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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
北部山岳特殊任務課程

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デート


 ホテルを出ると、昼時のベルンハルトは朝より人が増えていた。通りには買い物客が行き交い、店先からはパンや煮込み料理の匂いが流れてくる。

 午前中、静かな部屋の中で自分の身体と記憶ばかりを追っていたせいか、最初は街の音が少し遠く感じられたが、歩いているうちに少しずつ今いる場所へ意識が戻ってきた。


「少佐、何にしますか」


「温かいものって言ったのはお前だろ」


「でも、決めるのは少佐です」


「本当に任せるのか」


 カイルは少し考えてから、中央広場から一本外れた通りへ向かった。


「前に一度だけ入った店がある。スープと煮込みの店だ」


「一人で入ったんですか?」


「ああ」


 エレジには少し新鮮だった。自分にとってベルンハルトは、外出許可を取らなければ来ることのない街だったが、カイルには自分の知らない時間があり、その中ですでに入ったことのある店もある。

 大通りから少し離れた店は、昼時でも騒がしすぎるほどではなかった。二人は奥の壁際の席へ案内され、それぞれメニューを開いた。


「少佐は何にしますか」


「牛肉の煮込み」


「じゃあ、私もそれにします」


「自分で決めないのか」


「少佐に決めてもらうって言ったじゃないですか」


「店までだと思ってた」


「じゃあ、スープにします」


「それだけか?」


「パンもあります」


「朝からほとんど食べてないだろ」


 そう言われて、エレジはもう一度メニューを見る。


「……じゃあ、鶏肉の煮込みもつけます」


「それならいい」


「教官みたいですね」


「まだ教官だからな」


 恋愛の話をして、触れ合って、何度もキスまでしたあとでも、その事実だけは変わらないらしい。そのことが今は少し可笑しく感じた。


 注文を終えると、周囲の食器の音や客たちの話し声が改めて耳に入ってきた。ほんの少し前まで自分がどんなことを考え、何を試していたのかを思うと、こうして普通の店で昼食を待っていることの方が現実ではないようにも感じられる。


「……変な感じです」


「何が」


「普通に昼ご飯食べてることです。さっきまで、あんなことしてたのに」


「あんなこと、でまとめるのか」


「言い方が分からないです」


「俺も分からないな」


「少佐は整理できてると思ってました」


「お前が思ってるほど、何でも整理できるわけじゃない」


 その返事を聞くと、少しだけ安心した。午前中に分かったことは多かったが、感情まで一度に追いつくわけではない。そしてそれは自分だけではないらしい。

 料理が運ばれてくると、エレジはまずスープを口にした。温かさが喉から胃へ落ちていき、思っていた以上に身体がほっとする。


「おいしいです」


「そうか」


 しばらく食事を続けてから、エレジはふと思った。


「少佐は、今日来なかったらどうしてたんですか」


 カイルはすぐには答えなかったが、迷っているというより、言葉を選んでいるように見えた。


「たぶん、基地で後悔してただろうな」


「後悔? 私がマティアスと何かしたことをですか」


「それも嫌だったと思う」


 思ったより率直に認められて、今度はエレジの方が少し言葉に詰まった。


「でも、それだけじゃない。何も言わなかったことを後悔したと思う」


 カイルは皿にスプーンを入れながら言う。


「お前が誰を選ぶかは、お前が決めることだ。ロートを選ぶなら、それを俺が止める理由はない。ただ、俺が何も言わないまま終わったら、お前が俺を選ばなかったんじゃなくて、俺が最初から選択肢に入らなかっただけだろ」


