その先
二月の終わりが近づくにつれて、課程の空気は少しずつ変わり始めていた。個別の技術を切り分けて確認する時間は減り、ひとつの課目の中に複数の条件が重なることが増えている。
射撃だけ、航法だけ、通信だけという訓練ではなく、移動しながら観測し、通信が途切れれば別の方法へ切り替え、誰かが負傷すればその人数で任務を続行できるかを判断する。
教官側が何を加えてくるかは事前には分からず、正しい手順を知っているだけでは足りなかった。
その日の午前、訓練生たちは講義室に集められていた。正面にはカイルが立ち、黒板には三月末までの日程が書かれている。
「ここから先は、これまでの課目を単独では見ない」
カイルは全員に内容が届いていることを確かめるように講義室を見渡してから、これから評価するものを明確にした。
「最終評価まで、個別技能を総合状況の中で使えるかを見る。条件は途中で変わる。計画通りに進むことより、計画を捨てる必要があるときに捨てられるかの方が重要になる」
エレジは手元の日程表へ視線を落とした。三月という文字はこれまでも何度も見ていたはずなのに、今日は初めて、それが課程の残り日数として意識に入ってきた。
課程は三月末で終わる。それまで知識として分かっていた日付が、急に自分の時間として近づいてきたように感じられた。
「最終評価は数日に分けて実施する。詳細はまだ出さない。事前に分かるのは、長時間行動になることと、ここまでやった内容は全部使う可能性があるということだけだ」
後ろの方で誰かが小さく息を吐いたが、カイルは訓練生たちの反応に説明を合わせることなく、そのまま次の話へ移った。
「それと、今日中にこれを書け」
前列から紙の束が回され、エレジのところにも一枚来た。所属と氏名を書く欄の下には、原隊復帰後の希望任務や勤務地、今後受講を希望する課程、さらに山岳・偵察・小規模部隊勤務への志望など、これから先の自分について答える項目が並んでいた。
エレジはしばらくその紙を見た。配置を決める書類ではないし、希望を書いたからといって、その通りになるものでもない。
課程修了後は基本的に原隊へ戻り、その先の人員配置について教官側が決定権を持つわけでもない。それでも、そこには自分が何を望むのかを書くための欄が用意されていた。
「これは評価には入らない」
カイルは、訓練生が書類の意味を過大にも過小にも受け取らないように続けた。
「希望があるなら書け。ないなら、ないと書けばいい。ただし、考えてないのと、考えた上で希望がないのは別だ」
その言葉を聞き、エレジはもう一度紙を見た。以前なら、原隊復帰とだけ書き、ほかは「特になし」で終わらせていたかもしれない。必要とされた場所へ戻る。それ以上を自分で決める必要はないと思っていたからだ。
けれど今は、書きたいことがあった。
エレジはペンを取り、希望勤務地には北部、希望任務には偵察と、小規模部隊による山岳地域での任務と書いた。
大げさなことを書いたわけではない。それでも、自分が何をしたいかをこうして書類の上に残すことは、思っていたよりはっきりした感覚を伴った。
向いているからでも、評価が高かったからでもない。自分がやりたいと思ったから書いた。それだけで希望として十分なのだと、今は思える。
隣からマティアスが身を寄せ、紙の内容を覗こうとした。
「何書いたの」
見せる理由はないと思い、エレジはすぐに紙を少し自分の方へ寄せた。
「見ないでください」
「別に隠すようなものじゃないでしょ」
「じゃあ少尉のを先に見せてください」
「俺のはまだ白紙」
「ならだめです」
「厳しいな」
交換条件が成立しないと分かると、マティアスは諦めて自分の紙へ戻った。だが、自分の希望を書くよりエレジの進路の方が気になったらしく、少ししてまた口を開いた。
「中尉、北に残るの」
「そのつもりです」
「原隊戻ってからも?」
「はい」
「そうなんだ」
「少尉は?」
「俺もたぶん北。慣れてるし」
「それ、希望なんですか」
「半分は」
「残り半分は?」
「今さら暖かいところで冬装備のない生活すると落ち着かなそう」
あまりにもマティアスらしい理由で、エレジは笑った。
「それは理由にならないと思います」
「希望欄なんだからいいでしょ」
