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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
北部山岳特殊任務課程

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6/154

マティアス


14 


 午前の課目は、冬季装備下での近接戦闘と短距離離脱を組み合わせた複合訓練だった。


 防寒着の上から装具を着け、手袋をしたまま相手を制し、転倒した状態から立て直し、そのまま班単位で指定地点まで移動する。途中には負傷者発生の想定と経路変更が入る。


 単純な近接戦闘ではない。

 接触した相手を倒せるかどうかより、そのあと班として動き続けられるかを見る課目だった。


 カイルはヴォルフと分担して、三つの班を順番に見ていた。

 訓練生は全員、通常より厚い装備をつけている。動きは鈍くなり、手袋のせいで細かな操作も難しい。室内でできていた動きが、そのまま雪上で通用するわけではなかった。


 エレジの班が始まるまでに、二人が転倒後の立ち上がりで装備を引っかけ、一人が相手を押さえることに集中しすぎて班から離れた。

 どれも、この課目では珍しくない。

 カイルは記録用紙に短く所見を書き込み、次の組を見た。


 エレジは四人班の二番手にいた。

 開始の合図と同時に、先頭が雪面上の目標へ向かう。十数メートル進んだところで、待機していた教官役が横から入った。

 最初に接触したのはエレジだった。

 相手はエレジより二回り近く大きい。

 正面から肩を取られ、そのまま体重をかけられる。


 以前なら、最初の離脱が止められたあと、もう一度自分の力だけで抜けようとする一拍があった。

 今回はなかった。

 エレジは相手の腕の位置を確認し、自分の身体を完全に引き離そうとはしなかった。体勢を崩されない位置だけを確保して、短く声を出す。


「右、入って」


 後方にいた訓練生がすぐに動いた。

 二人がかりになれば、相手役はそれ以上拘束を維持できない。

 エレジは解放されると、その場に残らず、すぐに班の進行方向へ戻った。

 カイルは記録に一行加えた。

 単独離脱への固執なし。


 以前なら、できるかどうかを最後まで自分で確かめようとしていた場面だった。

 今は違う。

 自分にできないと判断したから諦めたのではない。

 自分一人でやる必要がないと判断した。

 その違いは大きかった。


 班はそのまま林際まで進んだ。

 次の想定は負傷者だった。

 先頭を進んでいた訓練生に、教官から「右脚負傷、歩行不能」の指示が入る。

 班が止まる。

 エレジは一度周囲を確認したあと、すぐに役割を振った。


「マティアス、左。ハインツ、右。私が後方を見る」


 負傷者役を二人で支え、残る一人を警戒に回す。

 そのまま動き出そうとして、マティアスが言った。


「中尉が持ったほうが速くないですか」


 カイルは少し離れた位置から聞いていた。

 以前のエレジなら、その提案を受けた可能性は高い。

 自分が持てるなら持つ。

 そのほうが他人の負担を減らせる。

 それだけで決めていた。

 エレジは負傷者役と前方の地形を見た。


「私が持つ必要はない。二人のほうが体格がある。私は後ろを見る」


「了解」


 それで終わった。

 余計な説明も、自分が楽をしているように見えないための言い訳もなかった。

 班は動き出した。

 カイルはそこでも記録を加えた。

 役割配置、適切。

 自分を使わない判断も、以前より自然になっている。

 そのことに気づいて、カイルは少しだけ筆を止めた。


 課程の初めなら、エレジは「自分を使わない」ことを、ほとんど選べなかった。

 自分ができることなら、自分がやる。

 自分が耐えられるなら、自分が負担する。

 それが本人の中では責任だった。

 今は、班全体の機能を見ている。

 自分が何をするかではなく、誰が何をすれば全体として一番動けるかを考えている。


 それは同じように見えて、まったく違った。

 負傷者役を支えたまま、班は次の分岐へ入った。

 そこで進行を止めるよう指示が入る。

 二つの経路のうち、一方は短いが斜面が深い。もう一方は遠回りだが樹林沿いで雪面が安定している。


 制限時間は厳しく設定してある。

 ここで焦れば、短いほうを選びたくなる。

 エレジは一度だけ時計を見た。


「長いほう」


 マティアスが聞く。


「時間、間に合いますか」


「ぎりぎり。でも短いほうは負傷者を支えたまま速度が落ちる。今の人数ならこっち」


 班は迷わず樹林側へ入った。

 結果として、到着時刻は制限の一分前だった。

 カイルは記録用紙を見ながら、少し考えた。


 以前なら、エレジは短い側へ行ったかもしれない。

 自分が前へ出て、負傷者役の負担を引き受ければ通せると考えただろう。

 今はそこへ行かなかった。

 安全側に寄ったからでもない。

 班全体を使ったときに、どちらが確実かを見ていた。


 午前の評価が終わるころには、エレジの班は三班の中で最も失点が少なかった。

 派手な動きはなかった。

 近接戦闘で一番速かったわけでもない。

 負傷者搬送で一番力があったわけでもない。

 それでも、課題の途中で判断を崩さなかった。

 カイルは評価欄に書いた。


《状況変化後の再編成が速い。自己負担への偏り減少。班全体の運用良好》


 そこまで書いてから、もう一行加えた。


《判断安定》


 以前から能力はあった。

 射撃も、地図も、観察も、課程の中では上位だった。

 ただ、本人を条件に入れない癖が、その能力の使い方を歪めていた。

 今は、その歪みが減っている。

 事故前に戻ったのではない。

 以前よりいい、そう思った。


     *


 午後は観察と短距離偵察の課目だった。

 林内に複数の痕跡を置き、そのうちどれが現在の目標につながるものかを班ごとに判断させる。

 雪面には複数の足跡が残されている。

 枝の折れ方、積雪の崩れ、靴底の形、踏み込みの深さ。さらに無線記録として、目標が最後に確認された時刻だけが与えられる。


 情報は意図的に一部食い違わせてあった。

 多くの訓練生は、もっとも新しく見える足跡を追う。

 それが普通だった。

 エレジの班も最初は同じ方向を見た。

 だが、数分後、エレジが止めた。