「……少佐も、選んでほしかったんですか」


「そう言われると少し違うな。選ばれるかどうかより、自分がどうしたいのかを何も言わずに終わるのが嫌だった」


 ホテルでも同じことを聞いている。それでも、こうして食事をしながら改めて聞くと、少し違って理解できた。

 カイルは自分を止めるために来たのでも、マティアスから奪うために来たのでもない。教官という立場に隠れたまま終わるのではなく、自分自身の意思を伝えるために来たのだ。


「じゃあ、来てよかったですね」


「ああ」


「私もそう思います」


「それなら、後悔は減ったな」


「減ったって、全部無くなってないんですか」


「今日はまだ終わってないだろ」


「……そうですね」


 その言葉に含まれている意味を考えると、少しだけ顔が熱くなった。カイルが同じことを考えているとは限らないので、エレジは何も聞かなかった。


 食事を終えて店を出る頃には、街の音はもう遠くは感じなかった。エレジは店先で一度周囲を見回す。今度はカイルから聞かれる前に、どこへ行こうかと考えている自分がいた。


「どこか行きたいのか」


「前に来たときのところ、もう一回見たいです」


 最初にベルンハルトへ来たときは、公用についてきただけだった。軍病院と補給部の用事を済ませたあとも、カイルの買い物について歩いただけで、自分からどこかへ行きたいと思っていたわけではない。それでも帰る頃には、もう一度見てもいいと思えるものがいくつか残っていた。


 二人はまず中央広場へ向かった。時計塔の下には人が集まり、広場の端にはいくつかの屋台が出ている。以前ソーセージを挟んだパンを食べた屋台もあり、その少し先には木の実を砂糖で固めた菓子が並んでいた。


「前に食べたお菓子があります」


「食うか」


「今食べたばかりです」


「そうだな」


「でも、少しなら食べられます」


「結局食うのか」


 エレジは屋台まで行き、小さな紙袋を一つ買った。今日は、食べたいと思った時点で財布を出している。

 一つ口へ入れると、先に砂糖の甘さが広がり、噛むと木の実の香ばしさが強くなった。


「うまいか」


「おいしいです。前と同じ味。少佐も食べますか」


 一つ渡すと、カイルはそのまま口へ入れた。


「どうですか」


「甘い」


「それだけですか」


「菓子だからな」


 エレジは笑いながらもう一つ食べた。

 広場を横切る途中、建物と建物の間に目が向いた。以前そこには、丸い葉と白い実をつけた枝が吊るされていたはずだったが、今はもう何もない。


「ここにヤドリギありましたよね。近くで見ようとしたら、少佐が止めたところ」


「ああ」


「結局、何だったんですか。混んでるからって言ってましたけど」


 あのときも、別の通りと大して人の数は変わらなかった。納得しないままついていったことを覚えている。


「ヤドリギの下ではキスするからだ」


 エレジは一瞬、意味を理解するのが遅れた。


「……キス?」


「ああ、そういう風習がある。意味も知らない受講者と入る場所じゃないだろ」


 前回、振り返ったときにヤドリギの下にいた若い男女を思い出した。女性が笑い、そのあと男性が顔を寄せていた。

 あのときのカイルが、不自然なくらい別の通りへ行こうとした理由がようやく分かった。

 エレジは何も吊るされていない場所をもう一度見上げる。


「でも、今なら入れますね」


「今も受講者だぞ」


「……そうでした」


 自分で言ってから、少し恥ずかしくなった。それでも以前とは違う。意味を知らずに近づこうとしていた頃ならできなかったことを、今朝はすでに何度もしている。


「じゃあ、課程が終わったあとにまたあったら」


「入りたいのか」


「そのとき考えます」


 答えると、カイルの口元が少しだけ緩んだ。

 広場を離れると、以前カイルが補修用の紐を買った雑貨店が見えてきた。エレジは窓越しに並べられた木工品へ自然に目を向ける。その中に、前と同じ翼を広げた小さな鳥があった。


