接触
18
誰かに見られている、と感じることがある。
最初に気になったのは、十二月の終わり頃だった。振り返っても誰もいないこともあれば、大勢の訓練生がいるだけのこともあった。
基地の中で生活している以上、誰かの視界に入ること自体は珍しくない。廊下でも食堂でも訓練場でも、人がいれば互いの姿は自然に目に入る。
だから、そのたびに気のせいだと思ってきた。
最近になってマティアスと話す機会が増えてからは、あの感覚のいくつかは彼だったのかもしれない、と考えるようになっていた。
自分でも意識していないようなことまでよく見ている人間だ。執務室から戻ったときのコーヒーの匂いにまで気づいていたくらいなのだから、どこかから見られているように感じても不思議ではない。
そう考えれば説明がついたし、誰かに話すほどのことでもなかった。
その夜も、洗濯物を持って一階の廊下を歩いている途中で、同じ感覚があった。
宿舎棟の一階は、二十三時近くになるとほとんど人がいない。三階の自室からランドリールームまでは遠く、階段を下りて長い廊下を進まなければならない。エレジは途中で一度振り返ったが、照明の落とされた廊下に人影はなく、結局その夜も、自分の気のせいなのだろうと思うことにした。
洗濯を済ませて部屋へ戻り、ベッドに身体を預けたときには、もう二十三時半を回っていた。何気なく時計の横の日付を見ると、二月十日になっている。
課程が終わる三月末まで、あと一か月半ほどだった。
始まった頃を思えば長かったはずなのに、残りの日数を数えると急に短く感じる。射撃や航法だけではなく、判断の仕方も、人と動くときの考え方も変わった。
雪の下に落ち、それまでできていたことが一度できなくなって、それでも以前と同じところへ戻る必要はないと知った。
この半年を思い返すと、その多くにカイルがいた。
今では、自分が彼を好きなのだということに迷いはなかった。以前のように、その感情をどう処理すればいいのか分からなくなることも少ない。
大きく存在しているのに日常を乱すものではなく、消そうとしなければ、こんなふうに穏やかに持っていられるのだと最近になって知った。
コーヒーも、また時々執務室で飲むようになった。年末ほど私的なことを話すわけではない。訓練の記録や次の課目について話し、その合間に少し別のことを交わす程度だった。それでも、その時間が好きだった。
修了したあと、自分がどこへ行くのかはまだ分からない。ただ、できるならあまり遠くには行きたくないと思うようになっていた。誰から遠くなりたくないのかは、考えるまでもなかった。
*
その翌々日、エレジがランドリールームへ下りたのは、いつもと同じ二十三時頃だった。
室内には誰もいなかった。日中なら複数の機械が同時に動いていることも多いが、この時間になると、自分が使っている一番奥の洗濯機の回転音だけが広い室内に響いている。
しばらくすると、扉が開いた。入ってきた男を見た瞬間、エレジは口を結んだ。
ユリウス・ケルナー少尉。
「こんばんは、中尉」
「……こんばんは」
挨拶を返しながら、身体に小さな緊張が走った。
ケルナーは大柄な身体の男だった。近接戦闘を得意としており、大柄な身体を扱うのもうまく、組み合った相手の重心を崩すことにも慣れている。
ただ、エレジにとっては、それとは別の意味でも記憶に残っていた。
十二月の近接戦闘訓練で、必要以上に身体へ触れてくると感じた相手の一人だった。
教官側から訓練の組み方が変えられて以降、露骨な接触は減った。それでも教官の視線が外れた短い時間に、必要なのか判断しにくい触れ方をされたことが何度かある。
ただ、それを証明できるものはなかった。近接戦闘なら身体には触れるし、攻防の途中で手の位置がずれることもある。自分が気にしすぎているだけだと言われれば、それ以上説明できない程度のことばかりだった。
ケルナーは持ってきた洗濯物を空いている洗濯機へ入れて動かすと、部屋の中央に置かれた長椅子の、エレジから最も離れた端へ座った。
距離を取っている。少なくとも、それだけを見れば何も問題はなかった。
互いに話すこともなく時間が過ぎ、やがてエレジの洗濯機が止まった。衣類を籠へ移している途中、正面の窓に室内が薄く映っていることに気づく。
その反射の中で、ケルナーはこちらを見ていた。
エレジが振り返ると目が合った。視線の位置からすると、少し前まで見ていたのは自分の顔ではなく、今取り出している洗濯物だったように思えた。
「何かありましたか」
「いいえ」
ケルナーはそう答え、自分の洗濯機へ目を向けた。
それだけなら、たまたまこちらを見ていただけとも考えられる。エレジは残りの衣類を籠へ入れ、そのまま乾燥機へ移したが、途中で自分の手がさっきより速く動いていることに気づいた。
乾燥機を動かして長椅子へ戻り、持ってきた本を開く。数行進んだところで、何が書いてあったのかまったく残っていないことに気づいた。
無意識に窓へ目をやると、ガラスの中でまたケルナーがこちらを見ていた。
一度なら偶然で済ませられた。けれど、二度目まで同じように見られていると、そう思い切ることはできなかった。
乾燥が終わるまでの時間が、普段より長く感じられた。
終了音が鳴ると、エレジは衣類を籠へ移してランドリールームを出た。急いでその場を出ようとした自分の行動が、後から気になった。階段を登りながら、念のため中身を確かめると、一枚足りないものがあった。
下着だった。
乾燥機の奥に残したのだろうと思い、一階へ引き返した。
ランドリールームの扉を開けたとき、ケルナーはエレジが使っていた洗濯機の前に立っていた。
その手にあるものを認めて、エレジは入口で足を止めた。
自分の下着だった。
