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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
北部山岳特殊任務課程

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キス


 脇腹のあたりを指先が軽くかすめた瞬間、驚きとくすぐったさが同時に走り、エレジは反射的に身体を揺らした。自分でも予想していなかった反応に、思わず口元を押さえる。


「すみません。そこ、くすぐったいです」


「そうか」


「はい。もう少し内側なら大丈夫だと思います」


 言いながら、まだ笑いが残っていることに気づいた。さっきまであれほど緊張していたのに、今は触れられた場所によっては怖さより先にくすぐったさを感じている。

 その変化がおかしくもあり、少し嬉しくもあって、エレジはようやく肩の力を抜いた。

 そんなエレジを見て、カイルが静かに言った。


「やっぱり、その方がいいな」


「え?」


「笑ってる方が」


 不意に言われて、今度は別の意味で表情が止まった。冗談ではないことは、カイルの顔を見れば分かる。


「……そうですか」


「ああ」


 それだけのやり取りなのに、胸の奥がまた少し熱くなった。触れられることを確かめる時間だったはずなのに、いつの間にか、自分がどんな顔をしているのかまで見られている。そのことが恥ずかしく、それでも嫌ではなかった。


「少佐」


「何だ」


「触ってるとき、何考えてるか言ってほしいです」


 珍しく、カイルがすぐには返さなかった。


「……なんで」


「少佐、さっきから全然喋らないから」


「喋ることがない」


「何を考えてるか分からないです」


 カイルは少しだけ息を吐いた。


「聞かない方がいいと思うぞ」


「嫌なんですか?」


「嫌というか、聞いて後悔するかもしれない」


「頼んでるんだから、後悔しません」


 カイルはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように腕へ触れた。そこはすでに何度も触れられている場所だった。


「柔らかい」


 エレジは思わずカイルを見る。


「なんですか、それ」


「本当にそう思ってる」


 腕を撫でられながら言われると、さっきまでより余計に意識してしまう。次に腹部へ手が移ったときも、カイルはほとんど間を置かずに言った。


「ここも柔らかい」


「……それしかないんですか」


「今のところは」


「もっと違うこと考えてないんですか」


「考えてる」


「じゃあ言ってください」


 カイルはすぐには答えず、今度は頬に触れた。そのまま手を離さず、指先を頬に置いたままエレジを見る。距離も近く、何を言われるのか待っているうちに、先に落ち着かなくなったのはエレジのほうだった。


「……何ですか」


「かわいいと思ってる」


 一瞬、意味を理解するのが遅れた。


「……私が?」


「ああ」


 それまで「柔らかい」としか言わなかった人から、急にそんな言葉が出てくるとは思っていなかった。

 視線を逸らしかけたが、頬に手を置かれたままでは完全には逃げられない。


「そういうことも、考えるんですね」


「考える」


「普段から?」


「今は今の話だ」


「……ずるいです」


「何が」


「そこは答えないんですね」


 カイルの口元がわずかに緩んだ。その表情を見ているうちに、エレジの顔もまた熱くなっていった。


 やがて頬に触れていた手が離れると、エレジは少しだけ身体の向きを変えた。


「次は……後ろからやってみたいです」


 カイルの表情がわずかに変わる。


「後ろから?」


 さっきまでは、完全に背を向けるのはまだ嫌だと思っていた。けれど、正面から予告なしに触れられても意識は途切れず、嫌なら止められることも何度も確かめた。今なら、もう一段だけ踏み込める気がした。


「場所は決めます。背中と、首と、肩と、脇腹と……腰」


「そこだけだな」


「はい。今は」


「分かった」


 エレジはベッドの上で向きを変え、カイルに背を向けた。すぐ後ろに彼がいることは分かっている。

 それでも視界から姿が消れた途端、正面から触れられていたときとは違う緊張が戻ってきた。


「……少し怖いです」


「やめるか」


「いいえ。このままやってみたいです」


「分かった」


 最初に肩へ手が触れた。見えていないぶん一瞬だけ身体が強張ったが、その重みでカイルだと分かる。手はしばらくそこに留まり、それから離れた。


 次は背中だった。服の上からゆっくり撫でられ、途中で一度止まる。どこへ移るのかと意識したところで、そのまま手が離れた。


「どうだ」


「正面より緊張します」


「続けるか?」


「はい」


 その後も、首や腰へ順番を変えながら触れられた。見えないぶん最初の反応は強くなる。それでも、相手が誰なのか、自分がどこまで許したのか、嫌なら止められることは分かっている。そのことが、思っていた以上に大きかった。


