わかった
カイルはすぐには手を伸ばさなかった。
「今度は何を見る」
「手首を取られても、怖くなったときに止めるって言えるかを」
「分かった。返事がなくなったら止める」
「はい」
エレジはもう一度、壁の前に立った。さっきと同じ条件でも、今度は何が起こるのかを知っている。その違いを、自分で確かめてみたかった。
「お願いします」
カイルが近づき、片方の手首を取る。身体はやはり反応した。肩が強張り、呼吸も一瞬浅くなる。それでも今度は、その反応に驚かなかった。
「聞こえてるか」
「はい。さっきより考えられます」
カイルが距離を詰める。背中には壁があり、手首は取られている。それでも、もう片方の手が自由なことも、目の前にいるのがカイルだということも分かっていた。
身体は怖がっている。それでも、今ここにいることを自分で選んでいる感覚までは失われていない。
「もう少し近づいてください」
カイルがさらに距離を詰め、胸元が触れそうになったところで、エレジの呼吸がまた乱れた。
「……待ってください」
カイルはその場で止まった。離れもしなければ、それ以上近づきもしない。
怖さはある。それでも、自分から「待って」と言えたことも、その言葉で本当に動きが止まったことも分かっていた。
「止められました」
「ああ」
「もう少し、このままでいてもらっていいですか」
カイルは距離を保ったまま待った。壁も、取られた手首も、二人の近さも変わっていない。それでも、しばらくすると呼吸は少しずつ戻ってきた。恐怖だけが際限なく増えていくわけではない。
「壁は、ここまででいいです」
そう言うと、カイルはすぐに手を離して一歩下がった。エレジも壁から背を離す。身体にはまだ緊張が残っていたが、何によって反応が強くなったのかは、さっきよりはっきりしていた。
「次は」
カイルに聞かれ、エレジはケルナーとの近接訓練を思い返した。
「……後ろから押さえられたときのを、やってみたいです」
「上体を押さえられたやつか」
「はい」
あのときは組み合いの流れから背後を取られ、腕の動きを止める以上に身体を近づけられた。
技そのものだけなら近接戦闘であり得る動きだったからこそ、どこからが不必要な接触なのかを判断するのが遅れた場面でもある。
「どうされてた」
「後ろから腕を回されて、上体を動かせないようにされました。腰は押さえられてないです。上半身だけで」
「分かった。最初は腕に触れるだけだ。そこから一段ずつやる」
「はい」
エレジは壁から離れ、部屋の中央に立った。カイルが背後へ回っただけで、身体の奥に別の緊張が生まれる。見えない場所に相手がいるというだけで、正面とは感覚がまるで違った。
「腕に触る」
「はい」
予告のあと、両腕の外側に手が触れる。そこではまだ強い反応はなかった。
「上体を止める」
「お願いします」
カイルの腕が回り、エレジの動きを制限した瞬間、肩から胸の奥まで一気に力が入った。壁はない。それでも、背後から身体の向きを変えられなくなっただけで、恐怖は明らかに強くなった。
「……これ、壁より嫌かもしれません」
「理由は分かるか」
「見えないのと、自分で身体の向きを変えられないからだと思います」
「ここで止めるか」
エレジは少し考えた。怖さはある。けれど、もう一つだけ確かめたいことが残っていた。
「身体を近づけるところまで、やってみたいです。ただ、今より強く押さえないでください」
「分かった。近づくだけだ」
カイルが力を変えないまま距離だけを詰めると、背中側の気配がさらに近くなった。相手の顔が見えず、身体の向きも変えられない。その状態で、性的な意図を持った相手がすぐ後ろにいると分かっている。
恐怖は強くなった。それでも、今ここで起きていることを自分が頼んだのだという認識までは失われなかった。
「少佐。今も、そういうつもりですか」
「ああ。訓練の形を借りてるだけで、お前に近づきたいと思ってる」
その言葉を聞くと、胸の奥の緊張に別の感覚が混じった。怖さは消えない。それでも、相手が何を考えているのか分からない状態ではない。そのことが、エレジには大きかった。
「……少し違います」
「何が」
「ケルナーのときと。同じように近いのに、少佐が何を考えてるのか分かるから……怖さの種類が違います」
「嫌か」
「今は、嫌じゃないです。でも、これ以上は近づかなくていいです」
カイルはそれ以上何もしなかった。エレジが自分で決めたところで止まっている。その状態をしばらく確かめてから、エレジは言った。
