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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
北部山岳特殊任務課程

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変化と焦り・秘密・十時


21 


 通常課程へ戻ってからも、訓練そのものは変わらず進んだ。

 射撃の成績は落ちなかった。地図を渡されれば現在地を割り出せたし、偵察記録を書けば、以前と同じように事実と推測を分けられた。

 

 班行動で判断を求められても、状況を整理して考えれば答えは出る。

 だから最初の数日は、自分は思っていたほど影響を受けていないのかもしれないと考えていた。


 違いが現れたのは、人に触れられたときだった。

 最初に気づいたのは、負傷者搬送の動作を確認していたときだった。相手役の訓練生がエレジの腕を自分の肩へ回し、身体を支えるために腰へ手を添えた。


 動作としては正しい。どこに手が来るのかも事前に分かっていたし、相手が何をしようとしているのかも理解していた。それでも、腰に手が触れた瞬間、身体が先に固まった。


「ヴァイス中尉?」


「……すみません。もう一度お願いします」


 相手は理由を聞かず、すぐに手を離した。

 二度目は、自分から相手の肩へ腕を回した。次に腰へ手が来ることも分かっている。そこまで分かっていれば大丈夫だと思ったが、触れられた瞬間、また背中へ力が入った。


 その反応が恐怖なのだと認めるまでには、少し時間がかかった。

 相手はケルナーではない。訓練中で、周囲には教官も他の訓練生もいる。止めると言えば、この相手ならすぐに手を離すことも分かっている。それらをすべて理解していても、身体は怖がっていた。


 それでも最初は、雪の事故のあとと同じように考えればいいのだと思った。

 雪を怖いと感じることと、目の前の雪が実際に危険であることは同じではなかった。恐怖そのものを消そうとしなくても、現在の状態を見て判断できれば訓練は続けられた。


 ならば今回も、人に触れられることを怖いと感じたままで、必要な接触かどうかだけを見分ければいい。危険でないと判断できるなら、恐怖を抱えたまま動けばいい。

 そう考えて、しばらく様子を見ることにした。


 カイルに話そうとは思わなかった。ケルナーという外側の問題には、すでに対処してくれている。

 今は自分の内側の問題だ。

 誰かが不適切なことをしているわけではなく、必要な接触に自分の身体が反応してしまっているだけなのだ。

 訓練上の扱いを変える必要があるならカイルに相談できる。けれど、この反応そのものを彼が治せるわけではない。必要なら医務へ行くべきことだ。


 そう思って、自分で対処した。しかし、雪のときと同じやり方ではうまくいかなかった。

 雪は、自分が見ている間に意思を持って動くことはない。けれど人は違う。触れている手の位置も、かけられる力も、次にどこへ身体を動かすのかも変わる。相手が何をするのかは、最後まで自分だけでは決められない。


 頭では相手を信頼できると分かっていても、身体に触れられると、その先に起きるかもしれないことを勝手に予測するようになった。

 特に、背後から触れられるのが難しかった。肩や腕への接触なら、まだ意識して受け入れられることが多い。


 けれど背中や腰へ手が回ると、そこからさらに別の場所へ動かされるのではないかという感覚が先に立ち、身体が強張った。

 相手が手を離したあとにも、触れられていた場所だけがしばらく身体に残っているように感じることがあった。


 変化は、それだけではなかった。

 訓練が始まれば集中できる。課題があり、判断することがあり、身体を動かさなければならない間は、以前とそれほど変わらなかった。ところが休憩に入ると、時間の感覚が途切れることが増えた。


「中尉」


 声をかけられて顔を上げると、向かいにいたマティアスがこちらを見ていた。


「何ですか」


「いや、もう休憩終わるけど」


 周囲では、ほかの訓練生がすでに装備を持って立ち始めていた。自分だけが座ったままだったことに気づき、エレジも立ち上がった。


「……すみません」


「俺に謝ることじゃないけど。何考えてたの?」


「分かりません」


「分からない?」


「たぶん、何も」


 マティアスはそれ以上聞かなかった。

 別の日には、食堂でスプーンを持ったまま、しばらく動いていなかったこともあった。


「中尉」


「はい」


「食べないの?」


 言われて皿を見ると、料理がまだ半分以上残っていた。


「食べてます」


「今は食べてなかったよ」


 エレジは返事の代わりにスプーンを動かした。


 眠れないわけではない。食欲が完全になくなったわけでもない。訓練そのものが嫌になったわけでもなかった。

 ただ、何かをしている間と、何もする必要がなくなった瞬間との切り替えが、以前よりうまくいかなくなっている。


 最初は、接触で身体が固まることと、休憩中に時間を失うことを別々に考えていた。それが数日続いて初めて、どれもケルナーの件より前にはなかったことだと気づいた。

 その中でも、人に身体へ触れられることだけは、原因を考える必要もないほどはっきり怖かった。


     *


 二月後半に差し掛かろうとする頃、エレジは課程修了までに残された時間を意識するようになった。

 三月末まで、もう一か月半もない。

 そう考えた途端、それまでの恐怖とは別の焦りが生まれた。


 この課程から近接戦闘がなくなることはない。それどころか、ここから先は一つ一つの動作を確認する訓練より、複数の課題を同時に処理する実務寄りの内容が増えていく。


 そのたびに自分が触れられる場所や動作を指定することはできない。自分一人のために周囲の動き方まで固定すれば、相手役の訓練生が学ぶはずの判断や即応まで変わってしまう。


