ヴェルナーとリヒター
「何があった」
カイルに聞かれても、エレジはすぐには答えられなかった。リヒターの首から肩へ残った傷を見ていると、先にリヒターが答えた。
「今日は、もう質問しないで」
傷のある首元を手で覆っていたが、声には痛みも怒りもほとんど出ていなかった。ハッシュヴァルドが来ると分かった時から変わった表情も戻っておらず、必要なことだけを選んで話しているように見えた。
「大尉、その傷――」
「それも今日は聞かないで」
マティアスが言いかけたことまで止めると、リヒターはそのままエレジへ話を向けた。
「エレジ、今日は少佐と一緒にいて。そのまま一緒に眠って」
「でも、リヒター大尉が……」
「私はいいの。今日あったことと関係ない話をたくさんして。任務のことも、ハッシュヴァルドのことも、私のことも話さなくていい。眠るところまで、今日のことを持っていかないで」
自分よりリヒターの方を一人にしてはいけないように思えたが、声にも表情にも反論を受け入れる余地がなかった。
「夜に来たのも手段なの。質問して、自分で答えさせて、そのあと一人で考える時間を残す。夜なら誰かと話す時間も少ないし、眠るまで同じことを考え続けるでしょう。朝になった時には、言われたことが自分で考えて出した答えみたいに残る」
その説明を聞いて、エレジは初めて、ハッシュヴァルドがこの時間を選んだことまで偶然ではなかった可能性に気づいた。
「植え付けるためですか」
「そう。だから今日は考えなくていい。今夜決めなかったからって、明日なくなる話じゃないでしょう」
内容は理解できたが、それを説明しているリヒター自身は、まだハッシュヴァルドと話していた時の状態から抜けていないように見えた。
いつもならエレジの不安を確かめながら言葉を選ぶのに、今は必要な手順を正確に伝えることだけに集中し、自分の感情をそこへ混ぜないようにしている。
カイルも同じものを感じ取ったらしく、それ以上質問せずに受けた。
「分かった。今夜は俺が一緒にいる」
「お願い」
リヒターはそれだけ答えると、自分のことは終わったつもりのようだった。
「大尉、傷だけでも見せてください。場所的に自分では確認しにくいはずです」
ヨナスが言うと、リヒターは首元を覆ったまま答えた。
「自分でやるわ」
「でも――」
「平気」
「せめて部屋まで行きます。何もしなくていいなら、何もしませんから」
今度はマティアスが言ったが、リヒターは二人の心配を受け取ろうとはしなかった。
「今日はいいから。二人とも休んで」
拒絶するような強さはなかったが、今は誰かを自分のところへ入れるつもりがないことは十分に伝わった。
「……分かりました。でも、何かあったら夜中でも呼んでください」
「ええ」
「本当にですよ」
「分かってる」
返事はしても、いつものような軽さは戻らなかった。
リヒターは傷を覆ったまま共有スペースを出た。歩き方に大きな乱れはなく、一人で部屋へ戻ること自体に問題はなさそうだったが、エレジには、平気だと言った本人が一番平気ではないように見えた。
それでも今追えば、自分を守るためにリヒターが決めたことまで無視することになる。
「行くか」
カイルに言われ、エレジは追いかけずにいることを選んだ。
「はい」
その夜は、リヒターに言われた通りカイルの部屋で過ごすことにした。
ベッドに座って静かになると、ハッシュヴァルドに聞かれたことがすぐに戻ってきた。
問題がないとは言えない。四人は危険を知らない。自分がここにいることで、本来なら必要のない危険を負わせるかもしれない。
「何を話す?」
カイルに聞かれても、今は関係のないことの方が思いつかなかった。
「何でもいいです」
「それが一番難しいな」
「リヒターは、関係ないことをたくさんって言ってました」
「かなり曖昧な指示だ」
ハッシュヴァルドのこととは何の関係もない返しが少しおかしくて、エレジはようやく笑った。
「今日見た映画、途中でマティアスが寝てました」
「いつものことだ」
「最初は見てましたけど」
「本人は最後まで見たと言うだろうな」
「寝てたのにですか」
「あいつは途中の記憶がなくても、見た扱いにする」
そこからは、本当に今日とは関係のない話をした。次の休養日に何を食べるか、前にベルンハルトで見た店はまだあるだろうか、ヨナスが食事スペースへ工具を持ち込むたびにリヒターが注意していること、マティアスが映画を選ぶ時だけ妙に自信を持っていたこと、エレジが次に見たい鳥のことまで、話題にはまとまりがなかった。
