仕上がり
三月も半ばに入り、課程は最終評価を残すだけという空気に変わり始めていた。
個別技能だけを取り出して確認する訓練はほとんどなくなり、出発時に与えられるのは目的と最低限の条件だけで、途中に何が起きるかは教えられない。
訓練生たちも、もうそれを特別なこととは思わなくなっていた。
その日は、最終評価前に行われる最後の長時間総合訓練だった。班長はエレジで、班員はマティアス、ベッカー、ハインツの三人。
偵察、経路選択、通信、負傷者対応、接敵回避と、これまで別々に評価されてきたものが、一日の行動の中へまとめて組み込まれている。
開始前、エレジは地図上で最初の経路と役割を確認した。
「最初の観測地点までは西側の尾根を使います。ベッカー軍曹は通信、ロート少尉は後方警戒。ハインツ中尉は地形を見てもらえますか」
「了解」
「はい」
三人から異論がないことを確認し、エレジは地図を畳んだ。
「行きます」
出発から一時間ほどは、何も起きなかった。前夜の雪は浅く、視界も十分にあり、歩きやすい条件だった。それでもエレジは必要以上に速度を上げず、班全体が同じ程度の余力を残したまま進める歩調を維持した。
最初に予定外の情報を出したのはハインツだった。
「左の斜面、崩れた跡があります」
エレジは進行を止め、示された斜面の状態を確かめた。雪崩そのものは古かったが、上部には新しい亀裂も見える。
「右へ回ります」
迂回を選ぶまでに時間はかからなかった。マティアスが地図上で増える距離を確認する。
「十分くらい増えます」
「余裕があります。ここを使う理由はないです」
「了解」
少し遠回りにはなるが、予定時刻を崩すほどではない。それなら、あえて亀裂のある斜面を使う理由はなかった。
観測地点へ近づいたところで、今度は指定された位置から対象区域がほとんど見えないことが分かった。エレジはその場に留まる理由はないと判断し、周囲の地形から代わりに使える位置を探した。
「三十メートル上へ移ります」
「指定地点から外れますけど」
「ここでは観測できません。位置変更だけ記録してください」
「了解」
全員で斜面を上がると、そこからなら対象区域を見渡すことができた。エレジはすぐに双眼鏡で範囲を拾っていく。
「正面、二」
「三人です」
「どこです?」
「右端。樹木の後ろ」
示された方向へ角度を変えると、樹木の陰にもう一人いるのが見えた。
「ああ、いた」
「ベッカー軍曹、三名。北へ移動」
「記録しました」
必要な情報を取り終えると、その場に留まる理由もなくなった。エレジはすぐに班を移動させた。
その直後、通信が途切れた。
「長距離送信が落ちてます」
ベッカーが原因を探り始めても、エレジはそちらへ寄らなかった。通信の処理を任せた相手が対応できている以上、自分まで手を出す必要はない。
「代替手段へ切り替えてください。復旧までどれくらいですか」
「完全復旧は分かりません。短距離は使えます」
「なら中継点を使います。定時報告の時刻だけ維持してください」
「了解」
通信はベッカーに任せ、その間にエレジは次の経路を確認した。全員が自分の仕事をしているのだから、班長である自分が一つひとつ処理する必要はない。
以前なら通信の状態まで自分で確かめに行っていたかもしれないが、今はその必要がないと自然に判断できた。
次に入った状況変更は、敵役の移動だった。予定していた谷筋が監視範囲に入ったという情報を受け、ハインツが地図上で別経路を示す。
「北へ出れば早いです」
エレジもその経路を追った。
「開けすぎてます」
「南はかなり遠回りです」
「東へ戻って樹林帯を抜けるのは?」
マティアスが別案を出した。
エレジはその経路の距離と所要時間を確認し、自分が考えていた案より条件がいいと判断した。
「それで行きます」
「いいんですか」
「一番見つかりにくいです。時間も残ります」
自分が最初に考えていた案ではなかったが、条件を見ればその方がよかった。より良い案なら、誰が出したかにかかわらず採ればいい。
班は東へ戻って樹林帯から迂回し、敵役に発見されることなく次の区域へ入った。
昼を過ぎた頃、教官側から新しい状況が入った。
「ハインツ中尉、右膝負傷。自力歩行困難」
ハインツがその場で歩行を止めた時点で、エレジは残りの距離と班の余力を地図上で確認した。
「ロート少尉、ハインツ中尉を。ベッカー軍曹は通信を継続してください。次の観測地点まで行って、その先は切ります」
「ここで撤収じゃなく?」
「次までは近いです。負傷者を含めても余裕があります」
「了解」
役割を組み直し、マティアスがハインツを支え、ベッカーが通信を維持する。エレジはその二人の動きを含めて、経路と班全体の速度を見ることに集中した。
歩調は大きく落ちたが、それで問題はなかった。今の班が進める速度はこれであり、エレジ自身がどれだけ速く進めるかは関係ない。
予定していた観測地点に到達し、必要な記録だけを取る。その先には、さらに二百メートルほど離れた場所に次の地点があった。
そのとき風向きが変わり、雪が横へ流れ始めた。遠くの尾根も急に輪郭を失っていく。
ベッカーも空と視界の変化を見ていた。
「悪くなりますね」
「撤収します」
