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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
北部山岳特殊任務課程

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20/146

侵入


 三月上旬のある夜、基地の警戒態勢が変わった。


 エレジがそのことに気づいたのは、消灯時刻より少し前だった。訓練生宿舎の廊下を歩いていると、窓の向こうを車両の灯りが横切った。

 車庫へ戻る車ではなく、基地西側の外周路へ向かっている。少しして、もう一台が同じ方向へ走った。


 昼間の訓練はすでに終わっており、夜間課目の予定も聞いていない。

 エレジは窓際で立ち止まらず、そのまま自室へ戻った。警備側の動きなら訓練生が関わることではないし、基地では知らされていないことまで自分から確かめる必要はなかった。


 けれど二十分ほど経った頃、廊下に足音が続き、班長役の訓練生が各室へ声をかけ始めた。


「全員、宿舎内待機。外へ出ないように」


 エレジは扉を開けた。


「何かあったんですか」


「詳細はまだ来てない。外周で異常があったらしい」


「了解です」


 それ以上は聞かず、部屋へ戻って机の上に広げていた地図を畳んだ。


 外周で異常があったとしても、侵入者とは限らない。動物が柵沿いを通っただけかもしれないし、警戒装置の故障かもしれなかった。確定していないものを、自分の中で勝手に事件へ変える必要はない。

 それでも、しばらくして基地内放送が入った。


『全員に通達。現在、基地西側区域を一時閉鎖する。許可のない移動を禁止する。訓練生は各宿舎棟で待機』


 放送を聞き終えたエレジは、窓の外へ目を向けた。

 西側には教官宿舎棟もある。

 カイルのことが頭に浮かんだが、そこから先を考えるのはやめた。彼は教官であり、軍人だ。何かが起きているなら、自分よりずっと早く状況を知らされているはずだった。心配だからといって、自分が動けば役に立つわけではない。