「前もそれ、しばらく見てたな」


 エレジは少しだけ鳥を眺めた。前回と店を出たあと一度振り返ったことを覚えている。


 二人はそのまま歩き、次に向かったのは書店だった。扉を開けると、前と同じ紙と古い木の匂いがする。外の人声が遠のき、壁一面の棚が視界を埋めた。

 エレジは自然に、以前立ち止まった自然科学と動物の棚へ向かった。


「前に買った本、どうだった」


「渡り鳥のですか?」


「ああ」


「面白かったです。山を越える場所が、風とか気流で変わるんです。同じ種類でも毎回まったく同じ経路を通るわけじゃなくて、季節とか天候でも変わるみたいで」


「結構読んだんだな」


「はい。山の形によって越える場所も違ってました。基地の近くを通る種類も載ってました」


 前回は一度棚へ戻し、店を出る直前になって引き返して買った。カイルは棚を見ながら言った。


「鳥が好きなのか」


「鳥ですか?」


「ああ。さっきも見てただろ」


 雑貨店の木の鳥のことだと分かった。


「……どうでしょう。考えたことなかったですけど、そう言われると好きなのかもしれません」


 エレジはそう答えながら、棚から気になった本を抜いた。北部の山間部や小さな町についてまとめた地誌で、地形だけでなく、季節ごとの風景や暮らしも載っている。

 何ページかめくったあと、エレジはその本を閉じた。


「これ、買います」


「今度は早いな」


「前に一回やったので」


「何を」


「一回戻してから、やっぱり欲しくなって取りに戻るのを」


「本一冊で作戦判断するなって言ったやつか」


 カイルが覚えていたことが可笑しくて笑った。書店を出ると、紙袋が一つ増えた。そのまま通りを進んでいると、少し先からコーヒーの香りが流れてくる。


「少佐の豆のお店、この辺でしたよね。寄ってもいいですか」


 前回はカイルについて入った店だった。今日は自分から行きたいと言っている。その違いを考えながら扉を開けると、温かな空気と濃いコーヒーの香りが一緒に流れてきた。

 奥にいた店主が顔を上げ、カイルを見る。


「久しぶりだな」


「ああ。今日は豆じゃない、飲むだけだ」


 話しながら、店主はエレジにも気づいた。


「前にも一緒だったな。ちょうどいい、珍しいのが入ってる。試してみるか?」


「珍しいの、ですか」


「この辺じゃあまり入らない豆だ。いつものより少し香りが違う」


 店主が棚から別の瓶を出す。エレジはカイルを見る。


「少佐は?」


「飲む」


「じゃあ、私も飲んでみたいです」


「二つだな」


 しばらくして、小さなカップが二つ運ばれてきた。前回飲んだものより香りが軽く、少し果物に似た匂いも混じっている気がする。


 エレジは一口飲んだ。最初にわずかな酸味があり、そのあとに甘さのようなものが残る。前に飲んだものとはかなり違ったが、嫌ではない。もう一口飲みたくなる味だった。


「……おいしいです」


「前のよりか?」


 カイルに聞かれ、エレジは少し考えた。


「違います。前のは飲みやすかったですけど、これは……もう一回飲みたくなる感じです」


 店主が笑う。


「なら気に入ったんだろ」


「そうかもしれないです。少佐はどうですか」


「うまいな」


「いつものより?」


「毎日ならいつもの。たまにならこっち」


「そういう選び方するんですね」


「お前は?」


 エレジはもう一口飲んでから答えた。


「私も……たまにこっちがいいです」


「じゃあ同じだな」


 前回ここへ来たときは、カイルが好きなものを知る側だった。今日は店主に勧められた知らないものを試して、自分の方から「おいしい」と言っている。

 カップを見ながら、エレジはふと思った。


「前はちょっと不思議だったんです。基地にもコーヒーはあるのに、わざわざここまで買いに来るんだなって」


 エレジは足元に置いた書店の紙袋と、さっき買った菓子の残りを見た。


「でも今は、分かります。足りてるものだけで過ごさなくてもいいんだなって」


 カイルは一度、エレジの足元を見て、「そうだな」と答えた。


 コーヒーを飲み終えて店を出る頃には、次にどこへ行くかを急いで決める必要もないように思えていた。前回立ち寄った店をいくつか巡り、見たかったものも見た。

 中央広場の人混みを避けるように歩いていると、少し先に川沿いへ下りる道が見えた。エレジはそちらへ目を向ける。


「こっち、行ったことありますか」


