来た理由
「……どういうことですか」
自分の声が震えたのが、勝手に話されたことへの怒りなのか、カイルに知られたことへの羞恥なのか、エレジにはまだ分からなかった。
ただ、マティアスが去ったあとに残された静けさの中で、このまま自分だけ何も分からないままにされることには耐えられなかった。
けれど、冷静に考えれば、理由は一つだ。
「止めに来たんですか」
マティアスの姿が木立の向こうへ消えてから、エレジはようやくそう尋ねた。
昨日、自分が頼んだことをマティアスがカイルへ話した。それなら、カイルがここへ来た理由も分かる気がした。自分たちだけでは扱えない問題だと判断したマティアスが、教官であるカイルへ報告し、カイルは受講者が訓練に影響するような方法を取ろうとしていると知って止めに来たのだろう。
そう考えれば、少なくとも筋は通る。
けれどカイルは答えず、公園の周囲を見た。街の中心から離れているとはいえ、人目がないわけではない。少し先の遊歩道を人が通り、別のベンチには老夫婦が座っている。
「ここでは話せない」
「……内容が、ですか」
「ああ」
「じゃあ、どこで話すんですか」
カイルは、さきほどマティアスから渡された小さな紙を開いた。エレジの位置からもホテルの名前と数字が見え、部屋番号なのだと分かった。
「ここに行く」
思わず目を見開いた。
「……ホテルに?」
「話をするためだ」
公園へ来るまで、自分はそこへマティアスと向かうつもりだった。同じ場所へ今度はカイルと行くと言われただけで、そこへ向かう意味までまるで違うものになったように感じられる。
それでも、この場で続きを聞くわけにはいかないことは分かっていた。
「……分かりました」
ホテルは歩いて五分もかからない場所にある。
カイルは隣を歩いていても触れてこず、歩調も普段と変わらなかった。エレジに合わせようと意識しているようにも、先を急いでいるようにも見えず、ただ自然に同じ速さで進んでいる。
その距離はありがたかったが、落ち着けるわけではなかった。
マティアスが何を話したのか。どこまで知られているのか。自分がカイルを好きだということまで伝わっているのか。
聞きたいことはいくつもあったが、公園を離れた理由を考えれば、街中で続きを始める気にはなれなかった。
ホテルに着くと、受付ではすでに話が通っていたらしく、名前を告げると確認のあとすぐに鍵を渡された。そのやり取りを見ながら、エレジは、マティアスが本当に今日のためにここまで準備していたのだと改めて知った。
エレベーターに乗って扉が閉まると、外の音が途切れた。公園よりずっと人目がないのに、二人きりになった途端、かえって何も話せなくなる。
階数表示が一つずつ上がっていくあいだ、カイルは肩が触れるほど近くにはいなかったが、それでも基地で話しているときより近く感じられた。
エレベーターを降り、廊下の奥の部屋へ入る。扉が閉じて最初に目へ入ったのは、大きな窓だった。
その向こうには、ベルンハルトの街並みが冬の光の中に広がっている。雪を薄く載せた淡い色の屋根が連なり、その間を細い通りが走っていた。少し離れたところには時計塔も見える。
エレジは思わず窓際まで歩いた。
「……すごい」
朝から初めて、何かを見て自然にそう思った。
今日のベルンハルトでは、何を見てもほとんど心が動かなかった。以前なら立ち寄りたいと思った店も、広場も、通りを行く人々も、自分とは関係のない景色のように感じていた。
けれど、高い場所から見下ろす街はそれとは違った。少し離れたところにカイルも立つ。
「いいところだな」
「はい」
しばらく街並みを眺めたあと、エレジは言った。
「私、こういうところ初めてです」
「ホテルが?」
「こういう部屋です。旅行もほとんどしたことがないので」
「そうか」
「景色が見える部屋って、本当にこういう感じなんですね」
自分でも、こんな話をするとは思っていなかった。それでも、その一時だけは、なぜここへ来たのかを忘れていられた。
やがて振り返ったとき、部屋の中央にある大きなベッドが視界に入った。そこで一気に現実へ戻った。
表情が変わったことにカイルも気づき、何も言わず、ベッドには近づかずに窓際の長いソファへ向かい、腰を下ろした。エレジも少し迷ってから、反対側の端へ座った。
二人のあいだには、人一人分以上の距離がある。
公園にいたときまで抱えていた緊張や覚悟は、マティアスへの怒りで一度崩れてしまっていた。張りつめていたものが切れたあとには、拍子抜けするほど何も残っていない。
だから、かえって冷静に話せた。