 自分だけができればいい課程ではない。多少の配慮があれば動けるという条件を、この先ずっと前提にするわけにはいかない。

 修了すれば、それで人と接触しなくてよくなるわけではない。軍人でいる限り、自分の身体を他人に預けなければならない場面はなくならない。


 この程度のことで動けなくなるわけにはいかなかった。

 銃を向けられる状況も、雪山で孤立する状況も想定して訓練してきた。

 その自分が、味方に腰を支えられただけで身体を止めてしまう。その事実のほうが、エレジには受け入れにくかった。


 時間をかければ戻るのかもしれない。

 けれど、どれほど時間が必要なのかは分からなかった。数週間なのか、半年なのか、一年なのか、それとも何もしなければこのまま残るのかも分からない。

 なら、何をすれば変わるのか。

 自分ではもう分からなかった。


    *


 訓練が終わったあと、エレジは医務室へ行った。怪我をしたわけではないため、受付で何と伝えるべきか少し迷ったが、「最近、人に触れられると身体が固まることがある」と言うと、しばらく待ったあと、心理支援も担当している軍医のところへ通された。


 診察室で向かい合うと、最初に聞かれたのは、どんな場面で反応が出るのかということだった。


「肩や腕なら平気なこともあります。腰や背中は駄目なことが多いです。特に、後ろから触れられると」


「今回のことより前から、人に触れられること自体が苦手でしたか?」


「いいえ。少なくとも訓練で困ったことはありません」


 軍医はそこから、いつから反応が始まったのか、眠れているか、食事は取れているか、出来事が急に思い出されることはあるか、何もしていない時間に意識が抜けるような感覚はないか、と順に確認していった。


「答えにくければ、答えなくても構いません」


 軍医がそう前置きしてから続けた。


「これまで交際した経験はありますか?」


「ありません」


「性的な接触の経験は?」


「性交渉、という意味ですか」


「それを含みます」


「ありません」


 軍医はそれ以上そこを掘り下げず、記録に何かを書いたが、なぜそれを聞かれたのかが気になった。


「……それも関係しますか?」


「交際や性的な接触の経験がないことですか?」


「はい。そういう形で人と近い距離になること自体に慣れていないので、それで今の反応が強くなっている可能性はありますか」


「まったく関係しないとは言えません。身体的な距離に慣れている程度や、相手が次にどう動くのかをどれくらい予測できるかには、これまでの経験も影響しますから」


 そうか、と思った。


「では、経験があれば、こうならなかった可能性もありますか」


「そこまでは言えません。交際経験があっても、性交渉の経験があっても、同じような反応が出る人はいます。ただ、あなたの場合、親密な身体的接触そのものが未知に近いことが、今感じている不安の一部に重なっている可能性はあります」


 その言葉は、エレジに強い印象を与えた。

 その後も軍医から説明は続いたが、エレジの中には「親密な身体的接触そのものが未知に近い」という言葉だけが強く残った。


 部屋に帰ってベッドに入ってからもエレジは耳に残った言葉を考えていた。


 それが原因だということではない。経験すれば治るわけでもない。それでも、信頼できる相手と、自分が止められる状況で、一度もっと親密な接触まで経験してみることも、試せる方法の一つなのではないか。


 何もしないまま残りの日数が減っていくよりは、自分で何かを選びたかった。


    *


 翌日の訓練が終わったあと、エレジはマティアスを呼び止めた。


「マティアス」


「ん?」


「少し時間ありますか」


「あるよ」


「人がいないところで話したいです」


 マティアスは少し不思議そうな顔をしたものの、理由を聞かずについてきた。

 完全に人がいないのを確かめ、使われていない小講義室へ入る。エレジは扉を閉め、少し迷った末に鍵もかけた。


「何?」


 向かいに立ったマティアスを見ながら、エレジはどう言えばいいのかを考えた。自分の中だけで考えていたときには、もっと簡単に口にできると思っていた。


「お願いがあります」


「うん」


「……断ってもらっても構いません」


「先にそれ言われると怖いんだけど」


 マティアスはいつもの軽さを少しだけ混ぜて返したが、エレジは笑えなかった。


「私を抱いてくれませんか」


 マティアスの表情が止まった。


「……何て?」


「性交渉の意味です」


「いや、意味は分かった」


 数秒の間、彼は何も言わなかった。


「中尉、本気?」


「はい」


「なんで」


「人に触られるのが怖いからです」


 マティアスの表情から軽さが消えた。


「最近、近接でも駄目なときがあります。負傷者搬送でも、腰に手を置かれただけで身体が固まりました」


「それと、俺と寝るのがどう繋がるの」


「私、男性経験がないので」


「……うん」


「それも関係してるかもしれないと思いました。そもそも男性にそういう形で触られることに慣れていないから、今の反応が大きくなってるのかもしれません。一度ちゃんと経験すれば、今より平気になる可能性があります」