まだ湿った布を、ケルナーは両手で広げるように持っている。羞恥が込み上げ、まともに見ていられなくなった。それでも置いて帰るわけにはいかず、エレジは彼のところまで歩いた。
「……それ、私のです」
「ああ。中尉のでしたか」
知っていたのではないか、と思った。けれど、その疑いを口にするには、自分の中にまだ確かな根拠が足りなかった。
差し出された下着を受け取るとき、指先が触れた。布はまだ湿っていた。
エレジは何も言わず、わずかに頭を下げてランドリールームを出た。
三階までどう戻ったのか、あまり覚えていなかった。部屋に入り、鍵をかけたところで、ようやくずっと肩に力を入れていたことに気づく。
ベッドまで行く気になれず、その場に座り込んで膝を抱えた。
窓に映っていた視線と、自分の下着を両手で広げていた姿が、何度も頭に戻ってくる。
取り忘れたのは自分だ。ケルナーはそれを見つけて、誰のものか確認していただけなのかもしれない。
そう考えれば、今夜のこともまだ偶然として片づけられてしまった。
*
その翌日、課程には屋内での小班戦闘が組み込まれた。
使用するのは、廊下、階段、大小の部屋を組み合わせた訓練棟だった。訓練生は四人一組で内部へ入り、指定された物品を回収したうえで離脱する。
途中には敵役の班が配置され、遭遇すれば模擬銃器か近接戦闘で対処する。見通しの悪い屋内では、班員全員が常に互いを視認できるわけではない。
部屋の確認や進路の分岐によって、一時的に二人、あるいは一人で動く場面も生じる。
評価されるのは、敵役を倒せるかどうかだけではなかった。
死角の多い環境で味方の位置を見失わず、至近距離で突然接触したときにも状況に応じて判断を切り替えられるか。
屋外とは違う制限の中で、小班として行動を維持できるかが見られる。
最初に集合したとき、エレジはケルナーを見た。ケルナーもエレジを見ていて、エレジは目を逸らした。しばらくしてもう一度見ると、まだこちらを見ていた。
その視線が腰あたりに向けられている気がして、目を逸らした。何を考えてるかは想像したくない。もう見ないと決めた。
班はケルナーとは同じにならず、安心して息をついている自分がいた。
かわりにマティアスとは同じ班だった。
「中尉、なんかあった?」
「何でですか?」
「なんか顔色悪い気がする」
答えながら、相変わらず目ざといな、と思う。気づかれたくないような、気づかれたいような気分だった。
「そんなことないです。お腹でも空いてるんでしょう」
マティアスは笑って「そっか」とだけ言った。
午前中は班ごとの進入と確認を繰り返し、午後からは敵役と訓練班を交代させながら、より不確定要素の多い形へ移った。
エレジの班は二回目の進入で、二階の廊下から左右の部屋を確認していくことになった。前をマティアス、その後ろをエレジ、さらに二人が続く。
廊下は狭く、開いた扉の向こうは照明を落としてある。外から見れば何もいないように見える部屋にも敵役が潜んでいることがあり、角を曲がるたびに判断を切り替えなければならない。
「右、確認します」
エレジは言って部屋へ入った。机と棚の間を抜け、手前の空間を確認する。人影はない。
奥には、この部屋からしか出入りできない準備室がある。エレジはそのまま扉の脇まで進んだ。
中を確認しようと踏み込もうとした瞬間、ほぼ同時に、廊下の先で模擬銃の発射音が響いた。マティアスたちが敵役と接触したらしい。
それに気を取られ、人影が動いたのに気づくのが遅れた。模擬銃を上げるより早く距離を詰められる。
銃身を押さえられ、準備室側に引き摺り込まれ、壁際へ押し込まれる。エレジはすぐに銃を捨てる判断をして、相手の腕を外そうと身体を回した。
ケルナーだった。
考える時間はなかった。右手を取られ、肩を壁へ押しつけられる。体格差がある相手に正面から力で返せば不利になる。エレジは重心を落として半歩ずれ、腕を抜くために身体の向きを変えた。
その瞬間、ケルナーのもう一方の手が胸にかかり、エレジは反射的に身体を引いた。
近接なら起こり得る。そう判断しかけたところで、ケルナーの手はすぐに離れた。
エレジは体勢を立て直そうと、右腕を引き抜いて肩を壁から外した。ケルナーも一度は距離を取るように見えたが、次の瞬間には再び踏み込んできて、手首を払うと身体の向きを変えさせ、その流れの中で腰の横へ手を触れさせた。
接触は一瞬で、押し込むために体幹へ触れたのだと言われれば、それで通る程度の位置だった。エレジは何も言わなかった。言えなかったというより、まだ判断できなかった。
本当に必要な接触だったのか、たまたまそこへ手が来ただけなのか、それとも昨夜のことを引きずっているせいで、自分が余計に気にしているだけなのか。どれとも決められないまま、攻防だけが続いた。
ケルナーがさらに距離を詰めてくる。エレジが脇へ抜けようと身体を捻ると、今度は腹部の横を押さえるように手が入り、その指先が少し下へずれた。
明確におかしいと言い切るには足りない一方で、必要だったとも言い切れない位置だったため、エレジはその手を払った。
「そこ、必要ですか」
ケルナーはわずかに眉を上げた。
「何がですか」
「今の手です」
「動いてたからでしょう」
即答され、エレジは一瞬言葉を失った。相手はまだ敵役で、自分も拘束を解けていない。ここで止まれば、自分の判断で訓練を中断することになる。
その考えが先に立ったことで反応が遅れ、次の瞬間にはケルナーに足をかけられて重心を崩された。
背中から床へ落ちたが、受け身を取る余裕はあったため頭を打つことはなかった。すぐに身体を返して起き上がろうとしたものの、その前にケルナーが上から押さえ込み、右手首を床へ固定した。
肩も動かしにくく、膝を入れて距離を作ろうとしても、体格差を使ってその動きを潰される。
仰向けのまま、ほとんど身動きが取れなくなった。
