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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
特殊情報収集班:任務

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考えたくない


 三人が出ていくと、施設の中は急に静かになった。

 マティアスは出る前に何も言わなかったが、リヒターを連れていくことだけが目的ではないのだとエレジには分かった。ヨナスも昨夜のことには触れず、三人で外へ出る支度をしていた。

 二人がリヒターと一緒に出たことで、共有スペースにはカイルとエレジだけが残った。


 昨夜は考えないために関係のない話をした。朝になってもリヒターの様子が気になり、カイルにはまだ何があったのか詳しく話していない。


 三人が出ていった今は、もう先延ばしにする理由もなかった。それでも、カイルに昨日のことを話すのは少し怖かった。何を言われたのかを知られることが嫌なわけではない。

 

 隠したいとも思っていないのに、どこから話せばいいのか考えるだけで、続きを口にすることにためらいがあった。自分でも、その理由は分からなかった。

 カイルはソファの少し離れた位置に座ってからエレジを見た。


「昨日、何を聞かれた」


「……最初は、私のことです。名前とか、年齢とか、家族のこととか」


「そこから?」


「北に来た理由とか、みんなをどう思ってるかとか」


 エレジは順番を思い出しながら話した。みんなは自分で決めることを尊重してくれると答えたこと。四人を大事に思っていること。そこから危険についてどう考えるかを聞かれたこと。


 話しているうちに、昨夜よりも質問の流れがはっきり見えてきた。最初は事実を答えるだけだったのに、少しずつ、自分が何を正しいと思っているのかを答える話へ変わっていた。


「自分がここにいたいという理由で、他の人に危険を負わせるのは正しいかって聞かれました」


「何て答えた」


「正しいとは思わないって」


 カイルはそこで否定しなかった。その答えまで間違いだと言われなかったことで、エレジも自分が昨夜考えたことをそのまま話せた。


「それから、私の価値が上がる可能性があるって言われました。今より、接触しようとする人とか、連れていこうとする人が増えるかもしれないって」


「理由は?」


「今は知らなくていいって」


 理由を伏せたまま危険が増える可能性だけを伝えられたことには、カイルも引っかかったらしい。さっきまでと同じようには受け流さず、その部分を確かめるように聞いた。


「それで?」


「みんなは、そのことを全部知らないって」


「事実ではある」


「はい。私も、問題がないとは言えませんでした。私がここにいることで、今までなら必要なかった危険が増える可能性があるなら、それを何も問題がないとは思えません」


 そこもカイルは簡単には否定しなかった。


「それから、私のことで危険が増えるとして、それはみんなにとって今までとは別の危険なのかって聞かれました」


「何て答えた」


「軍人の仕事はもともと安全じゃないし、任務で命に関わることもあるから、私のことで危険が増えても、それだけで全部が変わるとは限らないって」


 カイルはまだ口を挟まず、その答えを聞いていた。


「そしたら、四人はもう命を危険に晒してるんだから、私の事情で危険が一つ増えても大した違いはないって意味かって聞かれて……」


「お前は?」


「『そういう意味では、はい』って答えました」


「……それで?」


「そのあと、『それは、軍人は死ぬために生きていると言うやつらと、同じ考えだ』って」


 そこまで聞いた時、カイルの表情がわずかに硬くなった。声を荒らすことはなかったが、それまで質問の内容を確認していた時とは明らかに反応が違った。


「そのあと、リヒター大尉に耳を塞がれました。二人で何か話してたんですけど、よく聞こえなくて……それから、リヒター大尉が鞭で打たれました」


「それで全部か」


「はい。耳を塞がれるまでは」


 カイルは一度目を閉じた。再び目を開けた時にも声は変わっていなかったが、エレジには、怒っていることだけは分かった。


「あいつは、お前が何を大事にしてるかを先に確認してる」


「四人のことですか」


「ああ。お前が俺たちを大事にしてることも、危険な目に遭ってほしくないと思ってることも先に言わせてる。そのあとで、お前がここにいることで危険が増えるかもしれないと出した」


 エレジは昨夜の質問を順番に思い返した。答えていた時には、一つ前の質問との繋がりまで考えていなかった。


「内容が全部間違ってるわけじゃない。お前のことで危険が増える可能性があるなら、それは考える必要がある。俺もその情報は確認する。ただ、あいつはそれを知らせるだけで終わってない」


「……はい」


「お前が自分から、ここにいることを悪いと思う方へ進むように質問してる」


 四人を大事に思っていることも、誰かに傷ついてほしくないことも本当だった。だからこそ、その気持ちと自分がここにいたいという希望を並べられるたび、答えられる範囲が少しずつ狭くなっていった。


「最後にあの言葉を出したのも、そのためだ」


「私を、追い詰めるためですか」


「ああ。そこまで言えば、お前が自分の答えを考えるんじゃなく、自分がひどい人間なんじゃないかって考え始める。あいつはそれを分かって使ってる」


 エレジはその時、何を答えればいいのか急に分からなくなったことを思い出した。


「……あの時、周りの音が遠くなった気がしました」


 その言葉を聞いても、カイルは声を荒らげなかった。ただ、エレジには、さっきまでよりも明確に怒っているのが分かった。


「そうなるところまで持っていくために言ったんだろう」


「私を、離れさせるためですか」


「少なくとも、お前に自分からそう考えさせるつもりはあったと思う。『ここにいたい』と言えば、自分のために四人を危険へ巻き込む人間になる。

 『危険が増えても全部が変わるとは限らない』と言えば、今度は軍人の命を軽く扱ってるみたいに返す。あの聞き方を続けられたら、お前が自分を責めずに残れる場所がなくなる」

 

