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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
北部山岳特殊任務課程

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触れる


 訓練中に手を取ることは何度もある。補助のために腕を掴まれたことも、自分から他人の手を取ったこともある。

 それでも今は、まったく別のことをしようとしているように感じた。必要だからではなく、自分が触れたいと思ったから触れる。その単純なことが、今までになく意識された。


 指先を伸ばし、カイルの手の甲に触れてみる。身体が固まることも、胸が詰まることもなかった。それどころか、もう少し触れてみたくなって、手の甲から指へと位置を変えた。カイルは動かなかった。


「……大丈夫です」


「ああ」


「少佐は?」


「何が」


「大丈夫ですか」


「俺は大丈夫だ」


 その答えに、エレジは少しだけ困った。


「こういうとき、何て聞けばいいんでしょう」


「俺に聞くのか」


「分からないので」


 カイルの口元がほんの少しだけ緩んだ。


「嫌なら言う」


「分かりました」


 エレジはもう一度、自分の指先とカイルの手を見た。怖くはない。だからといって、何も感じないわけでもなかった。むしろ、カイルの手の温度や、骨ばった指の感触まで強く意識に残っている。


「握ってもいいですか」


「ああ」


 今度は自分から手を重ねた。カイルの手が閉じたのは、エレジが握ってからだった。その順序に気づく。  

 先に触れるのは自分で、返されるのはそのあと。その流れが分かっているだけで、身体は次に何が起きるのかを予測できたし、そこには恐怖がなかった。


 しばらくそのままでいると、胸の奥にあった緊張の一部が、少しずつ別のものへ変わっていった。


「……変ですね」


「何が」


「訓練で手を掴むのとは、全然違います」


「目的が違うからだろ」


「そういうものですか」


「たぶんな」


 カイルにも確信があるわけではないらしい。そのことに、エレジは少しだけ安心した。何でも分かっている人としてここにいるのではない。

 カイルも、この状況の正解を持っているわけではない。それでも今、自分の手を握り返している。


「私、今は怖くないです」


「ああ」


「これなら、もう少しできるかもしれません」


 カイルの指がわずかに止まった。


「できる、じゃない」


 言われて、エレジはすぐに意味を理解した。


「……もう少し、したいです」


 少し考えてそう言い直すと、今度は何も訂正されなかった。

 その言葉を口にしてから、エレジは自分が何を求めているのかを考えた。手を握ることより先へ進みたいという感覚はある。けれど、どこまでならいいのかはまだ分からない。

 

 さっきまでなら、その曖昧さを「できるかどうか」で埋めようとしていたはずだった。今は、分からないままでも、次に何を望んでいるのかを自分に問い直すことができる。


「何をしたい」


 カイルの問いは、答えを誘導するものではなかった。


「……分かりません」


「じゃあ、分かるところまででいい」


 手を握ったままそう言われると、急かされていないことがよく分かった。何かを選ばなければこの時間が無駄になるわけでも、ここまで来たから先へ進まなければならないわけでもない。

 エレジはカイルの手から視線を上げた。


「少佐は、触られるのは平気ですか」


「平気だ」


「私からなら?」


「ああ」


 答えを聞いてから、空いているほうの手を伸ばした。袖の上から腕に触れ、そのまま肩までゆっくり移動させる。

 訓練で相手の身体に触れるときのように、どこを掴めば動かせるか、どこを支えれば安全かを考えているわけではない。ただ、そこにいる相手に触れている。

 カイルは動かず、エレジが触れるままにしていた。その肩までたどり着いたところで、さらにその先へ触れてみたいと思った。


「顔に触ってもいいですか」


「ああ」


 指先が頬に触れる。思っていたより温かかった。基地では何度も近くで見てきた顔なのに、自分の指の下にあると、別のもののように感じる。頬骨の形も、わずかな髭の硬さも、目で見て知っていたものとは違っていた。