それでも、近接戦闘として考えれば、ここまではあり得る範囲だった。床上で押さえ込み、相手の動きを封じることも訓練の一部である以上、エレジはまだ次の動きを探していた。
左腕を抜きながら腰をずらし、相手の重心が前へ乗った瞬間に身体を返そうとする。
だが、その動きに対応するうちに、ケルナーは腕だけで押さえる形から、体全体を使った拘束へ移っていった。胸元から腹部にかけて距離がなくなり、接触する面積も一気に増える。
床上で相手の動きを封じるなら、腕だけではなく体重を使うこともある。それ自体はエレジにも分かっていたが、理解していることと、今その距離をどう受け止めるかは別だった。
肩口を押さえられたまま、ケルナーの膝がエレジの脚の外側へ入り、起き上がろうとする動きを塞いでいる。
腰をひねって横へ抜けようとすれば、そのぶん相手の身体もずれて、空いたはずの隙間をすぐに埋められた。
右腕を引こうとすると手首を押さえる力が強くなり、左肩を浮かせれば、その動きを追うように上体を寄せられる。
脚を引こうとしても膝の内側に相手の脚がかかっていて十分には動かせず、腰をずらせば、その動きを追うようにケルナーの体重も移った。
そのたびに、脇腹や腰の横、胸元に近い位置へ手や腕が触れる。どれも一瞬だけ見れば、逃げる方向を塞ぎ、重心を崩し、身体を固定するための接触として説明できなくはなかった。
けれど、動くたびに同じような場所へ触れられることが続くうちに、エレジには次第に分からなくなっていった。
本当に必要な接触なのか、それとも必要な動きに紛れ込ませているだけなのか。ケルナーの身体が近いことそのものより、どこまでが訓練で、どこからがそうではないのかを判断できないことのほうが不快だった。
エレジは一度呼吸を整え、これは訓練なのだと考え直そうとした。床上での拘束も、身体が密着することも、どちらも課目の範囲にある。そう思おうとしたところで、ケルナーの手が太腿へかかった。
押さえ込みの流れで触れただけとも取れる位置だったが、エレジはケルナーを見た。
「そこ、必要ですか」
「近接ですよ。組み手なら必要なことです」
ケルナーは、何もおかしなことはしていないという口調で言った。
「抵抗するからですよ」
その言葉に、エレジは一瞬考えた。
そうだ、抵抗しているからこそ、この距離になっているとも考えられる。自分が抜けようと動けば、相手もそれを封じるために身体を寄せ、手の位置を変える。
ならば、自分が抵抗するのをやめても同じように触れ続けるのかを見ればいい。
そう考えたエレジは、抜けようとしていた動きを止めた。腰をずらすのも腕を引くのもやめ、意識して身体から力を抜くと、それまで互いの動きに合わせて絶えず変わっていた拘束が、そのままの形で止まった。
ケルナーも動かなかった。押さえ込む力を強めることも位置を変えることもなく、近い距離のままエレジの顔を見ている。
動きがなくなると、さっきまで「組み手の途中」として処理していた接触だけが、急にはっきり意識されるようになった。
肩を押さえる腕の位置も、身体にかかる重さも、腰の近くにある手も、もう攻防の変化には紛れない。
エレジが知りたかったのは、自分の判断が間違っていないか、本当に必要だから触れられているだけなのかということだった。
数秒が過ぎても、拘束は解かれなかった。
ケルナーは何も言わず、ただエレジの顔を見ている。
その目が訓練中の相手を見るときとは違う熱を帯びているように感じられ、エレジは耐えられなくなった。
「止めます」
「こんなことで?」
その言葉に、エレジは迷った。ここで自分が止めれば、班の行動まで中断させることになる。廊下の向こうではまだマティアスたちが敵役と接触しているはずで、自分一人の判断で進行に影響を出していいのかという考えが頭をよぎった。
まだ抜けられるかもしれない。
そう思い、エレジはもう一度拘束を外そうと身体を動かした。手首を引き、腰をずらし、脚を入れようとする。けれど、動くたびにケルナーは逃げ道を塞ぎ、その中に、必要なのか判断できない接触がまた混じった。それでも体格差のある拘束からは抜け出せない。
何度か試すうちに、エレジの身体からふいに力が抜けた。さっき、自分の判断を確かめるために意識して力を抜いたときとは違い、今度は動こうという意思があるのに、それを身体へ伝えられなかった。
ケルナーの拘束は、そのまま残った。
仰向けのまま彼を見上げながら、エレジは動こうと思えば動けるはずだと考えていた。
手首も脚も完全に固定されているわけではなく、これまでの訓練なら、体重のかかり方から隙間を探し、そこから抜ける手順を考えていたはずだった。
けれど今は、その考えが身体まで届かなかった。
近い距離からケルナーに見下ろされているだけで、さっきまで訓練として整理しようとしていたものが、急に別のものに見えてくる。
怖い。
押さえ込まれていることだけではなかった。肩を押さえる腕も、身体にかかる重さも、腰の近くに残っている手も、今はすべてが怖かった。
さっきまでは、どれも訓練の一部かもしれないと考えていた。けれど、動けなくなった今は、身体に触れているその一つ一つが、何をされるか分からないものとして感じられた。
もう触れてほしくなかった。
「……離してください」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
「中尉、さっきから気にしすぎですよ」
「離してください」
「近接なんだから、このくらい普通でしょう」
ケルナーの口調はあくまで平静だったが、その落ち着きがかえってエレジを怖がらせた。
こちらが嫌がっていることに気づいていないのではなく、気づいたうえで、それを問題ではないこととして押し切ろうとしているように思えた。