「もう大丈夫です」
カイルはすぐに腕を解いた。自由になった途端、呼吸が一気に楽になる。
「やっぱり、後ろからの方が反応が強いです。でも、ここまでって自分で決められました」
「それも違いだな」
エレジは自分の腕を一度さすった。まだ身体に緊張は残っていたが、それ以上に、自分で戻ってこられた感覚の方がはっきりしていた。
「……床のも、やってみたいです」
カイルの表情がわずかに変わった。
「右手首を押さえられてたやつか」
「はい」
「それは、今までより反応が強く出るかもしれない」
「分かってます」
「やるなら、押さえるのは右手首だけだ。最初から身体全部を止めない。お前が起き上がろうとしたら止めない」
「はい」
二人はベッド脇の空いた床へ移動した。エレジは一度そこを見下ろしてから、自分で横になる。
その姿勢を取っただけで、立っていたときとは違う緊張が生まれた。足で逃げる感覚がなくなり、選択肢そのものが減ったように感じる。
「今は?」
「……少し怖いです。でも、まだ大丈夫です」
カイルはエレジの右側に片膝をついた。
「手首に触る」
「はい」
右手首に触れられた瞬間、身体が強く反応した。呼吸が浅くなり、肩に力が入る。
「怖いです。思ってたより」
「止めるか」
「……少し待ってください」
カイルは動かず、そのまま待った。目の前にいるのがカイルだと確認しながら何度か呼吸すると、少しずつ意識が今の部屋へ戻ってくる。
「もう少し、実際のときに近づけたいです」
「どうする」
「私が抜けようとするので、それを止めてください」
カイルの表情が変わった。
「どこまで止める」
「手首だけじゃなくて、上体もです。私が身体をずらしたら、その方向を塞いでください。脚を入れようとしたら、それもできないようにして」
「実際に抜けられない状態にする?」
「はい」
「性的な意図も残したまま?」
「それも、お願いします」
カイルはすぐには了承しなかった。
「怖いと言っただけでは止めない、という意味か」
「……はい。返事がなくなったら止めてください」
「ああ。お前が今ここにいると判断できなくなった場合も終わりだ」
「分かりました」
エレジは一度息を整えた。
「これだけは、ちゃんと追いたいです。あのとき、何が起きたのか」
カイルはしばらくエレジを見ていたが、やがて短く頷いた。
「分かった」
右手首を押さえる手に必要なだけの力が戻る。カイルはエレジが上体を起こそうとすれば止められる位置へ移り、ただし体重そのものを全面的にかけることはしなかった。
「始めるぞ」
「はい」
エレジは右手を引いた。動かない。左側へ身体を捻ると、カイルが位置を変えて上体の動きを止める。腰をずらし、脚を入れて体勢を作ろうとしても、そこも塞がれた。
もう一度右腕を引き、肩をずらし、起き上がろうとする。そのたびに、抜けるために作ろうとした隙間が潰されていく。
ケルナーのときも、こうだった。
手首を引き、腰をずらし、脚を入れようとした。それでも体格差のある拘束から抜けられず、動くたびに相手の身体が追ってきた。その中に、訓練として必要なのか判断できない接触が混じっていた。
今もカイルは近い。上体が触れるほどの距離にいて、その接触が単なる技術的な拘束ではなく、自分に性的な意図を向けたうえでのものだと分かっている。
「エレジ」
「……聞こえてます」
「続けるか」
「はい」
エレジはもう一度抜けようとした。右手首を引き、身体をずらし、起き上がろうとする。また止められる。
その瞬間、不意に、今までとは別のことを意識した。
カイルが自分を見ている。
近い距離から、自分を見下ろしている。その目には、今日ここへ来てから何度も感じてきたものがあった。自分に触れたいという気持ちも、キスをしたいという気持ちも、その先を望む感情があることも、もう知っている。
それでも、その目は怖くなかった。
身体を押さえられていることには緊張している。抜けられないことも怖い。それでも、カイルの視線そのものには恐怖を感じない。
その違いに気づいた瞬間、記憶の中から別の目が浮かび上がった。
ケルナーの目だった。
エレジは息を止めた。
あのときも、見られていた。床に押さえ込まれるより前から、ケルナーは何も言わず、自分の顔を見ていた。その視線が、訓練相手を見るものとは違う熱を帯びているように感じたから、自分は一度止めようとした。
――止めます。
――こんなことで?
