低視界
休養日が明けた数日後、訓練場には朝から細かな雪が流れていた。
風は強くないが、斜面の向こうにある樹林帯が白く霞み、距離感を取りにくい。
視界は悪いが、行動を中止するほどではない。むしろ、この程度の条件なら課程後半では予定通り実施される。
エレジは装備を確認しながら、集合位置に立つカイルを見た。制服姿で訓練生たちを見渡している姿は、ベルンハルトで一緒にいた人と同じなのに、そこに私的なものは何も見えなかった。
ほんの数日前、あれほど近い距離で顔を見ていた。触れられ、こちらからも触れ、帰る直前まで同じ時間を過ごした。その記憶を持ったまま見ると、いつものカイルの姿が少しだけ不思議に見える。
だが、カイルの視線がこちらへ向く頃には、エレジも自分が今いる場所を意識し直していた。ここでは彼は教官で、自分は受講者だ。
「ヴァイス中尉」
「はい」
「装備」
「確認済みです」
それだけだった。
特別な声も、表情もない。
少し寂しいような気がしたのは事実だったが、それ以上に安心した。何もなかったことにされているわけではない。ただ、ここでは出さない。その線引きをカイルが崩していないことが分かれば、自分も同じようにすればいいと思えた。
今日の課目は低視界下での総合偵察だった。四名一組で指定区域まで進出し、観測地点を確保した上で敵役の動きを記録し、別経路から帰投する。
途中で通信障害、負傷者、経路変更などの状況が追加される可能性があることだけが事前に伝えられている。
何が起きるかまでは分からない。それが今日の課目だった。エレジの班にはマティアスのほか、歩兵出身のハインツ中尉と通信兵のベッカー軍曹が入っていた。
「視界、思ったより悪いな」
マティアスは白く霞んだ斜面の上を確かめながら、予定していた距離感より条件が悪いことを口にした。
「二百は見えないと思います」
エレジは答えながら地図を開いた。
「最初の尾根までは南西。そこから谷を横切ります」
「谷、使う?」
「今なら。ただ、風が上がったら戻りは別にします」
マティアスはその条件なら異論はないと理解したように頷いた。
「了解」
開始合図が出ると、班は訓練場を離れた。
雪面は朝の冷え込みで少し締まっていたが、その上に新雪が薄く積もっている。歩きやすい場所と沈む場所が混在し、視界の悪さもあって速度を上げにくい。
エレジは先頭と最後尾の間を何度か確認しながら進んだ。以前なら、自分が行ける速度で前へ出すぎることがあった。今は班全体の歩調を見ることの方が先になっている。
「ベッカー、左足の締め具、少し緩んでます」
最後尾との間隔を確認したときに気づき、後ろから声をかける。
「本当ですか」
「次の停止で見た方がいいです」
「了解」
そのやり取りを聞いたマティアスが振り返り、ベッカーの足元まで目が届いていたことに呆れたような声を出した。
「相変わらずよく見てるな」
「見えるので」
「それで済ませるんだ」
「ほかに言い方あります?」
「ない」
必要な確認が終われば、それ以上会話を続ける理由はなかった。二人とも再び進路へ意識を戻し、最初の観測地点までは問題なく到達した。
エレジは木立の陰から双眼鏡を上げ、雪の向こうにかすかに見える敵役の位置を記録した。距離、人数、移動方向。通信はまだ生きている。
報告を終え、班が第二地点へ移ろうとしたところで状況が変わった。無線から教官側の短い指示が入る。
『第二観測地点は使用不可。北側迂回路へ変更。通信は以降不安定とする』
ベッカーは受信状態を確かめ、これ以降は通常通りの通信を当てにできないと判断したようだった。
「受信できるの、ここまでかもしれません」
「記録だけ残して進みましょう」
エレジは変更後の条件で経路を組み直すため、地図を開き直した。予定経路を捨て、北側へ回るなら距離は増える。ただし谷底を避けられる分、風が強くなった場合は安全だった。
「こっちです」
地図上で北側の尾根を示すと、ハインツがその高低差を確かめた。
「尾根を直接越える?」
「今の積雪なら。負傷者が出たら変えます」
「縁起でもないな」
マティアスは総合課目で十分あり得る追加条件だと分かっているからこそ、半ば冗談めかしてそう言った。