「少佐が教官として止めに来たのは分かります。ご足労かけました。せっかくの休養日なのに。
マティアスもいなくなりましたし、私ももう何もしませんから、帰っていいですよ」
問題はなくなった。
予定していた相手はいなくなり、自分も今から別の誰かを探すつもりはない。それなら、教官であるカイルがここにいる理由もなくなったはずだった。
けれど、カイルは立ち上がらなかった。
「俺が話しに来たのは、そんなことじゃない」
「……違うんですか」
「ああ」
「でも、マティアスから聞いたんでしょう」
「聞いた」
「だから来たんじゃないんですか」
「それはそうだ」
「なら――」
「お前は、ロートが俺に何を話したと思ってる」
問い返され、エレジは少し考えた。
「今日、私がマティアスとここに来ることです。それと、人に触れられることが怖くなって、それをどうにかしたくて……経験したら変わるかもしれないと思ったことも」
「それだけか」
嫌な予感がした。
「……何ですか」
「ロートは、必要なことだけ話したと言ったな」
「はい」
「全部だ」
意味を理解できず、エレジはカイルを見る。
「……全部?」
「あいつが必要だと思ったことは、全部話した」
胸の奥が冷えた。
「何を話したんですか」
「お前がケルナーのことのあと、男に触れられると身体が反応するようになったこと。医務へ相談したこと。経験がないことも関係してるんじゃないかと考えたこと」
そこまでは予想していた。だが、カイルは続ける。
「それで、信頼できて、お前が嫌だと言えば止まる相手としてロートを選んだこと」
エレジは何も言えなくなった。
「……ほかには」
「俺には頼めないと思った理由」
呼吸が浅くなる。
「俺が教官だから。それと、お前が俺を好きだから」
身体の内側から一気に熱が上がった。
視線を保てず、エレジは膝の上の自分の手へ目を落とした。
マティアスへ話したときですら、口にするまでかなり迷った。課程が終わるまでは何も変えず、この気持ちは自分の中に置いておこうと思っていた。
その本人が、もう知っている。
「……それも言ったんですか」
「ああ」
「なんで……」
「まだある」
これ以上何が残っているのか分からず、顔を上げる。
「お前が、もし俺とそういう関係になることがあるなら、それを恐怖を治すための手段にはしたくないと言ったことも」
本当に全部だった。
なぜマティアスを選び、なぜカイルを選ばなかったのか。その理由まで本人に知られている。
羞恥と怒りが一緒になり、どちらを先に感じればいいのか分からなくなった。
「……マティアス、最悪です」
「ああ」
あまりにも迷いなく肯定され、エレジは思わずカイルを見る。
「少佐もそう思うんですか」
「本人の許可なく話したことはな」
「でも聞いた」
「ああ」
「止めなかったんですか」
「最初は止めるつもりだった」
「最初は?」
「途中で、俺も聞く必要があると思った」
「……話す必要がありますか」
「あると思ってる」
「私は頼んでません。マティアスに話していいとも言ってません」
「ああ」
カイルは否定せず、そのまま受け止めた。
「だから、今お前が怒ってることも当然だと思ってる。俺が来たことで余計に混乱させたことも分かってる」
「だったら、どうして来たんですか」
エレジは立ち上がった。
「少佐は、私が何をしようとしてるのか知って、それで止めに来たんですか」
「違う」
「じゃあ、何のために」
今度は、カイルも答えを避けなかった。
「教官として止めるだけなら、昨日できた。外出を止める理由を探すことも、医務と話すよう言うことも、訓練上の問題として扱うこともできた」
「でも、しなかった」
「ああ」
「どうしてですか」
「それをしたら、俺の感情を教官の判断に混ぜることになると思ったからだ」
そこで初めて、その言葉の先にあるものを避けられなくなった。
「少佐は、私がマティアスと行くのが嫌だったんですか」
「ああ」
「教官としてですか」
「違う」
迷いのない答えに胸が大きく鳴った。
嬉しいと思うより先に、それまで曖昧だったものが急に形を持ったことへの怖さが来る。
「じゃあ……何なんですか」
「教官じゃなければ、俺が相手になりたいと思った」
エレジは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。固まったまま何も言えずにいると、カイルは息をついて続ける。
「お前が誰かとそうする必要があると思っていて、相手を選ぶなら、俺がなりたいと思った」
「どうして……」
「お前のことが好きだからだ」
あまりにもまっすぐに言われ、エレジは何も返せなくなった。