その瞬間、身体の奥が冷えた。
「もう、止めます」
「だから、こんなことで訓練止めるんですか」
また同じ言葉だった。
ここで訓練を止めれば自分が班から外れ、そのせいで進行まで変わる。そんな考えがまだエレジを引き止めていたが、それ以上に強くなっていたのは、ここから離れたいという感覚だった。
そのとき、腰の脇に置かれていたケルナーの手が、わずかに下へ動いた。
掌が腰骨のあたりを越え、指先が太腿の付け根に近い位置までずれる。拘束を維持するためにそこへ手を移す理由は思いつかず、しかもエレジはもうほとんど抵抗していなかった。
ほんの小さな動きだったが、身体に触れている場所を意識していた今のエレジには、その変化がはっきり分かった。
身体が反射的に強張った。
「やめてください」
今度は、さっきよりはっきり言えた。
ケルナーは手を止めた。
「何をです?」
また、その言い方だった。
「触らないでください」
「押さえてるだけです」
「もう抵抗してません」
「また動くでしょう」
「動きません」
「訓練ですよ」
「止めるって言いました」
言葉を重ねるうちに、少しずつ自分の声が戻ってきた。
自分が間違っているかどうかを証明する必要はないし、必要な接触だったのかどうかを今ここで相手と議論する必要もない。
自分は止めると伝えたのだから、それで十分なはずだった。
「離れてください」
今度は、はっきり言った。
ケルナーは数秒エレジを見てから、ようやく上体を起こした。身体にかかっていた重さは減ったが、手首だけはまだ押さえられたままだった。
エレジはそこを見た。
「手も」
「中尉、本当に大げさですね」
「離してください」
今度は返事を待たず、自由になっている腕でケルナーの手を外して身体を横へずらした。
床との間に空間ができた瞬間に起き上がり、そのまま壁際まで距離を取る。
ケルナーも立ち上がった。
「そんなに警戒しなくても」
「近づかないでください」
自分の声が震えているのは分かった。それでも、今度は引かなかった。
「もう訓練は止めます」
「中尉」
「止めます」
言い切ったあとは、班のことも評価のことも考えなかった。準備室を出て、人のいる場所まで行くことだけを考え、扉へ向かって動いた。
そのとき、後ろから腕を掴まれた。
「離して」
「待ってくださいよ」
「離して」
「話くらい――」
「触らないで!」
声が自分でも驚くほど大きく響いた直後、外の部屋から足音が近づいてきた。
「中尉?」
マティアスの声だった。
ケルナーの手は、それを聞いた途端に離れた。
自分が何度嫌だと言っても離さなかったのに、誰かが来ると分かった途端に手を放した。その違いだけは、もう偶然や勘違いとして処理できなかった。
準備室の入口にマティアスが現れ、まずエレジを見てからケルナーへ視線を移した。二人の距離やエレジの表情、さっきまで掴まれていた腕の位置まで見たのかもしれない。
「何してる?」
「接触したので近接になっただけです」
ケルナーが先に答えた。
エレジも説明しようとしたが、言葉が出なかった。さっきまでなら、どこへ手が来たのか、いつ止めると言ったのか、そのあと相手がどうしたのかを順番に話せたはずだった。
けれど、マティアスに向かって口にしようとした途端、床に押さえ込まれていた感覚と、昨夜ランドリールームで自分の下着を広げていたケルナーの姿が一緒に浮かんだ。
これを話せるかと言われれば、無理な気がした。
「中尉?」
マティアスの声が変わった。
「……大丈夫です」
反射的にそう答えたものの、言った直後に自分でも違うと思った。
マティアスはすぐには問い詰めず、しばらくエレジの顔を見たあと、床に落ちている模擬銃へ目を向けた。
「一回戻ろう」
「まだ訓練中です」
「分かってる」
「私は続けられます」
「そういう話してない」
普段より低い声だった。
エレジは反論しようとしたが、そのとき初めて、自分の右手が震えていることに気づいた。模擬銃を拾おうとして指を伸ばしても、うまく力が入らない。
マティアスもそれを見た。
「俺が持つ」
「大丈夫です」
「中尉」
短く呼ばれ、エレジはそれ以上言わなかった。
マティアスが模擬銃を拾い、準備室の外へ出る。エレジもそのあとに続いたが、ケルナーまでついてこようとしたため、マティアスはそこで振り返った。
「少尉はここで待ってて」
「なんで?」
「教官呼ぶから」
「何か問題でも?」
「俺はまだ何も聞いてない」
マティアスはそう答え、一度エレジを見た。
「だから、今の時点で何があったかは決めない。でも、中尉があの状態で、三人でこのまま訓練続ける必要もない」
ケルナーは不満そうに眉を寄せた。
「俺は普通に訓練してただけです」
「それもあとで聞かれると思う」
マティアスはそれ以上取り合わなかった。
何が起きたのかを今すぐ説明できなくても、だからといって何もなかったことにはされない。その扱い方が、今のエレジにはありがたかった。
*
一階へ下りる途中で、マティアスは詳しいことを何も聞かなかった。
訓練棟の外へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。雪は降っていなかったが、空は低く曇っている。
「座れる?」
「はい」
建物脇のベンチまで行って腰を下ろしたところで、脚にもほとんど力が入っていなかったことに気づいた。
マティアスは少し離れた位置に立ったまま無線を取った。
「グレイ少佐、ロートです。訓練棟南側にいます。来てもらえますか」
返答はすぐだった。
『何があった』
マティアスは一瞬だけエレジを見た。
「ヴァイス中尉の件です。今、本人から詳しくは聞いてません」
無線の向こうが短く黙った。
『そこで待て』
「了解です」
通信を切ったあとも、マティアスは何も尋ねなかった。