 以前なら、確認したくなっていたかもしれないが、今は違う。知らないなら、知らないまま待つ。必要な情報が来たら、その時点で判断すればいい。

 そうして一時間ほど経った頃、待機命令はいったん解除された。ただし屋外への移動は必要最低限に限られ、西側区域への立ち入りは禁止されたままだった。


 翌朝になっても、詳しい説明はなかった。

 通常より早く起床したエレジが食堂へ入ると、すでに何人かの訓練生が昨夜のことを話していた。


「柵が切られてたって」


「誰に聞いたんだよ」


「整備のやつ」


「じゃあ本当に侵入?」


「知らない。足跡があったって話もある」


「一人じゃないって聞いたぞ」


 エレジはトレイを持ったまま席についた。柵が切られていたこと、足跡があったこと、一人ではなかったという話。どれも伝聞で、ひとつとして確定していない。


「中尉、聞いた?」


 向かいに座ったマティアスが話しかけてくる。


「何をですか」


「昨夜の」


「放送以上は何も」


「俺も。なのにもう話だけ増えてる」


「そういうものなんでしょうね」


「気にならない?」


「気にはなります」


「調べたい?」


 エレジはパンをちぎりながら少し考えた。


「前なら、そうしたかもしれません」


「今は?」


「必要なら教えられると思うので」


 マティアスは少し意外そうにエレジを見た。


「変わったね」


「そうですか」


「前だったら、確認してからじゃないと落ち着かなかったでしょ」


「……そうかもしれません」


 自分でも分かっていた。以前は何かが起きると、それが何なのかを自分で確かめなければ判断できないと思っていた。

 今は、分からないことがある状態で動くことにも、少しずつ慣れてきていた。

 朝の集合では、カイルから簡単な説明だけがあった。


「昨夜、基地外周で不審な痕跡が確認された」


 その言葉で、訓練生たちの空気が少し変わった。


「侵入があったかどうかは現在確認中。警備側が対応している。今日の訓練は実施する。ただし区域は変更する。指定区域から外れるな。単独行動は禁止」


 誰かが手を上げた。


「少佐、侵入者の可能性はあるんですか」


「ある。だから警戒してる」


「武装してる可能性は?」


「不明」


 カイルはそこで余計な推測を加えず、全員に必要なことだけを続けた。


「分からないことを想像で埋めるな。見たものだけ報告しろ。不審な人物、装備、痕跡を見つけても、自分で確認しに行くな。位置と状況を出して、その場を離れろ」


 その言葉を聞いて、エレジは以前カイルに言われたことを思い出した。

 『確定していないなら、確定していないまま出せ』


 今日の訓練は基地東側の近距離訓練区画で行われた。予定されていた山岳行動は取りやめになり、代わりに地図判読と短距離の索敵訓練へ変更されている。警戒区域から距離を取ったのだろうと、エレジには思えた。


 午後まで大きな異常はなかった。

 警備車両が何度か外周を走り、普段より人の出入りは多かったが、それ以外はいつもの基地とほとんど変わらない。

 むしろ、その普通さの方が少し気になった。


 本当に誰かが入ったのか、それとも残っていたのはただの不審な痕跡だけだったのか。考えても分からない以上、それ以上想像を重ねる意味はなかった。

 エレジは考えるのをやめた。


 訓練終了後、訓練棟で地図を返却し、宿舎へ戻ることにした。

 夕方にはまた雪が降り始めていた。東側の訓練生宿舎へ戻るには倉庫棟の外側を通るのが最も近いが、西側への通路は封鎖されたままで、今日は少し遠回りしなければならない。


 エレジは指定された通路を歩いた。

 前方には倉庫棟があり、その先に整備区画が続いている。人影はほとんどなかった。

 そのとき、視界の端で何かが動いた。

 エレジは足を止めずにそちらを確認した。


 倉庫棟の西側、立入禁止区域に近い場所で、人が一人、建物の陰から別の陰へ移っていた。軍服のようにも見えたが、距離があり、雪の中では色も正確に判別できない。

 基地要員かもしれないし、警備兵かもしれない。それだけなら不自然ではなかった。


 ただ、その人物は通路を使っていなかった。倉庫の壁際を進み、そのまま資材置き場の陰へ入っていった。

 エレジは歩き続けながら、もう一度だけそちらを見た。

 もう見えない。

 追えば確認できる。数十メートルしか離れていない。


 そう考えた瞬間、自分の中から別の言葉が出てきた。

 確認してから報告する必要はない。

 エレジは足を止めず、建物の角を曲がって視線を切ると、無線を取った。


「こちらヴァイス中尉」


『どうぞ』


「倉庫棟西側で人影を確認しました。所属不明。一名。資材置き場方向へ移動」


 一拍置いて返事が来る。


『位置を再確認』


 エレジは現在地を伝えた。


『対象の特徴は』


「距離があり、識別できません。暗色の上衣。軍装かどうかも不明です」


『追跡したか』


「していません」


『そのまま東へ移動。訓練生宿舎へ戻れ』


「了解」


 通信を切ると、少し速くなっている自分の心拍に気づいた。

 見間違いだった可能性もあるし、警備側の人間だった可能性もある。それでも、分からないまま報告した。


 エレジは歩調を変えず、宿舎方向へ進んだ。十数秒もしないうちに背後で複数の足音が聞こえ、警備要員が動き始めたことが分かった。

 自分が戻って確かめる必要はない。

 そう理解していても、身体のどこかにはまだ振り返って確認したい感覚が残っていた。


 宿舎に到着すると、入口にいた当直へ名前を告げた。


「ヴァイス中尉。戻りました」


「確認しました。中で待機してください」


「はい」


 中へ入ろうとしたところで、外から車両が一台入ってきた。

 停車した車からカイルが降り、エレジと目が合う。それでも、二人の間に私的なものは出なかった。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「お前が見たのか」