「待って」


 班員が振り返る。

 エレジは雪面に残った足跡と、少し離れた枝の下を見ていた。


「この足跡、一人分足りない」


 マティアスがしゃがんで確認する。


「三人じゃないですか」


「三人に見える。でも一人だけ歩幅が合わない。途中から別の跡に重なってる」


 さらにエレジは無線記録の時刻を確認した。


「この速度でここまで来たなら、最後の確認時刻と合わない」


「じゃあ、別の経路?」


「可能性が高い。でも、まだ推測」


 その言葉に、カイルは少しだけ注意を向けた。

 以前から、エレジは事実と推測を分けるのが上手かった。

 今はそれを、焦らず使えている。


「事実は、足跡の数が途中で変わってること。時刻と移動距離が合わないこと。それだけ」


「なら?」


「この跡を追う理由は弱い。戻って分岐を見直す」


 班は引き返した。

 結果として、別方向に残された小さな踏み跡が正解だった。

 他の二班は、最初に見つけた跡を最後まで追っていた。

 課目終了後、ヴォルフが記録を見ながら言った。


「ヴァイス、今日よかったな」


「そうだな」


「事故のあとだから落ちるかと思ったが、逆だ」


 カイルは返事をせず、手元の評価票を見た。

 午前も午後も、失点は少ない。

 しかも、偶然ではない。

 判断の根拠が整理されている。

 他人を使い、自分も人数に入れる。

 最初の仮説に固執しない。条件が変われば、迷わず組み直す。

 課程の初めから持っていた能力が、ようやくそのまま結果に出始めていた。


「上位に入ってきたな」


 ヴォルフが言う。


「元々、入ってた」


「そうだったか?」


「点数はな。ただ、安定しなかった」


「今は?」


 カイルは少し考えた。


「今のほうがいい」


 ヴォルフはそれ以上聞かず、カイルも説明しなかった。

 以前のエレジは、能力が高いぶん、自分を削ることで無理を通せてしまった。

 それが一番危なかった。


 今は、無理を通すことと、任務を進めることを分け始めている。

 それなら、もっと上へ行ける。


     *


 夕方、記録を提出しに来たエレジを、カイルはその場で呼び止めた。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「今日どうだった」


 エレジは一瞬、記録用紙へ目を落とした。


「成績ですか」


「それは見れば分かる」


 エレジは少しだけ考えてから答えた。


「午前は、前より楽でした」


「近接が?」


「はい。抜けられないときに、一人でどうにかしようとしなくなったので」


「そうだな」


「負傷者搬送も、前なら自分で持ってたと思います」


「俺もそう思った」


 エレジが少し笑った。


「やっぱりですか」


「ああ」


「でも今日は、私が持つ意味がなかったです」


「その判断でいい」


 エレジは頷いた。


「雪は」


「今日は、あまり気になりませんでした」


「怖くなかったのか」


「いえ。吹き溜まりを見たときは少し気になりました。でも、前みたいに、それをなくそうとは思わなかったです」


 カイルはその答えを聞いて、記録を一度見た。


「そのほうがいい」


「はい」


「午後の観察もよかった」


「ありがとうございます」


「最初の跡を捨てたのが早かった」


「時刻が合わなかったので」


「前なら?」


 エレジは少し考えた。


「もう少し、自分の最初の判断を正しいものとして扱ってたかもしれません」


「今は違うのか」


「違ってても、別にいいと思えるようになりました」


 その言葉に、カイルは少しだけ意外さを感じた。

 判断を変えることについて、これまで何度も教えてきた。

 だが今のエレジは、それを訓練上の技術としてではなく、自分自身の感覚として言っている。


「なら、そのままでいい」


「はい」


 それで話は終わるはずだった。

 エレジも帰るつもりで記録を持ち直した。

 だが、カイルは一つだけ付け加えた。


「今日の成績、三班の中で一番いい」


 エレジが少し驚いた。


「そうなんですか」


「ああ」


「近接もあったのに?」


「近接だけで決めてない」


「……そうですね」


「総合でだ」


 エレジは少し黙った。


「嬉しくないのか」


「嬉しいです」


「ならそういう顔しろ」


「どういう顔ですか」


「知らん」


 エレジが笑った。

 年が明けてから、こういう会話をすることはほとんどなかった。

 それでも今は、必要以上に終わらせる理由もなかった。


「少佐、私、前より良くなってますか」


 カイルはすぐに答えた。


「ああ」


「事故前より?」


「ああ」


 エレジはその答えを少しのあいだ受け止めていた。


「そうですか」


「何だ」


「戻ってないんですね」


「戻ってない」


「……よかったです」


 それだけ言って、エレジは執務室を出ていった。


 カイルは机の上に残った評価票をもう一度見た。

 射撃。航法。観察。判断。班運用。

 どれも、これからさらに伸びる余地がある。 


 以前は能力があるのに危うい訓練生だった。

 今は違う。

 危うさが消えたわけではない。

 それでも、能力の使い方が変わり始めている。

 カイルは評価票の総合欄に、短く書き加えた。

《上位。継続観察》

 まだ課程は終わっていない。

 それでも、この先どこまで伸びるのかを、カイルは見てみたいと思った。



15 


 その日、午後の課目は無線通信と観察を組み合わせた短距離偵察だった。

 四人班で指定区域へ入り、対象の移動を確認する。与えられているのは、出発時点で確認されている人数と最終確認位置、それに断続的に入る無線情報だけだった。

 見つけたものをすべて報告すればいいわけではない。何が任務に必要な情報なのかを選び、確認できた事実と推測を分けた上で、状況が変われば最初の判断も修正する。


 エレジは、こういう課目が好きだった。

 そう思ったところで、自分の中に出てきた言葉に少し意識が向いた。

 以前なら、得意だとは考えても、好きかどうかまでは考えなかったと思う。

 地図と実際の地形を重ね、雪面の痕跡から人の動きを考える。複数の情報が一致しなければ、一つを正しいものとして決めずに残す。新しい情報が入れば、それまでの仮説を組み直す。