それがありがたかった。聞かれれば答えなければならないと思ってしまうし、答えるなら、どこに触れられたのかまで説明しなければならない。今はまだ、それを口にできそうになかった。
「マティアス」
「うん」
「訓練、止めなくてもよかったんじゃないですか」
「中尉がそう言うと思ったから止めた」
「……私のせいで班が」
「それも言うと思った」
返す言葉がなくなった。
マティアスは少しだけ声を和らげた。
「班のことは俺が考えるから。今はいい」
エレジは何も言わなかった。
訓練棟の角から人影が現れたのは、その少しあとだった。
カイルの姿が見えた瞬間、胸の奥に張りつめていたものがわずかに緩んだ。
それが、自分でも嫌だった。
こんなときまで、彼を見るだけで安心してしまう。
カイルはいつもと変わらない歩調で二人の前まで来ると、まずエレジを見た。
「怪我は」
「ありません」
「身体に痛みは」
「ないです」
そこまで確認してから、マティアスへ視線を移した。
「何があった」
「俺が着いたときには、ケルナー少尉と中尉が準備室にいました。中尉が『触らないで』と言ってるのが聞こえて、その直後に入りました」
マティアスは、自分が見聞きしたところだけを話している。
「ケルナー少尉は、接触したので近接になっただけだと言ってます。俺はそれより前は見てません」
「分かった」
「ケルナーは準備室で待たせてます」
「ああ」
マティアスは少し迷ったあと、エレジを見た。
「俺、残ったほうがいい?」
エレジは首を横に振った。
「大丈夫です」
「分かった」
それでもすぐには動かず、カイルとエレジを一度ずつ見てから言った。
「少佐、お願いします」
「ああ」
それだけで、マティアスは訓練棟へ戻っていった。
二人きりになると、さっきまで答えられていた簡単な質問まで急に難しくなった。
カイルは隣には座らず、少し離れた位置に立ったまま尋ねた。
「今すぐ話せるか」
エレジは答えようとしたが、声が出なかった。
「……分かりません」
「分かった。じゃあ先に移動する」
「どこへですか」
「執務室。嫌なら医務でもいい」
「執務室がいいです」
「ああ」
カイルはそれ以上何も聞かず、歩き始めてからも普段と同じように半歩ほど先を行く距離を崩さなかった。
こちらへ手を伸ばすことも、歩調を急かすことも、何があったのかを聞き出そうとすることもない。
その距離にほっとしている自分に気づいたとき、エレジはようやく、今は誰にも身体へ触れられたくないのだと自覚した。
19
執務室に入ると、カイルは扉を閉めたが、鍵はかけなかった。
「水とコーヒー、どっちがいい」
「……水で」
「分かった」
カイルは机の端に置いてあった水差しからグラスへ注ぐ。エレジの前へ置くだけで、手は触れなかった。
両手でグラスを持つと、冷たさが掌に伝わる。その感覚を確かめるように、しばらく黙っていた。
カイルも急かさなかった。向かいに座り、必要以上に身を乗り出すこともなく、ただ待っている。
「ロートからは、ほとんど聞いてない」
しばらくしてから、カイルが言った。
「お前が『触らないで』と言っていたこと。あいつが入ったとき、ケルナーと準備室にいたこと。それより前は見てない。ケルナーは近接になっただけだと言ってる。俺が今知ってるのはそこまでだ」
「はい」
「だから、お前が見たことと、されたことを、お前の言葉で聞く」
聞き慣れた言い方だった。
見たものと考えたものを混ぜず、事実と推測を分ける。何度も訓練で言われてきたことだった。
エレジはグラスを見たまま、最初から順番に思い出そうとした。
「準備室に入ろうとしたときに、ケルナー少尉がいました」
「ああ」
「廊下で発射音がして……そっちに気を取られて、気づくのが遅れました。距離を詰められて、銃を押さえられて、準備室の中に引き込まれました」
「そこまでは訓練として不自然じゃないと感じたか?」
「はい」
口にすると、少しだけ整理できた。
最初から全部がおかしかったわけではない。
そこまでは、本当に訓練だった。
「そのあと近接になって……最初に胸に手がかかりました」
言った瞬間、顔が熱くなった。
カイルの表情は変わらなかった。
「接触の流れで起きたと思える位置だったか」
「最初は、そう思いました。すぐ離れましたから」
「そのあと」
「腰の横に触られて、次は腹部の横から少し下に手がずれました」
そこまで話すと、自分でも説明の仕方が曖昧になっているのが分かった。
「でも、それも……必要だったと言われたら、完全には否定できなくて」
「否定できないなら、そのままでいい」
エレジは顔を上げた。
「今は、確定してないことまで確定させなくていい。何が起きたかだけ出せ」
「……はい。それで……私が『そこ必要ですか』って聞きました」
「ケルナーは」
「動いてたからでしょう、って」
「そのあとも続けたか」
「はい」
エレジは一度息を吸った。
「床に倒されて、押さえ込まれました。そこも訓練としては普通です」
「ああ」
「でも、身体を動かすたびに、脇腹とか腰の横とか、胸元に近いところとか……必要なのか分からないところに触れられて。途中で、太腿にも手がかかって」
「そのときも聞いたか」
「はい。『そこ、必要ですか』って」
「ケルナーは」
「近接なら必要だって。それから、抵抗するからだって言いました」
言葉が詰まった。カイルはそこで口を挟まなかった。
「それで?」
「それなら、抵抗しなくなったらどうなるか見ようと思って、私から力を抜きました」
カイルの眉がわずかに動いた。
「確認するためにか」
「はい」
「拘束は」
「そのままでした」
「手の位置も?」
「はい」
「お前はもう動いてなかったのか」
「動いてません」
カイルは数秒黙った。
「そのとき、止めると言ったか」
