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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
北部山岳特殊任務課程

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任せる


 三月に入ると、訓練は明らかに最終段階へ移っていた。朝の集合時刻は以前より早くなり、日中だけで完結する課目も減っている。

 出発前に渡される情報は必要最低限で、行動中に条件が変わることを前提としており、教官側も何が起きるかを細かく説明しなくなった。


 その日の課目は、夜明け前から夕方まで続く長時間の総合行動だった。四人一組で指定区域へ進出し、監視対象の動きを記録する。

 必要に応じて経路を変更し、通信状況の悪化や負傷者にも対応する。最終評価そのものではないが、形式としてはかなり近いものだと全員が分かっていた。


 エレジの班は、ハインツ中尉、ベッカー軍曹、シュルツ伍長との四人だった。今回はマティアスがおらず、役割も事前に指定されている。指揮はハインツ、通信はベッカー、シュルツは後衛と支援。そしてエレジは、観測と偵察を担当することになった。


 その割り振りを聞いたとき、エレジは少しだけ意外に思った。ここ最近は状況判断を求められる場面が増えていたため、今回も班の動きをまとめる側に置かれる可能性があると思っていたからだ。


 けれど、今日は違う。

 自分の役割は、見ることだった。必要な判断材料を集め、それを出す。最後に決めるのはハインツであり、そこまでを自分が引き受ける必要はない。


「何かありますか」


 出発前、ハインツは全員に問題がないことを確認するように尋ねた。


「ありません」


 ベッカーが答え、エレジも続いた。


「ありません」


「じゃあ行くぞ」


 班はまだ暗い訓練場を離れた。

 山へ入る頃には空が少しずつ明るくなっていたが、厚い雲のせいで光は弱かった。前夜の雪が残り、樹林帯の下にも薄く積もっている。


 最初の二時間は、大きな問題なく進んだ。エレジは先頭近くを歩きながら雪面と周囲の地形を確認し、新しいものと古いものが混じった足跡、枝についた雪の落ち方、人が通った痕跡、そのさらに先で動く影を順に拾っていった。


 観測地点へ入る前、エレジは片膝をついて双眼鏡を上げ、しばらく正面の尾根を確認してからハインツへ低い声で伝えた。


「正面の尾根に二人います」


「固定?」


「一人は動いてます。もう一人は同じ場所に長くいます」


「見張りか」


「可能性は高いです。ただ、断定はできません」


 ハインツはその情報を受けて地図を確認した。


「北から回るか」


 エレジはもう一度周囲を見直し、それぞれの経路が持つ条件だけを伝えた。


「北側は開けてます。見られる可能性があります」


「南は」


「遮蔽があります。ただ、戻りは遅くなります」


 そこまで言ったところで、エレジはそれ以上を続けなかった。以前なら、そのまま「南がいいと思います」と自分の結論まで口にしていたかもしれない。


 どちらを選ぶべきか、自分の中ではほとんど答えが出ている。けれど、今それを決めるのは自分ではない。

 ハインツは少し考えたあと、決めた。


「南へ回る。時間より発見されない方を取る」


「了解」


 エレジはすぐにその判断へ従った。

 その後も似た場面が何度かあった。敵役がどこへ動いているのか、雪の状態はどうか、どこまで見通せるのか、撤収するならどの経路が使えるのか。

 エレジには判断に必要な材料がかなり見えていたが、それをすべて自分で結論まで持っていく必要はなかった。


「右側に足跡あります。新しいです」


「人数は」


「三人以上。ただ、重なってるので正確には分かりません」


「方向は」


「西」


「こっちへ来る可能性は」


「あります」


 必要な情報はそこまでだった。あとはハインツが決める。


「一度止まる。五分待つ」


「了解」


 エレジはその判断に従った。

 自分なら動いていたかもしれない。しかし、ハインツの判断も間違いではなかった。実際、五分後には敵役が尾根の向こうを通過し、班は発見されずに済んだ。


 その結果を確認したとき、エレジは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 自分が決めなくても、班は動く。