 何か一つを速くこなすより、散らばったものを拾って全体を作るほうが、自分には合っていた。 


 その日の班には、監視対象が二人いると伝えられていた。

 出発から二十分ほどで、新しい靴跡が見つかった。

 二人分に見える痕跡は途中から重なり、その先で一方だけ樹林側へ外れている。だが、外れた側は足跡の深さが途中から変わっていた。

 マティアスが先を見た。


「分かれた?」


「まだ分からないです」


 エレジは歩幅と踏み込みを見比べた。


「途中から荷重が変わってます。誰かと合流した可能性もあります」


「二人じゃないのか」


「最初の情報では二人です。でも、そのあと誰とも接触してないとは限らないです」


 ハインツが携帯端末に入った無線記録を確認する。


「十分前、西側で動きあり」


「なら、そっち追う?」


 マティアスは判断を急かしているわけではない。今ある材料ならどちらを選ぶかを聞いている。

 エレジはもう一度、樹林側へ続く痕跡を見た。

 西側で動きがあったこと。

 ここに新しい足跡があること。

 途中から荷重が変わっていること。

 どれも事実だった。

 ただし、それらが一つの出来事を示しているとはまだ分からない。


「先にこっちを見ます。五分で戻れるところまで」


「全員で?」


「はい。ここで分ける理由はないです」


「了解」


 四人で樹林へ入った。

 数分進むと、踏み跡は一人分だけになった。さらに先では靴底の模様そのものが変わっている。

 ハインツが雪面を見た。


「別人か」


「その可能性が高いです。でも、対象と関係があるかは分からないです」


「じゃあ戻る?」


「戻ります。西側を確認します」


 最初の位置へ戻り、受信時刻と移動距離を照らし合わせた。

 西側なら、情報が入った時刻とも合う。

 経路を修正して観察地点へ入ると、事前情報どおり二人を確認できた。樹林側の痕跡は、対象とは直接関係のない別の人間のものだった。


 課目終了後に返された評価には、観察項目の見落としなし、報告の確度区分良好、と記されていた。

 その下に、《判断保留が適切》とある。

 エレジはそこをもう一度読んだ。

 以前なら、何かを決めなかったことが評価されるのを少し不思議に思ったかもしれない。


 判断とは、選ぶことだと思っていた。

 どちらへ行くか。誰が行くか。何を捨てるか。

 けれど、今は違う。

 分からないものを勝手に埋めずに残すことも、その時点で必要な判断だった。

 最初の判断が違っていてもいい。途中で変えてもいい。まだ材料が足りないなら、決めないまま次の情報を待ってもいい。

 そう考えられるようになってから、以前より頭の中が静かだった。


     *


 夕食後、装備庫へ返却物を持っていく途中で、少し前を歩いていたマティアスとハインツの話が聞こえた。


「俺は戻ったら、たぶんまた北東だな」


「希望は出すのか」


「一応。通るかは知らないけど」


 ハインツがふいに振り返った。


「中尉は?」


「何がですか」


「課程が終わったあと」


「元の部隊に戻る予定です」


「そのまま?」


「今のところは」


 マティアスが聞いた。


「転属とか考えてないの」


 少し前なら、考えていないとすぐ答えられた。

 命令された場所へ行く。

 必要とされた場所で働く。

 軍人として、それで何も困らなかった。


「……今までは、考えてませんでした」


 言ってから、自分でもその言葉に引っかかった。

 今までは。

 今も、ではない。


「今は?」


「まだ分からないです」


「南に戻りたいとかは?」


「それはないです」


 そこだけは考える必要がなかった。

 そう答えて数秒してから、マティアスを見た。


「……何でわかるんですか」


「何が?」


「南の出身だって。言ってませんよね?」


 出身地の情報は、正直エレジにとってあまりいいものではない。

 マティアスは天井を仰ぐように見た。


「エレジって、南に生えてる花の名前でしょ? だからそうかなって」


 エレジは口を少し開けた。


「断定してましたよね」


「言ってみただけ。でもその反応ってことは合ってるんでしょ?」


 ハインツが笑った。


「中尉、こいつはこういうやつですから」


 マティアスは何でもないように続けて質問してくる。


「北は?」


「……嫌ではないです」


「それ、結構好きなんじゃないの」


「どうでしょう」


 北部は寒い。雪が深い。冬と夜が長い。

 来たばかりの頃なら、好きだと思う理由はほとんど見つからなかっただろう。

 今も、北そのものが好きなのかと聞かれれば分からない。

 ただ、離れたいとは思わなかった。


「中尉、こういう任務向いてると思うけどな」


「こういう?」


「今日みたいなの。偵察とか、少人数で動くやつ」


「そうですか」


「射撃も地図も強いし。俺だったら、あそこまで情報を保留したまま動くの面倒になる」


「それは向いてないだけじゃないですか」


「そうとも言う」


 ハインツがまた笑った。


「マティアスは決めるのが早いからな」


「違ってたら直せばいいだろ」


「それで失点してることもあるじゃないですか」


「中尉まで言うのか」


「事実です」


「そういうところはよく見てるよな」


「課目なので」


「課目じゃなくても見てるだろ」


 エレジは返却する装備を持ち直した。


「マティアスほどではないと思います」


「俺?」


「人のこと、よく見てますよね」


「そうか?」


「そうだろ」


 ハインツが先に答えた。

 マティアス本人にはあまり自覚がないらしい。

 話はそのまま翌日の課目へ移り、装備庫の前で二人と別れた。


 自室へ戻ってからも、マティアスの言葉が残った。

 こういう任務に向いている。

 それ自体は、これまでにも似た評価を受けたことがある。

 射撃が得意なら射撃を任された。

 地図が読めるなら先導を任された。

 必要とされる能力があるなら、それを使った。

 そこに、自分がやりたいかどうかを入れたことはほとんどなかった。


 向いているなら、続けたいと思ってもいいのだろうか。

 誰かに必要とされるからではなく、自分がそうしたいから。

 考えても、まだ答えは出なかった。


     *


 翌朝も偵察課目が続いた。

 今度は二人一組で観察地点まで移動し、指定区域を一定時間監視する。対象の人数や行動について、事前情報と異なるものがあれば確度を分けて記録する。


 エレジはマティアスと組んだ。

 林を抜けた先で、斜面の一部に深い吹き溜まりができていた。

 目に入った瞬間、胸の奥に硬い感覚が戻った。

 雪の下で身体を押さえつけられたときの感覚は、事故直後ほど鮮明ではなくなっている。それでも、深く積もった雪を見ると、身体だけが先にあのときの重さを思い出すことがある。


