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11
日の出前の基地では、車両置き場の照明が積雪の表面を白く照らしていた。
一泊二日の偵察訓練を前に、訓練生たちは四人一組に分かれ、観測機材、無線、地図、防寒装備、予備電池、食料を順に確認している。
今回の課目では、対象を見つけることだけではなく、冬季環境の中で一晩行動を継続し、状況の変化に応じて観測地点や経路を選び直すことまで評価される。
エレジは自分の装備を確認し終えると、班員の準備状況にも目を通した。
ここ数日は、年が明けた直後よりもずっと落ち着いていた。カイルのことを考えそうになれば、そこで打ち消す。話したいと思っても、なぜそう思うのかを考えない。
訓練の終わりのことも、執務室でのコーヒーも、今の自分に必要のないものとして意識から遠ざけていた。
そうしているうちに胸の中は静かになり、訓練中にカイルを見ても以前ほど意識を引かれなくなった。
必要な指示を聞き、判断を求められれば答え、自分の役割へ戻ることができる。それなら、これでいいのだとエレジは思っていた。
出発前の説明で、カイルは地図の前に立った。
「対象地域はここだ。観測地点は三つ指定してあるが、全部を使う必要はない。状況が変われば選び直せ。最初の計画を守ることが目的じゃない」
指示棒の先が、谷を挟んで設定された三つの地点を順に示した。
「偵察で持ち帰るのは、自分が見たい答えじゃない。違っていたら、違っていたと持ち帰れ。見たものと、そこから考えたものを混ぜるな」
数日前、講義室で聞いた内容のことだ。
「それと、自分たちの状態も条件に入れろ。四人で出るなら、四人とも戦力だ。一人を切り離すなら、その一人が戻れなくなった場合に何が起きるかまで考えろ」
エレジは他の訓練生と同じようにその言葉を聞いた。以前なら自分に向けられた注意のように感じたかもしれないが、今は課目全体に対する説明として、そのまま受け取った。
六時四十分、各班は間隔を空けて基地を出発した。
エレジの班はトーマという訓練生を班長とする四人だった。雪は前夜に少し増えていたものの、行動を妨げるほどではない。
林の中では膝下まで沈む場所がある一方、尾根では風に削られて固い雪面が露出していた。斜面の向きによって積雪の状態が大きく違うため、進路を数十メートル変えるだけでも歩行速度が変わる。
午前八時を過ぎた頃、無線で追加情報が入った。
『対象の一部が南方向へ移動した可能性あり。確度低』
トーマが地図を開いた。
「このまま第一へ行くか、それとも南へ寄せるか」
班員の一人が現在地から谷側へ延びる経路を指した。
「移動情報が正しいなら、第一では外れるかもしれない」
エレジは三つの観測地点と現在地を見比べた。
「今は観測地点を決め直さないほうがいいと思います」
「理由は」
「情報の確度が低いです。ここから南へ寄せると、誤っていた場合に第一へ戻る時間が大きくなります。次の分岐まで東寄りに取れば、第一と第二のどちらにも移れます」
「距離は増える」
「二十分程度です。ただ、その時点まで選択肢を残せます」
トーマは地図の等高線を追ってから、その案を採用した。
「それで行く」
班は予定経路を少し外し、東側の林へ入った。
九時を過ぎた頃、エレジが木立の間を横切る複数の足跡と細い溝に気づいた。
「止まってください」
形を崩さない位置で腰を落とし、風向きと雪面の状態を確認する。足跡の縁はまだ鋭さを残しており、溝は一定の幅を保ったまま雪を削っていた。
「三人以上――」
そこまで言ってから、エレジは自分が確認した事実より先へ進みかけたことに気づいた。
「確認できる足跡は三種類です。同一人物の重複がある可能性があるので、人数は断定できません。橇か、それに近いものを引いた跡があります」
「方向は」
「南西です」
「無線情報と一致するな」
「方向は一致します。ただ、対象全体が移動したとは言えません」
トーマは少し考えたあと、第二観測地点への変更を決めた。
その後も判断は順調だった。
十一時を過ぎる頃には第二観測地点へ入り、谷の反対側に設けられた仮想対象の拠点を確認した。
双眼鏡の中には、小型の天幕、簡易アンテナ、発電機らしい装備が見え、その周辺に三人の人影があった。
「三人」
班員の一人が言った。
「今確認できるのは三人です」
一人が橇へ荷物を載せているのを見て、トーマが言った。
「移動準備に見えるな」
「荷物を積んでいることまでは確認できます。移動するかどうかは、まだ分かりません」
「記録は」
「十一時四十七分。人員一名、橇へ荷物を積載。目的不明」
「それでいい」
午後になると、三人のうち二人が南東へ移動した。残った一人は天幕付近に留まっており、班は観測地点を維持したまま、拠点全体が放棄されたわけではないことを確認した。
夕方、視界が落ちる前に観測を終了し、予定していた野営地点へ移動した。
一日目を終えた時点で、目立った失敗はなかった。
簡易天幕を整え、交代で食事を取りながら記録を照合しても、事実と推測を混同した箇所はなく、経路変更も観測地点の選択も大きく外していない。エレジ自身にも、その手応えはあった。
夜、寝袋の中で目を閉じると、身体には疲労が残っているのに頭の中は静かだった。その日一日、カイルのことをほとんど考えなかった。
出発前に姿を見たときも、無線で声を聞いたときも、その先へ考えを広げず、話したいことや寂しさにも意識を向けなかった。
それでも訓練には何の支障もなく、むしろ余計なものを考えずに済んだぶん、必要なことだけを見ることができたように思えた。
子供の頃から使っていたやり方に戻ったことを、少なくとも今は間違いだったとは思えない。
これでいいのだと思いながら、エレジは眠りについた。
*
二日目の朝は、薄い雲が空全体を覆っていた。
夜間の降雪はほとんどなかったが、風は一日目より強く、開けた斜面では前日の足跡がかなり崩れている。
班は夜明けとともに行動を再開し、前日に南東へ移動した二人の痕跡を確認して、可能な範囲で行動方向を特定してから帰投する予定だった。
しばらく進んだところで、新しい足跡が見つかった。二人分と思われた痕跡は途中で分かれ、一方は谷側へ、もう一方は林の奥へ延びている。
トーマが時計を確認した。
「ここから先まで追うと、帰投が遅れる」
エレジは斜面の先を見た。谷側へ延びた痕跡は木々の間へ消えているが、もう一方は二百メートルほど先まで見えている。
「私が確認します」
「どこまで」
「見えている分岐の先までです。十五分あれば戻れます」
「一人で行く必要は」
「班全体で動くと、ここを捨てることになります。私一人なら確認して戻れます」