「少佐。今、何考えてますか」


「またそれか」


「後ろからだと顔が見えないので、余計に気になります」


 少し間があった。


「さっきより力が入ってると思ってる」


「やっぱり分かりますか」


「ああ」


「ほかには?」


「背中は思ったより細い」


「それは……どういう意味ですか」


「そのままの意味だ」


「柔らかいじゃないんですね」


「場所が違うからな」


 エレジは少しだけ笑った。その声が出たことで、背を向けた状態への緊張もいくらか薄れていく。


 もう一度肩に触れられ、そこから背中へ手が移る。今度は最初ほど驚かなかった。


「もう少し続けてください」


「ああ」


 何度か触れられるうち、エレジは、見えなくても自分の感覚を失わずにいられることが分かってきた。

 予測できないことそのものが怖いのではなく、相手の意図も、自分の意思が届くかどうかも分からない状態が怖かったのだと、少しずつ整理できる。


 しばらくして、カイルの手が背中から離れたところで、エレジは身体を正面へ戻した。


「今度は、私が触ってもいいですか」


「ああ」


 エレジはまずカイルの腕に触れた。服の上からでも、自分とは明らかに違うことが分かる。上腕に手を置き、少し確かめるように指を動かしてから、そのまま肩へ手を移した。


「……硬いですね」


「そうか?」


「はい」


 カイルにはあまり自覚がないらしい。エレジはそのまま胸元へ手を置いてみた。そこも柔らかさより先に身体の厚みが伝わってくる。


「筋肉があります」


「軍人だからな」


「私も軍人です」


「知ってる」


「私とは全然違います」


「それも知ってる」


 さらりと言われて、エレジは思わずカイルの顔を見た。


「それ、どういう意味ですか」


「さっき散々触っただろ」


 言われて、今度はエレジのほうが顔を赤くした。


「……そうでした」


 カイルの口元にわずかな笑みが浮かんだ。


 触れることは、もう確認のためだけではなくなっていた。怖いかどうかを測るためでも、身体の反応を試すためでもない。ただ、カイルの身体が自分とはどう違うのか知りたくて触れている。


 そのことに気づくと、今度は顔にも触れてみたくなった。

 エレジは手を上げ、カイルの頬に指先を触れた。頬の輪郭をなぞるように指を動かしているうち、ふと、カイルが何度か自分にしていた仕草を思い出す。頬から顎へ、指を滑らせるように触れる動きだった。


 それを真似するように、エレジはカイルの頬から顎へ指先をゆっくり滑らせた。

 その瞬間、今まで自分がされていたときには分からなかったことが、不意に分かった気がした。


 この距離で顔に触れ、相手の顔を見る。ただ触れたいだけではなく、その先にもっと近づきたいという気持ちまで、自然につながってしまう。


 指が顎のところで止まった。カイルも動かなかったが、二人の視線だけは合ったままだった。


「少佐」


 エレジは少しだけ迷った。


「キス、したいですか?」


 カイルはすぐには答えなかった。聞いてしまってから、さっきまでよりずっと近い問いだったのだと分かる。


「……聞かなかったことにはできませんよ」


「分かってる」


「じゃあ」


 カイルは少しだけ息を吐いた。


「したい」


 短い返事だった。それだけなのに、エレジの胸が強く鳴った。予想していなかったわけではない。それでも、本人の口からはっきり聞くのとは違った。


「……いつからですか」


「今それを聞くのか」


「気になります」


「少なくとも、お前に頬を触らせてたあたりからは考えてた」


「そんなに前から」


「前ってほどでもない」


「私、全然分かってませんでした」


「分からせるつもりもなかった」


 その返事に、エレジは少しだけ笑った。けれど、すぐにまた別の緊張が戻ってくる。


「……したいと思ってたのに、言わなかったんですね」


「ああ」


「どうして」


「お前がしたいか分からなかったからだ」


 その答えは、ここまでずっとカイルがしてきたことと同じだった。


 自分から触れたいと思ったから触れた。抱きしめてほしいと思ったから頼んだ。もっと触ってほしいと思ったから、それも言った。

 なら、これも同じだった。


「私も……したいです」


 口にした途端、さっきまでとは比べものにならないほど恥ずかしくなった。それでも、言い直したいとは思わなかった。

 カイルはすぐには近づかなかった。


「今か?」


「はい」


「怖くないか」


 エレジは少し考えた。


「緊張はしてます」


「怖いのとは違うのか」


「たぶん」


 そこで曖昧に終わらせず、自分の感覚をもう一度確かめる。


「でも、やめたいとは思ってないです」


 カイルはそれを聞いてから、ようやく少し距離を詰めた。エレジは彼が近づいてくるのを見ていた。


 何をされるのかは分かっている。自分が望んだことでもある。それなのに、これまで触れられたどの場所よりも緊張した。

 カイルの手が頬に触れる。


「止めるなら今でもいい」


「止めません」


 答えると、カイルはそれ以上確認しなかった。

 ゆっくり顔が近づいてくる。エレジは最後まで見ていたいような気もしたが、距離がなくなる直前には自然に目を閉じた。


 唇が触れた。


 ほんの短い接触だった。触れたと思った次の瞬間には、もう少し離れている。


 エレジはすぐには目を開けられなかった。怖かったわけではない。ただ、自分が望んだことが実際に起きた感覚を、身体が少し遅れて受け止めようとしているようだった。


「大丈夫か」


 その声で目を開けると、カイルがまだすぐ近くにいる。


「……はい」


「本当に?」


「はい」


 少し考えてから、エレジは付け加えた。


「でも、短かったです」


 カイルの眉がわずかに動いた。


「初めてだからな」


「そうですけど」


「何だ」


「もう一回してもいいですか」


「ああ」


 今度はエレジのほうから少し距離を縮めた。カイルもそれに合わせるように近づき、二度目のキスは最初より長く続いた。

 触れてすぐに離れるのではなく、互いの呼吸が近いまま、時間だけが少し伸びていく。それでも急に深くなることはなく、エレジには目を閉じたまま、その感覚を確かめる余裕があった。