「川沿いか、ないな」


「歩いてもいいですか」


 二人が人通りの多い通りを離れ川沿いへ下りると、中央広場のざわめきは少し遠くなった。

 両岸には雪があり、川面は鈍い冬の光を返している。建物の隙間からは山の稜線が見え、中心街より人も少なかった。

 エレジはしばらく川を見ながら歩いていたが、さっき書店で聞かれたことを思い出した。


「さっき、鳥が好きなのかって聞きましたよね」


「ああ」


「考えてたんですけど……鳥そのものも好きなのかもしれませんが、どこにでも行けるのがいいなと思うのかもしれません」


「どこにでも?」


「季節が変わったら別の場所へ行って、山も越えて。ずっと同じところにいなくていいのが」


 自分で言ってみると、それは鳥のことだけを話しているようには思えなかった。

 渡り鳥の本を読んで面白いと思ったのも、知らない土地を紹介する本を今日また買ったのも、同じところにつながっている気がする。

 カイルは少し考えてから言った。


「お前、本当は旅行とか好きそうだもんな」


「旅行ですか」


「ああ。知らない場所を見るの、嫌いじゃないだろ」


「……旅行って言えるようなの、したことないです」


「一度も?」


「軍に入ってからはそれなりに必要な場所へ行きましたけど、あれは旅行じゃないですし」


「そうだな」


 任務や転属で知らない土地へ行くことはあっても、見たいから行くのとは違う。どこへ行くかも、何を見るかも、自分で決めたわけではなかった。


「でも……いろんなところに行くのは、好きかもしれません。知らない町とか、見たことのない景色とか。今までは、行きたい場所を聞かれても何も浮かばなかったですけど」


「前は、ないって言ってたな」


「そうですね」


「今は?」


 エレジは少し考えた。具体的な地名が次々に浮かぶわけではない。それでも、以前のように「どこでも同じ」「必要がなければ行かない」とは思わなかった。


「まだ、ここっていう場所はないです。でも、知らないところなら見てみたいです」


「それなら、行きたい場所がないのとは少し違うな」


 その違いを誰かに言われて初めて、自分でも分かった気がした。前に見た店を巡り、新しい本を買い、珍しいコーヒーまで試した。何か大きな決心をしたわけではないのに、以前より少しだけ、知らないものへ手を伸ばしやすくなっている。

 しばらく歩いたあと、エレジは別のことを思い出した。


「少佐、今日、私がマティアスと何かするのは嫌だったって言ってましたよね」


「ああ」


「あれって、今日のことだけですか?」


「どういう意味だ」


「その……マティアスとそういうことをするのが嫌だっただけなのか、前からマティアスのことが気になってたのかって」


「前からだな」


「そうなんですか」


「一番覚えてるのは、あいつがお前の隣にいるのが自然に見えたときだ」


「自然に?」


「訓練でも休憩でも、お前とロートが話してても誰も気にしないだろ。お前自身もそうだった」


「同期ですから」


「分かってる。だから、気にしてる俺の方にしか理由がなかった」


 エレジは少し意外に思った。


「全然分かりませんでした」


「分からせるつもりもなかったからな」


「訓練中も?」


「二人で組むことが多かっただろ」


「はい」


「お前、ロートには構えないからな」


「構えない?」


「俺と話すときより自然だった」


「それは少佐が教官だからです」


「分かってる」


「分かってても気になったんですか」


「ああ」


 返事があまりに迷いなくて、エレジは少し笑った。


「理屈では分かってたんですね」


「分かってることと、何も感じないことは別だ」


「ほかにもありました?」


「まだ聞くのか」


「気になるので」


 カイルは少しだけ息を吐いた。


「お前がロートと話して笑ってたときとか」


「そんなことで?」


「そんなことだ」


「私、少佐とも笑ってましたよ」


「知ってる」


「じゃあ、どうしてですか」


 カイルは少し先の川を見ながら答えた。


「俺にはできない距離で、あいつにはできてたからだ」


 課程の間、カイルは自分から距離を取っていた。教官として必要以上に近づかないようにしていたからこそ、マティアスが何の不自然さもなく隣に立ち、訓練のあとに話しかけ、手袋を渡すことまでできたことが、カイルには別の意味を持って見えていた。

