初めて
ホテルの部屋へ戻ると、外の冷気が途切れたぶん、室内の暖かさが急に身体へ戻ってきた。エレジは買った本の入った紙袋を入り口のそばの棚に置き、上着を脱いだ。
午前中にいたのと同じ部屋だった。ベッドも、低いテーブルも、窓の向こうに見える雪の残った屋根も変わっていない。それなのに、まるで別の場所のように感じる。
カイルは窓際へ行き、持っていた荷物をソファへ置き、上着を脱いでいる。その姿を見ているだけで、胸の奥が落ち着かなくなった。
この人が好きだ、と思った。
川沿いで初めてのデートだと知って嬉しかったことも、カイルに昔の恋人がいたと聞いて胸の奥が少し引っかかったことも、ホテルへ戻る理由を聞かれて「もう少し二人でいたい」と答えたことも、全部同じところにつながっている。
「少佐」
呼びかけると、カイルがこちらを向いた。灰色の目に真っ直ぐ見られると、さっき自分の中ではっきりした気持ちを言葉にすることが急に現実味を帯びた。
「私、少佐のことが好きです」
言ってから、エレジは少しだけ息を詰めた。
「直接ちゃんと言ってなかったから」
「ああ」
カイルはもう、自分の気持ちをマティアスから聞いて知っている。それでも、自分の口で言いたかった。けれど実際言うと、胸の奥がまた少し熱くなった。
エレジはカイルのそばに行く。午前中なら、この距離にも意味をつけようとしていたかもしれない。近づいて怖くないか、触れられて身体が強張らないか、そういうことを考えたはずだった。
今は、近くにいたかった。その違いが自分でも分かる。
「手、つないでもいいですか」
カイルが差し出した手に自分の手を重ねると、掌が触れるだけで、街を歩いていたときとは違う緊張が生まれた。怖さではない。好きだと言った相手の手を、自分から握っているということの方がずっと意識に残る。
指先まで熱を持っているような気がした。エレジは離れたくなくて、少しだけ握る力を強めた。そのことに気づくと、今度は自分でも驚くほど自然に次の気持ちが浮かんだ。
「……キスしたいです」
カイルはすぐには近づかなかった。エレジが自分で決めるまで先へ進まないつもりなのだと、その静かな待ち方だけで分かった。午前中にも何度もそうしてもらったからこそ、今は待たれることが安心ではなく、むしろ少しもどかしく感じられた。
「少佐だからしたいです」
そう言うと、カイルが近づいた。
唇が触れる。
午前中にも何度もしたはずなのに、今は意味が違った。怖くないかを確かめるためでも、どこまでなら大丈夫なのかを知るためでもない。ただ、好きな相手とキスしている。それだけのことが、思っていた以上に大きかった。
唇が離れても、エレジは手を離さなかった。胸の奥がまだ速く鳴っている。身体が緊張していること自体は、午前中と同じだった。けれど、その緊張の質が違う。
逃げたいわけではない。むしろ、もう一度近づいてほしいと思っている。それが自分でも分かって、少しだけ戸惑った。
「……午前中より、今の方が緊張してるかもしれません」
「怖いか」
「違います」
怖いかと問われた瞬間、答えだけは迷わず分かった。
「好きな人とこうしてるからだと思います」
口にすると、その感覚がさらに明確になった。
だから触れられることの意味が重い。それでも、嫌ではない。むしろ、その重さごと欲しいと思っている。
エレジは握っていた手を見た。基地へ戻れば、また教官と受講者になる。今日のように並んで歩くことも、こうして触れることもできない。自分たちでそう決めた。
その線引きが必要だということも分かっている。だからこそ、今ここにある時間が急に惜しく感じられた。
あと一か月以上。川沿いで口にしたときより、ずっと長く感じる。
「……やっぱり長いですね」
「一か月か」
「はい」
それ以上は言わなくても通じた。次にこうして会えるまで。次に何の言い訳もなくデートできるまで。次に、自分から触れたいと思ったときに、それを隠さなくてもよくなるまで。
エレジはソファの方を見た。午前中は、カイルが距離を取って座ってくれたことに安心した場所だった。今は、その距離が要らない。
二人でソファに座ると、エレジは自分から少し近づいた。肩が触れるほどの距離に座るだけで、また胸が鳴る。
今は、近くにいられることが嬉しい。たった数時間でここまで変わるとは思っていなかった。
怖さがなくなったわけではない。これから訓練で突然触れられたときにどうなるかも、まだ分からない。それでも、自分の中にはもう一つ別の感覚がある。
触れられない方が惜しいと思うこと。一緒にいる時間が終わるのを惜しいと思うこと。好きだと伝えて、相手がそれを受け取ってくれたことを嬉しいと思う。
エレジは、今はその近さを自分から選べることを確かめるように、少しだけカイルへ身体を預けた。
「……もう少し、こうしててもいいですか」
エレジはしばらくカイルの肩に身体を預けたまま、窓の外を見ていた。ベルンハルトの屋根の向こうには、午後の光が薄く残っている。
まだ帰る時間ではない。それでも、午後の光を見ていると、この時間にも終わりがあることだけは意識してしまう。