 そのまま触れていて、カイルが自分からは動かないことにも気づいた。


「少佐は、何もしないんですか」


「今はな」


「どうして」


「お前が自分から触っても怖くないのか、確かめてるところだろ」


「……はい」


「なら、俺が先に進めないほうがいい」


 その言葉には納得できた。それでも同時に、何もしてこないことを少し物足りなく感じている自分にも気づいた。

 触れられることを怖がっていたはずなのに、今はカイルが何もしてこないことのほうを意識している。その変化が意外だった。


「でも、少佐にも触ってほしいです」


 言ったあとで、胸が少し速くなる。カイルはすぐには動かなかった。


「どこに」


 聞かれて、エレジは考えた。肩なら怖くない。腕も大丈夫だと思う。けれど、それだけなら訓練とほとんど変わらない。


「……頬」


 カイルの手が、握っていた手から離れた。その瞬間だけ惜しいと思ったが、次には彼の手がゆっくり近づいてくるのが見えた。

 どこへ触れるのか分かっている。自分が頼んだ場所へ、その通りに来る。

 指先が頬に触れた。身体は固まらず、ただ、触れられた場所だけが強く意識された。


「大丈夫か」


「はい」


「やめるか」


「やめないです。もう少し、そのままがいいです」


 カイルの手は離れなかった。頬に触れているだけなのに、さっき手を握ったときよりもずっと近く感じる。触れられている場所と、目の前にいる相手とが切り離せなくなっていた。


「私、こういうのも初めてです」


「そうだろうな」


「分かってたんですか」


「ロートから聞いた話で、だいたいは」


 それを聞くと、また少しだけ恥ずかしくなった。


「本当にいろいろ話したんですね」


「ああ」


「あとで怒ります」


「そうしろ」


 その返し方に、ほんの少しだけ緊張が緩んだ。

 ただ、次に何をしたいのかを考えたとき、すぐには言葉が出なかった。頬に触れられているのは嫌ではない。それどころか、もう少し近づきたいと思っている。その気持ちが何を意味するのかは、さっきより分かっていた。


「……近くに来てもらってもいいですか」


 カイルは手を離さず、少しだけ体を寄せた。その程度ならまだ何も起きていないはずなのに、膝が触れそうなほど近くなると、エレジは自分の呼吸を意識した。怖いわけではない。ただ、相手がカイルであることを強く感じる。


「これでいいか」


「はい」


 少し迷ってから、今度は自分からさらに身を寄せた。カイルの肩に額が触れる。そこまでしてから、自分でも驚くほど身体の力が抜けた。

 訓練で誰かに身体を預けるのとは違う。負傷者搬送でも、格闘でも、相手の動きを利用するためでもない。ただ、自分がそこにいたいと思ったから寄りかかったのだ。

 カイルはすぐには腕を回さなかった。それがかえって安心できた。


「……抱きしめてもらってもいいですか」


 自分の声が思ったより小さくなった。


「ああ」


 今度は、先に答えがあった。

 カイルの腕が背中へ回る。どこに触れられるのか分かっていたのに、最初の瞬間だけ身体が強張った。それでも離れてほしいとは思わなかった。

 背中に回った腕は強く締めつけず、逃げられないようにするものでもない。エレジが距離を取ろうと思えばすぐに離れられる程度の力しかかかっておらず、そのことが分かるにつれて、身体の強張りは少しずつほどけていった。


「大丈夫か」


「……はい」


「本当に?」


「はい。少しびっくりしただけです」


「嫌なら離れる」


「嫌じゃないです」


 むしろ、離れられることを想像すると惜しいと思った。その感覚に自分で戸惑う。


「もう少し、強く……してほしいです」


 伝えると、カイルの腕に少しだけ力が加わって、胸の奥が熱くなる。

 怖さが完全になくなったわけではない。ただ、今の怖さは逃げたいから生まれているものではなかった。 

 知らないことに近づいている緊張はある。それでも、ここにいたいと思う気持ちのほうが強かった。


 しばらくそうしてから、エレジはカイルの肩から顔を上げた。さっきまでなら意識してしまったはずの距離なのに、今はそこから離れたくなかった。カイルも同じ近さにいる。それでも、彼は何も急かさず、エレジが距離を取ろうと思えばすぐに離れられる程度の力で抱いていた。


 少しだけ迷ってから、エレジはもう一度カイルの肩に頭を預けた。窓の向こうには、雪を載せたベルンハルトの屋根と時計塔が見えている。二人とも何も言わず、その景色をしばらく眺めた。


 抱きしめられていることには、もう最初ほどの緊張はなかった。背中にある腕の重さも、身体の近さも分かっている。それでも嫌ではない。むしろ、そのままでいたいと思っている。

 その感覚を意識しているうちに、エレジはケルナーのときとの違いを考え始めた。


「ケルナーは、たぶん最初から性的なつもりで触ってました」


「ああ」


「だから、私が怖くなったのも、ただ男の人に触られたからじゃないと思うんです」


 カイルは口を挟まず、続きを待った。


「相手がそういうつもりで私の身体に触ってるって分かったことが、たぶん始まりだったんだと思います。何をされるのか分からないし、止めてって言っても止まるか分からない。そういう状態で触られたから、身体が覚えてしまったんじゃないかって」