 当然のことだった。それでも以前の自分には、その当然を最後まで他人に任せきれないところがあった。


 昼前、状況が変わった。

 観測を終えて撤収へ移ろうとしたところで、教官側から新しい条件が与えられる。


「ベッカー軍曹、負傷。右脚使用不可」


 ベッカーが負傷者役としてその場で姿勢を変えると、ハインツはすぐに周囲の状況へ意識を切り替えた。


「了解。シュルツ、支えろ。ヴァイス、現在地」


 エレジは地図を開いた。


「ここです。予定撤収地点まで通常なら四十分前後」


「今の状態なら?」


「倍近くかかります」


 その時間を聞いたハインツは、すぐには経路を決めなかった。


 エレジにはすでに二つの案が見えていた。北側の斜面を使えば距離は短いが、その分、先ほど確認した監視位置から見られやすい場所へ出る。南へ戻れば安全性は高いものの、移動には時間がかかる。


 反射的に、北は危険で南へ戻るべきだと口にしかけたが、そこで止めた。今、自分がやるべきなのは、答えを決めることではなく、ハインツが判断するための材料を出すことだった。


「中尉」


「何だ」


「南へ戻れば時間はかかりますが、遮蔽は取れます。北側なら十五分程度短縮できます。ただ、さっきの監視位置から見られる可能性があります」


 ハインツは地図に示された二つの経路を確認した。


「敵役が移動してる可能性は」


「あります。今の位置は確認できません」


「通信は」


 問われたベッカーが無線を確認した。


「かなり不安定です」


 それらを踏まえ、ハインツは数秒考えたあとで決めた。


「南へ戻る。時間は捨てる」


「了解」


 エレジは答えた。

 自分の考えと同じだった。

 けれど、それが重要なのではない。自分は判断材料を出し、決定をハインツへ渡した。それで班は動けた。


 ベッカーをシュルツとハインツが支え、エレジは先に出て経路を確認した。雪の深い場所を避け、負傷者を連れてでも通れるよう、傾斜の緩いところを選んで進む。

 途中、ハインツは何度かエレジへ状況を尋ねた。


「このまま行けるか」


「行けます。ただ、二百先で沢に当たります」


「越えられる?」


「負傷者がいるなら少し難しいです。手前で右へ切った方がいいです」


「分かった」


 その判断で班は進んだ。

 そうやって必要な情報だけを求められるたびに出しているうちに、エレジにも自分の役割が少しずつ明確になってきた。全部を決めなくてもいい。けれど、決めるために必要な情報は出す。それだけでも班の判断は変わる。


 午後に入ると、さらに条件が悪化した。風が強くなり、舞い上がった雪で視界が落ちる。その上、前方に敵役が現れた。

 最初に気づいたのはエレジだった。


「前、三」


 全員がその場で止まり、ハインツが低く確認する。


「距離」


「百五十前後。こちらへ来てます」


「回避できる?」


 エレジは周囲を確認した。右側は開けている。左には樹林帯があり、後ろへ戻れば負傷者を連れて斜面を上り直さなければならない。


「左なら隠れられます」


「抜けられる?」


「今動くと見つかる可能性があります」


「じゃあ?」


 そこでエレジは一瞬言葉を止めた。

 答え自体は見えていた。左の樹林帯へ入り、その場で動かずに敵役をやり過ごす。それがもっとも安全だった。


 ただ、ここまで「決めすぎない」ことを意識していたせいで、判断を求められた今も一歩引こうとしてしまった。

 ハインツがもう一度尋ねる。


「ヴァイス?」


「……左の樹林帯に入って、五分待つのがいいと思います。このまま動くより発見されにくいです」


「根拠は」


「相手は直進しています。こちらの痕跡をまだ追っていません。今なら遮蔽に入れます」


「分かった。左」


 班はすぐに樹林帯へ移動し、姿勢を低くしてそのまま待った。数分後、敵役は少し離れたところを通過し、こちらには気づかなかった。


「助かった」


 ハインツの声を聞きながら、エレジは敵役が十分離れたことを確認した。

 さっき、自分は遅れた。


 判断ができなかったわけではない。むしろ、答えは最初から見えていた。ただ、出しすぎないようにしようと意識するあまり、必要な場面でも一度引こうとしてしまった。

 そのことが、少し気になった。


 夕方、班は予定より遅れて帰投した。負傷者を抱えた分だけ時間はかかったが、全員が規定の範囲内で戻っている。

 装備確認を終えると、班ごとの講評が始まった。カイルは一日の記録を確認しながら、まず前半の動きから整理していく。


「前半、観測は良好。敵役の位置と移動を分けて報告できてる」


 エレジは自分の評価だけに意識を寄せず、班全体の講評として聞いた。


「ハインツ中尉」


「はい」


「判断自体は大きな問題なし。ただし負傷者発生後、南へ戻る決定まで少し長い」


「はい」


「情報待ちになりすぎた」


「分かりました」


 次にカイルがエレジへ話を移した。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「今日は一つ、判断を出すのが遅れた」