そう返されて迷った。自分が過剰なのかもしれないと思った。ここで止めれば訓練を中断させる。まだ抜けられるなら、訓練として処理できるかもしれない。
だから、もう一度動いた。
手首を引き、腰をずらし、脚を入れようとした。それでも抜けられず、動くたびに逃げ道を塞がれた。それでもまだ、訓練の中へ戻そうとしていた。
やがて身体からふいに力が抜けた。動こうという意思はあるのに、それが身体へ届かなくなった。
仰向けのままケルナーを見上げたとき、もう一度あの目を見た。
「……そうか」
声が漏れた。
カイルがすぐに動きを止め、右手首を解いた。両手が自由になると、エレジはそのまま目元を覆った。
「どうした」
カイルはそれ以上近づかず、エレジが話し始めるのを待った。
「ケルナーの目」
両手で目元を覆ったまま、戻ってきた記憶を言葉にする。
「最初から、あの目が嫌だったんです。訓練の相手を見る目じゃなかった。明らかに、別の感情があった。だから止めますって言った。でも、『こんなことで?』って言われて……私の方が間違ってるのかもしれないと思ったんです」
そのときの迷いまで、今なら分かる。
「まだ抜けられるなら、訓練の範囲に戻せると思ったんだと思います。だから、もう一回自分で抜けようとした。でも何度やっても止められて、そのあと身体が動かなくなって……その状態で、もう一度ケルナーを見たんです」
エレジはゆっくり手を下ろした。
「同じ目でした。でも、そのときは意味が違って見えた」
「どう違った」
「私が動けなくなってるのを見てました。訓練の相手じゃなくて……私が動かないことを、何か別の意味で受け取ってるんじゃないかって思ったんです。次に何をするか考えてるように見えて」
その記憶を口にすると、胸の奥が冷たくなった。
「それが怖かったのか」
「はい」
今度は迷わなかった。
「押さえ込まれてることも怖かったです。手首も、身体にかかる重さも。でも、それだけじゃなかった。身体が動かなくなった状態であの目を見たとき、次に何をされるのか分からなくなったんです」
カイルは少し間を置いてから聞いた。
「今の俺の目は?」
エレジはカイルを見る。そこにも性的な感情がないわけではない。むしろ、それを隠していないからこそ、今は分かる。
「少佐も、そういう意味で私を見てます」
「ああ」
「でも、怖くないです」
「何が違う」
エレジは少し考えた。
「少佐は、私が動けなくなるのを待ってないです」
言葉にした途端、それが一番近いと分かった。
「私が止まったら、止まる。返事しなくなったら、離れる。私が動けなくなったことを、続けていい理由にしない」
ケルナーの目に感じたのは、その逆だった。
「ケルナーの目は……私が動けなくなったことを見て、その先を考えてるように見えたんです」
カイルの表情が硬くなった。
「それで、怖くなった」
「はい」
ようやく、自分の中でばらばらだったものが一つにつながった。
性的な意図そのものが怖かったわけではない。身体を押さえられることだけでもない。自分の意思がうまく働かなくなったところへ、相手の欲求だけが残っているように見えたこと。
その欲求が、この先何をするのか分からないまま自分へ向けられていたことが、あのときの恐怖を決定的なものにした。
「……たぶん、これがずっと分からなくて」
カイルは何も言わず、続きを待った。
「触られたことだけじゃなくて、あの人が私をどう見てたのか。それを私が分かってしまった瞬間だったんだと思います」
答えに辿り着いたことで頭では整理できたはずなのに、身体の方はまだ追いついていなかった。エレジはゆっくり起き上がったが、頭の奥に薄い膜がかかったような感覚が残っていて、少しだけぼんやりする。
「大丈夫か」
「……はい。少し、ぼうっとします」
カイルはそれ以上何かを聞かず、エレジが立ち上がるのを待った。急がずベッドまで戻り、腰を下ろしたところで、さっき飲んでいた水を差し出す。
「飲め」
「ありがとうございます」