 エレジは雪面を確認した。

 風下側に雪が寄っている。表面に新しい亀裂はない。斜面上部にも不自然な沈みは見えない。迂回できない場所ではないが、避ける理由になるほどの危険もなかった。


「右から回る?」


 荷物を持ち直しながらマティアスが聞いた。


「いえ。ここでいいです」


「大丈夫?」


「怖いですけど、危険ではないです」


「了解」


 それ以上は聞かれなかった。二人で吹き溜まりを横切る。雪は深かったが、足元が崩れることはなかった。

 通過したあとも、胸の緊張は完全には消えていなかったが、それでも問題はなかった。

 事故前と同じではないけれど、前より判断しにくくなったわけでもない。


 観察地点へ着くと、二人で地形に身体を隠し、指定区域を見た。

 対象は三人いた。

 事前情報では二人だった。

 マティアスが双眼鏡を覗いたまま言う。


「また増えてる」


「そういう設定なんでしょうね」


「嫌な課程だな」


「私は好きです」


 答えてから、自分の言ったことに気づいた。マティアスもすぐ反応した。


「今、好きって言った?」


「言いました」


「珍しい」


「何がですか」


「中尉が何か好きって言うの」


「そんなに言いませんか」


「俺はあんまり聞いたことないな。少佐のコーヒーくらいじゃないか」


 エレジは双眼鏡から目を離した。


「……何で知ってるんですか」


「何でって、何が?」


「私が少佐のコーヒーを飲んでたことです」


「長く執務室にいるときは、戻ってきたときコーヒーの匂いしてるんだよ。それも、普段は飲むところ見ないのに」


 それで偶然知ったと言われても理解できるだろうか。

 マティアスは続けた。


「年明けてからなくなってたけど、この前また飲んでたね」


 エレジはしばらくマティアスを見た。


「そこまでわかるんですか」


「普通だよ」


「普通、そんなところまで見ます?」


「別に見ようとしてたわけじゃない。見えたからそうかなと思って、言ってみただけ」


「……コーヒーが好きだと思ったんですか」


「そこまでは知らない」


「え?」


「コーヒーが好きだったのか、あそこで飲むのが好きだったのか、俺には分からない」


 エレジは返す言葉に困った。

 マティアスは何でも分かっているわけではない。

 ただ、見たものを覚えていて、そこから分かることと分からないことを、自分なりに分けている。


「中尉」


「何ですか」


「対象、動いた」


 エレジはすぐに観察へ戻った。

 三人目の男が対象の一人へ何かを渡し、そのまま離れていく。

 同行者なのか、一時的な接触相手なのかはまだ判断できない。

 エレジは記録へ書いた。


《第三者一名確認。対象一名と接触。物品受け渡しあり。関係不明》


 分からないものを、分からないと書く。

 隣にいるマティアスも、たぶん同じように人を見ている。

 見るものと方法が少し違うだけだった。


     *


 その日の夕方、提出物を届けた帰りに、廊下でカイルと会った。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「今日の記録を見た。三人目を対象側に含めなかったのはいい」