トーマはすぐには答えず、周囲の地形とエレジの示した方向を確認した。
「無線は」
「問題ありません」
「十五分。先まで追うな」
「了解」
エレジは班を離れた。
最初の百メートルほどは安定した斜面で、雪は深いものの、木々の間を選べばそれほど歩きにくくなかった。
痕跡を追っていくと、一人分と思われる足跡が南東へ続いている。途中から踏み込みが深くなっており、荷重が増えた可能性もあった。
エレジは時刻と方向を記録し、この地点までの情報であれば十分に持ち帰れると判断した。
時計にもまだ余裕がある。
少し先には、足跡がもう一度分かれているように見えた。あと数十メートル進めば、対象が別の経路へ入ったのか、それとも同じ場所を往復したのか判断しやすくなる。
ただし、その間には風で吹き寄せられた雪が厚く溜まり、木の根元まで覆って斜面の細かな形を隠していた。
深い吹き溜まりであることは分かったが、迂回すれば時間を使う一方、横切る距離そのものは短かった。班全体を移動させるより一人で確認するほうが早く、ここを通っても十五分の制限内には戻れる。
エレジはそこまでを比較したうえで、行けると判断した。
最初の二歩は深く沈んだだけだったが、三歩目へ体重を移した瞬間、足元から支えが消えた。
雪面の下に隠れていた地形の窪みへ身体が落ち、周囲の雪まで一緒に崩れた。反射的に腕を出したものの支えになるものはなく、腰から胸、顔まで一気に雪に飲み込まれた。
顔の前にはわずかな空間が残っており、呼吸はできた。右腕は肘から先だけが少し動いたが、左腕は身体と雪の間に挟まれ、脚がどの方向へ伸びているのかも分からない。
上体を引き上げようとしても身体はほとんど動かず、さらに力を入れると周囲の雪が沈んで胸への圧迫が強くなったため、エレジは自力で抜けようとするのをやめた。無理に暴れず、呼吸を確保し、まず位置を知らせる必要がある。
右手を胸元へ回すと、指先が無線のストラップに触れた。装備と雪に引っかかってなかなか動かなかったが、少しずつ引き寄せる。
「……トーマ」
自分の声が思っていたより浅かった。
『ヴァイス?』
「落ちました。雪面の下に窪みがあります。身体が……ほとんど動きません」
『位置は取れてる。動くな。今行く』
「了解」
位置を知らせることはできた。十五分を過ぎれば、応答できなかったとしても捜索は始まる。それでも、雪に押さえ込まれたまま救助を待つ時間は、エレジが考えていたよりずっと長かった。
左腕を引いてもほとんど動かず、脚を曲げようとしても力がどこへ伝わっているのかさえ分からない。
身体を動かせば雪がさらに締まり、息はできているのに、いくら吸っても足りないように感じた。
顔の周囲に残された狭い空間では、自分の呼吸音ばかりが耳についた。視界の端を白く塞ぐ雪が妙に近く感じられ、息をするたび、その狭さを意識させられた。
エレジは動く右腕を少しでも雪面へ近づけようとした。手袋の先だけでも外へ出せれば発見されやすくなると思ったが、肩の周囲が固定されているため、それ以上は上がらなかった。
やがて足先の感覚が鈍くなり、どれほど時間が経ったのかも分からなくなり始めた頃、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。
「ヴァイス!」
「ここです!」
声を張ったつもりだったが、雪に遮られて十分には届かなかったらしい。もう一度呼ばれたため、今度は息を使ってできるだけ大きく答えると、複数の足音がこちらへ近づいてきた。
すぐに掘り始める気配はなく、頭上では周囲の安全を確かめる声が交わされた。
「ここから先、雪面が落ちてる」
「右へ回れ。真上に乗るな」
トーマとは違う声だった。
エレジには、それが誰なのかすぐに分かった。
班から事故の報告を受け、教官側も現場へ入ったらしい。
「最後に見た位置は」
「北西二百弱です。経過十八分」
「無線は」
「一度応答しました。それ以降は弱いです」
足音が慎重に距離を詰め、やがてカイルの声がすぐ近くから聞こえた。
「ヴァイス中尉、聞こえるか」
「はい」
「顔の前に空間はあるか」
「あります」
「息はできるか」
「できます」
「どこか痛むか」
「ありません」
「分かった。動くな。そのまま息だけしてろ。出す」
その声を聞いたことで、自分がずっと顎に力を入れていたことにエレジは初めて気づいた。
掘削は真上からではなく、残った雪面をさらに崩さない位置から横へ向かって進められているらしく、身体の周囲まで到達するには時間がかかった。
それでも肩のあたりから少しずつ圧力が減り、自分以外の誰かが外側から雪を取り除いていることがはっきり分かった。
「左腕、感覚はあるか」
「あります」
「指は動くか」
「少し」
「分かった」
カイルの声は普段と変わらなかった。そのことが今のエレジにはありがたく、指示された通り余計に身体を動かさず、呼吸だけを続けた。
首から肩、胸へと雪が除かれ、やがて左腕が自由になった。最後に腰と脚の周囲が掘られ、カイルともう一人の教官に身体を支えられて窪みの外へ引き上げられた。
雪面へ出ると、それまで顔の周囲にしかなかった空間が急に広がった。立ち上がろうとして脚に力を入れたところで膝が安定しないことに気づき、カイルに身体を支えられた。
「そのままでいい」
「歩けます」
「今は立つな」
カイルは普段と変わらない低い声でそう言い、エレジの瞳の反応や頭部、首、呼吸の状態を順に確認した。
「頭は打ったか」
「いいえ」
「意識が飛んだ時間は」
「ありません」
「胸は痛むか」
「いいえ」
「息苦しさは」
「今はありません」
周囲にはトーマたち三人もいて、全員が自分の救出のために観測地点を離れていた。さらに教官まで現場へ出ているのを見て、エレジは出発前にカイルから聞いた言葉を思い出した。
四人で行動するなら、自分もその四人のうちの一人であり、一人を切り離す判断には、その一人が戻れなかった場合まで含まれていなければならない。
班の観測を維持するために自分だけが離れたつもりだったのに、実際には自分が動けなくなったことで、班全体の行動を止めていた。
「すみません」
「何がだ」
「観測を止めました。私が――」
「今はそれを話してない。身体の確認が先だ」
エレジはそれ以上説明しなかった。
しばらく状態を確認したあと、カイルはトーマへ帰投を指示した。
「この班はここで終了。帰投させろ」
「了解」
「続行できます」
エレジが言うと、カイルはすぐに否定した。
「決めるのはお前じゃない」
「怪我はありません」
「怪我がないことと、続行できることは同じじゃない」
その言葉には聞き覚えがあった。以前教えられたこと。エレジはそれ以上反論しなかった。
*
基地へ戻る頃には、手足の震えもほとんど収まっていた。
