コーヒー
ベルンハルトへ下りた休養日から二週間が過ぎ、十一月も下旬に入ると基地の周囲から色が減っていった。空と雪と岩、それから針葉樹の暗い緑だけが残り、晴れた日でさえ山の光は硬かった。夜明け前には氷点下二十度を下回ることもあり、風が出れば露出した皮膚は数分で感覚を失う。
上級山岳戦術課程ではその頃から三日以上の連続行動が増えていた。今回も四人一組で基地を出発し、山中に設定された複数の地点を経由して三日目に指定地点へ帰投する。途中には偵察、通信、露営、経路選択が組み込まれ、教官は同行するものの、明確な危険がない限り判断には介入しない。
出発前、受講者たちは雪の上に装備を置いてカイルの話を聞いていた。
「三日間、予定どおりに進むことを目的にするな。予定は条件が変わる前に作ったものだ。現地の状態が変われば判断も変えろ。それから初日の余裕を使い切るな。三日目まで動く人間を初日だけ見て評価するな」
エレジは手元の記録板を見た。最初の地図課題以来、状態確認や負荷配分のたびに自分も人数に入っていることを確かめていた。四人で動くなら自分の疲労も装備の状態も、他の三人と同じように判断へ入れる。
「出発」
〇六四五、四人は基地を離れた。
初日の目的地は北西約十四キロの谷だった。午前中は晴れ、硬い雪面を予定どおりの速度で進めた。二番手を歩くエレジには周囲の斜面に溜まった雪がよく見えた。風下側には厚く積もり、尾根の一部には雪庇が伸びている。
一〇一五に最初の休憩へ入り、班長が全員の状態を確かめた。疲労は二か三で、エレジも二と答えた。右踵に異常はなく、冷えもなかった。
報告を終えると水分を取り、行動食を口にした。空腹はほとんど感じていなかったが、次の行動時間までに食べる機会はない。三日間動くために今のうちに食べておいた。
午後から雲が増えた。予定では尾根を越えて西側の谷へ下りることになっていたが、一三〇〇を過ぎると風が急に強まり、雪面の細かな雪が舞い上がった。尾根へ上がる手前で班が停止した時には稜線の輪郭もときどき見えなくなっていた。
「上、見えないな」
班長の声を聞きながらエレジもゴーグル越しに稜線を確かめた。
「風も強くなっています」
「予報より早い」
無線で確認した基地からの最新気象情報では、悪化するのは夕方からだった。けれど目の前ではすでに雪が舞っている。班長は尾根を見上げてから全員へ尋ねた。
「予定どおり越える?」
「ここまで来てる。尾根を越えれば下りだ」
別の受講者が地図を広げた。エレジの時計は一三一七を示していた。予定では一四〇〇前に尾根を越え、その後一時間半ほどで露営予定地に入る。今の状態なら行けない距離ではなかった。
ただ、地図の南側には尾根へ上がらずに使える経路があった。森林帯を通り、東へ回り込む。約三キロ長くなるが、尾根上を進まずに済む。
「南へ下がって森林帯を使ったほうがいいと思います」
「今日の目的地には届かないかもしれない。明日の行程が延びる」
「はい。それでも尾根上で視界を失うよりいいです」
地図を広げていた受講者がもう一度上を見た。
「まだ行けそうだけど」
「今は。ただ、風は強くなっています」
「越えるまで四十分くらいだぞ」
「四十分後も今と同じとは限りません」
班長は地図の経路を確かめながら考えていた。エレジもそのそばで返事を待った。
「南へ下がろう」
経路を変えて森林帯へ入ると風は弱くなったが、今度は雪が深くなった。脚を沈めながら進むため速度が落ち、一五〇〇になっても本来の露営予定地までは直線で約四キロ残っていた。このまま進めば到着は日没後になる。
「今日は切る」
班長の言葉にエレジは地図で近くの地形を確かめた。少し先には小さな窪地があり、風を避けられそうだった。
「ここなら露営できます。水は雪を使えますし、明日は北へ戻れば予定経路へ復帰できます」
「そこで泊まろう」
一五四〇に行動を終え、四人で作業を分担した。雪を踏み固めて風除けを作り、天幕を張る。エレジは火器で雪を溶かして水を作った。手袋を外す時間をできるだけ短くしながら指先も確かめたが、冷えはなかった。肩にも脚にも問題はない。