「はい」


「追ってないな」


「追ってません」


「位置は出したか」


「無線で伝えました」


 必要な確認を終えると、カイルはすぐに警備要員の方へ向いた。


「最後に見えた方向は」


 エレジは建物の位置関係を思い出して答えた。


「倉庫棟西側から資材置き場へ。そこから先は見てません」


「分かった」


 カイルは警備員に何か短く指示した。

 エレジは、まだ追加で確認されることがあるかもしれないと考え、その場に残った。少ししてカイルが戻ってくる。


「もう中に入れ」


「はい」


 エレジは答えたものの、ひとつだけ確かめておきたかった。


「見間違いだった可能性もあります」


「分かってる。それでも出せばいい」


 カイルは迷わず答えた。


「確認するのはこっちの仕事だ」


 その言葉で、エレジはようやく完全に自分の役割を手放すことができた。

 宿舎へ入り、扉が閉まる直前、外から短い無線交信が聞こえた。内容までは分からなかった。

 それから十五分ほどして、再び基地内放送が入った。


『全区域に通達。警戒態勢を第二段階へ移行する。訓練生は宿舎内待機。各棟責任者は人員確認を実施』


 その放送で、宿舎の空気が変わった。

 さっきまで噂としてしか存在していなかったものが、少しずつ現実へ近づいている。

 しばらくして、マティアスが隣から来た。


「中尉」


「何ですか」


「さっき見たって本当?」


「誰から聞いたんですか」


「もう回ってる」


「早いですね」


「何見た?」


「人です。一人」


「誰か分かった?」


「分かりません」


「侵入者?」


「それも分かりません」


 エレジはそこで余計な推測を足さなかった。


「ただ、立入禁止区域の近くを動いてました」


 その情報だけで、マティアスの表情が少し変わった。


「追わなかったんだ」


「はい」


「……本当に変わったな」


「さっきも言いましたよ、それ」


「いや、でも前なら行ってただろ」


 エレジ自身、それは否定できなかった。


「今は、自分で確定させなくてもいいと思ってます」


「グレイ少佐に言われたやつ?」


「それもあります」


 マティアスは何か言おうとしたが、廊下から人員確認の声が聞こえたため、自室へ戻った。

 エレジもベッドの脇に座った。外では車両の音が続いている。それから三十分ほど経った頃、廊下の向こうで何かがぶつかる音がした。


 大きな音ではない。金属か何かが床へ落ちたような音に続いて、誰かの短い声が聞こえた。

 エレジは立ち上がった。

 宿舎内待機の命令は、まだ変わっていない。扉へ近づいたところで、廊下を走る足音が聞こえた。

 一人分。


 その足音は自室の前を通過したが、訓練生が急いで移動するときのものとはどこか違っていた。走っているのに誰かを呼ぶ声もなく、周囲へ何も伝えていない。

 エレジは扉を開けなかった。代わりに室内の無線を取る。


「こちらヴァイス中尉。訓練生宿舎三階、廊下で不審な足音を確認」


『詳細』


「一名と思われます。東から西へ移動。目視してません」


 返答を待っていると、廊下の先で扉が開く音がした。

 続いて、誰かが低い声で何かを言った。訓練生の声ではない。