医務室で診察を受けた結果、大きな外傷はなく、軽い冷えと雪の圧迫による痛みが残っている程度で、しばらく状態を見れば問題ないと言われた。
身体的な異常がないことを確認され、エレジはそのまま自室へ戻るつもりで医務室を出たが、廊下ではカイルが待っていた。
「歩けるか」
「はい」
「執務室へ来い」
「……了解しました」
この時間に呼ばれる理由は分かっていた。
執務室へ入ると、机の上には偵察区域の地図と、事故地点を書き込んだ記録が置かれていた。
カイルはエレジを椅子へ座らせ、自分も向かい側に腰を下ろした。
「身体の話はしない。医務が終わってる」
「はい」
「なぜ一人で行った」
「班全体を動かす必要がないと判断しました。観測地点を維持したまま、私一人で確認して戻ったほうが効率がいいと考えました」
「そこまでは分かる。なぜここまで行った」
カイルが地図上の事故地点を示した。
「最初に確認する予定だった位置から、もう一つ分岐が見えました。残り時間で確認できると判断しました」
「雪面は見たか」
「見ました。吹き溜まりがあることも分かっていました」
「危険だとは」
「考えました」
「それでも行った」
「はい」
「何と比べた」
エレジは質問の意味を考えた。
「得られる情報と、時間です」
「他には」
「……帰投までの余裕と、迂回に必要な時間です」
「他には」
それ以上の答えが出ないエレジに、カイルは尋ねた。
「お前自身が動けなくなる可能性は、どこに入れた」
「危険を考えなかったわけじゃありません」
「分かってる。だから聞いてる。危険があると分かった上で、それを誰の損失として計算した」
そこでようやく、エレジは自分の判断の何を問われているのか理解した。
「……私一人の危険として考えていました」
「そうだ。お前は、自分一人なら短時間で確認できることと、班をその場に残せることまでは考えていた。だが、お前が戻らなかった場合まで計算に入れていない」
「捜索が始まります」
「誰が来る」
「班員が」
「その時点で観測は」
「続けられません」
「教官側にも救助が必要になる」
「はい」
「前にも言ったはずだ。お前自身を人数から外すな。一人で危険を引き受ければ残りの三人をその場に残せるつもりでも、お前が戦力から落ちれば、その三人も動かさなければならなくなる。
今日、お前が埋まったことで、実際に班全体が観測を中断し、教官側まで救助に入った」
「……はい」
「なら、最初からお前一人だけの危険じゃない。できるかどうかだけで判断するな。失敗したときに誰が止まり、何を捨てることになるかまで含めて判断しろ」
エレジには、その指摘が課程の初めから何度も教えられてきたことと同じだと分かった。
これまでも、自分だけが負担を引き受ければ他の人間への影響を減らせると考え、自分自身が戦力の一部であることを判断から外してきた。今回も形が変わっただけで、その考え方そのものは残っていた。
一日目の夜には、以前のように感情を切り離したことで訓練へ集中できるようになったと思っていた。
しかし、昔の状態へ戻ったことで一緒に戻ってきたものが、集中しやすさだけではなかったのかもしれない。
「……分かりました」
「本当に分かったならいい」
「はい」
「今日はもう戻れ。事故について考えるのも明日にしろ」
席を立ったエレジは、扉へ向かう前にカイルへ言った。
「少佐。……救助、ありがとうございました」
「俺一人で出したわけじゃない」
「それでも、ありがとうございます」
「ああ」
それ以上、二人の間に私的な話が続くことはなかった。
*
その夜、エレジは何度か目を覚ました。
夢を見た記憶はなかったが、眠りが深くなりかけると、雪の中で身体を動かそうとしても動かなかった感覚が戻ってきた。
胸の周囲にかかっていた圧力や、左腕を引いても何も変わらなかったこと、脚がどこにあるのかさえ分からなかった感覚が、記憶として思い出されるというより、身体の中にそのまま残っているようだった。
目を覚ませば自室の天井があり、布団の重さも普通だった。腕も脚も思うように動き、呼吸にも異常はない。
それを確かめれば再び眠ることはできたため、エレジは事故の直後で身体の緊張がまだ抜けていないのだろうと考えた。
カイルに指摘された判断上の問題についても、何を修正すべきかは理解したつもりだった。
次からは自分が動けなくなった場合に生じる班全体への影響まで含めて考えればいい。同じ判断を繰り返さなければ、それで修正できると思っていた。
*
翌朝、医務から運動制限は出なかったものの、通常訓練へ戻す前に雪上での状態を確認することになった。
基地周辺の緩い斜面を担当の教官と歩いたが、平地では特に問題はなく、脚にも痛みはなかった。
呼吸も正常で、昨日の疲労が多少残っている程度だったため、エレジ自身もこれなら通常どおり戻れるだろうと思い始めていた。
やがて教官が、風で少し雪の溜まった緩斜面へ入った。先に踏まれた雪面に異常はなく、エレジもその足跡をたどって進もうとしたところで、前方の新雪が足元からわずかに滑り落ちた。
数センチほど表面の柔らかい雪がずれただけで、危険な崩落ではないことはすぐに分かった。
それでも、雪が動く音を聞いた瞬間に、前日の足元が失われた感覚が身体の中へ蘇った。
次に足を置けば再び雪面が抜けるような感覚と、胸まで埋まって身動きが取れなくなった記憶が重なり、呼吸まで浅くなっていく。
目の前の斜面が昨日とは違うことも、地形を確認できていることも、先を歩いた教官が何事もなく通過したことも理解していた。
危険だと判断するだけの根拠はない。それでも、その判断に従って足へ体重を移そうとすると、身体のほうが先に昨日の感覚を思い出し、進むことができなかった。
「ヴァイス中尉?」
「はい」
「どうした」
「……問題ありません」
「痛むのか」
「いいえ」
「息苦しい?」
「……少し」
「戻るか」
いつもなら反射的に必要ないと答えていたはずだった。しかし、今の状態を「問題ありません」で済ませることは、自分でも違うと分かった。
痛みがあるわけではなく、積雪の状態を読めなくなったわけでもない。安全か危険かを判断することもできている。それなのに、雪面へ足を置くという行為そのものに身体が強く抵抗していた。
昨日までのエレジにとって、雪は深さや硬さ、風、斜度によって危険度を判断する環境条件の一つでしかなかった。危険なら避け、安全なら進むことができ、それ以上の意味を雪そのものに感じたことはない。
今は、目の前にある白い斜面を見るだけで、そこに身体ごと飲み込まれ、どれだけ動こうとしても抜け出せなかった感覚まで一緒に戻ってくる。
そのとき初めて、エレジは昨日の事故が判断上の失敗を理解しただけでは終わっていないことを知った。