最初に触れ合った時も、こうして並んで座り、頭を肩に預けた。基地へ戻れば今日のことは持ち込まないと決めている。それでも、その正しさとは別に、寂しかった。
今日初めて好きな人に同じ気持ちを返してもらった。触れ合って、キスをして、デートをした。
その全部を抱えたまま、あと数時間でまた何も変わっていないように振る舞うのだと思うと、胸の奥にあるものが急に大きくなる。今のうちに、もっと近くにいたいと思った。
その気持ちを言葉にするため、エレジはカイルから少し身体を離した。
「少佐。今日のこと、基地に戻ったら一旦なかったことにしますよね」
カイルはすぐには答えなかった。エレジの言う「なかったこと」が何を意味しているのかを考えているようだった。
「なかったことにはしない」
思っていたのとは少し違う返事に、エレジはカイルの言葉を待った。
「でも、持ち込まない。教官と受講者に戻る。それはそうだ」
「……はい」
そう、今日が消えるわけではない。ただ、しばらくしまっておく。課程が終わるまで、二人のあいだにあるものを表へ出さない。そう考えると、余計に今が惜しくなった。
「じゃあ、今だけは」
そこまで言って、言葉が止まった。自分が何を言おうとしているのかは分かっていた。午前中なら、その気持ちが恐怖を確かめるための延長ではないかと、何度も考え直しただろう。
今は違う。カイルに触れてほしい。もっと近くにいたい。この時間が終わる前に、自分が好きだと思った相手に、自分の意思で身を任せたい。
「私、ほんとうに何も、知らないですけど……」
そこに治すためという理由はなかった。
「……抱いてくれませんか」
言ったあと、心臓が大きく鳴った。カイルの表情が変わった。今まで確認してきた触れ方とは違うものを求められたことを、彼もはっきり理解したのだと分かった。
「意味は、分かって言ってるな」
「はい」
「午前中の続きとしてじゃないな」
「違います」
今度は迷わなかった。
「確かめたいんじゃないです。少佐と、だからです」
口にすると、恥ずかしさより先に、自分の中で何かが定まった。カイルはすぐに答えを返さず、エレジが衝動ではなく自分の意思でそこまで言っているのかを確かめるように見ていた。
「途中で嫌になったら止める」
「はい」
「怖くなっても同じだ」
「はい」
「言えなくなったら、俺が止める」
午前中にも何度も確認したことだった。けれど、今はその言葉を聞いても、条件を決めているようには感じない。これから二人で何かをするために、同じところに立とうとしているのだと思えた。
「今は、止めてほしくないです」
「今は、だな」
「……はい」
「その先は、そのとき決めればいい」
その返事に、エレジは小さく息を吐いた。やっぱり、この人が好きだと思った。
カイルが近づく。次のキスは、さっきまでとは少し違った。
自分たちがこの先へ進むことを、互いに分かったうえで触れている。その意識があるだけで、唇が重なることの意味まで変わる。
エレジは自分からカイルの服を掴んだ。離れないでほしいと思った。この時間が終わることを考えると寂しい。その寂しさに押されているだけではないかと、一瞬だけ考えた。
けれど、それだけなら、抱きしめてもらうだけでもよかったはずだった。そうではない。もっと知りたいと思っている。
自分が好きになった人に触れたいし、触れられたい。今まで知らなかった距離まで近づいてみたい。その気持ちは、今日一日を通して少しずつ形になったものだ。
キスが途切れたとき、エレジはカイルの近くにいたまま目を開けた。怖くないわけではなかった。初めてなのだから、緊張もある。
身体の奥にはまだ、知らないことへの警戒も残っている。それでも、嫌ではない。戻りたいとも思わない。
「大丈夫か」
「はい」
一度答えてから、エレジは少し考え直した。
「……大丈夫だからじゃないです」
カイルは続きを促さず、エレジが自分の感覚を言葉にするのを待った。
「そうしたいからです」
カイルの手が触れるたび、身体は緊張した。それでも、その緊張の中に逃げたいという感覚はなかった。むしろ、自分から近づくたびに、午前中とは違う熱が少しずつ強くなっていく。
エレジは彼の肩に腕を回した。身体がわずかに緊張したのを感じ取ったのか、カイルはそこで動きを止めた。その一瞬のうちにも、自分にはまだ先へ進むかどうかを選ぶ余地が残されている。そう分かると、エレジは離れずにいられた。
「……続けてください」
「ああ」
そのあとは、言葉より触れている時間の方が長くなった。何度か立ち止まり、そのたびにエレジは自分がどうしたいのかを確かめた。怖さが全くなかったわけではない。
けれど、それ以上に、カイルとこの時間を共有したいという気持ちがあった。
やがて、二人はソファを離れた。
エレジはベッドの縁に腰を下ろした。さっきまでなら、それだけで午前中の緊張を思い出したかもしれない。今は、カイルの存在の方が強かった。近づいてくる気配に胸が速くなる。
これから先は、自分にとって何もかも初めてだ。それでも、この人に触れたい。この人に触れてほしいという気持ちははっきりしていた。
