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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
北部山岳特殊任務課程

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休憩・試す


 しばらくそのままでいるうちに、エレジは自分の身体が思っていた以上に熱を持っていることに気づいた。意識した途端、喉の渇きまで急にはっきりする。


「……喉、渇きました」


「ああ。俺もだ」


 カイルも同じだったらしく、ベッドを降りて部屋に置かれていた水を取った。いったん距離が離れたことで、さっきまで二人のあいだにあった空気が少しだけ薄まり、エレジも受け取った水を何口か続けて飲む。    

 冷たさが喉を通るにつれて、身体に残っていた熱もゆっくり落ち着いていった。


 そこで初めて、部屋の中をまともに見たような気がした。窓から差し込む光は、ここへ来たときよりずっと高い位置から入っている。カイルも同じことに気づいたのか、壁の時計を確認した。


「もう十一時半になるな」


「……そんなに経ってたんですか」


 エレジも時計を見る。ベルンハルトに着いたのは朝で、公園でカイルと会ったのが十時前だった。

 そこからホテルへ移って話をし、手を取って、触れられて、キスまでした。そのあいだ、一度も時間を確認していなかった。


 時間を認識した途端、それまで目の前のことだけに向いていた意識が急に広がった。

 ついさっきまで自分から身体に触れてほしいと頼み、何度もキスをしていたことまで具体的に思い返され、エレジは急に恥ずかしくなって手元のグラスへ視線を落とした。


「……何だ」


「いえ」


「急に静かになったな」


「少佐は平気なんですね」


「何が」


「……さっきまでのことです」


 カイルもすぐには答えなかった。その沈黙だけで、少なくとも自分だけが意識しているわけではないらしいと分かる。


「平気ではないな」


「そうなんですか」


「ああ」


 思わず顔を上げる。


「全然そう見えません」


「見せてないからな」


「またそれですか」


「さっきも言っただろ」


 そう言われると、少しだけ救われた。何事もなかったように見えるのは、何も感じていないからではなく、表に出していないだけなのだと分かる。


 それでも一度冷静になってしまうと、今度は自分がさっきまで口にしていた言葉まで次々と思い出された。


「……私、いろいろ言いましたね」


「言ったな」


「忘れてもらえませんか」


「無理だな」


 朝と同じ返事が返ってきて、エレジはとうとう小さく笑った。


「それ、今日二回目です」


「同じこと聞くからだ」


 恥ずかしさが消えたわけではないが、もうそれを笑えるくらいには落ち着いていた。カイルは水を飲み終えると、もう一度時計を確認した。


「帰投は夕方だったな」


「はい」


「まだ時間はある」


 エレジは少しだけ目を瞬いた。


「……覚えてたんですね」


「許可を出したのは俺だ」


「そうでした」


 考えてみれば当然だった。外出許可願を確認したのはカイルなのだから、帰投予定も知っている。

 ついさっきまでベッドの上で近くにいた人が、今は当然のように教官としての情報を口にする。その両方が同じカイルなのだと思うと、基地での関係まで急に現実味を持って戻ってきた。


「少佐も、今日中に戻るんですよね」


「ああ」


 聞いたあと、エレジは少し迷った。


「……帰りは、別々の方がいいですよね」


 朝ここへ来たときには、帰りまでカイルと一緒にいることになるとは考えていなかった。今になってみれば、一緒に戻りたい気持ちがまったくないわけではない。

 それでも、基地へ戻ればまた教官と訓練生に戻るのだと思うと、そこまで今日の関係を持ち込まない方がいい気がした。


「ああ。その方がいいだろうな」


 カイルも同じ結論だったことに、少しだけ寂しさを覚える。それでも、否定したいとは思わなかった。


「帰る時間は合わせなくていい。先に戻ってもいいし、街に残っててもいい」


「分かりました」


 まだ帰投までは時間がある。それでも、帰り道を別にすると決めたことで、今日ここで過ごす時間と、基地へ戻ってからの関係とのあいだに境界が引かれたように感じた。


 カイルはグラスを置いてから、話題を切り替えるようにエレジを見た。


「接触については、どう思う」


「接触?」


「今日やったこと全部だ。触られたことも、キスも」


 そこまで言われて、エレジは問いの意味を理解した。単に怖かったかどうかを聞かれているのではない。ここまで一つずつ進めてきた接触を、自分が今どう受け止めているのかを聞かれている。