自分は、雪を怖いと感じるようになっていた。
12
翌日から、エレジは通常課程とは別に、基地周辺で短時間の雪上行動を行うことになった。
医務から運動そのものを制限されているわけではない。事故後の診察でも身体的な異常はなく、胸や手足に残っていた雪の圧迫による痛みもほとんど消えていた。
確認する必要があるのは、雪上で再び身体が止まるかどうかだった。
午前の講義を終えたあと、エレジは担当教官とともに基地北側の訓練区域へ出た。
前日に歩いた場所とは違い、今日は傾斜のほとんどない林の中から始める。積雪は膝より少し下まであり、前日に降った雪が表面に薄く残っていた。
歩き始めてしばらくは何も起こらなかった。足を置けば雪が沈み、そのまま次の一歩へ移ることができる。
木の根元では積雪が浅く、風の通る場所では表面が少し固い。事故前と同じようにそれぞれの違いを見ることができ、雪の状態が変わるたびに身体が止まることもなかった。
エレジは歩きながら、自分の呼吸が普段どおりであることを確かめていた。
昨日は事故の翌日だった。雪が動いたことで、まだ身体に残っていた感覚が一時的に戻っただけだったのかもしれない。そう考えれば不自然ではなかった。
教官は特に声をかけず、一定の速度で林の中を進んでいた。やがて木立が途切れ、その先に緩く下る雪面が現れた。
「ここから斜面に入る」
「はい」
「状態は」
「問題ありません」
「身体じゃない。雪面」
エレジは斜面へ視線を向けた。傾斜は低く、上部に雪庇はない。新雪は薄く、風による大きな堆積も見られなかった。
「表面に新雪がありますが、量は少ないです。風成雪のまとまった堆積は確認できません。斜度も低く、この範囲であれば通過可能です」
「分かった」
教官が斜面へ入り、エレジもその後ろを一定の距離を保って下っていった。
二十メートルほど進んだところで、前を歩いていた教官の右足が雪面へ深く沈んだ。雪の下に隠れていた低木を踏み抜いたらしく、膝のあたりまで一気に落ち、その周囲で乾いた雪が崩れた。
その音を聞いた瞬間、エレジの足が止まった。
胸の前に雪が押しつけられた感覚が戻り、次いで、左腕を引いても動かなかったことが身体の中へ蘇った。
教官はすでに脚を引き抜き、足元の雪を少し払っていた。
「枝だな」
そう言ってからエレジの様子に気づき、振り返った。
「ヴァイス中尉?」
「……はい」
「どうした」
エレジは自分の足元から教官の周囲、さらに斜面上部まで順に確認した。雪面に亀裂はなく、沈んだのも一か所だけで、周囲へ続く破断や沈降も見られない。
「低木を踏み抜いただけです」
「そうだな」
「周囲に沈降はありません」
「進めるか」
エレジは教官が踏み抜いた場所を避けてその横へ足を置いた。雪が数センチ沈んだ瞬間には反射的に腹へ力が入ったが、雪面にそれ以上の変化がないことを確かめ、そのまま荷重を移した。
「進めます」
そこからは再び予定していた経路を歩き、林の中へ戻るまで特に問題は起こらなかった。
基地へ向かう途中、教官が尋ねた。
「さっき止まったな」
「はい」
「何が起きた」
「前日の事故を思い出しました」
「それで?」
「雪面を確認しました。危険な沈下ではないと判断してから進みました」
「判断までにどれくらいかかったと思う」
「数秒です」
「俺もそのくらいだと思う」
教官はそれ以上何も言わなかった。
エレジは歩きながら、その数秒について考えていた。事故以前であれば、危険ではないと分かる場所で身体が止まり、改めて判断し直すために使うことのなかった時間だった。
*
二日目からは、通常課程の一部へ戻った。
この日の課目は雪上での地形観察で、受講者たちは二人一組で指定区域を歩き、積雪の状態と地形から通過経路を選ぶ。
実際の危険区域はあらかじめ除外されており、目的は雪面の特徴を読み取ることにあった。
エレジは別の訓練生とともに斜面を横切った。
前半に問題はなく、風上側では雪が削られてところどころ古い硬い層が露出している一方、地形がわずかに窪んだ場所には新しい雪が溜まっていた。エレジは地図と斜面を交互に確認しながら進んだ。
「次はあそこを横切ります」
同行していた訓練生が前方を指した。
斜面の途中には、幅十メートルほどの吹き溜まりがあった。深さは大きくなく、斜面角度も低い。上部にも連続した堆積は見られなかった。
「少し下を回りましょう」
エレジはそう言って、歩行線を谷側へずらした。
後方から教官の声がした。
「ヴァイス中尉」
呼ばれて足を止める。
「はい」
「なぜそっちへ行く」
「吹き溜まりがあります」
「見えてる。評価は」
エレジは改めて吹き溜まりへ目を向け、雪面の形、風向、堆積量、斜度、その下の地形を順に確認した。
避けなければならない材料は見当たらなかった。
「……この範囲であれば通過可能です」
「なら、迂回する理由は」
エレジは一度黙ったあと、答えた。
「ありません」
「経路を戻せ」
「了解」
元の歩行線へ戻って吹き溜まりへ踏み込むと、柔らかい雪が脛のあたりまで沈み、心臓が一度強く打った。
それでも足元の状態を確かめながら荷重を移し、次の一歩へ進む。十メートルほどの吹き溜まりを抜けるまで雪面に異常はなく、同行していた訓練生も同じ場所を問題なく通過した。
エレジは振り返らず、そのまま次の観察地点へ向かった。
*
訓練終了後、エレジは記録用紙へその日の判断を書き込み、吹き溜まりを避けようとしたことも記載した。
理由を書く欄で手が止まった。
危険と判断したわけではなく、安全を確認できなかったわけでもない。
ただ、最初に吹き溜まりを見た瞬間には、詳しく評価するより先に避けたほうがいいと思っていた。
少し考えたあと、《積雪評価前に回避経路を選択。再評価後、通過可能と判断》と記入した。
記録用紙を提出して課程を終えたあと、宿舎へ戻る途中で訓練区域の端を通った。
誰もいない斜面には自分たちがつけた足跡が残っており、吹き溜まりを横切った場所も見分けることができた。
今見ても危険には見えなかった。
それでも、もう一度そこを通るよう言われれば、足を置く前に一度身構えるだろうと思った。
*
三日目、朝から行われていた積雪観察の途中で、斜面を横切る細い雪面亀裂が見えた。
それを認識した瞬間、エレジの身体は止まり、胸の奥に力が入った。事故の日に足元が抜けた感覚が判断より先に蘇り、視線が亀裂へ引きつけられた。
「ヴァイス中尉」
担当教官に呼ばれ、エレジは意識を目の前の斜面へ戻した。
「はい」
「見えてるな」
「はい」
「判断は」
息を吐いてから、亀裂へ近づきすぎない位置で縁の状態を確かめる。
新しい破断ではなかった。角は丸くなり、内部にも新雪が入っている。周囲に新しい沈降はなく、下方へ続く亀裂もなかった。