 怖くはなかった。

 それどころか、最初のキスがあまりに短く終わったときに感じた物足りなさが、少しずつ埋まっていくように思えた。

 エレジは自分からカイルの肩に手を置いた。そこに触れていることで、相手が確かにここにいることまで分かるような安心があった。


 キスが終わっても、二人はすぐには離れなかった。額が触れそうな距離にカイルの顔がある。


「……さっきより分かりました」


「何が」


「キスするって、こういう感じなんですね」


「どういう感じだ」


 聞かれて、エレジは少し困った。


「言葉にしにくいです」


「なら無理に言わなくていい」


「でも、嫌じゃないです。むしろ……もう少ししたいです」


 今度は、言い直す必要もなかった。

 カイルは少しだけ目を細めた。


「分かった」


 三度目は、カイルのほうから近づいてきた。エレジはその動きを見たまま待つ。

 何をされるのかは分かっていて、止めようと思えば止められる。そのうえで、自分は来てほしいと思っている。


 唇が触れたとき、今度はほとんど身体が強張らなかった。

 肩に置いていた手を少し上へ動かし、カイルの首に近いところへ触れる。触れられるだけではなく、自分も相手に触れていることで、思っていた以上に安心できた。

 しばらくして唇が離れると、エレジは自然に少し笑った。


「何だ」


「いえ」


「笑ってるだろ」


「ちょっとだけです」


「何がおかしい」


「少佐、さっきからずっと慎重なので」


「悪いか」


「悪くないです」


 むしろ、その慎重さがなければ、自分はここまで来られなかったと思う。

 エレジはカイルの首元に触れたまま、ふとまた気になった。


「少佐は、キスするときも何か考えてるんですか」


「またそれか」


「気になるので」


 カイルは少し困ったように息を吐いた。


「最初は、お前が固まらないか」


「はい」


「次は、嫌がってないか」


「はい」


「今は……」


 そこで言葉が止まり、エレジは続きを待った。


「今は?」


 カイルは正面からエレジを見た。


「もう一回したいと思ってる」


 今度はエレジのほうが黙った。


「……そういうの、急に言うんですね」


「聞いたのはお前だ」


「そうですけど」


 顔が少し熱くなった。それでも嫌ではなく、むしろ、さっきまで自分ばかりが「したい」と言っているように感じていたぶん、カイルの口から同じ気持ちを聞けたことに安心した。


「じゃあ」


 エレジは少しだけカイルへ近づいた。


「もう一回してください」


 カイルは一度だけエレジの目を見て、それからゆっくり距離を詰めた。

 今度のキスは、これまでより長かった。

 エレジは目を閉じ、首元に置いていた手に少しだけ力を入れる。触れているだけだったキスが、急ぐことなく、わずかに深くなっていく。


 カイルが一度離れかけ、そのままもう一度唇を重ねると、エレジも逃げずに応じた。

 呼吸が近く、相手との距離がほとんどないことを意識するほど胸は速くなったが、もうそれを恐怖だとは思わなかった。それよりも、もう少し近くにいたいという気持ちのほうがはっきりしていた。


 エレジは首元に置いていた手を肩へ回し、自分からさらに少し距離を詰めた。それに気づいたカイルの手が、頬から首の横へ移る。

 その瞬間だけ、身体がわずかに強張った。

 カイルの動きはすぐに止まった。目を閉じたままでも、その手が止まったことは分かる。


 嫌だったわけではない。ただ、予想していなかった接触に驚いただけだった。

 エレジは自分からほんの少し顔を傾けた。

 それで十分伝わったのか、カイルは再びキスを続けた。


 エレジにはまだ、どう応じるのが自然なのかまでは分からない。それでも、分からないなりに相手の動きに合わせることはできているし、その途中でも自分がどう感じているのかを考えられていた。

 怖いのか。嫌なのか。やめたいのか。どれも違う。むしろ、離れられるほうが惜しい。

 そのことに気づいた頃、カイルのほうから先に少し距離を取った。

 エレジはゆっくり目を開けた。


「……終わりですか」


 自分でも驚くほど素直に出た。


「一回はな」


「一回」


「ああ」


 まだ胸は速く動いているし、唇には触れられた感覚が残っている。それでも、最初のときのように何が起きたのかを追いかける必要はなかった。


「最初より、だいぶ違いました」


「嫌だったか」


「いいえ」


 それにはすぐ答えられた。


「むしろ……こっちの方が好きかもしれません」


「初めてで比較できるのか」


「もう何度かしてます」


「そうだな」


 カイルの口元がわずかに緩んだのを見て、エレジも笑った。



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