「接触は確認できましたけど、関係までは分からなかったので」


「それでいい」


「ありがとうございます」


 会話はそこで終わるはずだったが、カイルが先へ進もうとしたところで、エレジは呼び止めた。


「少佐」


 聞きたかったことは、まだ一つの形になっていなかった。

 課程が終わったあと、自分はどこへ行きたいのか。

 北部に残りたいのか。

 こういう任務を続けたいのか。

 それをカイルに決めてもらいたいわけではない。

 だから、自分では判断できない部分だけを聞くことにした。


「今日みたいな課目、私には向いてますか」


 カイルは少し考えてから答えた。


「向いてる」


「そうですか」


「ああ。観察もそうだが、確認できてないものを勝手に埋めない。それは強みだ」


 マティアスに言われたときとは違う重さで、その言葉が残った。

 カイルは教官として、課程の初めから自分を見てきた。


「続ければいいと思いますか」


 言ってから、何を続けるのかを口にしていなかったことに気づいた。

 だが、カイルには通じたらしい。


「お前がやりたいならな」


 以前なら、その答えに困っただろう。

 向いているならやる。

 必要ならやる。

 その二つなら簡単だった。

 自分がやりたいかどうかを条件に入れると、急に答えが難しくなる。


 それでも、昨日からの課目を思い返した。

 痕跡を追うこと。地図と現地を重ねること。足りない情報を残したまま、次に何を見るべきか考えること。

 今日も、課目が終わるまで苦痛ではなかった。むしろ、まだ続けられると思った。


「……やりたいかもしれません」


 口にすると、思っていたほど大きな言葉には聞こえなかった。

 ただ、自分の中では新しい答えだった。

 カイルは何かを勧めることも、どこへ行くべきだと決めることもしなかった。


「なら、覚えとけ」


「何をですか」


「今そう思ったことを」


 エレジは頷いた。それ以上、カイルに答えを求める必要はなかった。

 以前なら、もう少し話せればいいと思ったかもしれない。今も、その気持ちがなくなったわけではない。

 けれど今日は、それとは別に残るものがあった。

 自分が初めて、仕事について「やりたいかもしれない」と言った。


     *


 消灯前、エレジはベッドの中で課程が終わったあとのことを考えた。

 三月末になれば、原隊へ戻る予定になっている。その先で別の命令が出れば従う。

 これまでは、それで十分だった。

 配属された場所へ行く。

 必要とされた仕事をする。

 自分が何を望むかを考えなくても、軍人として困ることはない。


 けれど今は、少しだけ違った。

 南には戻りたくない。

 北部を離れたいとも思わない。

 偵察は好きだった。

 少人数で動き、限られた情報から状況を組み立てる仕事を、もっと続けてみたい。


 そこまで考えると、カイルのことも浮かんだ。

 三月になれば、教官と訓練生という今の関係は終わる。そのあとも会う理由が残るのかは分からない。

 北にいたいと思うこと。

 こういう仕事を続けたいと思うこと。

 カイルと完全に離れたくないと思うこと。

 どこまでが同じで、どこからが別なのか、自分でもまだ分からない。


 以前なら、理由が混ざったまま何かを望むことを避けたかもしれない。純粋な理由ではないなら、選んではいけないように考えたかもしれない。

 今は、急いで分けなくてもいいと思えた。

 行きたい場所は、まだはっきりしていない。けれど、どこでもいいとは、もう思わなかった。



16


 二月に入り、課程は不利な地形での小班行動へ移った。

 急斜面、岩の露出した横断路、密な樹林、雪の深さが一定しない沢沿い。単独なら通れる場所でも、四人で動けば速度差が出る。誰か一人が速くても、班全体が戦力を保ったまま進めなければ意味がない。


 その日の課題も、最短距離を取ること自体が目的ではなかった。地形と班員それぞれの能力を見て、経路や順序、役割を途中で変えられるかが評価される。

 カイルはヴォルフと分担して、複数の班を見ていた。

 エレジの班は四人だった。マティアスが入り、残る二人もこれまで何度か同じ課目を組んでいる訓練生だった。

 開始前、四人は地図を囲んでいた。


「中尉、最初どっち?」


「沢を越えてから左です」


「地図見せて」


「どうぞ。でも返してくださいね」


「返すよ」


「前もそう言って持っていったじゃないですか」


「一回だけだろ」


「一回あれば十分です」


 そのあともマティアスが何か言い返し、エレジが笑った。以前なら必要な情報を伝え、必要な返事を受け取れば、それ以上言葉を続けなかったはずだ。今は、訓練に必要なやり取りが終わったあとにも会話が続いている。


 マティアスが相手だからなのか、それともエレジ自身が変わったのか。おそらく両方なのだろう。

 少なくとも、訓練生同士としてこういう関係を作れるようになったこと自体は悪くない。

 開始の合図が出ると、四人は沢沿いに進み、最初の指定区画へ入った。


 先頭を行くマティアスは、岩混じりの雪面でもほとんど速度を落とさなかった。雪に隠れた段差でも、足を置く場所を一度確かめれば迷わず身体を移す。冬季装備で重心が高くなっていても動きが崩れにくく、こういう地形に強いことは以前から評価していた。


 最初の難所は、右側が低く落ち込んだ細い横断斜面だった。危険というほどではないが、雪の下に岩が多く、足の置き方によっては体勢を崩しやすい。

 マティアスは先に数メートル入り、足場を確かめた。


「行ける」


 エレジが続いたところまでは問題なかったが、後ろの二人は同じ速度では進めなかった。マティアスが一歩で越えた場所でも、一度足を置き直してから次へ移っている。


「待ってください」


 後方の遅れに気づいたエレジの声で、マティアスも班全体の間隔を確認した。


「何?」


「後ろが離れてます」


「ここ抜ければ平らになる」


「マティアスは行けます。でも全員が同じ速度では無理です」


 後ろの二人の進み方まで見れば、エレジの指摘は明らかだった。


「ああ。じゃあ詰めよう」


 マティアスはすぐに自分の速度を落とし、班は間隔を詰め直した。

 意見がぶつかったというほどでもない。マティアスは、自分が通れる場所を見つけるのが速い。エレジは、自分が通れたあとにも後ろを見ている。二人は同じ経路を見ながら、判断に使っているものが少し違っていた。

 カイルはその違いを記録した。


 斜面を抜けた先では、経路が二つに分かれていた。

 右は距離が短いが、低い枝が重なった狭い樹林を抜けなければならない。左は少し遠回りになるものの、斜面が開けている。

 エレジは両方を確認してから、マティアスへ声をかけた。


「マティアス、左を見てもらえますか」


「どこまで?」


「あの木まで。雪の深さだけ」


「了解」


 以前のエレジなら、自分で確認に行った可能性がある。自分が見れば早い、自分が行けるなら自分で行けばいい。そう考えていた頃があった。

 今は、自分より速く動ける人間がいるなら、その能力を使う。

 数十秒で戻ったマティアスが必要な情報だけを伝えた。


「左、行ける。途中だけ膝まで」


「その先は?」


「浅い」


「分かりました。左で行きます」


 エレジは自分でもう一度確認しに行こうとはせず、その情報を使って経路を決め、班員の順番を組み直した。

 カイルは評価表に《班員能力の活用、良好》と記した。

 事故から通常課程へ戻った頃に見え始めた変化が、今では意識して作らなくても行動に出るようになっている。


 事故前へ戻ったのではない。以前よりいい。

 そのことには素直に安心したが、左側の経路へ入る前の二人のやり取りには、別の意味で意識が向いた。


「中尉、左でいいと思う」


「私もそう思います」


「珍しく意見合ったな」


「昨日も合ってましたよ」


「そうだった?」


「覚えてないんですか」


 エレジが笑った。

 訓練生同士の会話として何も不自然ではない。それでも、その表情を見続ける必要はないと思って別の班へ意識を戻したあとで、カイルは自分が意識的にそうしたことに気づいた。


     *


 午前の課目が半分を過ぎたところで、短い休憩が入った。

 カイルはヴォルフと評価表を確認していたが、少し離れたところで休んでいるエレジたちの会話は、聞こうとしなくても耳に入った。


「中尉、さっき最初から左だと思ってた?」


「いいえ」


「じゃあ俺の確認待ち?」


「そうです」


「なら俺が正しかった?」


「一部だけ」


「厳しいな」


「全部正しかったとは言ってないです」


「そこまで言わなくても分かるよ」


「分かってなさそうなので」


 二人は訓練の話をしているだけだった。

 ただ、何かを伝え終わったところで会話が切れない。次の言葉を出すための理由がなくても、そのまま続いていく。

 カイルが気になったのは、その自然さだった。


 自分とエレジの間では、今も少し違う。

 年末までは、執務室で必要な話が終わったあとにも時間が残ることがあった。コーヒーを飲みながら、訓練とは関係のないことまで話した。


 年が明けてから自分が距離を変え、雪中事故のあと、ベルクの話をした日にそのあり方を少し修正した。それでも、自分は教官で、エレジは訓練生だった。何でもない会話ひとつにも、どこまでなら許されるのかを考える。