「古い亀裂です。現在の雪面変化ではありません」
「他には」
「周辺に新しい破断なし。連続した沈降もありません。この亀裂だけを理由に経路を変更する必要はありません」
「分かった。続けろ」
「はい」
エレジは歩行を再開した。亀裂の横を通過している間も身体には緊張が残っていたが、それによって先ほどの判断が変わることはなかった。
*
三回目の雪上訓練を終えた日の午後、エレジは訓練棟を出たところでカイルに呼び止められた。
「ヴァイス中尉」
「はい」
「少し来い」
「了解しました」
連れて行かれたのは執務室ではなく、訓練棟の端にある小さな打ち合わせ室だった。
机の上にはその日の記録が置かれている。エレジが椅子へ座ると、カイルも向かい側へ腰を下ろした。
「身体は」
「問題ありません」
「雪の上では」
エレジは少し答え方を考えた。
「身体が止まることがあります」
「何回」
「確認できた範囲では三回です」
「状況は」
エレジは、前を歩いていた教官が低木を踏み抜いたとき、吹き溜まりを見て評価する前に迂回しようとしたとき、古い雪面亀裂を見たときのことを順に説明した。
カイルは途中で口を挟まなかった。
「判断を間違えたか」
「最終的には間違えていません」
「最終的には、というのは」
「最初に身体が反応します。そのあと雪面を確認して判断しています」
「時間はかかるか」
「以前よりは」
「必要のない回避は」
「一度、選びかけました」
「危険な場所を安全だと判断したことは」
「ありません」
「怖がっていることを否定するために、進む必要のない場所へ行こうとしたことは」
エレジはその質問にすぐ答えられなかった。
「今のところはありません」
「今のところ?」
「そうしないようにはしています」
カイルが少しだけ目を細めた。
「考えたことはあるんだな」
エレジは黙った。
「どこへ行こうとした」
「実際には行っていません」
「どこだ」
「……東側の斜面です」
「事故地点か」
「違います」
事故地点よりさらに上部にある、冬季訓練で何度か使用した区域だった。斜度が高く、積雪状態によっては立入制限がかかる。
「今入れる状態か」
「まだ確認していません」
「なら確認する必要もない」
「はい」
「なぜそこへ行こうと思った」
エレジは机の上に置かれた記録へ目を落とした。
「そこで以前と同じように動ければ、大丈夫だと思いました」
「何が」
「雪の上での判断がです」
「今、判断できてないのか」
「できます」
「なら何を確認したい」
エレジは答えに詰まった。
判断そのものはできている。今日も古い亀裂を見分け、吹き溜まりについても最終的には通過可能だと判断できた。
それでも、事故前とは違っていた。
「……戻したいです」
「何を」
「身体と思考を事故前の状態に」
カイルはしばらく何も言わなかった。
「事故前と同じ反応をすることが目的か」
「それが一番確実です」
「何が確実なんだ」
「雪を見ても身体が止まらなければ、以前と同じように――」
「判断できると?」
「はい」
「今もできてる」
エレジは黙った。
「時間は少しかかる。必要のない回避も一度選びかけた。そこは修正が必要だ」
「はい」
「だが、怖くなくなったかどうかを確認するために条件を強くするのは別の話だ」
カイルは机の上の記録を指で軽く押さえた。
「一番厳しい場所で動けたら元に戻ったことになる、という考え方はやめろ」
「でも、このまま身体が止まる状態が続けば――」
「だから見るんだ」
エレジが顔を上げる。
「止まったあと、現在の雪を見られるか。危険を大きく見積もりすぎていないか。逆に、怖がってると思われたくなくて危険を小さく見積もっていないか」
カイルの声は普段の講義と変わらなかった。
「見るのはそこだ」
「……はい」
「自分で試験を作るな」
「試験?」
「一番怖い場所へ行って、それでも動けたら合格だと思ってるだろ」
エレジには否定できなかった。
「それは訓練じゃない」
「はい」
「今の状態で、今の条件を見て判断する。それを続けろ」
エレジは少し時間を置いて頷いた。
「了解しました」
「本当に分かったか」
「理屈は分かります」
「それ以外は」
エレジは正直に答えた。
「まだ、以前と同じ状態に戻したいと思っています」
「そうか」
カイルはそれ以上否定しなかった。
「なら、それも含めて勝手に動くな」
「はい」
「雪上訓練は継続する。状態はその都度報告しろ」
「了解しました」
「終わりだ」
エレジは立ち上がり、扉へ向かいかけたところで足を止めてカイルを振り返った。
「少佐」
「何だ」
「もし、この反応がずっと残った場合は」
カイルは少し間を置いてから答えた。
「その話は、残ったときにする」
「……はい」
エレジは敬礼して部屋を出た。
*
翌日の午後には、前日までより少し長い距離を歩く雪上訓練が組まれていた。
林を抜けた先には緩い斜面が続き、風下側には新雪が少し溜まって、表面に細かな風紋ができている。
列の中ほどを歩いていたエレジは、前の訓練生が問題なく通過した場所へ自分も足を置こうとしたところで、身体が止まるのを感じた。
足元の雪が実際より深く見え、胸の奥が硬くなると、事故の日に顔の周囲を塞いでいた白い雪が一瞬だけ現在の斜面へ重なった。
エレジは無理に踏み出さず、その場から斜面の状態を確かめた。
角度に問題はなく、上部に新しい破断もない。風による堆積は薄く、足元も表面の雪が柔らかいだけだった。前方に残る足跡にも連続した沈下は見られない。
現在の雪面に、進行を中止する根拠はなかった。
息を吐いて足を置くと雪が沈み、身体にはまだ緊張が残った。それでもその変化が危険を示すものではないことを確認しながら荷重を移し、次の一歩へ進んだ。
事故前と同じではなかったし、雪を怖いと思わなくなったわけでもない。
それでも、目の前にある雪が何なのかを見ることはできた。
エレジは前の訓練生との距離を戻し、そのまま斜面を進んだ。
13
午後の課程が終わったあと、カイルは執務室で訓練記録を見返していた。
机の上には、ここ数日の雪上行動に関する記録がまとめて置かれている。エレジが通常課程へ戻ってからの経過、身体が止まった回数、そのときの積雪状態、最終的に下した判断。担当教官の所見も添えられていた。
大きな問題は出ていない。
雪が崩れる音や深い吹き溜まりに反応することはまだあるが、現在の雪面を確認し直し、危険でなければ進めている。
判断が完全に止まったこともない。事故直後と比べれば、反応が出てから立て直すまでの時間も短くなっていた。
経過だけを見れば、悪くない。それでも、カイルは一枚目から順にもう一度目を通した。
ヴァイス中尉が雪面下へ転落した。
無線でその報告を受けた瞬間の感覚を、まだはっきり覚えている。