「総合課目ですから」
「そういうこと言うと来るぞ」
そして、本当に来た。
尾根を越えた直後、先頭を歩いていたハインツが足を取られた。転倒そのものは軽かったが、その直後に教官役から声が飛ぶ。
「ハインツ中尉、右足負傷。自力歩行困難」
「やっぱり来た」
さっきの言葉どおりになったことに、マティアスが短く反応する。
エレジはもう追加条件を前提に考え始めており、すでに地図を開いていた。
「このまま北へ行くのは遅すぎます。二百戻って、斜面の緩い方に出ます」
「最初の経路に戻す?」
「途中まで。谷底には入らないです」
負傷者役になったハインツをマティアスとベッカーが支える。エレジは進路を取り直し、先に数歩進んで雪面を確認した。
その直後だった。
右足が新雪の下の段差を踏み抜いた。身体が斜面側へ傾き、次の瞬間、後ろから腰のあたりを強く掴まれ、そのまま引き戻された。
一瞬、身体が強張った。
「ヴァイス中尉、右」
ベッカーの声だった。
「そこ落ちてます」
腰に触れている手を意識した瞬間、以前ならそこから身体の反応に引かれていたかもしれない。けれど今は、ベッカーの声と足元の危険の方が先に繋がった。右。落ちている。エレジは足元を確認した。雪の下に岩の切れ目がある。
「……分かりました」
声はわずかに遅れたが、すぐに状況へ戻れた。
危険から引き戻せたと分かると、ベッカーはすぐに手を離した。
「すみません、急だったんで」
「いえ。助かりました」
エレジは一歩横へ移った。身体にはわずかに緊張が残っていたが、それ以上には広がらなかった。地図を開ける。判断もできる。
「ここは避けます。左へ三メートル。そこから下ります」
マティアスは今の一瞬に何かあったことには気づいたらしく、こちらを見た。だが、エレジがすでに進路を指示しているのを見て、そこで問いかける必要はないと判断したようだった。
班はそのまま進んだ。エレジも歩いた。
さっきの接触について考えようと思えば考えられた。けれど今は、負傷者役のハインツがいる。通信は不安定で、視界もさらに落ちている。必要なのは、自分の反応を追うことではなく、班を戻すことだった。
少し進んだところで、今度は斜面が急になった。
「ここ、支えないと下ろせないな」
マティアスはハインツの状態と斜面の傾斜を見比べ、単独では下ろせないと判断した。
「ベッカー、右。俺が左」
エレジは残った位置を埋めるように下側へ回る。
「中尉、そこ危ない」
「分かってます」
ハインツの身体を下へ移すため、三人の距離が一気に縮まった。肩が当たり、腕が交差し、誰かの手がエレジの背中に触れる。
触れられたことには気づいたが、意識はハインツの体重と足場から外れなかった。
「せーの」
マティアスの声に合わせ、三人でハインツを下ろす。身体に触れられていることは分かっていたが、それ以上に、今はハインツを落とさないことの方が大きかった。エレジもその動きに合わせる。
「もう一段」
「はい」
背後から誰かの腕が肩の近くを通った。接触は認識したが、それによって動きが乱れることはなかった。
斜面を下り切ったところで、ハインツを一度座らせる。ここまで運んできた負荷が一気に出たのか、ベッカーが呼吸を整えながら言った。
「これ、思ったよりきついですね」
「まだ半分です」
エレジが事実を告げると、負傷者役のハインツが嫌そうに苦笑した。
「言わないでください」
その反応がおかしくて、エレジも少し笑った。そして、接触を意識したあとでも、もうそこに気持ちを引かれていないことに気づいた。
反応が出ることはある。
けれど、以前のようにその反応が意識全体を持っていくことはなくなっていた。
誰が触ったのか。なぜ触ったのか。今、何をしなければならないのか。
それを考えれば、身体の反応より状況の方を先に置ける。
再出発して十分ほど経ったところで、さらに状況が加わった。前方から敵役が接近する。
最初にその動きを捉えたマティアスが、すぐに班へ伝えた。
「前、二」
班全体がすぐに散開する。エレジは右へ動こうとしたが、負傷者役のハインツがいるため、通常より動ける範囲が狭い。
「ヴァイス中尉、下がって」