「……最初は、かなり怖かったです。でも、途中からは、怖いかどうかだけを考えてなかったです」


「何を考えてた」


 言葉にしようとすると、自分の中で起きていた変化が少しずつ形になっていく。


「触られてること自体を意識してました。どこに触られてるかとか、少佐がどういうつもりなのかとか。

 あと……私がそれを嫌だと思ってるのか、それとも、もっとしてほしいと思ってるのか」


 カイルは口を挟まずに聞いていた。


「最初は、怖くないなら大丈夫だと思ってました。でも、途中から、それだけじゃ違うって分かって」


「違う?」


「はい。怖くないから続けるんじゃなくて、続けてほしいから続けるっていうのが」


 そこまで言うと、さすがに少し恥ずかしくなった。それでも、今度は目を逸らさなかった。


「キスも?」


「はい。嫌じゃなかったです。むしろもう、確かめるためだけじゃなかったと思います」


 カイルの表情がわずかに変わった。


「じゃあ、今やったことは、治すための確認だけではなかったんだな」


 エレジは少し考えてから頷いた。


「途中からは、違いました」


「いつから」


 その問いにはすぐ答えられなかった。どこか一つで切り替わったわけではない。手を握ったときかもしれないし、抱きしめられたときにはもう変わり始めていたのかもしれない。


「……どこからかは分からないです。でも、キスしたいって聞いたときには、もう試してるだけじゃなかったです。少佐がしたいって言ったのも、嬉しかったです」


 言ってから、さすがに少し視線を落とした。


「それも含めて、どう思う」


 カイルはまだ問いを終わらせなかった。エレジもしばらく考える。


「……怖かったことが、全部なくなったとは思ってないです」


「ああ」


「明日から誰に触られても平気になるとも思ってません。でも、少なくとも、性的な意味で触れられること自体が駄目なんじゃないって分かりました。あと、私が選べる相手と、選べる触れ方なら……嫌じゃないこともあるって」


「ある、か」


 そこを拾われ、エレジは少しだけ笑った。


「……少佐なら、嫌じゃないです。むしろ、したいと思いました」


 カイルはしばらく何も言わなかった。それでもエレジは、自分の言葉を引っ込めようとは思わなかった。


「……少佐が来てくれて、よかったです」


「ロートじゃなくて?」


「はい。マティアスだったら、たぶん最後まで、できるかどうかばかり考えてたと思います。怖くても、できるなら続けようとしてたかもしれません。でも少佐とは、途中からしたいかどうかを考えられました」


「俺だからか」


「はい。少佐に触られるのも、キスするのも、途中からは確かめるためじゃなかったです。もっとしてほしいと思ったのも、本当です」


 口にすると、思っていた以上にまっすぐな意味になった。それでも、今度は引っ込めなかった。


「……何か言ってください」


「何を」


「分かりません。でも、今は黙られる方が恥ずかしいです」


 カイルの口元がわずかに緩んだ。


「俺も来てよかったと思ってる」


 短い返事だったが、それだけでエレジには十分だった。


 しばらくその言葉を受け止めてから、エレジはまだ自分の中に残っている別の不安へ意識を向けた。カイルが来てくれてよかったと思うことと、これで問題がすべて解決したと思うことは違う。


「でも……これで全部大丈夫になったとは思ってないです」


「何が大丈夫だと思わない」


「この先の課目です。今みたいに、相手も分かっていて、触られる範囲もある程度決まっていて、嫌なら止められる状況なら、たぶん大丈夫です。でも、総合科目みたいに急に何か起きる訓練だと、同じようにできるか分かりません」


「例えば?」


「負傷者が出た想定で急に身体を支えられたり、後ろから引かれたり、近接戦闘の流れで触られたり。自分が次に何をされるのか考える前に動かないといけない場面です」


 そこまで言って、自分が今ここで確認できたことと、実際の課程で求められることの違いを考える。


「今は、自分で選べることが大きかったと思います。でも実際の課目では、毎回止めて確認するわけにはいかないですよね。相手も、その場の判断で動くし。だから、今日ここで分かったことが、そのまま訓練で使えるとは思ってないです」


 カイルはそれを否定しなかった。


「急な接触そのものが問題になる可能性はあるな」


「はい」


 カイルに言われたことで、次に確かめたいことがはっきりした。


「試してみたいことがあります」


 カイルは口を挟まず、続きを待った。


「近接戦闘をやってほしいです」


「今?」


「はい。ただ……普通の近接じゃなくて」


 言いにくさはあったが、ここを曖昧にすれば意味が変わる。


「性的な目的があるつもりで、やってほしいです」


 カイルの表情が変わった。


「どういう意味だ」


「ケルナーのときと同じ条件に、近づけたいです」


「同じ条件にはならない」


「分かってます。少佐だって分かってるし、私が頼んでることも違います。でも、近接の動きと性的な意図が重なったときに、身体がどう反応するのかは見てみたいです」


 カイルは少し考えてから、確認するように聞いた。


「何をされた」


 エレジは記憶をたどる。思い返しても、さっきまでのように身体が強張ることはなかったが、記憶の中に残っている不快さまで消えたわけではない。


「手首を取られて、動きを止められたのが何回か。壁際まで押されて、そのまま身体を近づけられたこともあります。後ろから上体を押さえられたこともありました。腕を取る必要がある場面だったのに、必要以上に身体をつけられて。あと、組み合ったところから体勢を崩されて、上から押さえ込まれたこともあります」