 マティアスはしばらく黙っていた。


「誰かにそう言われた?」


「いいえ」


「医務は?」


「……医務には相談しました。男性との交際経験と性交渉の経験について聞かれて、どちらもないと答えました。それも関係するのか聞きました」


「……それで?」


「経験すれば治る、という意味ではないとも言われました。でも、男性との親密な接触が未知であることが、今の反応に重なってる可能性はあるそうです」


 マティアスはエレジの話を最後まで聞いてから、少し考えた。


「それで、中尉は一回経験してみようって思ったの?」


「はい」


「医務に勧められたわけじゃないんだよね」


「違います」


「中尉が考えた?」


「はい」


「それで俺?」


「信頼してるので」


「それだけ?」


「同じ訓練生ですし、私が嫌だと言えば止まってくれると思ってます」


「それは止まるけど」


「あと、私があなたを恋愛対象として見てないからです」


「そこはそんなはっきり言うんだ」


「重要なので」


「まあ、重要だけど」


 一瞬だけいつもの調子が戻ったが、マティアスはすぐに真面目な顔へ戻った。


「少佐は?」


 エレジは答えなかった。


「聞いちゃ駄目だった?」


「いえ」


「中尉なら、少佐のほうが安心できるんじゃないの」


「少佐には頼めません」


「教官だから?」


「それもあります」


「他は?」


 エレジは少し迷った。マティアスには、自分がカイルをどう見ているかについて気づかれているだろう。今さら隠す意味もないように思えた。


「私が好きなだけかもしれないので」


 マティアスは何も言わなかった。


「少佐が私をどう思ってるかは知りません。私がそういう気持ちだからって、相手も同じだとは限らないです」


「……うん」


「それに、少佐とのことを、これを治すために使いたくないです」


 口にしてみて、自分でもそれが一番大きな理由なのだと分かった。

 可能性はゼロに等しいけれど、もしカイルといつかそういう関係になる日があるなら、恐怖を治すための手段としてではなく、自分たちがそうしたいと思った結果であってほしかった。