二人の会話が前まで届いたらしく、カイルの声が飛んだ。
「ロート少尉」
「はい」
「私語する余裕があるなら書け」
「はい」
注意された以上続ける理由もなく、マティアスはようやく自分の希望調査に向き直った。エレジも紙へ戻ったが、さっきのやり取りのおかしさはまだ少し残っていた。
その日の課目が終わる頃には、雪がまた降り始めていた。
希望調査は当日中に提出することになっている。訓練生の多くは講義室を出る前に提出箱へ入れていたが、エレジは少し迷った末に紙を持ったまま出た。書き直したいわけではない。ただ、自分が書いた内容について、一度だけ聞いておきたいことがあった。
夕方、エレジは教官宿舎棟へ向かった。カイルの執務室を訪ねるのは久しぶりというほどではない。それでも今日は、扉の前に立ったところでベルンハルトのことを思い出した。
基地へ戻ってから、二人きりで私的な話をすることはなかった。訓練ではカイルは教官で、自分は受講者だったし、それでいいと思っていた。だからこそ今も、ここへ来た理由は仕事のことだと、自分の中ではっきり分けることができた。
ノックすると、すぐに返事があった。
「入れ」
「失礼します」
カイルは机で書類を見ていた。入ってきたのがエレジだと分かると、読んでいた紙から意識を切り替え、用件を聞く姿勢になった。
「どうした」
「希望調査、まだ提出してなくて」
「書けないところがあるのか?」
「いえ。書きました」
エレジが紙を差し出すと、カイルは受け取り、上から順に目を通した。いくつかの項目を確認したあと、希望任務の欄で読む速度が止まる。
「偵察か」
「はい」
「小規模部隊勤務も」
「はい」
「前から考えてたのか」
エレジは、自分がいつからそれを望むようになったのかを辿ってから答えた。
「この課程に来る前は、そこまで具体的には考えてませんでした。任務を選べるともあまり思ってなかったので」
「今は?」
「やりたいと思います」
その答えを聞くと、カイルは書かれた希望ではなく、それを書いた本人の考えを確かめるために顔を上げた。
「理由は」
「偵察は、見たものから状況を組み立てるのが好きです。人数が少ない方が、一人ずつの判断がそのまま結果に出るのも」
「負担もその分大きい」
「分かってます」
「お前は抱え込みやすい」
即座に言われ、希望について相談しに来たはずが課程中の自分の欠点まで返ってきたことに、エレジは少しだけ眉を寄せた。
「そこも書類に書くんですか」
「希望欄には書かない」
「ならよかったです」
「評価表にはある」
「……あるんですね」
予想どおり少し不満そうな反応をしたエレジを見て、カイルは厳しい評価だけを伝えるつもりではないことを示すように、少し口元を緩めた。
「ただ、最初よりはましになった」
「まし、ですか」
「かなり」
「それなら最初からそう言ってください」
「今言った」
評価としては十分肯定的なのだと分かり、エレジは言い返す代わりに少しだけ笑った。
カイルはもう一度紙に視線を戻し、今度は希望と実際の適性を結びつけるように話した。
「偵察では、お前の観察の仕方は使える。見たものと推測を分けられるし、一度決めた判断を条件が変わったら修正できる。ただし、自分の状態まで情報から外す癖は直せ」
単に希望を肯定されるのではなく、適性と課題の両方を具体的に返されたことで、エレジは自然と評価を受ける姿勢に戻った。
「はい」
「最近は報告できるようになってきた」
「自分でも、前よりは」
「なら続けろ」
「はい」
そこまでで、希望調査について聞きたかったことはほとんど答えられていた。カイルは確認を終えた紙を机の端へ置いた。
「ほかは?」
「……一つだけ」
「何だ」
「これを書いたからって、配置が変わるわけじゃないですよね」
「ああ。これは希望の確認だ。人事を決める書類じゃない」
「偵察を希望しても、原隊にそのまま戻る可能性の方が高いですか?」
「当面はそうなる可能性が高い。少なくとも、この課程が直接お前の異動を決めるわけじゃない」
「そうですよね」
分かっていた答えだった。それでも、聞いておきたかった。
「ただ」
そこでカイルが言葉を継いだため、エレジはまだ説明が終わっていないことに気づいた。