これまでカイルがしてくれたことは、自分が彼を好きだと自覚してから、何度か意味を考えたことがある。けれどそのどれも、教官として説明できる範囲なのだと思ってきた。
今はもう、その必要がなかった。
「……私を?」
「ああ」
「私が、少佐を好きだって聞いたからですか」
「違う」
「応えないといけないと思ったからじゃなくて?」
「思ってない。お前が俺を好きでも、俺には応える義務はない。逆も同じだ」
「じゃあ……いつから」
「自覚したのは年末だが、たぶん……もう少し前からだ」
エレジは驚きで何も言えなかった。
マティアスから自分の気持ちを聞いたから生まれたものではない。同情でも、責任でもない。
そう理解した途端、胸の奥に別の熱が広がった。カイルは深い息をついた。
「課程が終わるまでは、何もしないし言わないつもりだった」
「でも、今日は来たんですよね」
「ああ」
「何が変わったんですか」
カイルは少しだけ苦い顔をした。
「ロートに言われた」
「何を?」
「教官としてどう処理するかじゃなくて、俺自身がどうしたいのかで決めてくれ、と」
エレジは思わず黙った。マティアスらしいのか、らしくないのか分からなかった。
「……それで、来たんですか」
「ああ」
「少佐が自分で?」
「最終的に決めたのは俺だ」
胸の中にあったものが、ゆっくり形を変えた。
勝手に話されたことへの怒りは消えていない。でも、カイルがここへ来たことまでマティアスが決めたわけではなく、カイル自身が選んで来た。
「じゃあ……少佐は、私とここでそうしたいんですか」
聞いてから、自分が何を尋ねたのかに気づいて顔が熱くなった。
カイルは笑わなかった。
「したいか、したくないかだけで言えば、したい」
息が止まりそうになる。
「でも、それと今日ここでするかどうかは別だ」
「どうしてですか」
「俺がしたいことと、お前が今日したいことは同じじゃない」
その言葉で、少しだけ呼吸が戻った。
「少佐は、最初から私とここへ来るつもりだったんじゃないんですか」
「そこまでは決めてない。ただ、ロートの代わりになるために来たわけじゃない」
その言葉で、ようやく筋が通った。
カイルはマティアスを押し退け、自分が今日の予定をそのまま引き継ぐために来たのではない。
自分の気持ちを伝えるために来た。
その先をどうするかは、ここで話してから決めるつもりだった。
「少佐が来なかったら、私はマティアスとここに来るつもりでした。怖かったですけど、それでも来るつもりでした。今も、全部やめたいと思ってるわけじゃありません」
「怖さを変えたいと思ってるからか」
「はい」
それだけは変わっていなかった。
「課程は待ってくれません。これから総合訓練も増えるし、近接もあります。負傷者搬送だってある。
人に触れられるたびに身体が止まるままでは困るんです。何もしないで待って、いつか戻るかもしれないと思ってるだけでは、間に合わないかもしれない」
「だから今日、何かを変えたい」
「はい」
「それは分かった」
カイルはそこで少し考え、言葉を選んだ。
「ただ、怖さをどうにかするために俺とするのは、やめた方がいい」
エレジは顔を上げた。
「どうしてですか」
「お前自身が言っただろ。俺とのことを、これを治すための手段にはしたくないって」
マティアスにだけ話したつもりだった言葉が、そのまま自分へ返ってきた。
けれど、その気持ちだけで今の状況を待っていられるほど、エレジには余裕がなかった。
「でも、私は治したいんです」
「ああ、分かってる」
カイルは否定しなかった。
それが余計に、エレジには苦しかった。焦っていることも、その焦りに理由があることも、カイルは分かっている。それでも、今ここで自分とすることを解決策にはしようとしない。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「そこを一緒にしない方がいいって言ってる。怖さをどうにかしたいことと、俺としたいことだ」
エレジは何も言えなかった。
自分の中では、今までその二つは同じ方向を向いていた。
恐怖をどうにかしたい。だから経験してみる。そのために、自分が実行できそうな相手を選ぶ。
昨日まで、それで筋は通っていると思っていた。
「マティアスを選んだのも、そのためだろ」
「……はい」
信頼できる。嫌だと言えば止まる。恋愛感情もない。だからできると思った。でも、それは自分が彼を求めているという意味ではない。
「……彼とは、したいわけではないです」
口にすると、自分でもはっきり分かった。