 カイルの表情が少し硬くなった。


「それを全部やれって?」


「全部一度にじゃないです。一つずつでいいです。最初は……手首を取られるところから」


 そこで少し考え、条件を付け加える。


「ただし、普通に訓練するつもりじゃなくて、少佐が私に性的な意図を持って近づいてるって、私にも分かるようにしてほしいです」


「それで反応を見るのか」


「はい」


「止める条件は」


「私が止めてって言ったら、すぐに」


「言えなくなったら?」


 そこは考えていなかった。エレジが答えられずにいると、カイルが続ける。


「固まって返事がなくなったら、その時点で俺が止める。続けられるかどうかは、そのあと決める」


「……はい」


「それと、ケルナーと完全に同じ再現はしない」


「どうしてですか」


「再現することが目的じゃないからだ。お前がどの条件で反応するのかを見る。それで十分だ」


 エレジはしばらく考えてから頷く。


「分かりました」


「最初は手首だけだ」


「少佐……壁も、使ってみてほしいです」


 カイルはすぐには了承しなかった。


「そこも気になります。ケルナーのとき、壁際まで詰められたこと自体が怖かったのか、それとも、そのあと何をされるか分からなかったことが怖かったのか、分けてみたいです」


「壁際に立たせるだけならできる」


「はい」


「押さえつけるのはしない」


 エレジは少し考えた。


「手首を取るのは?」


「片方だけなら」


「身体は近づけますか」


「お前がそこまで望むなら。ただし、距離は俺が決めない。近づく前に確認する」


「分かりました」


「壁に触れた時点で止めてもいい。返事がなくなったら、そこで終わりだ」


「はい」


 カイルはそこで一度、エレジの顔を見た。


「今からやるのは、訓練じゃないぞ」


「はい」


「それでもやるのか」


 エレジは少しだけ息を吸った。


「やってみたいです」


 カイルが立ち上がり、エレジもベッドを降りた。

 部屋の壁までは数歩しかない。それでも、そこへ向かっただけで、さっきまでベッドの上で話していたときとは違う緊張が戻ってきた。エレジは壁の前で立ち止まり、少し離れた位置にいるカイルを見た。


「ここでいいです」


「最初は手首だけ」


「はい」


「そこから先は、その都度聞く」


「分かりました」


 エレジは一度だけ息を整えた。


「お願いします」


 カイルが近づいてくる。何をするのかは分かっているはずなのに、距離が縮まるにつれて胸の奥に別の緊張が戻り、手首に触れられただけで身体がわずかに強張った。


「どうだ」


「……少し怖いです」


「止めるか」


「いいえ。もう少し」


 カイルはそこで動きを止め、エレジの返事を待った。


「壁まで行くぞ」


「はい」


 今度はエレジ自身が一歩下がり、背中が壁に触れた瞬間、呼吸が浅くなる。カイルはまだ距離を残している。それでも、壁が背中にあるだけで身体の反応は明らかに強くなっていた。


「ここまででどうだ」


 エレジは自分の感覚を確かめる。


「……怖いです」


「ああ」


「でも、まだ考えられます」


「続けるか?」


 少しだけ迷ってから頷く。


「はい」


 カイルはそこで初めて、ほんの少しだけ距離を詰めた。触れているのは手首だけだったが、壁を背中にしたまま目の前にカイルがいることで、身体の緊張はさらに強くなる。


「……やっぱり、壁は違います」


「どう違う」


「逃げ道がなくなる感じがします」


「実際にはある」


「分かってます。でも、身体は先にそう思うみたいです」


 カイルは少しだけ距離を戻した。


「それなら、今はここまででもいい」


 エレジは壁に背をつけたまま、しばらく考えた。


「……少佐。もう一回だけ、近づいてもらってもいいですか」


「さっきより?」


「少しだけ」


「性的な意図があるって分かるようにか」


「はい」


 その答えを聞いてから、カイルはもう一度距離を詰めた。


 背中には硬い壁があり、片方の手首は取られている。状況だけを切り取れば、ケルナーのときに近い。それでも今は、目の前にいるのがカイルだと認識したままでいられた。


「今、何が一番強い」


「壁です」


「手首じゃなくて?」


「はい。手首も緊張しますけど……壁がある方が、逃げられない感じがします」


 カイルはその答えを聞いても距離を詰めず、エレジが自分の感覚を確かめられるように位置を保った。


「俺が近いことは?」


 エレジは少し考えた。手首を取られていることも、壁際にいることも、カイルが性的な意図を持って近づいていると分かっていることも、すべて緊張につながっている。それでも、カイルそのものから離れてほしいとは思っていなかった。