 エレジは無線を持ったまま、扉から一歩離れた。


『ヴァイス中尉、その場から動くな。扉を施錠しろ』


「了解」


 すぐに鍵をかける。

 そこで初めて、これはもう倉庫棟で見た人影だけの話ではないのだと分かった。

 誰かが、宿舎の中にいる。

 しかも、許可された人間ではない可能性が高い。


 廊下で再び足音がした。

 今度は走っていない。ゆっくりと、自分の部屋の方へ近づいてくる。

 エレジは扉の横へ位置を変えながら、室内を見た。逃げ道になる窓、使える空間、身を隠せる場所、相手が入ってきた場合に自分がどこへ動けるかを順に確認する。


 これは訓練ではない。

 その事実が、かえって判断を単純にした。

 何をされるのか分からないまま、何も考えず待つ必要はない。侵入されたら距離を取り、可能なら退避する。逃げられなければ抵抗し、警備が来るまで生き残る。


 足音が扉の前で止まり、エレジは息を整えた。そして次の瞬間、ドアノブがゆっくりと下がった。

 ドアノブは一度止まり、それからもう一度ゆっくり動いた。鍵がかかっていると分かったのだろう。今度は扉そのものがわずかに押される。

 エレジは無線を握ったまま、扉の正面を避けて報告した。


「こちらヴァイス中尉。対象と思われる人物が自室前にいます」


 声はできるだけ低く抑えた。


『そのまま待機。警備が向かっている』


「了解」


 返事をした直後、外から小さく舌打ちのような音が聞こえ、次の瞬間には扉が強く引かれた。鍵が金属音を立てる。

 侵入者は、部屋の中に人がいると分かった上で扉を開けようとしている。


 そこでエレジは、単なる通過ではないと判断した。相手がこの部屋に入ろうとしていることは確かだが、目的までは分からない。自分を狙っているとも限らなかった。

 けれど、今必要なのはそこまでではない。

 入らせない。それだけでいい。


 外で何かがぶつかる音がし、扉の隙間がわずかに震えた。工具か何かを差し込もうとしているようだった。

 エレジは室内を見回し、机へ手をかけた。動かせば大きな音が出るが、すでに相手はこちらに人がいることを知っている。それなら位置を隠すことより、侵入までの時間を稼ぐ方がいい。


 机を扉の前へ寄せ、さらに椅子を横から入れる。完全に防げるとは思っていない。ただ、数秒でも遅らせられれば十分だった。

 無線の向こうから別の声が入った。


『三階東側へ二名進入。ヴァイス中尉、応答』


「聞こえてます」


『扉から離れろ。可能なら窓側へ』


「了解」


 エレジは窓の位置と、その先を確認した。ここは三階で、外には雪が積もっている。飛び降りられる高さではないし、下は建物脇の狭い通路になっていて、仮に降りられたとしてもすぐ走れるかは分からない。

 使うとすれば、最後の手段だった。


 扉がもう一度大きく揺れ、今度は鍵の周囲が明らかに軋んだ。

 エレジは無線を腰へ固定して両手を空けた。身体は強く緊張していたが、頭の中ははっきりしている。

 ケルナーのときとは違う。


 何をされているのか分からないわけではない。これは侵入で、相手は敵対している。自分には拒否する理由があり、逃げてもいいし、必要なら反撃してもいい。その明確さがあった。