 自分が知らないところで、カイルがそんなふうに考えていたことが少し不思議で、同時に嬉しかった。


「……なんか、嬉しいです。少佐が、そんなこと考えてたんだなって」


「嫉妬されて嬉しいのか」


「それだけじゃないです。私のこと、ちゃんと気にしてたんだなって」


 カイルはそれ以上何も言わなかったが、否定もしなかった。エレジは少し考えてから続けた。


「私、嫉妬ってまだよく分からないです。好きな人がいるの、初めてなので。少佐は、どういうときに嫉妬したって分かるんですか」


 カイルは少し考えた。


「自分がそこにいたいと思ったときだな。相手の隣でもいいし、その相手が誰かに向けてるものでもいい。そこに自分がいたかったと思うと、気になる」


 エレジはその言葉を頭の中で繰り返した。


「少佐は、恋人がいたことありますか?」


「ある」


「……あるんですか」


「何で驚く」


「なんとなく。そういう話を全然しないので」


「受講者にする話じゃないだろ」


 エレジは少し迷ったが、そのまま聞いた。


「何人ですか?」


「二人」


 その答えを聞いた瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。嫌だと言うほど強くはない。ただ、知らなかったカイルの時間を急に意識した。


「……これですか」


「何が」


「嫉妬です」


 カイルがこちらを見る。


「昔、少佐が誰かを好きだったって聞いたら、ちょっと気になりました」


「嫌だったか」


「そこまでじゃないです。でも……その時間には、私はいなかったんだなって思いました」


「それなら近いな」


 エレジは少し考えながら歩いた。さっきまでは嫉妬という感情を外から眺めていたのに、今はほんの少しだけ自分の中にも同じものがある。そのこと自体が新しかった。


 川沿いの道はしばらく緩く続いていた。急いでどこかへ向かう必要もない。エレジはその時間が思っていたより楽しいことに気づいた。


「……なんかこうしてると、デートみたいですね」


 カイルが思わずという風に訝しげに見る。


「今まで何だと思ってたんだ」


 今度はエレジが答えに詰まった。


「デートだったんですか」


「少なくとも、俺はそういうつもりでいる」


「いつから?」


「ホテルを出てから」


「そんなに前から?」


「飯食って、街歩いてるんだから、他に何だと思ってた」


「分かりません。したことないので」


 そう言われて初めて、この午後の時間に名前がついたような気がした。昼食をして、前に来た場所を歩き、店を覗き、コーヒーを飲んで、今は川沿いを二人で歩いている。


「じゃあ、これが初めてのデートですね」


「俺はそう思ってる」


 その答えを聞くと、ホテルで触れられたときとはまた違う恥ずかしさが込み上げた。


「……先に言ってください」


「今言った」


「遅いです」


「お前が聞かなかったからな」


「じゃあ、ちゃんと覚えておきます。今日が初めてのデートだったこと」


 口にすると、素直に嬉しかった。

 けれど、その喜びとほとんど同時に、基地へ戻ったあとのことも浮かんだ。カイルはまだ教官で、自分は受講者だ。今日のような時間を、このまま当然のように繰り返すことはできない。


「……でも、課程が終わるまでは、今日が最後ですね」


 カイルはその意味をすぐに理解したらしい。


「そうだな。今日みたいなことを、このまま続けるのはよくない」


「次は、課程が終わってからですね」


 言葉にすると、思っていたより寂しかった。今日みたいに一緒に食事をして、何の目的もなく街を歩いて、訓練とは関係のない話をする。それをもう一度できるのは、少なくとも一ヶ月以上先になる。


「長いですね」


 呟くように言った言葉を、カイルも否定しなかった。そのことが少し嬉しく、同時に余計に惜しくなる。

 遠くから時計塔の鐘が聞こえ、エレジは腕時計を見た。


「もうすぐ二時ですね」


「ああ。疲れたか?」


「少し。でも、嫌な疲れ方じゃないです」


 身体は朝からずっと動いているし、午前中にはかなり強い記憶にも触れた。それでも、今感じている疲れは、あのときのように身体の内側が冷えていくものではない。

 エレジは少し考えてから言った。


「そろそろ戻りませんか」


「そうだな、休むか」


「それもありますけど」


 エレジは少しだけ言葉を探した。今は、今朝までの気持ちとは違う。


「……もう少し、二人でいたいです」


 口にしてから、エレジは自分が何を望んでいるのかを改めて意識した。休みたいだけではない。午前中のように何かを確かめたいわけでもない。


「分かった」


 二人は川沿いを離れた。

 前に食べた菓子をもう一度食べ、珍しいコーヒーを飲んだ。知らない町の本を読み、行ったことのない場所を見てみたいと思った。そして今は、カイルともう少し二人でいたいと思っている。

 どれも、ただ、自分がそうしたいと思ったからだった。



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