「希望を書かなければ、考慮される材料も増えない」
その言葉は、配置が変わるかどうかより、自分が希望を示すこと自体の意味を答えていた。
「必ず通るわけじゃない。でも、自分が何をしたいかを出す意味はある」
「はい」
「だから書いたなら、それでいい」
エレジは頷いた。以前なら、通る保証がない希望を書くことに意味を感じなかったかもしれない。けれど今は、叶うかどうかと、自分が望んでいるかどうかは別なのだと分かっている。
「ありがとうございます」
「ああ」
聞きたかったことは終わった。エレジは帰ろうとしたが、扉へ向かいかけたところで足を止めた。
希望調査とは関係のないことを、ずっと紙を見ながら考えていた。課程が終わったあとについて具体的に考えたせいで、もう一つ、それまで意識していなかったことに気づいてしまった。
「少佐」
「何だ」
カイルはもう別の書類へ手を伸ばしかけていたが、エレジがまだ用件を残していると分かり、そちらへ意識を戻した。
「課程が終わったら、私、原隊に戻るんですよね」
「ああ」
「少佐はここにいる」
「ああ」
そこでカイルにも、エレジが確認したいのは所属そのものではないと分かった。
課程が終われば、教官と受講者という制約はなくなる。そのことばかりを二人とも意識していた。ベルンハルトでも、それが終わったら改めて会おうと話した。
けれど、制約がなくなるということは、同時に毎日顔を合わせる理由もなくなるということだった。
エレジもそこへ辿り着いたのだ。
「……会おうと思わないと、会わなくなるんですね」
「ああ」
「今までは毎日いるのが普通だったので、考えてませんでした」
「俺も最初はそこまで考えてなかった」
「最初は?」
「今は考えてる」
自分だけが今になって気づいたと思っていたエレジには、その答えは少し意外だった。
「どうやって会うかを?」
「ああ」
「まだ原隊がどこになるかも変わってないのに?」
「北部にいるなら、どうにかなる」
「結構広いですよ、北部」
「知ってる」
現実的な距離を指摘されても考えを変える様子がないことに、カイルは少しだけ笑った。
「でも、お前は課程が終わったらデートするって言っただろ」
「言いました」
「なら会う理由はある」
エレジはその言葉をしばらく考えた。これまでは、同じ基地にいるから会っていた。訓練があり、講評があり、提出物があり、何か理由がなくても互いの姿が見える。
これからは違う。
会うためには、自分でその時間を作らなければならない。
「……本当にします?」
「何を」
「デート」
「する」
「一回だけですか」
一回という発想自体がなかったらしく、カイルが少し眉を上げた。
「一回で終わらせるつもりだったのか」
「そういう意味じゃないです」
「じゃあ何だ」
「その先まで、あまり考えてなかったです」
エレジは正直に答えた。
「課程が終わったら一緒に出かけられる、くらいで」
「俺は一回だけとは考えてない」
あまりにも普通に言われて、エレジは一瞬返せなかった。
「……そうなんですか」
「ああ」
「いつからですか」
カイルは、自分がどの時点からそう考えていたのかを改めて言葉にする必要があると分かり、すぐには答えなかった。
ベルンハルトで互いの気持ちを確かめたあとも、自分がどこまで先のことを考えているのか、明確な形にしたわけではなかった。
ただ、課程終了を境に一度会って終わるという発想だけはなかった。離れれば会うのが難しくなる。それでも会うつもりでいた。
「少なくとも、ベルンハルトから戻った時点では」
「言ってくれればよかったのに」
「聞かれなかった」
「それ、ずるくないですか」
「何が」
「私は今日まで、一回のデートのことしか考えてなかったです」
「今から考えればいい」
エレジは、一回のデートの先に何があるのかを本当に考えていなかったことに気づいた。課程が終われば会える。それだけで止まっていたその先に、会うことを重ねていく時間があるのだと初めて意識する。
「……何回くらいですか」
「回数を決めるのか」
「決めないんですか」
「普通は決めない」
「そうなんですね」
「そこで初めて普通を気にするのか」
言われて、自分でも今さらだと思い、エレジは笑った。