 言いながら、エレジは自分の中に残っていた感覚を整理していった。今は、手を握られても、頬に触れられても、抱きしめられても怖くない。それどころか、自分から望んでいる。

 けれど、それだけでは、ケルナーのときに怖くなったものと同じところまで来ているわけではないのかもしれない。


「だから……少し、確かめたいです」


「何を」


「私が信頼してる相手が、私にも分かってる状態で、性的な意味で触ったら、それでも同じように怖くなるのか」


 言葉にすると、自分が何を考えていたのかがはっきりした。同時に、別の引っかかりも生まれる。


「でも……」


「何だ」


「これだと、また治すために少佐に何かしてもらうことになる気がして」


 さっき言われたことを思い出す。怖さをどうにかしたいことと、カイルとしたいことは同じではない。


「頼んでいいのか、分かりません」


「お前自身はどうしたい」


 聞かれて、エレジは自分の気持ちをもう一度考えた。怖くならないか知りたい。それは確かにある。けれど、それだけなら、今こうしてカイルの腕の中にいたいとも、その先へ進みたいとも思わなかったはずだった。


「……触れてほしいです」


「治すためじゃなくても?」


「はい」


 今度は、そこまで迷わなかった。


「怖くならないか知りたい気持ちはあります。でも、それだけじゃないです。少佐に、そういう意味で触れてほしいと思ってます」


「俺だからか」


「はい。少佐じゃなかったら、今は頼んでないと思います」


 カイルはすぐには答えなかった。エレジの言葉を、自分に都合のいい意味へ変えずに受け取ろうとしているのだと、その沈黙の理由は分かった。


「なら、一つだけ確認する」


「はい」


「途中で怖くなったらどうする」


「止めてもらいます」


「続けられるって言わないな」


 一瞬だけ迷った。

 少し前までなら、大丈夫だと言ったかもしれない。怖くても続けられるなら続けることが正しいと思っていたし、今日ここへ来たときも、そのつもりだった。

 けれど、今はそれを言う必要がない。


「……言いません」


「ああ」


「嫌になったら、止めてって言います」


 それでようやく、カイルは頷いた。


「なら、先に範囲を決める」


「範囲?」


「どこまで触れられていいと思ってる」


 具体的に聞かれた途端、胸の奥が少し強く鳴った。それでも、その緊張はさっきまでの恐怖とは違っていた。


「顔と、首、肩、腕……」


 そこまで口にして、胸元へ意識が向いた。自分でも分かるほど一瞬迷い、視線を外す。


「お腹と、腰。正面からだけで」


「ああ」


「それと……その範囲の中なら、どこに触るかは先に言わないでほしいです」


 カイルの表情がわずかに変わった。


「分からない状態にするのか」


「全部は分からないようにしたいです。でも、今言った範囲からは出ないって分かってる状態で」


「触り方は?」


「触ったり、離したり……少し撫でたり。ずっと同じ場所じゃなくて」


 何をされても構わないという意味ではない。むしろ逆だった。どこまでなのかを自分で決め、その外には出ないと分かっているからこそ、その中に残る予測できなさには踏み込んでみたいと思えた。

 エレジはちらりと後ろのベッドを見た。


「あっちでもいいですか」


 カイルもそちらへ視線を向けた。


「ああ。ただ、場所が変わっても、今決めた以上のことをするつもりはない」


 二人で立ち上がると、カイルはそのままベッドへ向かわず、先に窓際へ行ってカーテンを閉めた。外から見えるはずもない高さだと分かっているのに、その動作を見た途端、これからすることの意味を改めて意識して顔が熱くなる。


 エレジはベッドの端に腰を下ろしたまま、自分の服を見た。

 外では必要だった厚手の上着も、この部屋ではもう暑いくらいだったし、このままでは触れられた場所も感覚も分かりにくい。

 エレジは上着を脱いで脇へ置いた。下には身体に沿う黒い薄手の保温用長袖を着ているため、肌が露出したわけではない。


 それでも、身体を覆っていたものが一枚減っただけで、さっきより自分が無防備になったように感じる。カイルは急かすことも、必要以上に見つめることもなく、そのまま待っていた。