 扉の向こうで足音が一度遠ざかった。


 エレジはすぐには動かなかった。諦めたように見せて位置を変えただけかもしれない。

 数秒待つ。

 何も起きない。

 さらに数秒が過ぎた直後、廊下の反対側から誰かが走ってくる音がした。


「止まれ!」


 警備側の声が響き、続いて激しい足音と、何かが壁にぶつかる音が重なった。誰かが低く叫ぶ。

 エレジは扉の前へ戻らず、状況が終わったと確認できるまでその場を動かなかった。

 やがて無線が入る。


『ヴァイス中尉、そのまま待機』


「了解」


 外の音は一気に遠ざかっていった。侵入者を追っているのだろう。

 そこで初めて、エレジは自分がかなり強く息をしていることに気づいた。手も少し震えている。


 怖くなかったわけではない。

 むしろ、怖かった。

 それでも動けた。何をするべきか考えて、必要なことを選べた。今は、その事実だけがはっきりしていた。

 数分後、扉が外から叩かれた。


「ヴァイス中尉。警備です」


 エレジはすぐには開けず、無線で確認する。


「扉前の要員、確認願います」


『確認済み。開けていい』


 そこで初めて鍵を外し、机を少しずらして扉を開けた。廊下には警備兵が二人立っていた。


「怪我は」


「ありません」


「相手と接触は」


「してません。扉を開けようとしてきました」


「分かりました」


 警備兵の一人が鍵の周囲を確認する。金属がわずかに削れていた。


「ここで待機してください。部屋を変える可能性があります」


「了解です」


 二人はそのまま別の部屋へ向かい、エレジは再び扉を閉めた。

 完全に終わったわけではない。それでも、さっきまでのような切迫感は少しだけ薄れていた。


 五分ほどして、再び複数の足音が廊下を近づいてきた。

 ノックに続いて、聞き慣れた声がする。


「ヴァイス中尉」


 エレジは鍵を開けた。

 扉の向こうにはカイルが立っており、その後ろには警備責任者らしい少佐と、もう一人の兵士がいた。


 カイルの表情はいつもと大きく変わらない。ただ、エレジには、彼がいつもより早く自分の身体全体を確認したことが分かった。


「怪我は」


「ありません」


「触られたか」


「いえ。部屋には入られてません」


 その答えを聞いても、カイルの表情は緩まなかった。

 警備責任者が口を開く。


「状況を最初から聞かせてください」


「はい」


 エレジは、倉庫棟で人影を見たところから順に説明した。位置と時間、相手の服装、どの方向へ移動したか。

 その後宿舎へ戻り、廊下で足音を聞いたこと、扉を開けようとしてきたこと、自分が机を動かして侵入を遅らせようとしたことまで、見た事実と自分の推測を混ぜないように伝えていく。


「相手の顔は見てないのか」


「見てません」


「体格は」


「最初に倉庫棟で見た人物と同一人物なら、中背以上。ただし、同一かどうかは分かりません」


「武器は」


「確認してません」


「声は聞いたか」


「廊下の先で低い声を聞きました。ただ、内容は分かりません」


 警備責任者は頷いた。


「分かりました。しばらくこの棟から出ないでください」


「はい」


「必要なら後でもう一度聞きます」


「了解です」


 警備側の二人が離れ、カイルだけがその場に残った。

 廊下にはまだ人の気配があり、完全な二人きりではない。だからこそ、カイルも教官としての距離を崩さなかった。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「判断は正しい」


