刃
課目の内容はますます任務に近づいていた。技術ごとに切り分けて評価する時間はほとんどなくなり、今では一つの状況の中で、観察、移動、射撃、近接、判断のすべてを使うことを求められる。
その日の訓練場所は、基地北側にある市街地戦用の区画だった。古い住宅や倉庫を模した建物が狭い通路を挟んで並び、内部には階段や小部屋、行き止まりの廊下まで作られている。山中での課目とは違い、距離を取れる場所は少ない。
訓練生たちは一棟の建物の前に集められていた。
「今回の目的は、指定された建物に進入して情報物を回収し、離脱地点まで持ち帰ることだ」
カイルは建物の簡略図を示しながら説明した。
「敵役の人数は不明。民間人役がいる可能性もある。全員を制圧する必要はない。目的物を回収して戻れば終了だ」
机の上には訓練用の装備が並べられており、短銃器に加えて、短棒、拘束具、刃のない訓練用短剣などの中から補助装備を一つ選べるようになっていた。
「携行弾数には制限を入れる。近距離で射撃できない状況も想定しろ。補助装備は一つ選べ」
カイルは全員に条件を理解させた上で、今回見るのは武器の扱いだけではないことを付け加えた。
「持っているから使う、という判断はするな。戦わなくていいなら戦うな。任務を忘れるな」
説明が終わると、訓練生たちは順に装備を選び始めた。
エレジはほとんど迷わず、机の端に置かれていた訓練用短剣を取った。実物とは違うが、形と重心は近い。手の中で一度重さを確かめてから腰の装備へ固定すると、隣にいたマティアスが意外そうにその選択を見た。
「中尉、それ使うの」
「はい」
「得意なの?」
「好きです」
得意かどうかではなく「好き」と返ってきたことの方が意外だったらしく、マティアスは聞き返した。
「好き?」
「何か変ですか」
「いや。近接であれだけ苦労してたから」
「素手で組むのと、これは別です」
「そういうもの?」
「私には」
エレジは短剣の固定位置をもう一度確かめた。手を伸ばせば迷わず届く位置にある。その感覚には覚えがあった。
原隊では、近接訓練の中でも短剣を扱う時間を好んでいた。体格差を正面から受け止めるより、距離と位置を見て、相手がどちらへ動き、次にどこが空くのかを読む方が自分には合っていた。
その感覚は地図や観測とはまったく違うはずなのに、見えている情報から次を組み立てるという点ではどこか似ている。
しばらく使っていなかったにもかかわらず、手にした短剣には嫌な感じより懐かしさの方が強かった。
班はエレジ、マティアス、ベッカー軍曹、シュルツ伍長の四人になり、指揮はマティアスが担当する。
開始合図が出ると、四人は建物の正面を避け、まず外周から状況を確認した。
「正面、一人見えます」
ベッカーが低く言う。
エレジは二階の窓と側面の出入口を順に確認した。
「二階、右から二つ目。さっき一度影が動きました」
「人数は?」
マティアスが聞く。
「一人とは限りません。少なくとも一人」
「側面は」
「東側の扉、雪が新しく崩れてます。出入りしてます」
必要な情報はそこまでだった。マティアスは建物と周囲を見比べた上で進入経路を決める。
「東から入る。正面は避ける」
「了解」
エレジはすぐに動いた。
先日の訓練で意識していたことを、今日はもう一つずつ確認する必要がなかった。
見えたものを出し、決定は班長に渡す。判断を求められたときには、自分の考えを返す。その切り替えが自然にできていた。
四人は側面の扉から建物へ入った。
中は外より暗く、窓の少ない廊下には古い机や箱が置かれている。二人並べば肩が触れるほど狭い場所もあり、銃を構えたまま自由に動ける空間ではなかった。
一階の最初の部屋には誰もおらず、二つ目も空だった。階段へ向かおうとしたところで、前方の角から突然人影が出る。
距離は数歩しかない。
エレジが銃を上げるより早く、敵役が銃身へ手を伸ばした。押さえられた銃口を安全な方向へ向け直す余裕はなく、すぐ後ろにはマティアスがいる。
撃てない。
そう判断した時点で、エレジは銃に固執しなかった。
相手の手が腕にかかった瞬間も、掴まれたという感覚そのものに意識を奪われることはなかった。