 マティアスには、その必要がない。


「あの二人、仲いいな」


 ヴォルフの言葉に、カイルはほとんど考えず返した。


「訓練生同士なら普通だろ」


「別に悪いって言ってない」


 そこで初めて、自分の返事が必要以上に早かったことに気づいた。


「分かってる」


「ならいい」


 ヴォルフは気にした様子もなく評価表へ戻った。

 カイルには、理由を考える必要がなかった。

 以前は、まだ自分の感情をどこまで認めるか決めきれていなかった。今は違う。

 エレジが別の男と親しくしているのは面白くない。

 そのこと自体は、もう認めるしかなかった。

 ただ、今感じているものは、それだけでもない。 


 マティアスは何も考えずエレジの隣に座れる。訓練が終わったあとにも話せる。必要がなくても声をかけられる。エレジも、その一つ一つの意味を考えずに受け取っているように見える。

 自分には、それができない。

 正確には、できないのではない。しないと決めている。


 教官であり、評価する立場にいる以上、自分の感情を理由にその線を動かしたくはなかった。

 だからこそ、何も考えずにエレジの隣へ入っていけるマティアスを見ていると、自分には許していないものを見せられているような感覚が残る。

 エレジは相変わらずマティアスと何か話していた。自分といるときとは少し違う気楽さがあるようだった。


     *


 午後も同じ班で課目が続いた。

 今度は移動経路の途中で、指定区域の一部が使用不能になったという条件が追加された。地図上では最短だった沢沿いを捨て、左右どちらかの斜面へ上がる必要がある。

 エレジは地形と地図を見比べた。


「右は距離が短いですけど、上がったあと狭いです」


「左は?」


「遠いです。でも抜けたあとは開けます」


「右、見てくる?」


「お願いします。岩の上まで」


「三分」


「二分で」


「厳しいな」


「近いので」


 やり取りは短く、どこまで確認すればいいのかを細かく説明する必要もなくなっていた。

 戻ってきたマティアスも、必要な情報だけを返した。


「右、途中で一人ずつになる。装備引っかかる」


「なら左です」


「俺もそう思う」


 それだけで経路が決まる。

 エレジは全体を見て、マティアスは先に現地へ触れる。マティアスが拾った情報を、エレジが班全体の判断へ戻す。

 役割として相性がいい。


「ロートとヴァイス、組ませやすいな」


 ヴォルフも同じものを見ていた。


「ああ」


「考えるほうと動くほうで分かれてる」


「そうだな」


 否定するところはなかった。

 実際に、班としてよく機能している。

 カイルは評価欄へ《他要員との連携安定》と書いた。

 評価は評価だ。自分が二人を見て何を感じるかとは、分けて扱えばいい。

 そこを混ぜるつもりはなかった。


 エレジの判断は、その後も安定していた。

 雪の深い区画へ入ったときには、事故以来残っている反応が出たことがカイルにも分かった。それでもエレジは、怖くないことを証明しようとするのではなく、雪面と後続の位置を確認したうえで進んだ。