 エレジは少しだけ驚いた。


「倉庫棟で追わなかった。宿舎でも扉を開けなかった。報告も早い」


「はい」


「それでいい」


 そう言ってから、カイルは一度扉の傷へ目を向けた。

 その視線がそこに残ったことで、エレジはいつもとは違うものを感じた。


「少佐……怒ってます?」


 カイルはすぐには答えなかった。

 怒っているのかと聞かれて最初に浮かんだのは否定だった。エレジに怒る理由はない。判断も間違っていない。

 けれど、それなら胸の奥に残っているものは何なのかと考えると、別の言葉の方が正しかった。


「怒ってない」


「じゃあ」


 カイルは周囲に人がいることを確認してから答えた。


「怖かった」


 エレジは黙った。

 カイルが自分の恐怖を口にするのを、ほとんど聞いたことがなかった。


「お前がこの棟にいるって聞いて、そのあと不審者が三階に入ったって連絡が来た。三階にいるのはお前だけだ」


「はい」


「扉を開けようとしてるって聞いたとき、かなり嫌な想像をした」


 声は静かだったが、それだけに本気なのだと分かった。


「……私も、少し怖かったです」


「ああ」


「でも、今回は何をすればいいか分かりました」


 カイルがエレジを見る。


「ケルナーのときと違って、これは訓練じゃないって最初から分かってたので」


「……そうか」


「だから、迷わなかったです」


 そこまで言ってから、エレジは自分の感覚をもう少し正確に言葉にした。


「怖くなかったわけじゃないですけど」


「ああ」


「でも、怖いままでも動けました」


 カイルはそれを聞いて、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「それで十分だ」


 エレジは頷いた。

 その直後、廊下の向こうから無線の声が聞こえ、カイルの意識はすぐに警備側へ戻った。


「まだ捕まってないんですか」


 カイルは答える前に一度だけ周囲を確認した。


「一人は確保した」


 エレジの表情が変わる。


「一人?」


「ああ」


 それだけで意味は分かった。


 侵入者は、一人ではなかった。


「だからまだ待機だ。部屋から出るな」


「分かりました」


「何かあったら、今度も確認しに行くな」


 エレジは少しだけ笑った。


「行きません」


「本当だな」


「はい」


「ならいい」


 カイルが離れ、廊下を歩いていく背中を見送ってから、エレジは扉を閉めて鍵をかけた。

 基地の中には、まだ誰かいる。

 そう思うと、さっきまでとは別の緊張が戻ってきた。それでも、分からないものを自分で確かめに行く必要はない。


 自分が見たものは報告した。今は、ここで待てばいい。

 以前なら外で何が起きているのかを知らずにいることの方が苦しかったはずだが、今はその感覚も少し遠くなっていた。


 それから一時間近く、少なくともエレジのところへ入ってくる情報に大きな変化はなかった。廊下には警備兵が残り、階下では人員確認が何度か行われている。

 窓から見えるのも、基地内の照明が増えていることと、外周路を車両が行き来していることくらいだった。


 侵入者がどこにいるのか、何を目的に入ったのか、なぜこの宿舎まで来たのか。考えようと思えばいくらでも考えられるが、どれも答えにはならない。


 エレジは机を元の位置へ完全には戻さず、扉との間に少しだけ空間を残してベッドへ腰を下ろした。

 ただ一つ、自分の部屋へ入ろうとしたという事実だけは残っている。


 偶然なのか、それとも自分を知っていたのか。

 そこだけは、どうしても気になった。

 しばらくして無線が入る。


『ヴァイス中尉』


「はい」


『部屋を移動する。警備要員が迎えに行く。必要なものだけ持て』


「了解」


 エレジは返事をしてから、荷物をまとめ始めた。制服、洗面道具、翌日の装備、地図と筆記具。必要なものだけを選んでいくうちに、妙な感覚が生まれた。

 自分の部屋なのに、自分の判断では戻れない。


 危険がある以上当然のことだった。それでも、昨日まで普通に使っていた場所が、ほんの数時間で警備対象になるというのは不思議だった。

 数分後、警備兵が二人来た。


「一階の空き室へ移動します」


「この棟の中ですか」


「はい。廊下と出入口を警戒しています」


「分かりました」


 エレジは三階を出た。

 廊下には、侵入者が逃げたときについたらしい雪と泥の跡が残っていたが、立ち止まらずに通り過ぎる。階段へ向かう途中には、自室の扉も見えた。鍵の周囲についた傷は、さっきより明るい照明の下ではっきりしている。


 あそこを開けられていたら。

 その続きを考えかけて、やめた。開けられなかった。自分は中にいて、報告して、待った。結果として、それでよかった。

 一階へ降りると、ほかの訓練生たちも廊下や共用室へ集められていた。

 マティアスがすぐにエレジを見つけた。


「中尉、大丈夫?」


「大丈夫です」


 彼はエレジの持っている荷物を見た。


「部屋変わるの」


「一時的に」


「上、入られたって聞いたけど」


「入られてはいません。扉までです」


「そういう意味じゃなくて。三階まで来たんだよね」


「はい」


「なんで三階に」


「分かりません」


 そう答えたところで、エレジ自身もその言葉に引っかかった。

 三階は現在ほとんど使われていない。女性受講者がエレジ一人だったため、課程中はその一角だけが彼女に割り当てられ、ほかの部屋は空いている。


 侵入者がそれを知っていたのなら、自分の部屋まで来たことには意味がある。一方で知らなかったのなら、人がいないと思って上へ逃げただけなのかもしれない。

 どちらなのかは分からない。


「中尉?」


 マティアスに呼ばれ、エレジは意識を戻した。


「何でもないです」


「本当に?」


「はい。考えてもまだ分からないので」


 そう答えると、マティアスはそれ以上聞かなかった。

 その夜、訓練生たちは全員、宿舎内で待機を続けた。警戒が緩和されたのは、日付が変わる少し前だった。

 完全な解除ではないが、二人目の侵入者が確保されたという知らせが入り、もう基地内に侵入者が残っている可能性は低いと判断されたため、宿舎内の移動制限だけが緩められた。


 詳しい場所も、確保時の状況も説明されなかった。

 エレジは一階の仮の部屋で眠った。眠れるか少し心配していたが、横になると身体の疲労の方が強かった。


 翌朝、いつもの起床時刻に目を覚ます。

 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。見慣れない天井と違う机、床にまとめて置かれた荷物を見て、昨夜のことを思い出す。