最初に入った情報は多くなかった。単独で確認に出たエレジが予定時刻を過ぎても戻らず、その後の通信で雪面を踏み抜き、身体の大半が固定されていることだけが分かった。意識があることも、呼吸ができていることも報告には含まれていたが、それで安全だと判断できる状況ではなかった。
救助に向かうための指示を出しながら、身体の内側だけが急に冷えた。
部下や訓練生の事故報告を受けたことがないわけではない。雪山での転倒、低体温、滑落、装備不良による行動不能。何が起きても、まず確認すべきことと動かすべき人間を考えるのが自分の役割だった。あのときも、実際にはそうした。
位置を確認し、現場の雪面状態を聞き、二次崩落の可能性を考えて人員を動かした。現場へ着いてからも、エレジを最短で引き上げることだけを優先した。
それでも、普段と同じではなかった。
雪の下からエレジの返事が聞こえるまで、自分の中にあったものを、カイルは職務上の緊張だけでは説明できなかった。
年末に、もう事実から目を逸らせなくなった。
エレジが別の男と二人で出かけることを想像すれば面白くなかった。自分が補講の相手でよかったと言われれば嬉しかった。
三月になれば、会えなくなるかもしれないことも、以前より重く感じるようになっていた。
だから年が明けてから、距離を適切な教官と訓練生のものに戻した。
必要な話はする。訓練上の質問には答える。評価や指導に必要なことはする。その代わり、必要のない時間を作らないようにした。
廊下で会っても用事がなければ止めない。執務室へ来ても、用件が済めばそれで終える。以前のようにコーヒーを勧めることもやめた。
自分が教官で、エレジが訓練生である以上、そのほうが適切だと思ったからだ。
エレジも、それを察したのかは分からないが、距離を取るようになった。
年末までは、報告が終わったあとにも少しその場に残ることがあった。訓練には関係のないことを尋ねたり、カイルが何か言うのを待つような時間が生まれたりもした。
それがなくなった。
必要なことだけを話し、終われば戻る。そこまでは、カイルが望んだ距離だった。
問題は、それ以外の部分まで変わったように見えることだった。
事故の記録をもう一度開いた。
エレジが班から単独で離れた判断そのものには理由がある。観測地点を維持しながら、短時間で追加情報を取る。そこまでは理解できる。
だが、その先で予定していた確認地点を越えた。
吹き溜まりの危険も認識していた。それでも、自分一人なら短時間で通過できると判断した。
事故後に本人へ聞いたとき、エレジはその危険を「自分一人のもの」として考えていたと認めた。
課程の初めに何度も指摘した癖だった。自分の負担なら増えても構わない。自分が危険な役を取れば、他の人間は動ける。自分の状態は最後に考えればいい。
以前のエレジは、そういう判断をしていた。
だが、その癖は一度、かなり薄れていた。
自分も班の一人として数え、自分の状態や負担を判断材料へ入れられるようになった。それだけではない。訓練以外でも、以前より自分の好みや望みを口にするようになっていた。
カイルは、その変化を悪くないと思っていた。むしろ、安心していたのかもしれない。
だからこそ、事故後の記録を見ていると引っかかった。
自分の危険だけを小さく扱う判断が戻っている。雪を怖がるようになってからも、今度は恐怖を否定するために、必要以上に自分へ厳しい条件を課そうとしている。
以前の癖が戻っている。
ただ、それだけではないような気もした。
雪への恐怖、自分の危険を軽く扱う判断、年明けから見えるようになった別の変化。それらが本当に無関係なのか、カイルにはまだ判断できなかった。
そして、もう一つだけ気になることがあった。
変化が目立ち始めた時期だ。
教官として距離を取ったこと自体が間違いだったとは思わない。それでも、本人に確かめる必要はあると思った。
*
しばらくして、カイルはエレジを執務室へ呼んだ。
ほどなくして扉がノックされ、返事をするとエレジが入ってくる。呼び出された理由を尋ねることもなく、いつものように机の向かいで足を止めた。
「座れ」
「はい」
エレジが椅子に腰を下ろす。
訓練中の判断について話すだけなら、このまま記録を開けばよかった。だが今日は、それだけで終えるつもりではない。
机の端には、以前から置いているコーヒーの道具があった。
年が明けてから、エレジにここでコーヒーを出したことはない。出さないと決めたわけではなかった。ただ、必要以上の時間を作らないようにした結果、自然とそうなっていた。
カイルはしばらく考えてから聞いた。
「コーヒー、飲むか」
エレジはすぐには答えなかった。
年末までなら、こんな間はなかった。勧めればそのまま受け取り、むしろ何も言わないうちから期待していることさえあった。
「……はい」
カイルは立ち上がって湯を沸かした。
選んだのは、以前エレジがこちらのほうが好きだと言った、苦味の弱い豆だった。しばらく淹れていなかったが、どちらを好んだかは覚えていた。
二人分を淹れ、片方を差し出す。
「ありがとうございます」
エレジはカップを受け取った。
以前なら、香りや豆の違いについて何か言ったかもしれない。今はそれ以上話さず、カイルが本題を切り出すのを待っている。
「雪上訓練はどうだ」
「通常課程には戻れています」
「それは記録で分かる。お前自身はどうなんだ」
エレジは少し考えてから答えた。
「完全には戻っていません」
「まだ怖いか」
「はい。前よりは弱くなりました。でも、雪が崩れる音を聞いたときや、深い吹き溜まりを見ると、先に身体が反応することがあります」
「今日もか」
「はい」
「そのあと、判断はできるか」
「できます。時間がかかることはありますけど、今の雪が危険かどうかは見られます」
「なら、雪そのものについては今のところそれでいい」
エレジは返事をしなかった。
「その話をするために呼んだんじゃないんですか」
「関係はある。ただ、俺が気にしてるのは別のところだ」
カイルは机の上の記録を開いた。
「今日の経路選択もそうだ。事故のとき、お前は自分一人なら行けると考えた。今日は、怖いから避けたと思いたくないって理由で、わざわざ厳しい側を選ぼうとした」
「……はい」
「最近のお前を見てると、前に戻ってるように見える」
「前?」
「課程の最初の頃だ。自分にかかる負担だけ軽く見る。自分が危険な側へ行けば済むと考える。自分の状態を、ほかの条件より後に回す」
エレジは何も言わなかった。
「一度、かなり減ってた。それがまた出てる」
「雪を怖がるようになったからでしょうか」
「それだけじゃないと思ってる」
エレジが少し考えるようにカイルを見る。
「どういう意味ですか」