「はい」
「ケルナーは」
「『こんなことで?』って」
そこまで言うと、胸の奥がまた重くなった。
あのとき、その一言で自分が迷ったことまで思い出した。
「私……それで、もう一回抜けようとしました」
「なぜ」
「訓練を止めることになると思って」
「班が止まるから?」
「はい」
カイルはすぐには何も言わなかった。
「それで、また動いたら、また触られて……でも抜けられなくて」
エレジは自分の手を見る。
「途中で、力が入らなくなりました」
「自分で抜いたんじゃなく?」
「違います」
「身体が動かなくなった?」
「はい」
その答えを口にした途端、さっき床に押さえ込まれていた感覚が戻ってきた。エレジはグラスを握る手に力を入れた。
「それで、離してくださいって言いました」
「ケルナーは」
「気にしすぎだって。近接ならこのくらい普通だって言われました」
「離れなかったのか」
「はい。それで、もう止めますと言いました」
「それで」
「……腰の脇にあった手が下に動きました。腰骨を越えて、太腿の付け根に近いところまで」
「そのとき、お前は抵抗してたか」
「ほとんどしてません」
「それで?」
「やめてくださいって言いました。触らないでくださいとも」
「すぐには離れなかったのか」
「はい。そのあと、離してって言いました」
「何回言った」
「覚えてません。何回か」
「『止める』とは」
「言いました」
「『触らないで』とも?」
「はい」
「それでも続いたのか」
「はい」
カイルはそこで初めて、椅子の背にもたれた。
表情は変わらない。けれど、怒っているのだと分かった。
声を荒げるわけでもなく、机を叩くわけでもない。それでも、さっきまでより室内の空気が少しだけ硬くなった。
「最後に、準備室を出ようとしたとき、腕を掴まれました」
「訓練を止めると言ったあとにか」
「はい」
「『離して』と言ったか」
「言いました」
「それでも掴んだままだったか」
「はい。マティアスの声がして、それで離しました」
そこまで話して、エレジはようやく息を吐いた。カイルはしばらく何も言わなかった。
「分かった」
その一言だけだった。
エレジは不安になって、顔を上げた。
「……信じますか」
「今の話は記録する」
「そうじゃなくて」
カイルはエレジを見た。
「お前が勘違いしてる可能性を考えるか、ってことか」
「はい」
「考える」
予想していなかった答えだった。エレジは少し黙ったが、カイルは続けた。
「だから確認する。ケルナーにも聞く。ロートにも聞く。訓練配置も見る。必要なら十二月の記録も遡る」
「……はい」
「でも、お前が勘違いしてる可能性があることと、お前の話を最初から疑うことは同じじゃない」
エレジはしばらく黙っていたが、昨夜のことも今なら話したほうがいいように思えた。
「……昨日も、ケルナー少尉のことで、少しあって」
カイルの表情がわずかに変わった。
「昨日?」
「ランドリールームです」
胸がまた詰まった。
「話せるか」
「……はい」
「無理なら後でいい」
「話します」
今度は、自分からそう言った。
「昨日、同じ時間にケルナー少尉が来ました」
「何時頃」
「二十三時くらいです」
「普段からその時間に?」
「私はいつもそのくらいです。ケルナー少尉がいるのは、見たことはありませんでした」
「続けて」
エレジは窓に映った視線のこと、二度見られていたこと、急いで出たあと下着が一枚足りないと気づいたことを順番に話した。
「戻ったら、私が使ってた洗濯機の前にいて……」
そこで一度言葉が止まる。
「私の下着を、持ってました」
「どう持ってた」
「両手で……広げるみたいに」
カイルの表情がさらに硬くなった。
「ケルナーは何と言った」
「『中尉のでしたか』って」
「お前は、それをどう判断した」
「分かりません」
今度は迷わず答えられた。
「本当に拾っただけかもしれないし、誰のものか分からなくて見てたのかもしれません。でも、その前に洗濯物を見られてた気がしてたので、知ってたんじゃないかとは思いました」
「そこは推測だな」
「はい」
「それでいい」
否定されなかった。断定しろとも言われなかった。
分からないものは分からないまま出していい。それだけで、話すことが少し楽になった。
「十二月の近接のときも、ケルナーだったか」
「はい。全部じゃないですけど、一番多かったのはたぶん」
「そのときは言わなかった」
「証明できなかったので」
「それだけか」
エレジはしばらく考えた。
「……自分が気にしすぎてる可能性もあると思ってました」
「今も?」
「今日のことは、違うと思います」
「どこから」
聞かれて、エレジは考えた。
「私が止めるって言ったあとです」
自分で答えてから、それが一番確かな線なのだと分かった。
「それより前は、まだ分からないところがあります。でも、止めるって言って、離してって言って、それでも続けたのは……訓練じゃないと思います」
「ああ」
カイルはすぐに同意した。
「そこは俺も分けて考える」
「……はい」
「最初の接触が全部意図的だったかは確認がいる。昨日のランドリーも同じだ。十二月のことも、今の時点では全部つながってたとは決めない」
エレジは黙って聞いた。
「でも、お前が止めると言ったあとに拘束を続けたことと、離れようとしたお前の腕を掴んだことは別だ。そこは曖昧じゃない」
その言葉で、胸の奥にあった何かが少し緩んだ。全部を証明しなくてもいい。
「全部、確定しないと……言ってはいけないと思ってました」
カイルは黙って聞いていた。
「誰が見てもそうだって言えるくらいじゃないと、私が変に受け取っただけかもしれないし……」
「だから昨日も言わなかった?」
「はい」
「十二月も」
「はい」
カイルは少し考えてから言った。