 同時に、一度も夢を見た記憶がないことにも気づいた。


 起き上がって身体の状態を確かめる。手の震えも息苦しさもない。ただ、廊下で足音がすると無意識にそちらへ意識が向いた。

 怖さが消えたわけではない。身体は昨夜のことを覚えている。それでも、その反応によって動けなくなる感じはなかった。


 朝食後、訓練生全員が講義室へ集められた。正面にはカイルと基地警備責任者が並んでおり、普段とは違う組み合わせだった。


「昨夜の件について説明する」


 警備責任者が先に話した。


「侵入者は二名。両名とも確保した」


 室内の空気が少し緩んだ。


「基地関係者ではない。侵入経路と目的については現在調査中。現時点で、基地内に協力者がいると判断できる情報はない」


 誰かが手を上げる。


「目的は分かってないんですか」


「断定はしていない。ただし、倉庫区域への侵入痕跡が確認されている」


 別の訓練生が聞いた。


「武器は?」


「詳細は答えられない」


 それ以上の質問は遮られた。


「今後数日は警戒を継続する。指定区域外への移動は禁止。夜間の単独行動も禁止する」


 そこで説明はいったん終わり、カイルが前へ出た。


「今日の課目は変更する」


 いつもの訓練の話へ切り替わったことで、エレジは少し安心した。事件が起きても、課程そのものがなくなったわけではない。


「午前は装備整備と地図課目。午後は状況次第で決める。昨夜ほとんど寝てないやつがいるなら申告しろ」


 何人かが少し笑ったが、カイルは笑わない。


「無理して隠す方が評価を落とす。判断できない状態で訓練に出るな」


 エレジはその言葉を聞きながら、自分の状態をもう一度確認した。

 眠れている。身体も動く。集中もできると思う。なら参加できる。

 集合が解かれると、訓練生たちは訓練棟へ移動し始めた。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「少し残れ」


 エレジはその場に残った。ほかの訓練生が出ていき、マティアスも一度こちらを振り返ったが、そのまま廊下へ消えた。


 完全に二人だけになる前に、警備責任者がもう一度入ってきた。


「昨夜の件で、一点だけ確認したい」


「はい」


「侵入者があなたの部屋へ入ろうとした理由について」


 エレジはその言葉に少し身構えた。


「分かったんですか」


「確定ではない。ただ、現在のところあなた個人が狙われていた可能性は低い」


 エレジは目を上げた。


「低い?」


「二人目の侵入者は、追跡されたあと上階へ逃げている。三階がほぼ使用されていないことは事前に知らなかったと供述している」


「じゃあ、私の部屋を選んだのも」


「人がいない場所へ入り、隠れるつもりだった可能性が高い」


 エレジは少しだけ息を吐いた。自分でも気づかないほど、その可能性を気にしていたらしい。


「でも、私が中にいるって分かってからも開けようとした」


「そうだ」


「それは?」


「追跡されていた。鍵のかかった部屋へ入って立て籠もる、あるいは別の退路を探す意図だったと見ている。本人の供述だけをそのまま信用しているわけではないが、現場状況とは一致している」