「だって、本当に分からないので」
「ああ」
「恋人になったら、何回も会うものなんですか」
カイルはその言葉の中に、まだ二人が明確には決めていなかった関係の名前が含まれていることに気づき、そこで一度答えるのを止めた。
エレジ自身は、単純に知らないことを聞いているだけらしい。しかし、その問いをそのまま流せば、二人が同じ認識なのか確認しないまま先へ進むことになる。
「エレジ」
「はい」
「今、俺たちのことを恋人って言ったか?」
指摘されて初めて自分が使った言葉に気づき、エレジは目を見開いた。
「……言いました?」
「言った」
「そういうつもりで言ったわけでは」
「じゃあ違うか?」
聞き返されると、エレジは困った。違うと言うのもおかしい。好きだということは互いに分かっていて、デートもした。その先まで進み、課程が終わっても会うつもりでいる。それなら何なのかと聞かれると、むしろ別の言葉を探す方が難しかった。
「……違わないと思います」
「俺もそう思ってる」
自分だけがその認識を持っていなかったらしいことが分かり、エレジは少し信じられないような気持ちでカイルを見た。
「いつからですか、それ」
「何が」
「私たちが恋人だと思ってたの」
「ベルンハルトで、お前が俺とこの先も会いたいって分かった頃から」
「私は今知りました」
「今決まったと思えばいい」
「そんなのでいいんですか」
「お前が嫌なら変える」
「嫌じゃないです」
返事は早かった。自分でも迷わず答えたことに気づくと、今度はその言葉の意味が急に実感を伴い、エレジは少し恥ずかしくなって視線を下げた。
「……でも、基地では今まで通りですよね。課程が終わるまでは」
「ああ」
その返答に、エレジは少し安心した。関係に名前がついたからといって、明日から何かが変わるわけではない。訓練場では少佐と中尉、教官と受講者で、それは最後まで変えない。
ただ、その先にはもう何もないわけではない。
「あと一か月くらいですね」
「ああ」
「長いですか」
「短い」
カイルは迷わず答えた。
「最終評価まで考えたら、すぐ終わる」
「……そうですね」
恋人という言葉に意識が向いていたエレジも、その先にまず修了しなければならない課程があることを思い出し、少し考えてから笑った。
「じゃあ、ちゃんと終わらせます」
「何を」
「課程です。中途半端に終わるの嫌なので」
「当たり前だ」
「少佐、そこは少しくらい応援してくれてもいいと思います」
「教官としてなら毎日してる」
「分かりにくいです」
「評価表を見れば分かる」
「見せてくれないじゃないですか」
「修了したらな」
「本当に?」
「規定の範囲なら」
修了後にそれを確認できるという新しい楽しみまでできたことに、エレジは納得したように頷いた。
「じゃあ、そのとき見ます」
「ああ」
今度こそ帰ろうと扉へ向かう。
「ヴァイス中尉」
後ろから、私的な話をしていたときとは違う呼び方で呼び止められた。振り返る前から、カイルが教官として話しているのだと分かった。
カイルはもう完全に希望調査と評価の話へ戻っていた。
「希望調査、受け取った」
「はい」
「偵察を希望したことも含めて、最後まで評価する」
エレジはその意味を理解した。希望を書いたから有利にするわけでも、私的な関係があるから評価を変えるわけでもない。自分がその任務を望むなら、その適性を最後まで軍人として見るということだった。
「お願いします」
「ああ」
エレジは執務室を出た。
廊下を歩きながら、今日書いた希望調査の内容を思い返した。北に残りたい。偵察をやりたい。小さな部隊で働きたい。そして、課程が終わったあともカイルに会いたい。
以前の自分なら、どれも「そうなればいい」と思うだけで、自分から選ぶものではなかったかもしれない。今は、叶うかどうかは分からなくても、自分が望んでいることを自分の言葉で出せる。
課程が終われば、カイルと毎日顔を合わせる理由はなくなる。けれど、それは関係が終わるという意味ではない。これまでは同じ場所にいる理由を軍が用意していたが、その先は、自分たちで会う理由を作っていくことになる。
エレジは、そのことを思っていたより嬉しいと感じながら、訓練生宿舎へ戻っていった。