 マティアスはしばらく黙っていた。


「中尉、俺はやらない」


 断られる可能性は最初から考えていた。それでも、実際に言われると胸の奥がわずかに沈んだ。


「そうですか」


「怒った?」


「いえ。断っていいって最初に言いました」


「それで治ると思ってる?」


「分かりません」


「分からないのにやるの?」


「可能性があるなら」


「他にも方法あるでしょ」


「何がありますか」


 逆に問い返され、今度はマティアスが黙った。


「近接は続けてます。相手も選ばないようにしてます。怖いままでいいと思おうともしました。でも、うまくいきません」


「まだ何日かしか経ってないよ」


「時間がないです」


「何の?」


「課程が終わります」


「一ヶ月以上ある」


「一ヶ月しかないです」


 自分でも思っていたより強い声が出た。


「このまま総合訓練に入ったら困ります。誰かに触られるたびに止まってたら、小班で動けないです」


「だから俺と寝るの?」


「治る可能性があるなら」


「可能性があるかどうかも分かってないじゃん」


「じゃあ、どうすればいいんですか」


 言ってから、自分が苛立っていることに気づいた。ただ、その苛立ちはマティアスへ向いているわけではなかった。

 何をすればいいのか分からず、時間だけが減っていくことに腹が立っていた。


「私は軍人なんです。人に触られるだけで動けないなんて、そんなことで――」


「中尉」


 マティアスが遮った。声を荒らげたわけではない。


「それ、何でもいいから早く元に戻したいだけでしょ」


 エレジは答えなかった。


「俺と寝たいわけじゃないよね」


「……はい」


「誰かとしたいわけでもない」


「はい」


「治るなら、ってだけ」


「そうです」


「じゃあ、俺は無理」


「なぜですか」


「中尉が、治すためなら自分の身体をどう使ってもいいみたいになってるから」


 その言い方に、エレジは眉を寄せた。


「私の身体です」


「知ってる」


「私が決めていいでしょう」


「決めていいよ。でも俺も、自分がそれに付き合うかは決めていい」


 それには返す言葉がなかった。


「俺はしない」


「……分かりました」


「中尉が嫌だからじゃない」


「そこは分かってます」


「分かってなさそうな顔してる」


「分かってます」


 マティアスはしばらくエレジを見ていた。


「少佐には話した?」


「このことは話してません」


「話したほうがいいと思う」


「少佐には言えません」


「なんで。俺には言えたのに」


「あなたとは、断られても今まで通りでいられると思ったので」


「それはそれで結構ひどくない?」


「そういう意味ではありません」


マティアスはわずかに笑ったが、次の言葉は真剣だった。


「分かってる。少佐に、寝てくださいって言えって意味じゃないよ。人に触られるのが怖くなって、早く治さないとって焦ってることを話せって言ってる」


「……それは」


「言えない?」


「それは、教官に対応させることではないと思います」


 カイルは教官と訓練生の線引きをきちんとしようとしている。自分の内側で起きていることまで持ち込んで、その線引きをこちらから崩したくはなかった。


「もう……いいんです。お願いしたことは忘れてください。戻りましょう」


 エレジが扉へ向かおうとすると、マティアスが先に口を開いた。


「中尉、それ、本当にこれで終わりにする?」


「あなたが断ったので」


「俺が断ったら、この話そのものがなくなるわけじゃないでしょ」


「どういう意味ですか」


「別の人に頼むつもり?」


 考えていたことを当てられ、エレジは答えなかった。


「頼むんだ」


「……あなたが駄目なら、他に信頼できる人を考えようとは思ってました」


「今日?」


「できれば」


 マティアスはしばらく何も言わなかった。


「誰でもいいわけじゃないんだよね」


「もちろんです」


「条件に合えば、俺じゃなくてもいい?」


「はい」


 答えたあとで、マティアスの表情が変わったことに気づいた。さっきまでの迷いではなく、別のことを考えているようだった。


「……それなら話変わる」


「何がですか」


「俺がやる」


 エレジは意味を取り違えたのかと思った。


「さっき断りましたよね」


「断ったよ」


「では、なぜ」


「俺が断れば、中尉が諦めると思ってたから」


「でも、諦めないからですか?」


「そう。俺が駄目なら別の男を探すんでしょ」


「はい」


「だったら、そのほうが嫌だ」


「どうしてですか」


「中尉が選ぶ相手が、本当に途中で止まれる人間か分からないから」


「私が信頼できる人を選びます」


「今の中尉が、どこまで慎重に選ぶかを俺は信用してない。俺に断られた直後に、もう次を探すつもりだったんでしょ」


 否定はできなかった。


「この方法がいいと思ったわけじゃない。むしろ、やめたほうがいいと思ってる。

 でも中尉がどうしてもやるなら、少なくとも俺なら止められる。中尉がやめてって言えば止まるし、言えなくても様子がおかしかったら止める」


「それは最初から、あなたを選んだ理由です」


「分かってる。ただ、その前に聞かせて」


「何ですか」


「本当に俺でいいと思ってる?」


 エレジは少し考えた。


「はい」


「治したいから誰でもいいんじゃなくて?」


「誰でもよくはありません」


 いつの間にか、エレジは両手を固く握り合わせていた。

 マティアスは息を吐いた。


「……分かった。じゃあやる」


「本当ですか」


「この方法に賛成したわけじゃない。でも、中尉が別の男に行くくらいなら俺がやる」