「次からは、確定してないなら確定してないまま出せ」
エレジは顔を上げた。
「『分からないけど嫌だった』でもですか?」
「ああ」
「それでも?」
「それでもだ」
カイルの答えは短かった。
「判断するのは、報告したあとでもできる。報告する前に全部一人で決める必要はない」
エレジはグラスの水を見た。
今まで何度も、自分だけで判断しようとしてきた。雪のときも、人の負担を引き受けるときも、そして今回も。
「……分かりました」
「今日はもう訓練に戻らなくていい」
その言葉に、エレジはすぐ顔を上げた。
「でも」
「ケルナーも戻さない」
「私だけ外れるわけじゃないんですか」
「違う」
カイルは即答した。
「確認が終わるまで、少なくともケルナーは訓練から外す。お前を通常課程から外す理由はない」
十二月の近接戦闘で、自分が高接触の訓練から外れたことを思い出した。
あのときは合理的だと思っていた。
けれど今は、自分ではなく相手の側が外されると聞いて、思っていた以上に強く胸に残った。
「それと、今夜からランドリーに一人で行くな、とは言わない」
エレジは少し驚いた。
「言われると思いました」
「行動を変えるべきなのはお前じゃない」
その言葉で、昨夜から何度も考えていたことが止まった。
二十三時に行かなければよかった。
もっと早い時間に行けばよかった。
下着を忘れなければよかった。
一人で戻らなければよかった。
全部、自分が変えられたことだった。だから、自分が変えるべきなのだと思っていた。
「ただし、怖いなら同行をつける。それは別だ」
「……はい」
「一人で行きたいなら、それでもいい」
エレジはすぐには答えなかった。
「今は、まだ分かりません」
「なら今日決めなくていい」
カイルはそれ以上求めなかった。少しして、エレジはグラスを机に置いた。
「少佐」
「なんだ」
「少し……ここにいてもいいですか」
「ああ」
「話さなくても?」
「構わない」
エレジは椅子に座ったまま、窓の外を見た。
訓練場の向こうには雪が残っている。いつもと同じ景色だった。
さっきまでいた準備室も、ランドリールームも、まだ基地のどこかにある。それでも今は、そこから離れてここにいる。
カイルは何も聞かなかった。
エレジも何も話さなかった。
けれど、その沈黙の中で、自分の話がもう自分一人の中だけにあるものではなくなったことだけは、はっきり分かった。
20
翌朝、エレジはいつもと同じ時間に目を覚ました。
眠れなかったわけではない。夜中に何度か意識が浮かび、そのたびに時計を見たが、目を閉じ直せば眠りには戻れた。ただ、目を覚ますたびに最初に浮かぶのは昨日のことだった。
ランドリールームで、自分の下着を両手で持っていたケルナーの姿。準備室の床で押さえ込まれたときの身体の重さと、どこへ動くのか分からない手の感触。そこから逃れたあと、自分の声が思ったほど出なかったことまで、順序もなく意識へ戻ってくる。
最後には、執務室でその一つ一つをカイルに話したことを思い出した。
それらが自分の中にしかなかった間は、誰にも渡していない以上、どう扱うかも、どこまで問題だと考えるかも、自分一人で決められた。けれど今は、カイルが知っている。マティアスも一部を見ている。
自分の中だけへ戻すことのできないところまで話が外へ出たことには、まだ少し落ち着かなさがあった。
それでも、話さなければよかったとは思わなかった。
昨日のうちに、今日は訓練へ戻らないよう言われていた。午前中は宿舎で待機することになったが、急に時間が空くと、何をしていればいいのか分からなかった。
持ってきていた本を開いてみたものの、数ページ読んだところで内容がほとんど頭に残っていないことに気づいた。
文字は追えているのに、それが何を意味していたのか思い出せない。昨夜のランドリールームでも同じだったと思い、本を閉じた。
昼前になって、部屋の扉が叩かれた。
「ヴァイス中尉」
声でマティアスだと分かった。
扉を開けると、彼はいつもの訓練装備のまま廊下に立っていた。昼休憩に入ったところらしく、長く話すつもりではないのだろう。
「どうしました?」
「俺も聞かれたから、一応」
「聞かれた?」
「昨日のこと。少佐に」
その言葉を聞いた瞬間、エレジの身体にわずかに力が入った。
「何を話しました?」
「俺が見たところだけ」
予想していた通りの答えだった。
「中尉が『触らないで』って言ってたこと。俺が入ったときにはケルナー少尉と中尉が準備室にいたこと。俺の声がする前に何があったかは見てないって」
「……そうですか」
「あと、中尉の手が震えてたこと」
そこまで話されていたことには少し抵抗があった。自分では隠せていたつもりだったし、できれば人に知られたくない部分でもあった。それでも、実際にマティアスが見たことなら、なかったことにはできない。
「ケルナー少尉のことは?」
「俺には何も教えてくれなかった」
「そうですか」
マティアスは返事をしながら、エレジの顔を少し見た。
「聞かないよ」
「何をですか」
「昨日、何があったか」
エレジは答えなかった。
「中尉が話したくなったら聞くけど、俺が知る必要があることでもないし」
「……ありがとうございます」
「それ言いに来ただけ」
「訓練は?」
「午後からまた入る」
「私が抜けたところは」
「別の人入ってる。普通に回ってるよ」
自分が抜けても課程そのものは止まっていない。そのことが分かると、思っていた以上に安心した。
「じゃ、戻る」
「はい」
マティアスが歩き出しかけたところで、エレジは呼び止めた。
「マティアス」
「ん?」
「昨日、止めてくれてありがとうございました」
彼は少し考えるようにエレジを見たあと、特別なことを言うでもなく答えた。
「うん」
その返し方がありがたかった。