エレジはグラスを受け取った。手のひらに伝わる冷たさを確かめながら、何口かゆっくり水を飲むうちに、床に押さえられていた感覚と、記憶の中のケルナーの目が少しずつ今の部屋から離れていく。
カイルは隣に座ったが、すぐには触れなかった。エレジもその距離のままでいいと思った。
「まだ、ぼうっとするか」
「少し。でも、さっきよりは大丈夫です」
「気分悪くないか」
「……少しだけ」
エレジはグラスを両手で持ったまま、もう一度息を吐いた。
「……でも、わかりたかったことが、わかった気分です」
それだけ言うと、しばらく水を見つめた。探していたものにようやく行き着いたような安堵と、思い出してしまった重さが、まだ同時に残っていた。
「……ありがとうございました」
エレジはグラスを両手で持ったまま言った。
「何が」
「付き合ってくれたことです。ここまで」
カイルは少しだけエレジを見た。
「分かったなら、それでいい」
ケルナーにされたことをすべて整理できたわけではないし、これで急な接触への反応がなくなるとも思っていない。
安堵と記憶を辿った疲労が同時に残っていて、エレジはもう一口水を飲んだ。
「今日はもう、そこを追わなくていい」
「……はい」
今度は素直に頷けた。もう一度確かめたいとは思わなかった。少なくとも今は、これ以上同じ記憶の中へ戻る必要はない。
カイルが時計を見る。
「もう十二時だな」
エレジもつられて壁の時計を見た。再現を始めてからは、何分経ったのかほとんど分からなくなっていた。
「腹は?」
聞かれて、エレジはそこで初めて、自分が朝からほとんど何も食べていないことを思い出した。
「……空いてます」
「そうだろうな」
「少佐もですか」
「ああ」
カイルは立ち上がった。
「昼にするか」
「はい」
エレジも立とうとして、少しだけ動きを止めた。もうぼんやりする感じはほとんど消えている。
それでも、今すぐこの部屋を出て人の多い場所へ戻ることを考えると、気持ちの方がまだ少し追いついていない気がした。
カイルがそれに気づく。
「まだ休むか」
「いえ。大丈夫です」
口にしてから、エレジは少し考えた。
「……でも、一つだけいいですか」
エレジはグラスを置くと、カイルの手を見た。
「手、握ってもいいですか」
カイルは何も言わず、手を差し出し、エレジはその手を取った。
さっきまでしていたこととは、まるで意味が違う。反応を確認するためでも、記憶を再現するためでもない。ただ、自分が今そうしたかった。
カイルの手がゆっくり握り返してくる。それだけで、身体の中に残っていた緊張が少しほどけた。
「……これは、確認じゃないです」
「ああ」
「ただ、握りたかっただけです」
「分かってる」
その返事に、エレジは少しだけ笑った。
しばらくそのままでいてから、エレジの方から手を離した。離したくないわけではなかった。ただ、今はそれを自分で選んで離せることも、少し心地よかった。
「行けそうか」
「はい」
カイルが先に上着を取り、エレジも自分の厚手の上着を羽織った。身支度を始めると少しずつ外の世界が戻ってくる。
エレジは髪を整えながら鏡を見て、そこでまた少しだけ困った。
「……顔、変じゃないですか」
「変じゃない」
「本当ですか」
「ああ」
「少佐、そういうところ信用しにくいです」
「何でだ」
「さっきまでのことを何も顔に出してないので」
カイルは一瞬黙ったあと、わずかに口元を緩めた。
「お前も思ってるほどは出てない」
「そうですか」
「ああ」
それならいい、とエレジは思った。
部屋を出る前に、もう一度だけ中を振り返った。
カイルに触れたいと思ったことも、触れられたいと思ったことも、全部この数時間の中で起きている。
「何食べたい」
カイルに聞かれ、エレジはドアの方へ向き直った。
「温かいものがいいです」
「範囲が広いな」
「じゃあ、少佐が決めてください」
「俺が?」
「今日はかなり私が決めたので」
そう言うと、カイルが少しだけ笑った。
「分かった」
二人は部屋を出た。