「……分かりました」


「あと、条件ある」


「何ですか」


「基地内ではやらない。宿舎もなし」


「では、どこで?」


「ベルンハルトに行く」


「……街ですか」


「そう。あと、今決めたのは、中尉が別の男に行くくらいなら俺が相手になるってこと。実際にやるところまで絶対に変えないって意味じゃない」


 エレジは少し考えた。


「私も、やめてもいいということですか」


「当然」


「部屋に入ってからでも?」


「いつでも」


「途中でも?」


「途中でも」


「私が何も言えなくなったら」


 マティアスはそこで少し考えた。


「そのときは俺が止める。でも、全部俺に判断させる前提にはしないで。嫌ならできるだけ言って」


「はい」


「あと、俺が止めたときに『続けられます』って言って無理やり続けようとするのもなし」


 それは自分がやりそうなことだった。


「……分かりました」


「ほんとに?」


「覚えておきます」


「それならいい」


 次の休養日に、二人でベルンハルトへ出ることになった。予定が形を持った瞬間、それまで頭の中だけにあったことが急に現実になった。

 二人で基地を出る。街へ行く。その先で、自分は ──


 怖さはある。それでも、予定を取り消そうとは思わなかった。



22 


 休養日の前日、エレジは外出届を持って執務室へ向かった。

 行き先と帰投予定を書き、必要な許可を受けるだけの手続きに特別な緊張を覚える必要はない。

 けれど今回は、紙一枚を持って廊下を歩いているあいだも、そこに書かなかったことのほうが意識に残っていた。


 ノックをして入ると、カイルは机に向かって書類を確認していた。エレジが近づくと、手元から顔を上げる。


「どうした」


「外出届です」


 差し出した紙を、カイルが受け取った。


「外出か」


「はい」


 行き先の欄には、ベルンハルトと書いてある。


「一日か?」


「はい。夕方には戻ります」


 カイルは日付と帰投予定を確認し、そのまま署名欄へペンを走らせた。これで終わると思っていたところで、書類を見たまま口を開いた。


「最近ずっと基地にいるだろ」


「そうですね」


「訓練以外でも考え込んでる時間が増えてる。せっかく出るなら、少し遊んでこい」


 エレジはすぐには返事ができなかった。


 遊びに行くわけではない。買い物をするつもりでも、以前のように本屋や店を見て回る予定でもなかった。ベルンハルトへ出る理由は一つしかなく、それをカイルに話すことはできない。


 外出の目的を説明するよう求められたわけではない。それでも、何かを伏せたまま会話しているという意識だけが強く残った。


「……そうします」


 結局、それ以上は言えなかった。

 カイルは署名を終えた外出届を返しながら尋ねた。


「何か見たい場所はあるのか」


「まだ、決めてません」

 

 硬い返事だった。


「……そうか」


 カイルはそれ以上聞かなかった。


「失礼します」


「ああ」


 外出届を受け取って執務室を出ると、扉が閉まったところで、エレジはようやく浅く息を吐いた。


 嘘をついたわけではなかった。明日はベルンハルトへ行くし、夕方には戻るつもりでいる。

 それでも、カイルには肝心な部分だけを伏せた。


 問われてもいないことを自分から話さなかっただけだと考えれば、それで済むはずだった。けれど、何も偽っていないのに、カイルに対してだけは、意図して一つの事実を隠したという感覚が残っていた。

 そのことが、思っていた以上に重かった。


     *


 その日の勤務終了時刻が近づいた頃、執務室の扉が叩かれた。


「入れ」


「失礼します」


 入ってきたのはマティアスだった。


「どうした」


「外出届です」


 差し出された紙を見て、カイルは少し意外に思った。


「今か」


 時計を見る。勤務の終了時刻までは五分と迫っている。


「すみません」


「締め切りぎりぎりだ」


「はい」


 カイルは書類を受け取り、必要事項に目を通した。

 行き先はベルンハルト。日付も、さきほどエレジが出したものと同じだった。

 それだけなら珍しいことではない。休養日に街へ出る訓練生は何人もいるし、行き先が重なることもある。


 それでも、昼間のエレジの受け答えが頭に残っていた。何か見たい場所はあるのかと聞いても、まだ決めていないと答えた。あのときは深く考えなかったが、今になってその言葉が別の意味を持ち始める。

 カイルは署名欄へペンを置きながら聞いた。


「ロート」


「はい」


「もしかして、ヴァイス中尉と行くのか」


 マティアスはほんの少し間を置いた。


「はい」


 ペン先が止まった。

 それは一瞬のことだったが、書類の上に残ったわずかな間を、マティアスは見逃さなかった。

 カイルは何事もなかったように署名を続けた。


「少佐。最近の中尉の様子、どのくらい把握してますか?」


 カイルは書類から目を上げた。


「人との接触が怖いことについてか」


 マティアスの表情に、驚きよりも納得に近いものが浮かんだ。


「やっぱり気づいてたんですね」


「見ていれば分かる」


「何か言ってあげたりしました?」


「いや」


「何故です?」


 カイルは少し考えてから答えた。


「本人から来るなら聞く。だが、俺からそのことに触れる気はない」


「ナイーブな話だからですか?」


「それもある」


 理由はそれだけではなかった。

 訓練中に接触への反応が出ていることは把握している。だが、本人が助けを求めていない段階で、身体に触れられることへの恐怖を本人がどう受け止め、訓練以外でどう対処しているのかまで、教官の側から踏み込むことではない。