それでも途中で何度か、意識は別のところへ戻った。
「明日でも考えられる」
カイルは話そのものを否定せず、今夜そこへ戻る必要があるかだけを分けた。
「今考えなかったら、明日消えることじゃない。なら、今日はやめよう」
エレジは頷いたものの、話題を変えてしばらくすると、今度は自分について言われたことが戻ってきた。
「私がここにいることで、本当に……」
「それも明日だ」
カイルの声は変わらなかった。
「今答えを出す必要がある話じゃない。少なくとも、今夜のうちに決める理由はない」
「はい」
「リヒターが言ったことは正しいと思う。あいつはきっと、あの男がどういうやり方をするか知ってるんだろう」
「だから、あんなに変わったんでしょうか」
「たぶんな。明日、本人が話したければ聞けばいい。話したくないなら、それも待てばいい」
先送りにすることへの不安は残ったが、今夜決める必要はないというカイルの判断なら受け入れられた。そのあとは、夜が深くなるにつれて話すこともさらに今日から離れていった。
カイルが子どもの頃に苦手だった食べ物の話をすると、エレジは意外に思って、今でも食べられないものがあるのか聞いた。
全部を忘れたわけではない。それでも、眠る直前までハッシュヴァルドの言葉だけを繰り返すことはなく、エレジはカイルの隣で眠った。
翌朝、リヒターはいつもの時間に共有スペースへ下りてこなかった。
カイルが部屋の前から声をかけると、リヒターから返ってきたのは、起きていること、傷の処置は済んでいること、食事はあとで取るという返事だけだった。必要な情報は全部そろっているのに、そこから本人の状態を知ることはできなかった。
マティアスとヨナスも気にしていたが、昨夜本人に拒まれた以上、勝手に部屋へ入ることはしなかった。ヨナスはリヒターの分の朝食を残し、マティアスも二階から物音がしないことを気にしていたが、昨夜「今日はいい」と言われた以上、それ以上踏み込まなかった。
午前の遅い時間になって、施設の認証端末が来訪者を知らせた。
前夜のことがあるため、カイルたちは警戒したが、表示されたのはヴェルナー大佐の名前だった。
カイルが玄関で迎えると、ヴェルナーは挨拶を済ませただけで施設の様子を聞かず、最初にリヒターの所在を確認した。
「リヒターは?」
「部屋にいます」
「そうか」
「昨日の件で来たんですか」
「それを聞いたから来た」
理由を隠すつもりはないらしかった。
「どこまで知っていますか?」
「ハッシュヴァルドがここへ来たことと、リヒターが同席したこと。そのあと怪我をしたところまで」
「何があったかは?」
「詳しくは知らない。だが、あの二人のことは知ってる。それで十分だ」
詳しい経緯を知らなくても来る理由になるほど、ヴェルナーはハッシュヴァルドとリヒターの関係を理解しているらしかった。
「本人と話してかまわないね?」
「一人でですか?」
「その方がいい」
カイルもリヒターがヴェルナーへ向ける信頼は知っているため、止めなかった。
二階へ上がったヴェルナーが部屋をノックして「私だ」と伝えると、少しして扉が開いた。
ヴェルナーを部屋へ入れたリヒターはベッドサイドに腰を下ろした。首の付け根から肩には自分でガーゼを当て、傷に触れないよう襟の広い服へ替えている。処置そのものはできていても、表情には昨夜と同じ冷たさが残っていた。
ヴェルナーはリヒターの前に片膝をついた。傷の状態だけを確かめる上官の視線ではなく、昨夜から彼女の中に何が残っているのかを確かめようとしているようだった。
「大丈夫か?」
「平気です」
「傷は?」
「処置は済んでいます。問題ありません」
「そうか」
ヴェルナーはそれ以上、傷について細かく聞かなかった。
「ハッシュヴァルドが来たと聞いた」
「はい」
「ヴァイス中尉は?」
「無事です。現在の配置にも問題はありません」
「そうか。よく守ったね」
リヒターは何も言わなかった。ヴェルナーがこういう時に何を言う人なのかは、昔から知っている。だから今は自分から説明するより、その言葉を聞いていたかった。
「頑張ったね。偉かった」