ベッカーの声と同時に、後ろから腕を掴まれた。
予告はなかった。反射的に肩へ力が入ったが、すぐにベッカーの声と位置が状況につながった。敵役がいる。射線が通る。自分が前に出すぎている。
エレジはその手に引かれるまま一歩下がり、身体を低くした。
「ありがとう」
「はい」
確認はそれだけで終わり、数秒後にはもう別の判断をしていた。
敵役をやり過ごし、負傷者を連れて予定区域を離れる。帰投地点へ着いたときには、全員かなり疲れていた。
教官たちはすでに待っていた。
「装備確認後、五分で講評」
聞き慣れたカイルの声が飛ぶ。エレジはいつも通り返事をして装備を外し、そこで初めて、訓練中にいくつか接触があったことを改めて思い出した。
カイルは何も聞かなかった。もちろん、ここで個人的に確認するはずもない。
五分後、班ごとの講評が始まった。
「最初の観測は問題なし。第二地点変更後の経路判断」
カイルは地図上の変更地点を示し、エレジの判断について確認を始めた。
「ヴァイス中尉」
「はい」
「北側へ回した理由は」
「谷底より尾根上の方が、視界低下と風の増加に対応しやすいと判断しました」
「負傷者が出たあと、変更まで少し遅い」
「はい」
「理由」
エレジは自分がどこで判断を遅らせたのかを振り返ってから答えた。
「当初経路を維持できる可能性を見すぎました」
「具体的には」
「負傷者発生時点で移動速度を再計算せず、地形条件だけで判断を続けました」
「次は?」
「負傷が出た時点で、予定到達時刻と移動速度を一度切ります。その上で経路を選び直します」
「ああ」
必要な確認が取れると、カイルはそれ以上エレジに留まらず、次の評価へ進んだ。
「ロート。敵役接近時、散開位置が広すぎる」
「はい」
「負傷者を残す形になってる」
「分かってます」
「分かってるなら直せ」
「はい」
いつもの講評だった。
エレジだけを気にかける様子もない。訓練中に何度か接触でわずかに身体が強張ったことも、ここでは触れなかった。
それが少し不思議だった。数日前には、あれほど近い距離で自分の反応を見ていた人が、今は一人の受講者としてしか扱っていない。
自分がカイルにとって特別な相手であることと、軍人として評価されることが別々に存在している。そのことが、思っていたより安心できた。
講評が終わり、解散になる。エレジが装備をまとめていると、マティアスが横に来た。
「中尉」
「何ですか」
「途中、一回止まったでしょ」
装備を片づける手はそのままにしていたが、何のことを言われているのかはすぐに分かった。
「分かりました?」
「一瞬だけ」
「どこですか」
「最初、ベッカーに腰引かれたとき」
「ああ」
やっぱり分かっていたらしい。
「でも、そのあと普通だったから」
「普通ではなかったです」
「そうなのか」
「少しは反応しました」
マティアスは、外から見えていたものとエレジ自身の感覚に差があったことを考えるように少し間を置いた。
「でも動けてた」
「はい」
「なら、前とは違うな」
その言葉で、訓練中に自分が感じていた変化が他人から見ても分かるものだったのだと気づき、エレジはそこで初めて装備をまとめる手を止めた。
「……そうですね」
マティアスは、それ以上を聞く必要はないと判断したらしい。ホテルで何があったのかも、カイルとどこまで話したのかも、聞こうとはしなかった。
「じゃあ、お疲れさま」
「少尉も」
マティアスが離れていくのを見送ってから、エレジは装備を持ち、宿舎へ向かった。
雪は朝より弱くなっていた。
歩きながら、今日のことをもう一度思い返す。
ホテルで分かったことが、そのまま訓練で使えたわけではない。カイルに触れられることと、訓練中に別の男から突然身体を掴まれることは、やはり同じではなかった。
身体が一瞬強張っても、そのまま判断まで遠くなることはなかった。誰が触れたのかを確認できた。理由を理解できた。そのあとではなく、その最中に状況へ戻ることができた。
反応しなかったのではない。
けれど、反応に引かれず、自分で状況の中に留まることができた。
エレジは宿舎へ向かいながら、その違いを何度も自分の中で確かめていた。