「でも、訓練に支障が出てるの、分かってますよね?」


「反応が出てることは分かってる」


「それでも?」


「本人は対処している。課程をこなすこと自体には、今のところ問題はない」


 カイルは署名を終え、外出届を返した。


「次からはもっと早い時間に持ってこい」


「すみません」


 マティアスは紙を受け取ったが、そのまま出ていこうとはしなかった。

 その様子を見て、カイルも話が終わっていないことを察した。


「まだあるのか」


「少し話してもいいですか」


「ヴァイス中尉のことか」


「はい」


「話せ」


 マティアスはすぐには口を開かなかった。


 普段なら、必要なことは比較的早く言葉にする男だった。それが今は、どこまで話すべきかを測るように言葉を選んでいる。


「俺がこの時間に来たのは、教官としてじゃない少佐と話したかったからです」


 その言い方に、カイルは警戒を覚えた。


「どういう意味だ」


「これから話すこと、中尉には言わないでください」


「内容による」


「分かってます」


 マティアスは手にした外出届へ一度目を落としてから、カイルへ視線を戻した。


「中尉に、俺から少佐へ話したことは知られたくないです」


「何をだ」


「抱いてくれって言われました」


 カイルは何も言わなかった。


「性交渉の意味です」


「分かってる」


 説明されなくても理解していた。

 むしろ理解したからこそ、次の言葉がすぐには出なかった。

 ベルンハルトへ出る日が同じだったことも、エレジが行き先以上のことを話さなかったことも、そこで一度につながった。


「いつだ」


「昨日です」


「理由は」


「人に触られるのが怖くなったからです」


 そこで、話の意味が変わった。

 ただの私的な誘いではない。カイルは机の上のペンから手を離した。


「続けろ」


「自分に男性経験がないことも関係してるんじゃないかって考えてます。誰かと経験すれば、今の反応が少し変わるかもしれないって」


「誰かにそう言われたのか」


「医務には相談したそうです。でも、性交渉を勧められたわけじゃありません」


「本人が考えたのか」


「はい」


 カイルは一度目を伏せた。

 いかにもエレジがやりそうな考え方だった。

 分からないことがあれば、自分で調べる。必要なら専門家に聞く。得た情報を整理し、自分で方法を組み立てる。そして時間がないと思えば、その判断を早める。


「それで、お前に頼んだのか」


「はい」


「お前は」


 一度、言葉を止めた。

 聞く前から、外出届の意味で答えは分かっていた。


「了承したのか」


「しました」


 執務室には先ほどまでと同じ静けさがあったはずなのに、カイルには急に空気が重くなったように感じられた。


「明日、ベルンハルトでか」


「はい」


「……そうか」


 自分でも意外なほど、声は普段と変わらなかった。


 ただ、その平静さとは裏腹に、頭の中ではさきほどまで別々だった事実が具体的な場面として結びついていった。

 エレジがマティアスと街へ出て、二人でホテルへ向かう。その先で、エレジが自分ではない男に身体を預ける。


 そこまで想像してしまったことに、カイルは自分で気づいた。

 教官として聞く必要のないことだった。そう思っても、もう知らなかった状態には戻れない。


「少佐。明日、中尉を抱きます」


 カイルはマティアスを見た。


「それを俺に言う必要があるのか」


「あると思ったので」


「なぜ」


「中尉が少佐のことを好きだからです」


 今度は、返事が途切れた。

 教官である間は、彼女がどう思っているかを知ったところで、それを理由に関係を変えるべきではないと思っていた。


「それと」


 マティアスが続けた。


「少佐も中尉のこと、ただの訓練生として見てないと思ってるからです」


「何を根拠に」


「前にも聞きましたよね」


「答えてない」


「そうですね」


「なら勝手に決めるな」


「決めてません」


 マティアスは少しだけ息を吐いた。


「今は、確かめたいわけでもないです」


「じゃあ何だ」


「俺が黙って中尉と街へ行って、あとで少佐が知るほうが嫌だっただけです」


「俺がどう思うかは、お前が気にすることじゃない」


「普段ならそうです」


「なら」


「でも今回は違います」


 カイルは続きを待った。


「中尉は、少佐には頼めないって言ってました」


 その言葉で、カイルの中にあった警戒とは別の緊張が生まれた。


「……そう言ったのか」


「はい」


「理由は」


「教官だから。それと、自分が少佐を好きなだけかもしれないからって」


 カイルは何も言わなかった。


「少佐が自分をどう思ってるか分からないから、そんなこと頼めないって」


 胸の奥に、痛みに近い感覚が走った。

 エレジが自分を好きだということより、その気持ちが一方的かもしれないと彼女が考えていたことのほうが、妙に強く残った。


「俺には恋愛感情がないから頼めるって言われました」


「……ずいぶん合理的だな」


「中尉らしいです」


 カイルは笑わなかった。

 合理的ではあった。好きな相手には頼めない。けれど、信頼できて、恋愛感情のない相手なら頼める。目的だけを切り出せば、その判断には一貫性がある。


 ただ、その一貫性がカイルにはひどく不快だった。

 エレジに腹が立つわけではない。彼女がそんな選び方をしなければならない状況そのものが気に入らなかった。


「それで、お前は本当にするつもりなのか」


「はい」


「治る保証もない」


「それも言いました」


「悪化する可能性もある」


「分かってます」


「なら、なぜ了承した」


 マティアスは少し考えてから答えた。


「最初は断りました」


 カイルは続きを待った。


「でも、中尉は俺が駄目なら別の人を探すって言ったんです」


「……他を?」


「はい。信頼できる男を考えるって」


 マティアスでなければ別の誰かを探す。その考えに至るほど、エレジが焦っていたことまでは、カイルも把握していなかった。


「だから俺が受けました」


「それが理由か」


「それだけじゃないです。少なくとも俺なら、嫌だって言われたら止まれます」


 その言葉を聞いた瞬間、準備室でのケルナーの件が頭をよぎった。

 エレジが止めてほしいと伝えたあとも、相手は止まらなかった。その結果として、いま彼女は必要な接触にまで身体が反応するようになっている。

 それを変えるために、再び自分の身体を使おうとしている。


「途中で無理だと思ったら、俺からでも止めます」


「ロート」


「はい」


「それを本人にも言ったか」


「言ってます」


「それでも行くと」


「はい」


 カイルは黙って考えた。

 止めようと思えば、理由を作ることはできるかもしれない。

 精神的な影響が残っている訓練生が、その対処として性交渉を選ぼうとしている。安全上の懸念がないとは言えない。


 だが、それを理由に外出そのものを止める判断が、本当に教官としてのものなのか。自分がエレジを好きだからではないと、今の自分に言い切れるのか。

 そこを曖昧にしたまま権限を使えば、今まで守ってきた線引きを自分で壊すことになる。


 しかも、相手は成人した二人だ。休養日に基地の外へ出て、本人同士で合意した行動を取ろうとしている。

 エレジ自身が考えて選んだことでもある。

 その選択が危うく見えても、自分が気に入らないという理由で取り上げる権利はなかった。


「……分かった」


 マティアスがわずかに眉を動かした。


「止めないんですか」


「俺が止める理由はない」


「教官として?」


「そうだ」


 口にした言葉が、そのままカイル自身の中にも残った。

 教官としては止める理由がない。


「じゃあ、教官じゃない少佐は?」


 まるで考えを読んだように、マティアスが聞いた。カイルは彼を見た。


「それを聞きに来たのか」


「はい」


「答える必要はない」


 マティアスは何も言わなかった。

 カイルも、それ以上続きを促さなかった。

 やがてマティアスは上着のポケットへ手を入れ、折り畳んだ紙を一枚取り出した。


「明日、朝のうちはここの公園にいます」


 机の上に紙が置かれたが、カイルはすぐには見なかった。


「何のつもりだ」


「ホテルの手前の公園です。俺、十時までそこで待ちます」


「ロート」


「中尉には言ってません」


 マティアスは紙から手を離した。


「これを少佐に渡したことも、待ってることも」