「今言った範囲だけでいいんだな」


「はい」


「胸は入れない」


 さきほど自分が言葉を止めたことまで気づかれていたのだと分かり、また少し顔が熱くなった。それでも、そこまで頼むつもりはまだなかった。


「……はい。そこは、まだいいです」


「分かった」


 はっきり確認されると、かえって安心した。自分が言わなかった場所まで勝手に含められることはない。 

 そのことが分かっているだけで、これからどこへ触れられるか完全には分からない状態にも踏み込める気がした。


「目は開けたままか?」


「はい。少佐がいることは分かっていたいので」


「ああ」


 カイルも隣に腰を下ろし、二人は少しだけ距離を詰めた。

 最初に触れたのは頬だった。場所を告げられてはいなかったが、そこならもう触れられたことがある。

 指先が触れた瞬間に身体がわずかに構えたものの、頬の輪郭に沿って顎へ動き、そのまま離れていくまで、怖さが大きくなることはなかった。


 次がどこなのか分からないまま待つことには、思っていた以上の緊張があった。何も起こらない数秒の方が、触れられているときより意識が集中する。

 今度は腕だった。上腕に手のひらが置かれ、肘へ向かって一度だけゆっくり撫でられて離れる。

 次もすぐには来なかった。

 どこだろうと思った瞬間、首の横に指先が触れた。肩に力が入り、カイルの手はそれ以上動かなかった。


「止めるか」


 エレジは自分の身体に意識を向けた。驚いた。緊張もしている。けれど、触れられていることそのものをやめてほしいわけではない。


「……いいえ」


「続けたいか?」


「はい」


 返事を聞いてから、指先が首筋を短く撫でて離れた。その手がなくなったあと、エレジは自分が次を待っていることに気づいた。

 どこへ来るのか分からないことにはまだ緊張する。それでも、ケルナーのときのように、次に何をされるのか分からないまま身体全体が固まっていく感覚とは違った。


 カイルが自分の決めた範囲から外れないと分かっているだけで、同じ「次が分からない」という状態でも意味が変わっていた。

 次に手のひらが肩へ置かれ、そこから腕へ動くかと思ったところで途中で離れた。少し間が空き、今度は腹部へ触れられる。


 その瞬間、今までよりはっきり身体が強張った。

 薄手の服越しに手のひらが触れているだけなのに、頬や腕とは感じ方が違う。ただ触れられているのではなく、異性として身体を意識されていることを強く感じた。

 身体が強張ったことに気づいたのか、カイルは手を動かさず、そのまま反応を待った。


「どうだ」


「……緊張します」


「嫌か」


 エレジは少し考えた。


「嫌ではないです」


「このままでいいか?」


「はい」


 答えてから、エレジは意識して呼吸した。手が腹部にあることは分かっている。何をされているのかも分かる。次にどこへ行くのかまでは分からない。それでも、自分の意思がなくなったようには感じなかった。


 しばらくして手が離れ、今度は腰の横へ触れた。

 予想していなかったぶん、身体の反応は少し大きかった。それでも、触れられた瞬間にカイルの手だと理解できる。驚きはそこで止まり、その先まで恐怖に持っていかれることはなかった。


「大丈夫か」


「びっくりはします」


「ああ」


「でも、そのあと戻れます」


「戻る?」


「自分がここにいるっていう感覚に。少佐が触ってるって分かるし、嫌なら止められるって思えるから」


 口にしながら、エレジ自身もその違いを理解していった。


「ケルナーのときは、触られた瞬間から次が怖くなってました。次に何をされるのか分からないことが、そのまま怖さにつながってた。でも今は……分からなくても、全部が分からないわけじゃないです」


 カイルは何も言わず続きを待った。


「少佐がいることも、どこまでって決めたことも、止めてって言えば止まることも分かってるんです」


 言い終えてから、エレジは少し考えた。


「もう少し続けてほしいです」


「同じ範囲で?」


「はい」


 カイルが頷く。

 その後も、触れ方は一定ではなかった。頬や肩のようにほとんど構えずに受け入れられる場所もあれば、首や腹部のように触れられた瞬間に緊張が強くなる場所もあった。腰では驚きが先に来たが、しばらくすれば力を抜けた。

 それでも、嫌だと思ったときには止めてもらえるという感覚は、一度も失われなかった。


 エレジは次第に、触れられるたびに「大丈夫かどうか」だけを確かめるのではなく、その接触を自分がどう感じているのかまで意識できるようになっていった。

 緊張する場所がある。羞恥もある。それでも、カイルに触れられていること自体を嫌だとは思わない。


 むしろ、次に手が離れると、もう少し触れていてほしいと思う瞬間さえあった。カイルに触れられている今、自分は怖さだけを感じているのではなかった。


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