「お前、事故の前には訓練以外でも少し変わっていってただろ」
「訓練以外?」
「自分の好みとか、やりたいことを、前より口にするようになってた」
「……それと、今の判断が関係あるんですか」
「俺には、同じところから出てるように見える」
「同じところ?」
「お前は元々、自分が何を感じてるかとか、自分が何を欲しいかを後に回す。訓練でも同じだ。自分の状態や負担だけ、ほかの条件より軽く扱う」
カイルはそこで言葉を止めた。
「それが、一度減ってた」
「はい」
「でも今は、また戻ってる」
エレジは少し黙ったあと、静かに聞いた。
「……そう見えますか」
「ああ」
ここまで言ってから、カイルは本当に確認したかったことへ進んだ。
「それが年明けからなのも気になってる」
エレジが顔を上げた。
「俺が距離を変えた時期と重なってる」
その言葉だけでは、まだ意味を取りかねているようだった。
「だから聞く。それは、俺が原因か」
「……どういうことですか」
「年が明けてから、必要なこと以外は話さなくなった。執務室へ来ても用が済めば終わりにした。コーヒーも出さなくなった」
今、エレジの手元にあるカップが、その変化をそのまま示している。
「急にそうしたことが、お前が以前の状態へ戻ったことに関係してるのかと聞いてる」
エレジはすぐには答えなかった。
「……いいえ」
「違うのか」
「いえ、その……はい。少佐がそうしたから、ということではありません」
「そうか」
少なくとも、本人はそう認識している。
それ以上を、今ここで勝手に推測する必要はなかった。
だが、エレジのほうには何か引っかかっているらしかった。
「少佐が距離を変えたのは……教官と訓練生として、少し近すぎたからではないんですか」
「それもある」
「それも?」
やはりそこは拾われた。
カイルは少し考えてから答えた。
「理由はほかにもある。ただ、今は言えない」
「……はい」
エレジはそれ以上聞かなかった。
分からないものを、自分の推測で埋めようとはしない。そういうところは、訓練以外でも変わらない。
「でも、俺が距離を変えたからって、お前まで昔に戻る必要はない」
「昔に戻る、というのは」
「自分のことを何も持たない状態だ」
エレジは少しだけ眉を寄せた。
「最初にここへ来た頃、行きたい場所を聞いたら、ないと言っただろ」
「……はい」
「あれが、ずっと引っかかってた」
「どうしてですか」
カイルはしばらく答えなかった。
「昔、逆のやつがいた」
「逆?」
「ああ」
六年前の男の顔は、思い出そうとしなくても浮かんだ。
「ノア・ベルク。伍長だった。二十四歳だった」
エレジは知らない名前を聞いても口を挟まず、その人物が誰だったのか知ろうとするように続きを待っている。
「山岳歩兵で、射撃は平均より少し上。雪上移動は速かった。口数が多くて、黙ってろと言っても三十分もすればまた何か話し始めるようなやつだった」
「何を話してたんですか」
「大したことじゃない。休暇に何をするとか、除隊したらどうするとか。先の話ばかりだ」
ベルクの名を口にしたこと自体は、これが初めてではない。作戦について上官へ説明するときにも、何度も名前を出した。
だが、そのときに説明したのは負傷状況や判断の経緯だった。海や犬や料理の話まで口にする必要はなかった。
「除隊したら海の近くに住むと言ってた。ほとんど海を見たこともないのに、山はもう十分だから次は海がいいと。大きい犬も飼うと言ってた。犬を飼ったことも一度もなかった」
「……やったことがないからやりたい、ですか」
「ああ。そういうやつだった」
エレジが少し笑った。
ベルクには、ほかにもやりたいと言っていたことがいくつもあった。
「料理も覚えると言ってた。一度、野営で鍋を任せたら、中身をほとんど焦がした」
「それでも?」
「俺が『お前は料理をするな』と言ったら、『まだ二十四ですよ。変わっていいでしょう』と返してきた」
エレジの笑みがゆっくり消えた。
昔なら呆れて聞き流せたその言葉は、今では別の意味を持って残っている。
「六年前、俺が指揮官だった作戦で、ベルクは死んだ」
エレジは何も言わなかった。
「六人で動いてた。途中でベルクが撃たれた。止血はできたし、意識もあった。だが歩けなかった」
最初は二人で担いだ。
敵との距離が縮まってからは交替する回数を増やした。それでも、負傷者を運びながらの離脱速度では追いつかれる可能性が高くなっていった。
「吹雪で航空救難は使えなかった。救援部隊もこちらへ向かっていたが、敵との接触を避けたまま入ってこられる状況じゃなかった」
「通信は」
「一度だけ通った。現在位置を送った。向こうからは進出不能だと返ってきた」
そこまで話すと、エレジは手にしていたカップを机に戻した。
「それで」
「俺が、ベルクを残すと決めた」
声に出した瞬間、記憶の中にあった雪と岩の形が、六年前よりずっと近いところへ戻ってきた。
「西側に岩の窪地があった。上空からは見つかりにくい。保温装備と水、止血用具、武器を残した。敵に見つからず、天候が回復して救援が入れば、生きてる可能性はあった」
「でも、少佐は」
「可能性が高いとは思ってなかった」
エレジはそれ以上先を求めなかった。
カイルが続けるまで待っていた。
しばらくしてから、静かに聞く。
「ベルク伍長は、何て言ったんですか」
「『……俺、ここに残るんですか』」
あの声は、今でも覚えている。
「俺は『そうだ』と答えた」
ベルクはすぐには返事をしなかった。
状況を理解していなかったわけではない。自分が歩けないことも、敵が近づいていることも、部隊がこのままでは全員危険になることも分かっていた。
それでも、自分がそこに残されるという事実を受け入れるには時間が要った。
「少しして、『……分かりました』と言った」
エレジは黙って聞いていた。
「ベルク伍長が、自分から残ると言ったわけではないんですね」
「違う」
そこだけは、六年経っても迷わず言えた。
「俺が決めた。あいつではない」
五人で離脱した。
三日後、区域を取り戻した。
ベルクの遺体は、そのとき回収された。
そこまで話してから、カイルは、自分が作戦報告には一度も必要とされなかったことまで話していたことに気づいた。
海のことも、犬のことも、焦がした鍋のことも。
ベルクが生きているあいだにどんな先を見ていたのかと、自分が最後に何を決めたのかを、こうして一つの話として口にしたことはなかった。
エレジは最初から最後まで聞いていた。
「少佐は、その判断が間違っていたと思っていますか」
問いに責める響きはなかった。
「分からない」
カイルはそれ以外の答えを持っていなかった。
「今、同じ条件を渡されても、別の答えを出せるとは言えない」
「……今でも、思い出すんですか」