 カイルはそこで初めて紙へ目を落とした。

 小さな手書きの地図だった。ベルンハルト駅からの道と、公園の位置、それから時刻だけが書かれている。


「何がしたい」


「少佐に選んでほしいです」


「何を」


「明日、中尉のところへ行くかどうか」


 カイルは眉を寄せた。


「何でもっと早く言わなかった」


「言わないつもりだったからです。これも今朝思いつきました。それに昨日の今日ですし、少佐には仕事があるでしょう」


「それで、教官としてではない俺と話したいと?」


「はい」


「なぜだ」


「問題として処理するんじゃなくて、少佐がどうしたいのかで決めてほしかったんです」


「それはお前が決めることじゃない」


「分かってます」


「ヴァイスが選んだのはお前だ」


「今はそうです」


「なら、その選択を勝手に変えるな」


「変えるつもりはないです」


「同じことだ」


「違います」


 マティアスは反論を急がず、説明するように続けた。


「少佐が来なければ、俺が予定どおり行きます。最初に決めたとおりです」


「だったら、これを置いていく必要はない」


「あります」


 カイルは黙った。


「中尉が俺を選んだ理由、聞きましたよね」


「教官じゃない。恋愛感情がない。信頼できる」


「はい。でも、一番安心できる男が俺だからじゃない」


 カイルは視線を上げた。


「俺はそう思ってます」


「本人がそう言ったのか」


「そこまでは言ってません」


「なら推測だ」


「そうです」


 マティアスは否定しなかった。


「でも、中尉は少佐には頼めないって言った。教官だから。それと、自分だけが好きなのかもしれないから」


 カイルは何も答えなかった。


「そこがなかったら、誰を選んだと思います?」


「その質問に意味はない」


「俺はあると思います」


「ない。本人が実際に選んだのはお前だ」


「治すための相手としてです」


「同じことだ」


「俺は違うと思います」


 マティアスは机の上の地図へ目を向けた。


「中尉は今、誰かと寝たいんじゃないです。怖いのをどうにかしたくて、そのために条件のいい相手を選んだ」


「ああ」


「俺ならできます。やめろって言われたら止まるし、言われなくても無理だと思ったら止めます」


「なら何が問題だ」


「俺である必要がないことです」


 その言葉だけが、妙に重く残った。


「もし明日になっても、中尉とそういうことをするのは俺でいいと思うなら、来なくていいです」


 マティアスの声には、カイルを試すような響きはなかった。


「でも、教官じゃなければ自分が相手になると思うなら、来てください」


 執務室の時計の音が、会話の切れ目にやけに鮮明に聞こえた。


「十時まで、公園で待ちます。少佐が来たら、俺はホテルには行きません」


「ヴァイスには」


「何も言いません」


「お前が勝手に相手を入れ替えるのか」


「違います。俺が少佐をホテルまで連れていくわけじゃないです。少佐が来たら、そこから先は少佐が中尉と話してください。中尉が嫌だと言えば、それで終わりです」


「……当然だ」


「はい」


「俺が行かなければ」


「俺が予定どおり中尉と行きます」


「そして抱くのか」


「中尉が、そのときも望むなら」


 カイルは、ただの小さな紙にすぎない地図を見た。そこに書かれた時刻が、明日の自分の行動を決める境界のように思えた。


「お前は……よくこんなことを思いつくな」


「俺も自分でそう思います」


 マティアスは少しだけ笑ったが、すぐに真顔へ戻った。


「でも、俺は中尉が少佐を好きなの知ってます。少佐がどうなのかも、たぶん分かってる」


「確定じゃない」


「はい」


「なら事実みたいに扱うな」


「だから最後は、少佐に決めてもらうんです」


「俺が決めることでもない」


「少佐が行くかどうかは、少佐が決めることです」


 それなら否定できなかった。

 マティアスは扉へ向かった。


「これ、中尉には話してないことにしてください」


「……分かった」


「ありがとうございます」


 扉へ手をかけたところで、一度だけ振り返った。


「十時です」


「ああ」


「来なかったら、俺が行きます」


「分かってる」


「じゃあ、失礼します」


 扉が閉まり執務室に一人になると、カイルはしばらく席を立たなかった。

 机の上には、一枚の小さな地図が残っている。

 課程が終わるまでは何もしない。それが正しいと思っていた。だが、自分が待っているあいだにも、エレジの時間は進む。明日の十時を過ぎれば、彼女は自分ではない男とホテルへ向かう。


 公園へ行けば、教官と訓練生の線を自分から揺らすことになる。けれど行かなければ、何が起きても自分が行かないことを選んだ結果として受け入れなければならない。

 カイルは机の上の地図を見たまま、まだ答えを出せずにいた。



23 


 休養日の朝、エレジはいつもより早く目を覚ました。眠れなかったわけではないが、目を閉じても、もう一度眠れるとは思えなかった。


 着替えて必要なものだけを小さな鞄に入れ、鏡で顔色を確かめる。体調に問題はなさそうだったが、表情は自分でも分かるほど硬かった。

 約束の時間より少し前に宿舎を出ると、マティアスはすでに待っていた。


「おはよう」


「おはようございます」


「眠れた?」


「はい」


「そっか」


 マティアスはそれ以上聞かず、二人は軍用車に乗り込んだ。

 ベルンハルトまで続くのは、以前見たのと同じ道だった。窓の外には雪の積もった山肌が続き、ところどころに針葉樹の影が伸びている。でも、今日はほとんど何も感じない。


 マティアスはその様子に気づいているのか、無理に話を続けようとはしなかった。ときどき訓練のことや前日に食堂で出たものを話題にするだけで、エレジが答えれば、それ以上は踏み込まなかった。


 ベルンハルトへ着いたころには、九時を少し回っていた。休養日の朝らしく中心部には人が多く、店先には冬物の衣類や菓子が並び、広場の向こうには時計塔が見える。


 以前ここへ来たときには、本屋や雑貨店、広場など、また見たいと思った場所がいくつもあった。けれど今日は、そのどこにも行きたいと思わなかった。


「中尉、行きたいとこある?」


 エレジは首を横に振った。


「ないです」


「じゃあ俺の行きたいところに行こう」


「どこですか」


「カフェ」


 通りを一本曲がった先にあったのは、窓際に数席と、奥に二人掛けのテーブルがいくつかある小さな店だった。マティアスのあとに続いて中へ入り、奥の席で向かい合うと、彼はメニューを開いた。


「中尉、コーヒー?」


 エレジは一瞬だけ迷った。


「……カフェオレにします」


「珍しいね」


「そうですね」


「なんで?」


「ブラックだと、少佐を思い出しそうなので」


 考えていたことがそのまま口から出てしまい、エレジは自分の言葉に驚いた。けれどマティアスは笑わず、「そっか」と答えただけだった。


 二人ともカフェオレを頼んだ。運ばれてきたカップを持つと、その温かさが指に伝わってくる。一口飲んでみても、甘くも苦くもない味はブラックコーヒーとはまったく違っていた。


 それでも、机の向こうに座るカイルや、紙の擦れる音、コーヒーを渡されたときの手が次々に浮かんだ。思い出さないために選んだはずなのに、結局は同じところへつながってしまい、エレジはカップを置いた。


「やめてもいいからね」


 唐突ではなかった。何のことを言っているのか、すぐに分かった。


「まだ何もしてません」


「だから今言ってる」


「やめません」


「分かった」


 マティアスはそれ以上言わなかった。

 店を出ると、広場では子どもが雪を蹴り、店の前では何人かが立ち話をしていた。休養日のベルンハルトは明るく、行き交う人々はそれぞれに街で過ごす時間を楽しんでいるように見える。


 その中を歩きながら、エレジは自分だけが街から切り離されているように感じていた。何を見ても心は動かず、店先にも興味を持てず、隣を歩くマティアスとも普段のようには話せない。


 それでも帰ろうとは思わなかった。自分で決めたことであり、治る可能性があるなら試すという考えは、まだ変わっていなかった。


「もう少し歩く?」


「どちらでも」


「じゃあ、公園行こう」


 マティアスが向かったのは、街の中心から少し離れた小さな公園だった。冬のあいだは噴水が止められ、木々の根元には雪が残っている。街中の賑わいもここまでは届かず、人の姿は少なかった。