「そうですか」


 警備責任者は続けた。


「侵入目的については詳細を話せない。ただ、現時点では特定の訓練生を狙った事件とは見ていない」


 エレジは頷いた。


「分かりました」


「何か思い当たることがある?」


「ありません」


「ならいい。ほかに思い出したことがあれば報告を」


「はい」


 警備責任者が出ていき、今度こそ部屋にはカイルとエレジだけが残った。


 カイルはすぐには話さず、さっきの説明を聞く前と後でエレジに何か変化があったのかを確かめるように彼女を見ていた。


「安心したか?」


「少し」


「自分が狙われたと思ってたか?」


「可能性は考えてました」


「言わなかったな」


「分からなかったので」


 エレジは一度考えてから続けた。


「三階って私しかいないじゃないですか。そこまで来て、私の部屋を開けようとしたから、知ってたのかなとは」


「俺も考えた」


「少佐も?」


「ああ」


「だから昨日、あんなに怖かったんですか」


 カイルはその問いに少し考えてから答えた。


「それだけじゃない」


「じゃあ何ですか」


「お前の部屋の前まで誰かが来てる時点で十分だ」


 その答えを聞いて、エレジは少しだけ表情を緩めた。


「そうですか」


「ああ」


「私が狙われてなくても?」


「関係ない」


 返事は早かった。

 それが少し嬉しくて、エレジは笑った。


「何だ」


「いえ」


「何で笑う」


「少佐も結構、私のことで怖くなるんだなと思って」


「なるって昨日言っただろ」


「そうでした」


「忘れるな」


 エレジは笑いを収めると、昨夜から自分の中に残っていたもう一つのことを話した。


「でも、昨日は自分でもちょっと意外でした」


「何が」


「動けたことです」


 カイルは口を挟まず、続きを待った。


「昨日は、相手が何をしようとしてるか全部分からなくても、敵だってことだけは分かりました」


「ああ」


「だから、どうするかを決められました」


「そうだな」


「怖いのと、動けないのは同じじゃないんですね」


 カイルはその言葉を聞いてから答えた。


「同じじゃない」


「前は、怖くなったらまた止まるんじゃないかと思ってました」


「昨日は止まらなかった」


「はい」


「でも、それを次も止まらないって意味にはするな」


 エレジは少しだけ眉を寄せた。


「どういう意味ですか」


「昨日できたから、次にできなかったら後退したことになる、みたいに考えるなってことだ」


 エレジはしばらく考えた。


「……私、考えそうですか」


「考える」


「そんなにはっきり言います?」


「お前だからな」


 否定できず、エレジは少し笑った。


「分かりました。昨日できたことは、昨日できたこととして考えます」


「それでいい」


 カイルはそこで話を終えるつもりだったようだったが、エレジはまだ動かなかった。


「少佐。昨日、部屋の前まで来たとき、抱きしめたいとか思いました?」


 カイルは一瞬黙った。


「今聞くのか」


「二人になったので」


「思った」


 エレジが少し笑う。


「やっぱり」


「でも、廊下で警備が見てただろ」


「はい」


「それに、あの状態で俺から触るのも違うと思った」


「私はしてほしかったかもしれません」


 その言葉に、カイルはエレジを見た。


「言えばよかっただろ」


「そのときは、そこまで考えてなかったです」


「今は?」


 エレジは自分の感覚を確かめた。


「今なら、少し」


 カイルは扉の方を確認した。講義室の外に人の気配はない。

 長く二人きりでいるべき時間でもないが、エレジが今そうしたいと言っている以上、何もせずに終える必要もないと思った。


「来い」


 エレジが一歩近づき、カイルは短く抱き寄せた。

 ホテルで触れ合ったときとも、事件直後に廊下で向き合ったときとも違う。エレジも背中へ腕を回し、強くしがみつくのではなく、互いがここにいることを確かめる程度に身体を預けた。


「……これ、落ち着きますね」


「ああ」


「昨日してもらえばよかった」


「次から言え」


「次はない方がいいです」


「それはそうだ」


 エレジは少し笑ってから自分で腕をほどき、カイルもそれに合わせて離れた。そこで二人は自然に、また教官と受講者の距離へ戻った。


「訓練、行っていいですか」


「体調は」


「大丈夫です」


「集中できるか」


「できます」


「なら行け」


「はい」


 エレジは扉へ向かったが、出る直前に一度だけ振り返った。


「昨日、怖かったって言ってくれてよかったです」


 カイルは少しだけ眉を寄せた。


「何で」


「私だけじゃなかったって分かったので」


 そう言って、今度こそエレジは講義室を出た。

 廊下の先では、ほかの訓練生たちがすでに装備を持って移動している。事件は終わっていない。調査も続き、扉についた傷もしばらくは残るだろう。


 それでも、課程は続く。

 エレジは自分の装備を取りに向かいながら、昨夜のことを「克服できた証拠」にするのはやめようと思った。

 怖かったし、手も震えた。

 それでも必要なことはできた。今の自分にとっては、それだけで十分だった。



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