「ああ」
「ベルク伍長のことを」
「思い出す」
そこまで答えてから、カイルは続けた。
「同じ判断をするかもしれないからって、あれでよかったと思ってるわけじゃない。ベルクは残りたかったわけじゃない。俺が決めて、あいつは従った。その結果、死んだ」
全員で運び続けていれば、六人とも戻れなかったかもしれない。
それは今でも変わらない。
同時に、自分が一人をそこへ残し、その一人が戻らなかったという事実も変わらない。
どちらか一方で、もう一方を消せるものではなかった。
「忘れられないんですね」
「ああ。だが、忘れるつもりはない」
エレジはそれ以上何も言わなかった。
カイルも、説明を足さなかった。
「……悪かったな。訓練の話からずれた」
「いえ」
エレジはすぐに否定した。
「聞けてよかったです。少佐の過去が、一部だけでもわかったから」
一瞬、返す言葉がなかった。
重い話を聞かせたという意識はあった。エレジに何かを伝えるために始めたはずが、途中からは、自分が話したかっただけではないかとも思う。
それをエレジは負担だったとは受け取らなかった。
カイル自身の過去を少し知ることができたから、と言う。
「……そうか」
「はい」
それだけだった。
だが、話す前とは何かが違っていた。
ベルクを残した判断への悔いが消えたわけではない。六年前のことを、別の形で理解できるようになったわけでもない。
ただ、これまで自分の中にしかなかった記憶を、今はもう一人だけ知っている。
その事実が、思っていたより大きかった。
「それで」
エレジが少しだけ声を戻した。
「私とベルク伍長が逆だという話ですよね」
「ああ」
「どう逆なんですか」
「ベルクは、自分の先にいくらでも置いてた。海でも犬でも料理でも。できるかどうかは、そのあと考えるやつだった」
「はい」
「お前は逆だ」
エレジは黙って聞く。
「必要なことはよく考える。誰のために何をするべきかも、自分がどこまで負担すればいいかも考える。でも、自分が何を欲しいかはほとんど考えない」
エレジは反論しなかった。
「最初にお前が行きたい場所はないと言ったとき、ベルクのことを思い出した」
「……そんな前からですか」
「ああ」
「それで、気になってたんですね」
「少しな」
エレジはしばらく考えてから聞いた。
「ベルンハルトでも?」
「全部それでやったわけじゃない」
「はい」
「ただ、お前が本を買ったのは覚えてる」
「本?」
「必要だからじゃなく、読みたいから買った」
「ああ……」
「コーヒーも、どちらでもいいじゃなく、こっちが好きだと言った。年末には、また行きたい場所があるとも言った」
そうした一つ一つは、訓練の評価には何の関係もない。
それでもカイルは、全部覚えていた。
「そういうものまで、また無くすな」
エレジがカイルを見る。
「雪を怖がるようになったことだけを言ってるんじゃない。事故前に戻るために、自分の感情まで切る必要はない」
「……」
「怖いなら、それも条件に入れろ。疲れてるなら、それも入れろ。訓練じゃないところでも、自分が何を好きか、何をしたいかまでなくすな」
「最後のは、訓練とは関係ないですね」
「ないな」
エレジが少し笑った。
年が明けてから、この部屋でその表情を見るのは初めてだった。
「でも、少佐はそれも気にしてるんですね」
「ああ」
そこを否定する理由はなかった。
「まだ二十六だろ」
「ベルク伍長と二歳しか違わないです」
「だから余計に気になる」
ベルクは二十四歳で、まだ二十四だと言った。
その二年後にいるエレジが、自分には先に望むものなど何もないように生きていることを、カイルはずっと気にしていたのだと思う。
エレジはしばらくカップを見ていた。
「私、事故前に戻ることばかり考えてました」
「ああ」
「怖くなかった状態に戻れば、それで元に戻ったことになると思ってたんだと思います」
「今は」
「まだ戻りたい気持ちはあります」
そこまではすぐに答えた。
「でも……全部同じにする必要はないのかもしれません」
カイルはそれ以上、答えを与えなかった。
そこから先をどう捉えるかは、エレジ自身が決めることだった。
「それでいい。訓練では、今ある状態から判断しろ」
「はい」
話が一区切りついてから、エレジが尋ねた。
「ベルク伍長のことを、こういうふうに話したのは……私が初めてですか」
「作戦について説明したことはある」
「そういう意味ではなくて」
分かっている。
「こういう話をしたのは、初めてだ」
「そうですか」
「ああ」
エレジはその答えを受け止めるように黙った。
その沈黙の中で、先ほどの「聞けてよかったです」という言葉が、カイルの中でもう一度意味を持った。
なぜエレジには話せたのか。
彼女の判断を修正するため。それだけなら、ベルクを残した経緯だけを話せば足りた。
海の話も、犬も、焦がした料理も必要なかった。
それでも話した。
エレジなら、自分の判断を裁くことも、軽くすることも、こちらが求めてもいない慰めで覆うこともせず、そのまま聞くと思ったからかもしれない。
だから、これまで誰にも渡さなかったところまで話せた。
年末に、自分がエレジを好きになっていることを認めた。
今は、それとは別のところでも、この人間が自分にとって大きな存在になっていることが分かった。
自分の中に長く置いてきたものを知っている相手になった。
その認識を得てみると、年が明けてから自分が取っていた態度も、少し違って見えた。
距離は必要だった。
教官と訓練生として越えない線も、変えるつもりはない。
だが、その線を守ることと、以前そこにあった会話や気遣いまで消してしまうことは同じではなかった。
気づけば、二人ともほとんどコーヒーを飲んでいなかった。
カイルが自分のカップを持つと、もう温かいとは言えない温度になっていた。
「冷めたな」
「はい。でも飲めます」
「無理して飲むな」
「これは無理してないです」
「ならいい」
エレジは残っていたコーヒーを飲んだ。
こういう、訓練とは直接関係のないやり取りをすること自体が久しぶりだった。
「今日はもう戻れ」
「はい」
エレジは飲み終えたカップを机の端へ戻した。
「コーヒー、ありがとうございました」
「ああ」
立ち上がってから、エレジは一つだけ確認するように聞いた。
「明日の雪上も、普通に参加していいんですよね」
「当然だ」
「分かりました」
エレジは執務室を出ていった。
扉が閉まったあと、カイルは机の上に残った二つのカップと、その向こうに置かれた訓練記録を見た。
ベルクのことは、六年経っても残っている。
エレジの中にも、事故の前にはなかったものが残った。
どちらも、なかったことにはできない。
カイルは机の上の記録を閉じた。
戻らなくても、先へは進める。