 空いているベンチの前まで来ると、マティアスが言った。


「ちょっとここで休んでからにしよ」


 二人で座り、エレジは時計を確認した。九時五十分。ここからホテルまでは歩いて数分しかかからず、あと十分休んでも時間には余裕があるはずだった。

 それなのに、ホテルへ向かう時刻が近づいていると意識した途端、胸の奥に重さを感じた。


 マティアスは触れも話しかけもせず、隣で待っている。エレジは膝の上で手を組み、自分が緊張していることを認めざるを得なかった。


 昨日までは、誰かと一度経験すれば何かが変わるかもしれない、それを確かめるための方法なのだと、もっと簡単に考えていた。

 けれど今は、ホテルはこの公園の先にあり、部屋も時間も決まり、相手になるマティアスが隣にいる。考えの中にしかなかったことが、すべて現実の形を持って迫っていた。


「怖い?」


 エレジは正直に答えた。


「……少し」


「少し?」


「かなり、かもしれません」


「そっか」


「でも行きます」


「うん」


「止めないんですか」


「止めてほしい?」


「分かりません」


 マティアスはすぐには答えず、少し考えてから言った。


「じゃあ、十時までここにいよう」


「なぜ十時なんですか」


「区切りがいいから」


 約束の時刻までは、あと十分だった。


「十時になったら行くんですか」


「中尉が行くって言ったらね」


「私は行くつもりです」


「分かってる」


 その答え方に何が引っかかったのか分からないまま、エレジは、自分で選んでここまで来たという事実を確かめるように、九時五十分を示す時計へもう一度目を落とした。


 公園の向こうには、雪を薄く載せた街並みが冬の光を受けて明るく広がっている。きれいだと思えてもおかしくない景色だったが、今のエレジには顔を上げる余裕がなく、足元を見続けていた。

 視界の端に黒い靴が入り、目の前で止まった。そこで初めて誰かがいることに気づいて顔を上げる。

 そこに立っていたのは、カイルだった。


 基地にいるはずの人がベルンハルトの公園で自分を見下ろしている。その状況をすぐには理解できず、エレジは声も出せないまま彼を見返した。カイルも何も言わず、じっとこちらを見ていた。


「……少佐?」


 声にしても、状況は理解できなかった。どうしてここにいるのか、なぜこの場所を知っているのか分からず、エレジは隣のマティアスを見た。

 マティアスは驚いた様子もなく、カイルを見上げた。


「いいんですね?」


 エレジには、その質問の意味も分からなかった。

 カイルは答えなかったが、マティアスは何かを確認したように小さく息を吐き、ベンチから立ち上がった。


「じゃあ、俺はここまでだ」


「……何がですか」


 鞄を持ったマティアスは、カイルにポケットから取り出した小さな紙を渡した。カイルはそれをちらとみて受け取る。エレジは理解できないまま見上げた。


「マティアス?」


「俺は行く」


「どこに」


「適当に時間潰す」


「待ってください」


「中尉、俺はしない」


「どうしてですか」


 マティアスはすぐには答えず、エレジとカイルを交互に見てから、少し困ったような顔をした。


「そこからは、少佐と話して」


「何をですか」


「俺が言うことじゃない」


「意味が分かりません」


「うん。そうだと思う」


「じゃあ説明してください」


 エレジの声に苛立ちが混じった。自分で決め、怖くてもやるつもりでここまで来た。それなのに、突然カイルが現れ、マティアスが自分に何も説明しないまま予定を終わらせようとしている。


「マティアス」


「ごめん」


「何がですか」


「中尉に言わずにやったことがある」


 胸に嫌な感覚が広がった。


「何を」


 マティアスがカイルを見たことで、答えを聞く前から、それが彼に関わることなのだと分かった。


「昨日、少佐に話した」


「……何を?」


「中尉に頼まれたこと」


 言葉の意味を理解するまでに数秒かかった。


「……全部?」


「必要なところは」


 その答えで、昨日の会話のどこまで伝わっているのかを悟った。


「……なんで少佐に話したんですか」


「ごめん」


「私があなたに頼んだことですよね」


「うん」


「どうして、それを私に何も言わずに少佐へ話すんですか」


「それは俺が悪い」


「悪いで済まないです」


「うん」


 マティアスは言い訳をせず、それでも事実を変えるつもりはないように答えた。


「でも、話した」


 エレジはカイルを見た。彼はまだ何も言わなかったが、この一連のやりとりを見つめる表情が、全てを知っていることを物語っていた。


「……なんで来たんですか」


 カイルに尋ねても、返事はなかった。


「少佐」


 それでも答えない彼に代わって、マティアスが口を開いた。


「中尉」


「何ですか」


「少佐が来なかったら、俺は予定どおりホテルに行くつもりだった。でも来た」


「だから何なんですか」


「それが答えだと思った」


「誰の?」


「少佐の」


 エレジはカイルを見たが、何のことを指しているのか、まだ理解できなかった。


「何の答えですか」


「そこは俺が言ったら駄目だと思う」


「今さらですか」


「今さらでも。俺が決めていいのは、ここまでだから」


 それ以上の説明を拒むように、マティアスはカイルへ話を渡した。


「少佐、後はお願いします」


 その言葉を聞いても、エレジには何を任せたのかさえ分からなかった。


「待ってください」


 けれどマティアスは首を横に振った。


「中尉、ごめん」


「何がですか」


「約束破ったこと」


「……」


「それはあとでちゃんと怒られる」


「今怒ってます」


「分かってる」


 ほんの少しだけ、いつものマティアスらしい返し方だったが、今は笑えなかった。

 マティアスは鞄を肩に掛けた。


「じゃあ、俺、本当に行くから」


「どこへ」


「言ったでしょ。適当に時間潰す」


「マティアス」


「中尉」


 呼び止めたエレジに、マティアスは少しだけ声を落として告げた。


「今は、少佐と話した方がいい」


 その言葉だけを残して歩き出した彼を、エレジは追うことができなかった。

 木立の向こうへ消えていく背中を見送り、公園にカイルと二人きりで残されても、何が起きたのかはまだ理解できていない。

 エレジは雪の明るさの中でもう一度カイルを見上げた。



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