エレジが即座に判断すると、マティアスは残された次の地点までの距離を気にした。
「あと二百ですよ」
「行きません」
「まだ時間はあります」
「時間じゃないです。帰りの条件が落ち始めてます。負傷者もいるので、ここで切ります」
「了解」
それ以上の反対はなく、班はその場で撤収経路へ切り替えた。十分もしないうちに視界はさらに落ち、風も強くなった。
撤収途中、ハインツが進行方向右手の雪面に違いを見つけた。
「この先、雪が深いです。一本向こうの筋の方が安定してます」
エレジも示された先を確認し、現在の経路に固執する理由がないと判断した。
「変えます」
自分が決めた経路でも、条件が変われば捨てればいい。その判断にも、もう迷いはなかった。
しばらくして、ベッカーから通信状態の回復が伝えられた。
「中継取れました」
「帰投予定を更新してください」
「了解」
そのまま班は進み、予定より少し早く帰投地点へ戻った。負傷者を抱え、通信障害と複数回の経路変更があったことを考えれば、十分な結果だった。
装備確認を終え、四人が講評位置へ並ぶと、カイルは記録用紙を確認しながら言った。
「全体として、大きな修正はない」
その評価が予想より短かったため、エレジは思わずカイルの方を見た。反応に気づいたカイルが問い返す。
「何だ」
「いえ」
「何かあるなら言え」
「本当に大きな修正ないんですか」
隣でマティアスが小さく笑ったが、カイルはそちらには反応せず、問いの意図を確かめるようにエレジを見た。
「探してほしいか?」
「そういうわけじゃないです」
「なら聞け」
「はい」
エレジが素直に聞く姿勢へ戻ったのを確認して、カイルは記録の内容に沿って講評を続けた。
「観測地点の変更は正しい。見えない場所に指定されてるからって残る意味はない。通信障害後も班の進行を止めてない。負傷者発生後の役割配分も問題なし」
エレジは自分がした判断と照らし合わせながら聞いた。
「経路変更も早い。ロート少尉の案をそのまま採ったのもいい」
「条件がよかったので」
「それでいい」
カイルは次の項目へ移った。
「撤収判断も適切」
「早すぎませんでした?」
「早すぎない」
「次の地点、近かったので」
「近いかどうかじゃない。戻れる条件がいつまで続くかを見たんだろ」
「はい」
「なら問題ない」
そこまで聞いて、エレジもようやく自分の撤収判断をそのまま評価していいのだと納得した。
カイルはさらに続ける。
「判断速度、役割配分、条件変更後の切り替え。全部安定してる。今日は班長として余計なことをしてない」
「余計なこと?」
「自分で全部やろうとしてない」
その言い方がいかにもカイルらしくて、エレジは少し笑った。
「それ、褒めてます?」
「褒めてる」
「分かりにくいです」
「分かれ」
マティアスがまた笑ったが、カイルはやはりそちらには構わず、講評の最後としてエレジに伝えた。
「最終評価でも同じようにやれ」
「はい」
「特別なことは要らない」
エレジには、その言葉が少し意外だった。
「特別なこと?」
「最終評価だからって、今まで以上のことをしようとするなってことだ。今日できてることを、そのままやればいい」
「……はい」
返事が少し遅れたのは、その言葉が自分の中にあった最終評価の捉え方と違っていたからだった。
最終評価という言葉を聞くたび、どこかで今まで以上に良くやらなければならないと思っていた。けれど、カイルの言う通り、すでにできることを本番でも同じようにやればいいのかもしれない。
その後は、ほかの三人への講評が続いた。ベッカーの通信切り替え、ハインツの地形観察、マティアスの後方警戒と負傷者支援について、それぞれ細かな修正は出たものの、班として大きく崩れた場面はなかった。
解散後、エレジが装備をまとめていると、マティアスが隣へ来た。
「中尉」
「何ですか」
「今日、ほとんど言われませんでしたね」
「細かいのはありました」
「でも、グレイ少佐にしては相当少ない」
「そうですね」
「嬉しいですか」
すぐに否定する理由もなく、エレジは自分の感覚を確かめてから答えた。
「はい」
「そこは素直なんですね」
「できたなら、できたでいいと思ってるので」
「前なら違った?」
「たぶん、まだ何かあると思ってました」
その答えに納得したように、マティアスは続けた。
「じゃあ、仕上がったんじゃないですか」
エレジは装備をまとめていた手を止めた。最終評価を前に、その言葉をそのまま受け取るにはまだ少し早い気がした。
「どうでしょう」
「そこはまだ言わないんだ」
「最終評価が残ってますから」
「十分中尉らしいです」
それ以上言い合うこともなく、二人はそこで別れた。
宿舎へ向かう途中、エレジは今日一日を思い返した。
何かを特別にうまくやったという感覚はなかった。判断し、任せ、必要なら変える。そのどれにも、今日はほとんど迷わなかった。
最終評価だからといって、別の自分になる必要はない。今日の自分のまま行けばいい。
そう思えるようになったことで、これまで最終評価という言葉に感じていた緊張も、少しだけ別のものへ変わっていた。
試されるというより、ここまで積み上げてきたものを、そのまま出す。
今は、そう考えられた。