 避ける必要のない場所だから通る。それだけの判断になっている。


 ベルクのことを話した日の執務室で、自分はエレジに言った。

 自分の感情まで切る必要はない。

 怖いなら、それも条件に入れろ。

 訓練ではないところでも、自分が何を好きか、何をしたいかまでなくすな。

 その言葉を、エレジは少しずつ自分のものにし始めているのかもしれない。

 課程そのものへの向き合い方も変わり、成績も上がっている。人とも以前より自然に話すようになった。

 どれも、カイルが望んでいた変化だった。


     *


 課目が終わり、訓練生たちが装備を返却したあと、カイルは残った評価をまとめてから廊下へ出た。

 向こうからエレジとマティアスが歩いてくる。


「中尉、飯行く?」


「食堂ですか」


「他にどこ行くの」


「それなら行きます」


「あと二人来るって」


「分かりました」


 訓練が終わったあと、同じ班だった人間と食堂へ行く。それだけのことだった。

 最初にこの課程へ来た頃のエレジなら、誘われても特に行きたい理由がなければ一人で戻っていたかもしれない。


 今は、自分が行きたいなら行く。

 その変化を否定する理由はどこにもない。

 エレジが誰と話し、誰と食事をし、誰と親しくなるかは、エレジ自身が決めることだった。

 二人が近づいてくると、エレジが先にカイルに気づいた。


「少佐、お疲れさまでした」


 マティアスも「お疲れさまでした」と続く。


「ああ。今日の記録は明日の朝でいい」


「了解です」


 しかし返事の後もエレジはすぐには行かず、一度こちらを見た。その視線に、いつかのことを思い出した。


『コーヒー飲むかって言ってくれると思って』


 あの時と同じ目に見えた。しかし、そう考えるのはさすがに自分に都合がよすぎると思った。なにより、今はマティアスたちと食堂へ行くところだ。

 視線だけ返すと、頭を少しだけ下げて歩いて行った。

 二人を通したあと、カイルはそのまま執務室へ戻った。振り返る理由はないし、振り返ったところで何かが変わるわけでもない。


     *


 机の上には、今日の評価票が残っていた。

 エレジの欄には、地形判断、班員能力の把握、役割配置、経路変更、他要員との連携と、高い評価が並んでいる。

 事故前より、今のほうがいい。

 冬季装備での複合訓練を見たときにもそう感じたが、今はその確信がさらに強くなっていた。


 自分で全部やらない。誰かの能力を使う。意見が違えば、必要なところだけ修正する。

 変わったのは判断だけではない。

 人との距離も、以前より自然になっている。


 ベルクのことを話したあの日、自分はエレジに、何も持たない状態へ戻るなと言った。

 好きなものも、やりたいこともなくすなと。

 その中には、当然、人との関係も入る。

 自分以外の誰かと話すことも、一緒に笑うことも、食事へ行くことも、エレジ自身が持っていいものだった。


 分かっている。

 それでも今日、はっきりしたことがあった。

 嫌なのは、エレジがマティアスと話すことそのものではない。

 カイルが自身には許していない距離へ、マティアスなら何も考えずに入っていけることだった。それは、他の訓練生でも同じになるかもしれない。


 食堂へ行くかと聞く。

 街へ遊びに行こうと誘う。

 そんな何でもないことさえ、自分がやるとしたら一度意味を考えなければならない。

 その違いが、面白くない。 


 もし自分が教官でなければ。


 答えを出せる問いではなかった。今の自分には、確かめる方法もない。

 カイルは評価票へ最後の所見を書き込み、ペンを置いた。



17 


 前夜から雪が続き、朝になっても空は低く曇っていた。風は強くないが、細かな雪が途切れず降り、林の外では数十メートル先の輪郭が曖昧になる。

 その日の課目は、低視界下での偵察と位置推定だった。


 指定区域には複数の移動痕跡が作られている。訓練生は二人一組で区域へ入り、直接対象を視認できない状態から、足跡、枝の折れ、雪面の乱れ、音、時刻情報を組み合わせて移動方向を推定する。

 推定した位置が正しいかどうかだけではなく、何を確認できていて、どこからが推測なのかも評価される。


 推測という言葉から、マティアスは少し離れたところにいるエレジへ意識を向けた。

 自分は、分からないことでも早めに仮置きして動くほうだ。違っていれば、その時点で変えればいいと思っている。

 エレジは逆で、分からないものを分からないまま残すことができる。最近は、その違いが以前よりはっきり見えるようになった。


 そして、それは訓練だけの話ではなかった。

 マティアスには、しばらく前から一つ気になっていることがある。

 ヴァイス中尉とグレイ少佐は、互いに気があるのではないか。

 そう思い始めたのがいつだったかは、はっきりしない。最初は、エレジが少佐の執務室へ行くことが多いという程度だった。

 用件が終わってもすぐには戻ってこない日があり、戻ってきたときにコーヒーの匂いがすることもあった。それだけなら特別な意味はない。教官と訓練生が話すことくらいある。


 ただ、年末に近づくにつれて、エレジは少佐のことを話すときだけ、答えるまでに少し時間をかけるようになった。

 年が明けると、今度は逆に執務室へ行かなくなり、少佐のほうも以前より必要なことだけを話すようになった。

 偶然だと言えなくはないが、二人がほとんど同じ時期に距離を変えたことは、マティアスにも分かった。


 そのあと、また少し戻った。完全に以前と同じではないが、コーヒーも少し戻っている。

 少佐がエレジを見ているときの反応も、他の訓練生とまったく同じには見えなかった。一人しかいない女だから違うように見えるだけ、と説明することもできる。ただ、それだけではない感情が混ざっているようにも思えた。