右腕を押さえている以上、相手のその手は塞がっている。相手の右側は近く、自分の左手は空いている。そこまでが一度に状況として入ってきた。
エレジは短剣を抜き、訓練上の有効部位へ刃のない先端を当てた。
「有効」
近くにいた教官役の判定と同時に、敵役が手を離した。
エレジは短剣を戻し、すぐに廊下の先へ意識を戻した。
「行けます」
「……了解」
マティアスの返事がわずかに遅れた。
階段まで進み、安全を確認したところで、後ろから小さな声が聞こえた。
「中尉」
「何ですか」
「それ、どこで覚えたの」
「原隊です」
「いや、それは分かるけど。そんなに使えるの?」
エレジには、なぜそこまで意外がられているのかがよく分からなかった。
「かなりやってました」
「それ先に言ってほしかったな」
「聞かれなかったので」
「少佐みたいなこと言うな」
その言い方がおかしくてエレジは少し笑ったが、それ以上話している時間はなかった。
二階へ上がる。
指定された回収物は廊下の一番奥にある部屋に置かれている。途中には扉が三つあり、どこに敵役が潜んでいるのかは分からない。エレジたちは一部屋ずつ確認しながら進んだ。
二つ目の部屋を抜けたところで、奥から物音がした。
「一人」
エレジが伝えると、マティアスは状況を分けて処理することにした。
「俺とベッカーが前。中尉とシュルツ、回収」
「了解」
エレジとシュルツが指定室へ入る。
机の上には複数の書類と記録媒体が置かれていた。エレジが目的物を特定するために番号を確認していると、隣の部屋から急に敵役が入ってきた。
距離は近かったが、すぐ横にはシュルツがいる。この間隔で短剣を使えば、相手だけでなく味方の動きまで制限する。
使わない。
「シュルツ、右」
エレジは相手の進路だけを塞いで位置をずらし、そのまま処理をシュルツへ渡した。シュルツが敵役を部屋の外へ押し戻す間、エレジは追わずに机へ戻る。
「対象、これです」
指定番号を確認し、記録媒体を回収袋へ入れたところでシュルツも戻ってきた。
「追わなくていいですか」
「目的物あります。出ましょう」
「了解」
二人は廊下へ戻り、マティアスたちと合流した。
「取れた?」
「はい」
「じゃあ離脱」
四人が階段へ向かった直後、廊下の奥で扉が開き、敵役が二人出てきた。
「下がる」
マティアスの指示で班は階段側へ移動する。一人が正面から距離を詰め、もう一人は側面の部屋を使って回り込もうとしていた。
エレジがその動きに気づいたときには、すでに距離が近かった。
「左、来ます」
そう伝えながら身体を向け、前の敵役へ意識を移した次の瞬間、背後から腕が回った。
上半身を押さえ込むように相手の身体が背中へ密着し、胸の前を横切る腕と、逃げる方向を塞ぐ力が同時にかかった。
以前なら、それだけで身体が先に強張っていた。
けれど今、エレジに入ってきたのは、触れられている感覚そのものではなかった。相手の腕がどこを通り、重心がどちら側に乗っているのか。
自分の右手はどこまで動き、左手なら腰の短剣へ届くのか。それらが一つの状況としてまとまって見えた。
触れられていることを、あらためて確認する必要はなかった。
すでに、それは判断材料の一部だった。
エレジは力で拘束を破ろうとはせず、相手の動きに合わせて身体の向きを変え、空いた側へ動いた。そのまま短剣を抜き、訓練上の有効部位へ当てる。
「有効」
教官役の判定と同時に拘束が解けた。
エレジは短剣を戻し、すぐに任務へ意識を戻した。
「回収物あります。移動できます」
マティアスは一瞬こちらを確認したが、今優先すべきなのはエレジの状態ではなく離脱だと判断したらしい。
「下へ行く」
「了解」
四人は階段を下りた。
一階の出口が見えたところで、最後の敵役が現れた。
エレジは前にいて、短剣を使える距離にいた。相手を処理してから出ることもできるが、回収袋はすでに手元にあり、出口までは数歩しかない。
戦う理由がなかった。
「出ます」
エレジは相手との距離を広げながら出口へ向かった。
マティアスもすぐに意図を理解した。
「全員出ろ」