「それもあります。でも……さっきより、怖いだけじゃないです」


「どういう意味だ」


「少佐が近いこと自体は、嫌じゃないです。むしろ……今は、それも意識してます」


 怖さがあるのに、カイルが近いことを嫌だとは思っていない。その二つを同時に認識できていること自体が、以前とは違っていた。

 カイルはしばらくエレジの顔を見てから、取っていた手首の力を少し緩めた。


「ここから、もう少し近づいたらどうなるか試すか?」


「……はい」


「嫌になったら止める」


「はい」


 カイルが半歩だけ近づいた。まだ身体は触れていない。それでも、目の前に自分より大きな男がいて、背中には壁があり、片方の手首を取られている。

 その組み合わせを身体は覚えているらしく、胸の奥が強く縮むような感覚が走った。


「怖いです」


「止めるか」


「……まだ、大丈夫です」


 言った直後、自分の言葉に引っかかる。


「違います」


 カイルは先を促さずに待った。


「大丈夫だから続けるんじゃなくて……もう少し見たいです。今の反応が、どこまでいくのか」


「ああ。なら続ける。ただし、固まったら終わりだ」


「はい」


 カイルはそれ以上近づく前に、もう一度確認した。


「身体も近づけるぞ」


「はい」


「触れるかもしれない」


「分かりました」


 エレジは自分から壁に背を預け直した。逃げないためではなく、自分が今ここにいることを確かめるためだった。

 カイルがさらに少し距離を詰める。肩から胸元にかけて、服越しに触れた瞬間、身体が強くこわばった。

 カイルはすぐに止まった。


「エレジ」


 名前で呼ばれたことで、意識が目の前へ戻った。


「聞こえてるか」


「……はい」


「俺が分かるか?」


「分かります」


「止めるか?」


 エレジはすぐには答えず、自分の呼吸と意識を確かめた。怖い。それでも頭の中が真っ白になっているわけではない。カイルの顔も見えているし、自分がどこにいるのかも分かっている。


「……離れなくていいです」


「本当に?」


「はい」


「じゃあ、このまま動かない」


「分かりました」


 カイルは何もせず、その距離を保った。しばらくすると浅くなっていた呼吸が少しずつ戻り、エレジはようやく、今の反応から抜け出せたことを実感した。


「今の、かなり怖かったです」


「ああ」


「でも、あのときとは違います。止めてもらえるって分かってるから、怖くても戻ってこられます。それに、今は少佐がどういうつもりなのかも分かってる」


「ケルナーのときは違ったのか?」


「はい。訓練なのか、それ以上なのか分からないまま始まって、嫌だと言っても続きました。でも今は、最初から意味が分かってるし、私が頼んでます」


 カイルは少し考えてから、取っていた手首を離した。


「一回、条件を変える」


「どうするんですか」


「手首を取らない。それで近づく」


 エレジはすぐに意図を理解した。


「壁と距離だけで、どれだけ反応するか見る?」


「ああ」


「分かりました。やってみたいです」


 今度は両手とも自由なまま壁際に立つ。カイルは少し離れた位置まで戻り、改めてエレジの正面に立った。


「準備できたら言え」


 エレジは一度息を吸った。


「……お願いします」


 カイルが近づいてくる。壁はまだ背中にあり、距離も縮まっていく。それでも、手首を取られていないだけで感覚は明らかに違った。自分の両手が自由で、必要なら動かせると分かっていることが、思っていた以上に大きい。

 カイルが目の前まで来ても、さっきほど強くは固まらなかった。


「どうだ」


「……さっきより平気です」


「手が自由だから?」


「たぶん。動けるって分かるだけで、かなり違います」


「じゃあ、壁だけが問題じゃないな」


「はい」


 少しずつ、何が怖さを強くしているのかが見えてきていた。壁そのものではなく、壁と拘束と、次に何が起こるか分からないこと。

 それらが重なったときに身体の反応が一気に強くなり、逆にどれか一つでも減れば、自分の感覚を保ったまま戻ってこられる。

 その違いを自分ではっきり認識できたことで、エレジはもう一度カイルを見た。


「……もう一回、手首を取ってもらってもいいですか」


「さっきと同じ条件で?」


「今度は、自分で違いが分かった状態でやってみたいです」


 カイルはすぐには動かなかった。


「本当にやりたいか?」


「はい、やってみたいです」



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