渡り鳥
翌朝、五人は前日に確認した北東側の経路を使い、採石場を見渡せる高所へ向かった。
この日の目的は、採石場そのものを長時間観測することではなく、周囲の地形と接近経路、今後使える観測地点を確認することだった。
旧道から分かれる細い道をいくつか通り、そのうち一本には最近人が入った可能性のある踏み跡も残っていたが、それだけで利用者や目的までは判断できない。
エレジは位置と方向を記録しながら先へ進んだ。
午前の終わり頃には、木々の間から採石場の一部が見える場所へ出た。建物の屋根と進入路の一部が確認できる。
もう少し高い位置へ上がれば見える範囲は広がりそうだったが、その分だけ周囲からも見つかりやすくなる。
「ここなら使えます。ただ、長くいるなら少し下がった方がいいです」
エレジが示した位置からなら、採石場へ出入りする車両の有無と進入路の一部は確認できる。カイルも周囲の遮蔽物と退避経路を確認したうえで、翌日の観測候補として使うことを決めた。
「明日見るなら、ここを基準にする。位置を取れ」
「はい」
ヨナスも通信状態を確認し、午前に通ってきた谷より安定していることを記録した。リヒターは周辺の踏み跡や落ちているものを確認したが、この場所が最近継続して使われていると判断できる痕跡は見つからなかった。
必要な確認を終えると、五人はさらに北へ移動した。
午後に入ってしばらくすると、先の斜面から水音が聞こえ始めた。予定していた経路から大きく外れないことを確かめて近づくと、岩の間から沢が流れ落ち、その先に小さな滝があった。滝の下は浅く広がっており、水底の石が見えるほど澄んでいる。
エレジが野営地として先に気にしたのは、水辺そのものではなく、その少し上にある平坦な場所だった。沢からは十分に距離があり、地面にも増水した形跡はない。木々に囲まれて外から見えにくく、翌日の経路へ戻るにも問題はなさそうだった。
「ここ、野営に使えそうです」
カイルは地面と周囲の斜面を確認し、マティアスとリヒターも退避できる方向や外周の見通しを見た。ヨナスが通信を取ると、強くはないものの必要な送受信はできる。
「今日はここにする」
予定より少し早かったが、ここまでの確認は十分に進んでいた。五人は装備を下ろし、翌朝すぐ動けるよう配置を決めながら野営の準備へ入った。
ひと通り作業が終わったところで、リヒターが沢の方を気にした。
「ここなら身体くらい流せそうね」
滝の下は流れが緩く、深さもそれほどない。数日分の汗や汚れを落とすには十分そうだったが、水の透明さからも冷たさは想像できた。
「入るんですか?」
「入りたいでしょう?」
「それは……入りたいです」
数日間山に入り続けている以上、身体を流せる機会があるなら使いたかった。ただし全員が一度に警戒を外すわけにはいかないため、まずエレジとリヒターが水場へ行き、カイルとマティアスが外周を見ることになった。ヨナスは野営地に残り、通信機材と装備を確認する。
着替えを持って沢へ下りると、近くで見る水は想像していた以上に冷たかった。エレジは手を入れただけで指先に強い冷たさを感じ、これを全身に使うのかと思うと少しためらった。
「冷たいです」
「山の水だから当然でしょう」
「リヒター大尉、平気なんですか」
「入れば慣れるわよ」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶんなんですか」
リヒターが笑うので、エレジも諦めて水を使い始めた。
最初は肌に触れるたびに冷たさが勝ったが、汗や汚れが落ちていくにつれて気持ちよさの方が大きくなった。髪にも水を通すと、数日間まとわりついていた汗と埃の感覚が消え、頭まで軽くなったように感じる。
「気持ちいいです」
「でしょう?」
「でも冷たいです」
「それは変わらないわね」
二人の声は水音に混じりながら、少し離れた外周まで時々届いていた。
*
マティアスにも、何を話しているのかまでは分からないものの、リヒターが笑ったことは分かった。
以前なら、その程度のことでも何か軽口を言っていたかもしれない。今は特に口にする気にならず、斜面と木々の間を確認しながら警戒を続けていた。
「お前、最近何かあったか」
「何でですか?」
「口数が減った。前より考えてから話すようになったし、少し落ち着いたな」
「それ、褒めてます?」
「半分はな」
「残り半分は?」
「何か考えてる顔をするようになった」
言われて最初に浮かんだのは、前日の夜にリヒターと話したことだった。
本気だったことも、今も気持ちは変わっていないことも、自分とヨナスだからそう思ったのだと言われたことも、まだ頭に残っている。