昨夜からほとんど変わらなかった表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「君はいい子だよ。昔からずっと」
リヒターは黙ったまま受け取った。
「頼まれたことを頑張るし、できるようになる。もっと先まで求められても、君はできてしまうからね」
ヴェルナーは責めるようには言わなかった。
「そうやって、ずいぶん遠いところまで行かされた。でも、それを君自身の問題みたいに思わなくていい。君ができるからといって、どこまでやらせてもいいわけじゃないんだ」
リヒターは何も返さなかったが、その言葉を拒む様子もなかった。
「……大佐」
「うん」
返事を急かされないことも知っていた。ヴェルナーは、リヒターが何かを言うまで待った。
「弱くなったと言われました」
「そうか」
「対象に情を持った、と」
「私は、そう思わないよ」
ヴェルナーは強く否定するのではなく、いつもと変わらない穏やかさで答えた。
「君は昔から、人を守ろうとする子だった。今になって急にそうなったわけじゃない。私が知ってる君は、ずっとそうだよ」
リヒターは返事をしなかった。ただ、ハッシュヴァルドの言葉に対抗するためではなく、ヴェルナー自身が本当にそう認識しているのだと分かる声を聞いていた。
「変わったところはあるよ。前より自然に笑うようになったし、人のことも好きになった。でも、それで弱くなったとは思わない」
その言葉も、リヒターは静かに受け取った。
「強くて、優しい子だ。そこは昔から変わってない」
「……はい」
短い返事だったが、昨夜から続いていた硬さは少し薄れていた。
ヴェルナーはそれを見ても、もう大丈夫だとは言わなかった。ハッシュヴァルドと会ったことで切り離したものを一度の会話ですべて戻せるとは思っていない。
ただ、自分が昔から変わらず見ているリヒターをもう一度本人へ伝えることで、昨夜の言葉だけが残らないようにしていた。
「昨日のことで、君への見方が変わることはないよ」
「……はい。ありがとうございます、来てくださって」
「来るさ、君がハッシュヴァルドと会ったと聞いたら」
その返しに、リヒターの表情へようやくわずかな柔らかさが戻った。
「今日はゆっくり休んで。できれば一人にならずに」
「はい」
返事にはまだ普段ほどの軽さはなかったが、夜から続く冷たさは和らいでいた。
昼前にヴェルナーが帰ると、リヒターはようやく共有スペースへ下りてきた。
エレジは首元のガーゼが気になったが、昨夜言われたことを思い出して何も聞かなかった。リヒターもそれに気づいたらしく、昨日より柔らかい声で聞いた。
「眠れた?」
「はい。少佐と、ずっと関係ない話をしました」
「何の話?」
「少佐が昔嫌いだった食べ物の話とか」
「それは聞きたいわね」
その返し方には、以前のリヒターに近いものが戻っていて、エレジは少し安心した。
ただ、会話ができるようになり、こちらを気にかける余裕が戻っても、いつものように自然に笑ったり、誰かをからかったりするところまでは戻っていなかった。
マティアスとヨナスも、リヒターが昨夜よりは戻っているものの、まだ一人にしておきたい状態ではないと感じていた。
エレジも朝から普段通りではなく、リヒターを気にしたまま、昨夜のことをまだカイルにも詳しく話していないようだった。
昼食の間も、リヒターは話しかけられれば答えるものの、自分から話題を広げることはほとんどなかった。
カイルとエレジのことも含め、このまままた一人で部屋へ戻すより、何も聞かずに外へ連れ出した方がいいとマティアスは考えた。
「大尉、午後って予定あります?」
「ないけど」
「街、行きません?」
マティアスは理由を説明せず、昨夜のことにも触れなかった。ただ街へ行こうと誘ったことで、リヒターにも、事情を聞き出すためではなく一緒に過ごそうとしているのだと分かった。
ヨナスも、今のリヒターに何かを決めさせたり、楽しむことまで求めたりする必要はないと思っていた。行き先や目的を限定せず、ただ施設の外へ出られるように言葉を続けた。
「食事でも買い物でも、何でもいいです。施設にいる必要もないでしょう」
リヒターは二人の誘いに、さきほどヴェルナーに言われた言葉を思い出した。
『一人にならずに』
まだ自分から誰かと過ごしたいと言えるほどには戻っていなかったが、二人から離れるより、一緒に外へ出る方を選んだ。