 カイルに言われて、昨夜なぜ考えるほど答えが見えなくなっていったのかが少し分かった。自分がここにいたいという気持ちも、四人に危険な目に遭ってほしくないという気持ちも変わっていなかったのに、その二つを持ったままでは答えられないようなところまで話を進められていた。


「だから、お前が途中で何て答えたかを俺は責めない」


「でも、私は肯定しました」


「ああ。聞いた。でも、そこを採点するために話を聞いてるんじゃない。

 俺が知りたかったのは、あいつが何を言って、どうやってそこまで持っていったかだ。お前がその場で完璧に答えられたかどうかじゃない」


 エレジはそこで初めて、自分が話し始める前から気にしていたものが、カイルの関心とは違っていたことに気づいた。


「……私、少佐にどう思われるか怖かったです」


「昨日の答え一つで、お前への見方は変わらない」


 カイルの声は静かなままだったが、いつもエレジへ向ける優しさが含まれていた。


「それより、あいつが最後にあの言葉を使ったことの方が気になる。あそこまで言えば、お前が自分の考えを整理するんじゃなく、自分そのものを疑い始めると分かってたはずだ」


 エレジは否定できなかった。

 実際、昨夜から考えていたのは危険がどれだけ増えるのかということではなかった。

 ここにいたいと思う自分が、四人の命を軽く見ている人間なのではないかというところまで、何度も戻っていた。


「……私は、ここにいたいです」


「ああ。知ってる」


「そこが分からなくなりました」


 エレジは昨日から何度も考えていたことを、ようやくそのまま言葉にした。


「みんなに危険なことが起きてほしくないです。自分のせいで余計な危険が増えるのも嫌です。でも、だから離れたいとは思えませんでした。

 四人と一緒にいたいから、ここにいたいです。でも、それでいいのかって聞かれたら、分からないです」


 ハッシュヴァルドに聞かれた時も、ここにいたいという気持ちだけは変わらなかった。ただ、その希望を優先した結果として何が起きるのかまで考えると、正しいと言い切ることもできなかった。


 エレジは簡単に大丈夫だと言ってほしいわけではなかった。実際に危険が増える可能性があるなら、それをなかったことにされても納得できない。


「ハッシュヴァルドの言ったことを全部間違いだとは言わない。お前を狙う人間が増える可能性があるなら、今までと同じではない。そこは確認する必要がある」


「はい」


「ただ、それを理由に、お前一人が四人分の判断まで決める必要はない」


 その考え方は、昨夜ハッシュヴァルドに問われている間には出てこなかったものだった。


「危険が増えるかもしれないから自分が離れる。それをお前が選ぶなら止めない。でも、俺たちに危険を負わせたくないから、俺たちがどうしたいかを聞かずに離れるなら、それは違う」


「でも、少佐は指揮官です」


「だから余計にだ。俺は危険を見て、任務として成立するか判断する立場にいる」


「それでも、私のことなら……」


「お前のことでも同じだ」


 カイルはそこを曖昧にしなかった。


「お前に関係する危険だからといって、お前一人が全部引き受ける必要はない。俺には俺の判断がある。マティアスにも、ファルクにも、リヒターにもある」


 危険が増える可能性そのものは消えなかった。それでも、それを考える時に四人の意思まで自分の中で決めてしまっていたことには、エレジも気づいた。


「少佐は、どうしたいですか」


「お前にいてほしい」


 何が起きるか分からないという話をした直後でも、その答えには迷いがなかった。


「危険のことを考えた上でも?」


「ああ」


「何があるか、まだ分からないのに?」


「分からないから、調べる。分かったら、その時また判断する。今ここで、お前だけ先にいなくなる必要はない」


 昨日から張りつめていたものが、そこで少しだけ緩んだ。

 迷いが消えたわけではない。それでも、自分がここにいたいと思うこと自体まで間違いにされなかった。


 それでも、これから本当に危険が増えるのか、誰かが傷つくのか、その時に自分が何を選ぶのかはまだ分からない。考え始めれば、結局また答えのないところへ戻っていった。


「……疲れました」


「そうだろうな」


「考えても、まだ分からないです」


「今決めなくていい」


「でも、ずっと頭にあります」


 昨日の夜は、リヒターに言われた通り別の話をして眠れた。それでも朝になれば、なくなったわけではなかった。


「何も考えたくない」


 呟くように言ったその言葉が、答えを求めているものではないことはカイルにも分かったらしい。

 どうすればエレジが自分で望むものを選べるかを確かめるように聞いた。


「俺に、何かしてほしいか」


 カイルの目を見れば、自分が何を求めているのかも分かっていた。それでもカイルは自分の判断で触れず、エレジがどこまで望んでいるのかを確かめた。


「抱きしめるか?」


 エレジから近づくと、カイルの腕が身体を包んだ。昨日から何度も頭の中で繰り返していた言葉より、触れている体温や、すぐ近くにいることの方が今ははっきり感じられた。


 そのまま離れたくないと思っているうちに、抱きしめられるだけでは足りなくなった。


「キスしてほしいです」


 唇が触れると、答えの出ないことへ向き続けていた意識が、今ここにあるものへ少しずつ戻ってきた。


 エレジは自分からもう一度近づき、軽く触れるだけでは足りないことを伝えるようにカイルの服を掴んで引き寄せた。

 カイルもその求め方に応じたが、急がせることはなく、エレジが望む分だけ触れ方を深くしていった。


「今日は、もう考えたくないです。何も」


「ああ」


 その答えを聞いて、エレジはもう一度キスを求めた。


 カイルに触れられることを自分で選び、近づきたいと思った分だけ近づく。その一つずつなら迷わず決められる。

 エレジはカイルの首へ腕を回し、そのまま離れなかった。



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