「別に何もないですよ」
実際、何かが始まったわけではない。自分自身もまだ答えを決めていない以上、そう答えても嘘にはならなかった。
カイルもそれ以上聞かなかった。
「ならいい」
そこで終わったので、今度はマティアスの方が少し気になった。
「少佐って、そういうの分かるんですね」
「毎日一緒にいれば分かる」
「俺、そんな分かりやすかったですか」
「前と違えばな」
その時、また水場の方からリヒターの声が届いた。
マティアスは意識しないつもりでも、さっきよりはっきりその声を拾ってしまった。カイルは何も言わなかったが、自分の変化を見抜かれている以上、それにも気づいているのかもしれないと思った。
しばらくしてエレジとリヒターが戻ってくると、二人ともさっぱりした表情をしていた。特にエレジは髪がまだかなり濡れており、冷たかったと言いながらも気分はよさそうだった。
次はカイルとマティアスが水場へ向かった。
エレジとリヒターが外周を見て、ヨナスはそのまま野営地に残る。二人が戻った後、最後にヨナスが身体を流しに行き、その間はカイルとマティアスも野営地側へ戻った。
全員が済ませる頃には、陽もかなり傾いていた。
*
夕食の準備を始める頃になっても、エレジの髪はまだ少し湿っていた。
「まだ濡れてるだろ」
カイルに言われて確かめると、表面は乾き始めているものの、首に近い部分にはまだ水気が残っている。
「もうほとんど乾いてます」
「冷える前に乾かせ」
身体を流しただけで、数日間山に入り続けていること自体は変わらない。それでも汗と泥を落とせたことで、身体も気分もずいぶん軽く感じた。
食事の支度ができるまでの間、エレジは今日の記録を見直した。採石場の見える位置、旧道から続く細い経路、通信の状態。翌日は今日見つけた観測地点を使って、もう少し長く採石場を見る予定になっている。
必要な内容を書き終え、周囲へ意識を戻した時、空を横切る小さな影が視界に入った。
最初は数羽だけだと思ったが、その後ろにも同じ方向へ進む影が続いている。
「いました」
エレジの声に、四人も同じ空を見た。
鳥は大きな群れではなかった。十数羽ほどが少しずつ間隔を変えながら、山の稜線より高いところを北へ向かっている。
「時期の遅い群れですね。北へ向かってます」
ヨナスの説明を聞きながら、エレジは鳥を目で追った。
山を越え、季節が変われば別の場所へ移る。
「前に、ずっと同じところにいなくていいのがいいって言ってたな」
カイルに言われ、エレジはベルンハルトの川沿いで話したことを思い出した。
「覚えてたんですか」
「覚えてる」
ずいぶん前の会話なのに、迷わず返されたことが嬉しかった。
「私、少佐のそういうところが好きです」
鳥たちは同じ形のまま飛んでいるわけではなかった。前に出るものもいれば、少し遅れて後ろへ回るものもいる。それでも向いている方向は同じで、一羽だけ別の方へ飛んでいく鳥はいない。そこに目を止めている自分に気づいた。
「前は、どこにでも行けるのがいいと思ってたんです」
「ああ」
「でも、今はもっと別の気持ちもあります」
「どんな?」
「誰かと一緒に行けることです。たぶん、仲間と」
どこへでも行けることに憧れていた頃。自分が誰かと同じ方向へ進むことを想像したことはほとんどなかった。必要な場所へ行き、そこにいる理由がなくなれば離れる。軍に入ってからも、それで困らなかった。
今は、少し違う気持ちがある。
今日も一人で山を歩いたわけではない。自分が経路を見て、その先でヨナスが通信を確かめ、リヒターが人の痕跡を拾い、マティアスが足りないところへ入り、最後にカイルが全体を見て進むか止まるかを決めている。
役割は違っても、五人とも同じ方向へ進んでいた。
「今は、みんなといる方がいいです」
口にすると、それが今の自分には一番近い言葉だった。
カイルは何も言い足さなかった。エレジが何を言おうとしているのかを理解しているように思えたので、それで十分だった。
「中尉、鳥みたいにどこかへ行きたかったんですか?」
「前はそうでした」
「今は違う?」
「はい。行きたい気持ちはあります。でも、一人で行きたいわけじゃないです」
「変わったのね」
リヒターに言われて、エレジもそう思った。
以前は、今いる場所から離れられることが大事だった。どこへ行くかより、同じ場所にい続けなくていいことの方に惹かれていた。
今は、知らない場所へ行ってみたい気持ちは変わらない。それでも、その時に一人でいたいとは思わなかった。
鳥の群れは少しずつ遠ざかり、やがて山の向こうへ進んでいった。
明日もまた、四人と一緒に歩いていく。エレジは、そのことが嬉しかった。