班は建物の外へ抜け、そのまま指定された離脱地点まで移動した。
終了の合図が出た。
装備を確認していると、マティアスがエレジの腰にある短剣を見た。
「中尉、本当に得意だったんですね」
「得意というか、好きです」
「同じでしょ、それだけ使えたら」
「違うと思います」
「今日、近接になったときだけ妙に楽しそうだったけど」
「そうでした?」
「うん」
訓練中、自分が楽しそうにしていたかどうかまではエレジにも分からない。ただ、短剣を使ったときの感覚が懐かしく、身体が自然に動いたことは確かだった。
そこへベッカーが横から口を挟んだ。
「最初の廊下、俺だったら普通に焦りますけど」
「距離が近かったので、逆に分かりやすかったです」
「それが分からないんですよ」
自分にとってはむしろ見えるものが増える距離なのだが、うまく説明できず、エレジは首を傾げた。
その後、班ごとの講評が始まった。
カイルは一日の記録を確認しながら、進入経路から順に評価していった。
「外周確認は問題なし。東側から入った判断もいい。正面を避けたことで接触を一つ減らしてる」
マティアスが答える。
「はい」
「二階、回収後の離脱も問題なし。不要な戦闘を増やしてない」
そこまで班全体の動きを整理してから、カイルはエレジへ話を移した。
「ヴァイス中尉」
「はい」
「短剣、慣れてるな」
「はい」
「どのくらいだ」
「原隊でかなりやりました」
その答えと今日の動きが釣り合っていないと思ったのか、カイルは記録から顔を上げた。
「かなり、で済ませる程度じゃないだろ」
エレジはどう説明すれば適切なのか少し困った。
「好きだったので」
「先に言え」
「聞かれませんでした」
マティアスが横で小さく笑った。カイルはそちらにも気づいたが、講評を止めるほどではないと判断したらしく、そのまま続ける。
「技術自体は問題ない。ただ、今日よかったのはそこじゃない」
エレジは続きを待った。
「二階の部屋で使わなかっただろ」
「シュルツ伍長が近かったので」
「ああ。出口でも戦わなかった」
「回収が終わってましたから」
「それでいい」
カイルは記録へ視線を戻した。
「使えることと、使うことは別だ。目的を見失ってない」
「はい」
講評はそのまま次へ進んだ。
背後から拘束されたことについて、カイルは何も言わなかった。エレジ自身も、その接触だけを切り離して考えることはなかった。
訓練が終わり、装備を返却する。拳銃を置き、弾倉を確認してから、最後に腰の短剣を外した。
手の中に残った訓練用の刃を見ているうちに、今日あったことが自然に頭の中へ戻ってきた。
最初の廊下では腕を掴まれ、離脱の途中では背後から腕を回されて身体ごと止められた。
そこで初めて、エレジは一つのことに気づいた。
怖くなかった。
驚かなかったわけではないし、相手に触れられたことも、身体へ力をかけられたことも認識していた。けれど、そのたびに自分が怖がっているかどうかを確かめる必要がなかった。
相手の手がどこにあるかは、その位置を知るための情報だった。背中にかかった力は、相手の重心がどちらへ寄っているかを知るための材料だった。
以前のように身体の反応を確認してから状況へ戻ったのではなく、今日は最初から最後まで状況の中にいた。
エレジは短剣を返却棚へ置いた。
もちろん、ケルナーのときと今日が同じではないことは分かっている。今日は訓練で、相手は決められた規則の中で動いていた。これでもう何があっても平気だと考えるつもりはない。
それでも、少なくとも近接戦闘そのものを怖がる必要はもうないのだと思えた。
そして今日、恐怖がなかったこと以上に強く残っているものがあった。
短剣を抜いたときに手へ返ってきた重さ、相手の動きが読めた瞬間、狭い場所の中で次にどこが空くのかを考える感覚。そのどれもが、以前から自分が好きだったものだった。
今日は、怖くないことを確認するために戦ったわけではない。任務の中で必要だったから戦い、その中で昔から好きだった感覚を自然に使った。
そして、楽しかった。
恐怖がなくなったということより、そのことの方がエレジにはずっと大きかった。