 とはいえ、今のところは自分がそう見ているだけだった。材料はいくつもあるが、どれも決定的ではない。


「ロート少尉、ヴァイス中尉。次」


 呼ばれたことで、マティアスは意識を課目へ戻した。


     *


 エレジと二人で林へ入ると、樹木の間ではまだある程度先を見通せたが、開けた場所では降雪が白い幕のように重なり、距離が増すほど輪郭が消えた。

 最初の痕跡を見つけたのは、出発地点から八分ほど進んだところだった。一人分の足跡が西へ向かっている。


「新しいですね」


「どれくらい?」


「十分以内だと思います。でも雪が降ってるので、正確には分からないです」


「西?」


「今のところは」


 足跡は二十メートルほど先で斜面の陰へ消えていた。


「追う?」


「追います。ただ、そのまま西に行ったとは限らないです」


「分かってる」


「マティアス、わりとすぐ決めるので」


「最近よく言うな、それ」


「最近よく一緒なので」


 エレジは何でもないことのように答えた。

 以前なら、こんなふうに訓練上必要のない一言まで返すことはあまりなかったと思う。

 二人で痕跡を追うと、斜面の陰で足跡はいったん消え、その代わりに低い枝から雪が落ちた跡が残っていた。地面にも、周囲よりわずかに踏まれたところがある。


「北へ入った可能性があります」


「根拠は?」


「こっちだけ枝の雪が落ちてます。あと、地面が少し踏まれてる」


「確定?」


「いいえ。推測です」


「中尉らしい」


「何がですか」


「絶対って言わないところ」


「絶対じゃないので」


 二人は北側へ進んだ。

 数分すると、奥から短い金属音が聞こえた。右前方からだったが、距離までは判然としない。


「今の聞いた?」


「はい。右前です」


「距離は?」


「分かりません」


「俺は三十くらいだと思う」


「たぶん、それくらいです」


 音の方向へ近づくと、雪面に新しい跡が現れた。

 推定は合っていた。

 そのまま次の確認地点まで進み、指定された情報を取る。課目としては順調だった。


 戻りの経路へ入ったところで、マティアスは前から気になっていたことへもう一度意識を向けた。

 エレジは、自分と二人でいても構えない。訓練の話から少し外れても、以前ほどすぐに会話を閉じなくなっている。今日なら、少しくらい聞いてもいいかもしれない。


「中尉、転属とか考えてるんだっけ」


「まだ決めてません」


「前よりは考えてる?」


「そうですね」


「少佐が北部にいるから?」


 問いかけても歩調は変わらなかったが、返事までにはいつもより少し時間がかかった。

 その遅れだけでも、マティアスには一つの材料になった。


「……それだけじゃないです」


「それだけじゃない、なんだ」


「何ですか」


「いや」


「今の聞き方、変じゃないですか」


「そう?」


「そうです」


 ここで誤魔化しても仕方がない。


「ちょっと確かめたかっただけ」


「何をですか」


「俺の見方が合ってるか」


「何の見方ですか」


「中尉、少佐のこと特別に見てるんじゃないかって」


 すぐに否定は返ってこなかった。

 マティアスは、そのこと自体を答えの一部として受け取った。


「……そういうの、よく見てますね」


「否定しないんだ」


「否定しても、また何か言うでしょう」


「たぶん」


「別に、北部にいたい理由が少佐というわけではないです。偵察も続けたいですし、北部を離れたいとも思ってません」


「それは分かった。じゃあ少佐がいなくなったら?」


 今度は、さっきより返事が遅かった。

 降る雪の音が、二人の周囲を埋めた。


「……嫌だと思います」


 そこまで聞けば十分だった。

 少佐が北部にいることだけが、エレジが残りたい理由ではない。けれど、その人がいなくなることは嫌だと本人が認めた。


「そう」


「それだけですか」


「何が?」


「聞いておいて」


「確かめたかっただけだから」


「何を」


「だいたい分かった」


「私は分からないです」


「別に分からなくていいよ」


 エレジは納得していないようだったが、それ以上は追ってこなかった。


 少佐の側については、まだ分からない。ただ、少なくともエレジについては、自分が考えていたよりずっと確度が高かった。


     *


 午後は同じ区域を使い、経路を変えて課目が続いた。

 今度はマティアスが別の訓練生と組み、エレジも別のペアに入った。終了後は教官ごとに数名ずつ呼ばれ、経路判断と報告内容について確認を受ける。


 マティアスを担当したのはカイルだった。

 使われたのは執務室ではなく、小さな講義室だった。机の上には各ペアの記録と地図が並んでいる。


「ロート少尉」


「はい」


「午前、西側の足跡を途中で捨てた理由は」


「痕跡が斜面の陰で切れて、その先は枝の落雪と踏み跡のほうが新しかったからです」


「音は」


「補助材料として使いました。方向は合ってましたが、距離は推定です」


「ヴァイス中尉とは一致したか」


「途中からは」


「最初は?」


「俺は西をそのまま追うつもりでした。中尉が北側も見たほうがいいと言いました」


「結果は」


「中尉が合ってました」


「判断を変えたのは」


「根拠が増えたので」


「ならいい」


 課目についての確認は、それで終わるはずだった。でも、マティアスの思考は別に移っていた。


 午前にエレジへ聞いたときより、こちらのほうが難しい。少佐はエレジより反応を見せない。それでも、確かめたいなら何かを投げるしかない。


「少佐。ヴァイス中尉と組むの、やりやすいです」


「そうか」


 反応は普通だった。


「課程終わったあとも、ああいう任務で一緒なら楽なんですけどね」


「配属はお前が決めることじゃない」


「分かってます」


「なら何だ」


「別に。そう思っただけです」


 ここまでは何も取れない。だから、もう一つ進めた。


「中尉、転属も考えてるみたいですよ」


 そこで初めて、少佐の返し方が少し変わった。


「本人がそう言ったのか」


 マティアスは内心で少し笑った。


「はい。まだ決めてないみたいですけど」


「そうか」


 会話はそこで止まったが、さっきまでにはなかった確認が一つ増えた。マティアスはそれを材料として残した。


「修了したら、ベルンハルトにでも誘ってみようかなと思ってます」


 今度は完全に試した。

 実際に誘うつもりがあるわけではない。ただ、どう反応するかを見たかった。


「好きにしろ」


 返事は短かったが、ほんのわずかに間があった。

 普通なら気にもしない程度だろう。けれど、自分は今、その反応を見るために聞いている。


「二人で行っても、修了したあとなら問題ないですし」


「修了してからなら、お前たちの自由だ」


 やはり答えは正しい。教官としてなら、それ以外には言いようがない。

 それでも、何も感じていない相手の話なら、ここまで一つ一つ言葉を選ぶだろうか。

 少なくともマティアスには、そうは思えなかった。


「少佐は、中尉が誰と出かけても気にならないんですか」


「それを俺に聞いてどうする」


 否定ではなかった。

 もう十分だった。


「別に。気になっただけです」


「課程の評価と関係ないなら、終わりだ」


「はい」


 席を立って扉へ向かったところで、カイルに呼び止められた。


「ロート少尉」


「はい」


「ヴァイス中尉に余計なことを言うな」


 その言葉がどこまでを指しているのか、マティアスにはすぐ分かった。


「何をですか」


「今みたいな話だ」


「分かりました」


 少佐は、自分が何を探っているのか理解している。それでも、最後まで否定はしなかった。


     *


 講義室を出たあと、マティアスは午前と午後に得た反応を頭の中で並べた。

 エレジは、少佐が北部にいることを、自分が北部にいたい理由から完全には外せなかった。少佐がいなくなるのは嫌だとも認めた。


 カイルは、エレジが転属する可能性を聞いて、本人がそう言ったのかを確かめた。マティアスが修了後にエレジを誘うと言えば、答えるまでにわずかな間ができた。誰と出かけても気にならないのかと聞いても、否定しなかった。

 最後には、エレジへ余計なことを言うなとまで言った。


 そこまで重なれば、マティアスの中でその推測の確度はかなり高かった。

 たぶん、両方だ。

 片方だけが勝手に思っているという感じでもない。二人とも互いを特別に見ていて、そのうえで何もしないことを選んでいる。

 年明けに距離が変わった理由も、今ならだいたい分かる。

 教官と訓練生だからだ。


 少佐のほうが先に距離を取ったのか、エレジが合わせたのかまでは分からない。そこまで確かめる必要もなかった。

 これ以上追う気もなかった。

 少し面白いとは思うが、だからといって誰かに話すことではない。エレジに「少佐もたぶん同じだ」と教えるつもりもなければ、カイルに「中尉もそうですよ」と伝えるつもりもない。

 本人たちが動かないと決めているなら、それは本人たちの問題だった。 


 自分が知りたかったのは、自分の見方が合っているかどうかだけだ。

 この日の課目で求められていたのも、見えていないものを事実として扱わず、複数の痕跡から可能性を絞っていくことだった。今まで見てきた二人の様子も、今日それぞれから得た反応も、単独では決め手にならない。それでも、重ねれば同じ方向を指している。


 本人たちから互いへの気持ちを直接聞いたわけではない以上、事実として知っているとは言えない。

 けれど、マティアスの中では、もうほとんど答えに近かった。



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