カイルが隣に座ると、エレジは自分から彼の肩に触れた。服越しに感じる身体の硬さも、さっき街を歩いていたときには意識しなかった。
好きな人なのだと思うだけで、一つ一つが違って感じられる。
カイルの手が頬に触れる。その触れ方は、午前中と同じように慎重だった。けれど、エレジにはそれが少しだけ物足りなく感じられた。
「少佐、そんなに気を遣わなくても大丈夫です」
「それは、俺も決める」
自分が望んでいるならそれでいいと思っていたエレジは、カイルにも進む速さを決める意思があるのだと改めて気づいた。
「まだ怖がらせる可能性はある。だから、俺まで急ぐ必要はない」
その言葉を聞くと、胸の奥にあった焦りが少しほどけた。
終わりが近いと思ったから、全部を急いでしまいそうになっていたかもしれない。けれど、カイルと一緒にいるこの時間は、何かを達成するためのものではない。
それを理解すると、エレジも急いで先へ進もうとしていた力を少し抜くことができた。
「……分かりました」
「ただ」
カイルの手が、今度はもう少し確かに頬を包む。慎重でいることと、彼自身が望んでいないことは別なのだと、その触れ方からも分かった。
「我慢するつもりもない」
その言葉に、また心臓が強く鳴った。
次のキスは、これまでより深かった。エレジは一瞬だけ息を詰めたものの、離れたいとは思わなかった。むしろ自分から距離を埋めるように、カイルの肩へ腕を回した。
好きだと分かってから触れることは、こんなにも違うのだと思った。午前中は、触れられるたびに自分の身体を観察していた。今は、自分の身体の反応をいちいち言葉にしなくても分かる。嬉しい。もっと近づきたい。まだ離れたくない。それだけだった。
カイルの手がゆっくりと背へ回る。エレジはその動きを感じながら、身体が一度だけ強張るのを自覚した。カイルはその反応を見逃さず、すぐに動きを止めた。
午前中にも同じことを何度も経験していた。自分が止まれば、カイルも止まる。自分が言葉にできなくても、無理に先へ進まない。分かっていたはずなのに、今はその事実が以前よりずっと大切に感じられた。
「……大丈夫です」
「本当か」
「はい」
答えてから一度呼吸を整えると、自分の中にある緊張と、離れたい気持ちがないことをもう一度区別できた。エレジはそれを自分から示すように彼へ近づいた。
「続けてほしいです」
今度は、カイルの手が再び動いても身体は強張らなかった。少しずつ、触れられることに意識が集中していく。
それから先は、時間の流れが少し曖昧になった。触れられるたびに緊張して、そのたびにカイルが止まり、エレジが自分で先を選ぶ。
何度か怖さが戻りかけた。けれど、そのたびにエレジは、今ここにいる相手が誰なのかを確認することができた。
自分が止まれば止まる。自分が嫌がることを、続きを許された理由にしない。そして何より、自分が好きだと思っている人だった。
それだけで、身体の奥に残っていた警戒は少しずつ違う形へ変わっていった。緊張は消えない。でも、逃げたい緊張ではない。好きな人にここまで近づくことへの緊張だった。
途中、カイルが止まって確認するたびに、エレジは以前より短く答えられるようになった。大丈夫だからではない。したいから。その言葉を、何度も自分の中で確かめた。
そして最後には、確認される前に自分から彼へ近づいた。カイルの肩に腕を回し、額が触れるほど近い距離で目を閉じる。
これ以上、考えなくていいと思った。今はただ、この人と一緒にいたい。それだけで十分だった。
どれくらい時間が経ったのか、エレジには分からなかった。すべてが落ち着いたあと、最初に意識したのは、身体の疲れよりもカイルがまだ隣にいることだった。
何か大きく変わったような気がする一方で、何も劇的には変わっていない。ただ、彼との距離が、もう以前と同じではない。
その変化をどう言えばいいのか分からないまま考えていると、最初に出てきたのはひどく曖昧な言葉だった。
「……変な感じです」
「何が」
「初めてなのに、終わったら急に普通になるんですね」
「どうなると思ってた」
「……分かりません」
自分でも曖昧すぎて、少し笑った。そのあとに残ったのは、驚くほど静かな安心だった。
午前中、自分は恐怖の正体を知ろうとしていた。それから、自分が何をしたいのか、何を好きなのかを少しずつ知った。そして今、自分が誰とこうしたいのか分かっている。
エレジはその答えを確かめるように、隣にいるカイルへ少し近づいた。
「少佐」
カイルの腕に頭を預けると、さっきまでとは違う距離になった相手の顔が近くにある。そのことを嬉しいと思いながら、エレジは彼を見上げた。
「好きです」
エレジは目を閉じた。基地へ戻れば、教官と受講者に戻る。けれど、それは今日を消すことではない。ただ、今はしまっておくだけだ。
そう思うと、さっきまで感じていた寂しさが少しだけ違うものになった。
終わるのではない。続きが先にある。そのことを思いながら、エレジはカイルの近くに身体を寄せた。