夕食を終える頃には天幕の外で風音が大きくなっていた。尾根へ上がっていれば、まだ移動していたかもしれない。エレジは行動記録に、経路を変えた時点で確かめていた風の増加と視界の低下、予報とのずれを残した。
夜間の交代警戒に入る前にはもう一度全員の状態を確かめた。疲労は四か五まで上がり、左足小指の圧迫感や軽い肩の張りを報告する者もいた。エレジも右足首に軽い張りが出ていた。
「疲労四。右足首に軽い張りがあります。痛みなし。冷えなし」
「いつから?」
「一時間ほど前です」
「明朝確認」
「了解」
報告はそのまま記録された。そんな程度まで言うのかと聞かれることもなく、エレジ自身も以前ほど口にするのをためらわなくなっていた。
二日目の朝も風は残っていたが、右足首の張りは消えていた。班は予定より一時間早く起床して食事と装備点検を済ませ、行動可能な明るさになるのを待って出発した。
前日の遅れを一度に取り戻そうとはせず、北へ進み、低い地点から予定経路へ復帰することになった。
午前中に第一偵察地点へ到着し、指定された地形の観察を始めた。
谷底には車両跡があり、林の中には人の移動痕が残っていた。遠方の木々の間には人工物らしい灰色の影もあったが、別角度から確かめると岩だと分かった。記録には、最初に人工物の可能性が高いと判断したこともその後の確認結果と一緒に残した。
二日目の午後には天候が回復した。ただ、前日の経路変更による遅れは残っていた。当初予定されていた第二偵察地点へ向かうかを決めるため、班は地図を囲んだ。
「第二を切る?」
「課題未達になる」
「行けなくはない」
エレジは時計と地図を見比べた。一四二〇。日没までは二時間弱で、第二地点まで約一時間、そこから露営予定地まではさらに一時間半かかる。
「行けば設営が暗くなってからになります」
「ヘッドランプはあるか」
「あります」
「ならできる」
エレジは第二地点から露営予定地までの経路を見ていた。ランプを使えば進める。けれどその先には三日目の行程も残っていた。
「第二地点を取るために、暗くなってから露営地を探す必要はないと思います」
「じゃあどうする」
「第二を放棄して露営を優先します」
「課題を一つ落とす」
「はい」
「理由は」
「明日の最終行程を残すためです」
班長も地図を見ていたが、第二地点から露営予定地までを確かめると口を開いた。
「俺も賛成」
もう一人も賛成し、第二偵察地点は放棄することになった。
その夜は当初の露営予定地より約一キロ手前で行動を終えた。前日より早い時間に天幕を張ることができ、全員の状態も悪くなかった。ただし偵察課題は一地点未達成になった。
三日目は夜明け前に起床し、行動可能な明るさになるのに合わせて出発した。最終日の行程は長かった。雪は止んでいたが、前日の風で雪面の硬さが場所によって大きく違う。硬いところでは歩きやすい一方、吹き溜まりへ入ると膝まで沈んだ。
午前十一時、班員の一人の疲労が六まで上がった。班長が荷物を少し分けると言うと、エレジは四人全員の状態を確かめた。
「無線は私が持ちます」
「じゃあ食料を俺が」
「予備装備はこっちへ」
三人で分け、エレジが受け取ったのは約三キロだった。まだ持てる余力はあったが、それ以上を自分の背嚢へ入れることはしなかった。
一三三〇には基地まで約五キロの地点へ着いた。帰投期限の一六〇〇までは余裕があったが、全員が疲れていた。エレジ自身も疲労六で、右肩には軽い張りがある。足に異常はなかったが、腹も減っていた。
班長が休憩を取るか尋ねるとエレジは答えた。
「取ったほうがいいです。時間はあります」
十五分休むことになった。エレジは水を飲み、雪の上に座ったまま手袋をした手で小さな包みを開いた。基地の売店で買った、木の実を砂糖で固めた菓子だった。ベルンハルトで食べたものに似ていて、この二週間に何度か買っていた。
「それ好きだな」
班員に言われ、エレジは開いた包みを手にしたまま答えに詰まった。
「……そうみたいです」
以前なら別に、と返していたかもしれない。けれど今は包みから一つ取って口へ入れた。噛むと甘さのあとに木の実の香ばしさが広がった。疲れているせいか、いつもより味が濃く感じられた。