*
午後になると、エレジは再び執務室へ呼ばれた。
昨日と同じ扉の前に立ったとき、身体がわずかに緊張するのを感じた。それでも、ここは怖い場所ではないと分かっている。ノックをして中へ入ると、カイルはいつものように机の向こうにいた。
「座れ」
「はい」
昨日と同じ椅子へ座る。
今日は水もコーヒーも聞かれなかった。昨日とは違って、まず伝えるべきことがあるのだろう。
「確認できたことだけ先に言う」
「はい」
「ロートからは、お前が『触らないで』と言っていたことを聞いた。あいつが準備室に入った時点では、ケルナーはお前から離れていた。そこより前については見てない」
「はい」
「ケルナーからも聞いた」
それだけで、エレジの身体が少し身構えた。
「何て言ってましたか」
「近接戦闘として必要な接触だったと主張してる」
やはりそう言うのだと思った。
「ただし、お前が停止を伝えたことと、準備室を出ようとしたお前の腕を掴んだことは認めた」
エレジは思わず顔を上げた。
「認めたんですか」
「ああ。言い分はある。お前が一度また動いたから訓練続行だと思った。腕を掴んだのは話をしようとしただけだ、と」
「……そうですか」
「そこをどう評価するかは教官側でやる」
エレジが何かを言う前に、カイルは続けた。
「十二月の記録も確認した。ケルナーの名前は一度だけ残ってる」
「……ケルナー少尉が?」
「ああ。接触位置について注意を入れてる」
男性陣に注意があったこと自体は知っていた。補講になった理由についても、教官側が一部の接触を問題視していたのだろうとは思っていた。ただ、その中にケルナーがいたのかどうかまでは知らなかった。
「一度だけですか」
「記録に残ってるのはな」
「他には?」
「確認できたものはない」
エレジは少し考えたが、それ自体は意外ではなかった。十二月の頃も、教官の視線が外れた短い時間に触れられることが多かった。
自分自身でさえ、それが本当に必要な接触だったのか判断できず、気にしすぎなのではないかと考えていた。教官側に見えていたものが一度だけだったとしても、不自然ではない。
「その一度も、意図まで分かってたわけじゃない」
「はい」
「接触位置が適切じゃないと判断して注意を入れただけだ」
エレジは頷いた。
教官側が何も見ていなかったわけではない。ただ、当時確認できていたものは、自分が感じていた違和感のごく一部だったのだと分かった。
「だから十二月のことだけで、今回まで全部つなげるつもりはない」
「分かりました」
「昨日のランドリーについては、今のところお前とケルナーの話以外に確認できるものはない。ケルナーは、落ちていたものを拾っただけだと言ってる」
その説明も予想していた。
「じゃあ、あれは……分からないままですか」
「ああ」
カイルは迷わず答えた。確定できないものを無理に結論へ寄せることも、逆に証明できないからと切り捨てることもしない。
「でも、それで全部がなくなるわけじゃない」
エレジは黙って続きを待った。
「停止を伝えられたあとも接触を続けたこと。離れようとしたお前の腕を掴んだこと。過去にも接触位置について注意を受けていたこと。それぞれ別に確認できてる」
「はい」
「それを踏まえて、ケルナーは課程から外す」
その言葉の意味が頭に入るまで、一瞬かかった。
「……課程から?」
「ああ」
「一時的にじゃなくて?」
「戻さない」
エレジはしばらく何も言えなかった。
自分が話したことで確認が始まり、その結果として一人の訓練生が課程から外れる。それまで頭の中では考えられたはずの因果が、実際の処置として示されると急に重くなった。
「私が言ったからですか」
「違う」
カイルはすぐに答えた。
「お前が報告したから確認できた。それと、ケルナーが外される理由は別だ」
「でも、私が言わなければ」
「残ってた」
「はい」
「だから?」
問い返され、続ける言葉がなくなった。
「残っていたほうがよかったと思うか」
「……分かりません」
「なら、そこまで決めなくていい」
エレジは一度視線を落としかけたが、そのままカイルを見た。
「少佐は、外すべきだと思ったんですか」
「俺一人で決めたわけじゃない」
「それでも」
カイルは少し考えてから答えた。
「課程は、判断できる人間を残すためにある」
エレジは続きを待った。
「相手が停止を伝えてるのに、自分の判断で続けた。それを説明されても、自分の行動を修正する必要がないと思ってる。それなら、この先の総合課目には進ませない」
声は普段と変わらなかった。
「それが理由だ」
「……分かりました」
「お前は明日から戻れ」
「通常課程にですか」
「ああ」
「近接も?」
「外す理由はない」
答えを聞いた瞬間、わずかに呼吸が止まった。
戻りたいと思っていたはずだった。自分だけ扱いを変えられたくないとも思っていた。それでも「近接も」と確認した自分の中には、やはり何かが残っている。
カイルにもそれが伝わったらしい。
「嫌なら言え」
「いえ」
「今決めなくていい」
昨日から何度も聞いた言葉だ。以前なら、ここで即座に「できます」と答えていただろう。できるかどうかを先に決め、その答えに身体を合わせようとしていた。
少し考えてから、エレジは口を開いた。
「……戻りたいです」
「分かった」
カイルはそれ以上、条件をつけなかった。
*
執務室を出たあと、エレジは訓練場の脇を通るように少し遠回りして宿舎へ向かった。
午後の課目は変わらず続いている。訓練生たちは昨日までと同じように動き、教官の指示を受けて次の位置へ移っていた。
その中を目で追っているうちに、ケルナーの姿がないことを確かめた。それが分かったとき、安心したのか自分の歩調がわずかに緩んだ。エレジは訓練場から目を離し、そのまま宿舎へ向かった。