「嫌ではないんです。マティアスなら怖くてもできると思いました。それで何か変わるなら、やった方がいいとも思ってました。でも、したいかって聞かれたら……違います」
「なら、それは治したいから選んだ相手だ」
カイルの言葉は責めるものではなかった。
「それ自体が間違いだとは言わない。ただ、俺とのことまで同じ理由にしなくていい」
エレジは膝の上の手を見た。治したいという気持ち、それは今も変わらない。
このままでは困る。訓練にも任務にも支障が出るかもしれない。できるなら、今日何かを変えたい。
同時に、カイルとのことをそのための方法だけにはしたくない。
その二つは矛盾しているようで、どちらも自分の本心だった。
「でも……少佐となら、それだけじゃないかもしれません」
カイルは何も言わず、続きを待った。
同じことをマティアスとする想像をしたときにも、怖さはあった。けれど、そこにあったのは、必要だからやるという覚悟だった。
カイルとならどうなのか。
そう考えると、怖さはむしろ強くなる。好きだからこそ、途中で止めたらどう思われるのかが怖い。
それでも、マティアスのときのような「やらなければならない」という重さにはならなかった。
怖い。けれど、触れられることを想像したとき、拒みたいとは思わなかった。
「少佐なら……」
声に出したところで、その先が言えなくなった。
カイルは急かさなかった。エレジは何度か言葉を探したあと、ようやく顔を上げた。
「……少佐となら、したいと思うかもしれません」
カイルはすぐには答えなかった。その沈黙の長さに、エレジは自分の言葉を言い直したくなった。
したい、と言い切ったわけではない。かもしれない、と逃げ道を残した。それでも、その程度の言い換えで意味が薄くなるはずもなかった。
「……忘れてください」
「無理だな。今のを聞かなかったことにはできない」
思ったより早く返ってきた言葉に、エレジは顔を上げた。
「でも、私もまだ分からないです」
「分からなくていい。それを今すぐ決めろってことじゃない。今日ここで何かしなきゃいけない理由もない」
「でも、何もしなかったら何も変わらないかもしれません」
「何かすることと、性交渉をすることは同じじゃない」
その言葉に、エレジは少しだけ眉を寄せた。
「どういう意味ですか」
「お前が怖がってるのは、触れられること全部じゃないだろ」
「……そうです」
「肩や腕なら平気なこともある。前から来る接触なら大丈夫なときもある。何が一番駄目なんだ」
「分からないまま触れられることです。後ろからとか、次に何をされるか分からないときとか。相手が止まるかどうか、自分で判断できないときは……駄目です」
「なら、その条件を外さないで考えろ」
「条件?」
「今日ここで、治すためにいきなり一番深いところまで行く必要はないってことだ」
エレジはそこでようやく、カイルの言っていることを考え直した。
マティアスに頼んだとき、自分は性交渉そのものを一つの方法として捉えていた。未知に近い親密な接触を経験すれば、何かが変わるかもしれない。そう思ったからだ。
けれど、カイルが言っているのは、その方法自体をもっと細かく分けて考えることだった。
「……触れるところから、ですか」
「必要なら」
「少佐と?」
「それも、お前が決める」
また同じところへ戻された気がして、エレジは少しだけ息を吐いた。
「全部、私が決めるんですね」
「最終的にはな」
「少佐は何も決めないんですか」
「決める」
「何を」
「俺がどこまで応じるか」
その言葉で、エレジはマティアスとの会話を思い出した。自分の身体だから自分が決めていい。けれど、相手が応じるかどうかは相手が決める。同じことだった。
「……マティアスにも言われました」
「何を」
「私が決めていいのは、自分のことだけだって」
「正しいな」
「そうですね」
その言葉を受け入れられたことで、頭の中が少し静かになった。ここへ来たときには、今日何かをしなければならないと思っていた。
そうしなければ意味がない。何かを変えるために来たのだから、怖くても進まなければならない。そうして、その前提そのものを疑わなくなっていた。
「少佐。……手、触ってもいいですか」
カイルは少しだけ目を細めた。
「ああ」
差し出された手を見ながら、エレジはすぐには動かなかった。
訓練中なら、手を取ることに意味を考える必要はない。支えるため、引き上げるため、位置を変えるため。必要だから触れる。それだけだった。
けれど今は違う。
怖さを治すためでも、何かを証明するためでもない。自分が触れたいと思ったから、触れる。
その違いを確かめるように、エレジはカイルの手へ指先を伸ばした。