休憩を終えて最後の五キロを歩き、基地の建物が見えたのは一五〇〇前だった。山岳門を通過したのは一五二七。四人全員が帰投し、負傷者はいなかった。
装備を返却して簡単な衛生確認を受けたあと、班ごとの講評が行われた。カイルの前には三日分の行動記録が置かれていた。
初日の経路変更について、班長が風速の増加と視界の低下を理由に挙げた。尾根の天候がその後さらに悪化したことは変更時点では確定していなかった。カイルはそこを確かめてから二日目の記録へ進んだ。
「第二偵察地点を放棄。任務未達成だ」
カイルの前に座る四人から返事はなかった。記録には第二地点を観察できなかったことも残っている。
「誰が提案した」
「私です」
「夜間設営は可能だ。なぜ行かなかった」
エレジは地図を囲んだ時と同じ行程を思い浮かべた。第二地点を経由してから設営し、その翌朝にはまた長い行動が始まる。
「三日目の行程を残していたからです。二日目に課題を一つ回収するために、班全体の疲労と夜間行動のリスクを増やす必要はないと判断しました」
「課題を落としてもか」
「はい」
「後悔は」
エレジは二日目の露営と今日歩いてきた道を思い返した。全員の状態を確かめ、四人で戻ってきたところまで考えて答えた。
「ありません」
カイルはしばらくこちらを見ていた。エレジも座ったままその返事を待った。
「分かった」
記録へ書き込んだあと、カイルは三日目の欄へ進んだ。
「負荷配分は改善してる。誰か一人へまとめなかったな」
「はい」
「自分の疲労も報告してる、六だと」
「はい」
「以前ならどうした」
エレジは一三三〇の休憩前を思い返した。疲れてはいたが、歩けなくなってはいなかった。
「まだ動ける、とだけ考えたと思います」
「今回は」
「疲労六の人間が四人の中に一人いる、と考えました」
カイルはその答えを聞いてわずかに頷いた。
「それでいい」
講評はそこで終わった。
*
その夜、宿舎へ戻ってシャワーを浴びたエレジはベッドに座ったまましばらく休んでいた。全身が重く、足の裏は熱を持ち、肩も張っている。眠気もあったが、すぐには横にならず、鞄からベルンハルトで買った渡り鳥の本を取り出した。
しおりを挟んだところには山脈を越える鳥について書かれていた。風向、高度、休息地点、食料。何百キロも移動する途中でどこに降りるのか。数ページ読んでも続きが気になり、エレジは次のページをめくった。
身体は疲れていて眠かった。それでももう少し読んでから、十五分ほど経ったところで本を閉じた。
翌日の午前中は装備点検と身体状態の確認だけで、午後は休養になっている。何をするかと聞かれれば以前なら特にないと答えていただろう。今はこの続きを読みたかった。
*
翌朝、食堂へ行くとカイルが一人でコーヒーを飲んでいた。教官用の席ではなく、窓際の端に座っている。エレジは少し迷ったが、そのまま通り過ぎようとした。
「ヴァイス中尉」
呼ばれて足を止めるとカイルはこちらを見ていた。
「はい」
「足は」
「筋肉痛があります。疲労は二まで戻っています。右肩に軽い張り。歩行に問題ありません」
「そうか。飲むか」
カイルの手元にはポットがあった。エレジはそのそばまで行き、中身を確かめた。
「コーヒーですか」
「ああ」
ベルンハルトで買っていた豆だろうか。あの店で二人で飲んだコーヒーを思い出した。
「……はい」
空いているカップへ注いでもらい、向かいの席に座った。一口飲むと食堂で普段出るものより香りが強かった。ベルンハルトの店で飲んだものと似ていたが、同じかどうかまでは分からなかった。
「どうだ」
エレジはもう一口飲んだ。香りは分かるが、まだうまく答えられなかった。
「分かりません」
「まずいか」
「まずくはないです」
「うまいのか」
手元のカップからは飲んだあとも香りが上がっていた。
「それも、まだ」
「そうか」
カイルは自分のコーヒーを飲み、それ以上は聞かなかった。エレジも両手でカップを持ち、もう一口飲んだ。温かかった。
窓の外ではまた雪が降っていた。午後は本の続きを読もうと決めている。そのあとに何をするかはまだ分からない。
カップを持ったまま、エレジは窓の向こうへ落ちていく雪を眺めた。