 どの場面を指しているのか、エレジは一日の流れを振り返った。


「負傷者が出たところですか」


「違う」


「……後半ですか?」


「ああ」


 そこまで聞けば、思い当たる場面は一つだった。


「樹林帯へ入る判断ですか」


「そうだ」


「はい」


「理由は」


 エレジは、自分でも気になっていた原因をそのまま答えた。


「自分が決めすぎないように意識していました」


 カイルはその意図自体を否定するのではなく、結果として何が起きたのかを返した。


「それで必要な判断まで遅らせた?」


「……少し」


「任せることと、引くことは違う」


 その言葉で、自分が今日試していたことの境目を指摘された気がして、エレジはカイルの説明を待った。


「前半はできてた。材料を出して、最終判断をハインツに渡してる。それでいい。でも後半、ハインツから判断を求められたときまで同じように引いた」


「はい」


「役割が変わったなら、出せ」


 言われてみれば、同じ班の中でも自分に求められるものは一定ではなかった。エレジはその違いを自分の言葉に置き換えた。


「自分が決める場面と、決めない場面を分ける」


「そうだ」


「でも、それってその場で判断しないと分からないですよね」


「だから見るんだろ」


 カイルは記録を閉じた。


「状況だけじゃない。自分が今どの役割にいるかも含めて見ろ」


「はい」


「お前は判断そのものが遅いわけじゃない。今日遅れたのは、抑えすぎたからだ」


 その指摘で、エレジにも今日起きたことがはっきり整理できた。

 以前は逆だった。自分が見えたものを、自分の中で最後まで確定させようとしていた。今は他人に渡すことを覚え始めているからこそ、今度は渡すべきではないところまで渡しかけた。

 カイルの言う通り、それも違うのだろう。


「分かりました」


「ああ」


 講評はそのまま続き、シュルツの支援位置、ベッカーの通信、ハインツの指揮についても順に整理されていった。誰か一人だけを中心に見るのではなく、班全体がどう動き、どこで判断が滞ったのかを見ていく講評だった。

 すべて終わる頃には、外はもう薄暗くなっていた。


「今日はここまで。明日は〇六三〇集合。解散」


 訓練生たちはそれぞれ装備を持ち、その場を離れていった。エレジも宿舎へ戻ろうとしたところで呼び止められた。


「ヴァイス中尉」


「はい」


 カイルはさっきまでと同じ、教官としての態度のままだった。


「希望調査」


「はい」


「偵察って書いてたな」


「書きました」


「今日の前半みたいに情報を出して、必要なときに判断を切り替えられるなら、十分使える」


 その言葉に、エレジは少しだけ驚いた。

 恋人として言われているわけではない。それは分かっている。

 だからこそ、嬉しかった。


「ありがとうございます」


「ただし」


「はい」


「引きすぎるな」


 さっきの講評と同じ注意がもう一度返ってきたことに、エレジは少し笑った。


「そこは今日もう言われました」


「なら忘れるな」


「はい」


 必要なことを伝え終えると、カイルはそれ以上私的な話へ移ることはなかった。エレジもその場を離れ、宿舎へ向かいながら今日の訓練を思い返した。


 自分で決めることと、他人に任せること。必要な情報を渡すこと。そして、判断を求められたときには引かずに答えを出すこと。そのどれか一つだけができればいいわけではなく、小さい部隊ではおそらく全部が必要になる。


 自分が今どの役割にいるのかを理解し、その都度どこまで引き受けるかを変える。以前のエレジは、自分で持てるものはすべて持つことが責任だと思っていた。

 けれど今は、それだけでは班を強くできないことが少しずつ分かってきている。


 自分が持つべきものを持ち、渡すべきものは渡す。そして必要になれば、また受け取る。

 偵察を希望したときには、まだそこまで言葉にできていなかった。けれど今日一日を終えた今は、自分がこれから身につけなければならないものが、以前より少し具体的に見えていた。



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