと淡い目は、冷たいというより、こちらに合わせる必要を感じていないように見えた。
その後ろには二人の護衛が控えていた。二人とも武器を見せてはいないが、共有スペースの入口に近い場所で止まり、その場を離れる様子はなかった。
ハッシュヴァルドは部屋の中を一度確認したあと、リヒターへ視線を移した。
「久しぶりだな、リヒター」
「監督官」
返事は短く、昼間までのリヒターとは声の調子まで違っていた。
ハッシュヴァルドはそれについて何も言わなかった。ただ、リヒターの顔を見たまま、彼女がどの程度動揺しているのかを確かめるように視線を止めている。
リヒターはその視線を受けても表情を変えなかった。けれど、エレジには肩がわずかに強張っているのが見えた。右手の指先も軍服の布地を押さえている。隠そうとしているからこそ、普段なら見えない小さな変化が目についた。
ハッシュヴァルドはエレジへ視線を移した。
「ヴァイス中尉」
「はい」
「話がある。二人で話したい」
エレジの背中に緊張が走った。
この男は、最初から自分を見に来たのだ。用件も告げず、リヒターの反応を確かめたあとで、護衛を連れたまま二人きりを求めている。断る理由は十分だったが、エレジが口を開くより先にリヒターが答えた。
「私が一緒でなければ許可しない」
声は静かだった。
その静けさが、かえって危険に感じられた。リヒターは怒鳴っているわけでも、感情を露わにしているわけでもない。ただ、これ以上は譲らないという意思だけが、言葉の形を取っていた。




