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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
北部山岳特殊任務課程

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3/146

近接戦闘訓練



7


 十二月後半に入ったころから、北部山岳基地では一週間近く吹雪が続いた。


 悪天候そのものは珍しくない。雪や風を理由に訓練を止めていては、北部山岳で任務を遂行する部隊の訓練にはならない。

 しかし今回は、稜線では立っていることさえ難しい風が吹き、視界が数メートルまで落ちる時間が続いた。風下斜面には短時間で雪が積もり、雪崩の危険も高くなっている。


 予定されていた雪上課目の一部が延期され、翌週以降に組まれていた屋内課目が前倒しされた。

 その一つが近接戦闘だった。


 月曜の朝、受講者二十四名が格技場に集められた。

 床には薄いマットが敷かれ、壁際には訓練用の装備が並んでいる。格技場の中央ではヴォルフ曹長が、この週に行う訓練の説明をしていた。  

 近接戦闘の実技指導はヴォルフの担当だった。カイルは壁際で評価票を確認しながら、受講者たちを見る側に回っている。


 受講者たちは雪上装備ではなく、身体に沿った黒い訓練服を着ている。体格差も動きの癖も、防寒着の下に隠れない。

 二十四名の受講者の中で、女性はエレジ一人しかいない。女性としては背の高いほうだが、他の二十三名と並べば体格は小さい。列の中央より少し後ろに立っているエレジは、暗い髪を後ろでまとめ、長い前髪だけが額の横に残っていた。


 もっとも、これまでカイルがその体格差を意識する場面はほとんどなかった。射撃でも地図判読でも雪上行動でも、見るのは性別ではなく結果だった。

 男女ではなく個々の身体条件として扱えばいい。ただ、今日はその身体条件がそのまま訓練の条件になる。


 ヴォルフ曹長は説明を続けていた。


「今週は近接戦闘の基礎課目を前倒ししてやる。今日は立位からだ。基本動作を確認したあと、組み合わせを変えながら拘束と離脱を行う。明日以降は床上、制圧、武器保持まで進める。最終的には偵察任務中、近距離で敵と接触した状況までつなげる」


 最初は手首を取られた状態からの離脱だった。

 受講者を二人一組に分け、数回ごとに相手を替える。カイルは各組を見て回り、必要なところだけ評価票へ記入していった。


 近接戦闘を専門にしていた者と、そうでない者との差は早くから出た。腕力に頼る者、相手の手ばかり見て足が止まる者、離脱したあとも距離を取らない者。

 それぞれに違う癖がある。ヴォルフがその場で修正を入れ、カイルは次の組み合わせで同じ動きが出るかを確認した。


 エレジの組を見ると、体格の近い相手なら問題なく抜けている。相手の親指側へ手首を切り、半歩入って重心をずらす。相手が握る位置を変えても、足を止めずに角度を作った。


 手首からの離脱が終わると、正面から上腕を取られた状態、背後からの拘束へと条件が変わった。相手も体格の近い者から、身長や体重に差のある者へ替えていく。

 そこでエレジの動きに、はっきりした傾向が出た。


 三人目の相手はエレジより十センチ以上高く、体重差も大きかった。

 正面から両上腕を取られた瞬間、エレジは腕を外側へ開こうとした。

 相手の腕は動かなかった。

 そこで初めて足を踏み替え、腰を落として相手の肘へ角度を作る。離脱自体には成功した。


「止め」


 ヴォルフが二人を離した。


「ヴァイス中尉。最初に何をした」


「腕を開こうとしました」


「力で?」


「はい」


「相手のほうが重い。外れなかったから足を使ったんじゃ遅い。次は最初から使え」


「了解しました」


 カイルは評価票へ記入した。

 次の組み合わせでも、似た動きが出た。

 技術で処理できる間は問題ない。だが最初に選んだ動きを止められると、一度だけ力で状況を変えようとする。

 山での判断にも、わずかに似たところがあった。

 自分に余力があれば使う。自分が持てるなら持つ。以前ほど極端ではなくなったが、「まだできる」という事実を、自分に関しては大きく扱う癖が残っている。

 カイルはその後も全体を見ながら、エレジの組み合わせが変わるたびに動きを確認したが、同じ傾向が続いた。ヴォルフが評価票を確認しに来た。


「体格差をつけたほうが出ますね」


「ああ」


「もう一人やらせますか」


「いや、俺がやる」


 ヴォルフは異論を挟まなかった。カイルならエレジとの体格差が十分にあり、動きを理解したうえで抵抗の強さも変えられる。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「次は俺とやる」


「了解しました」


 エレジが向かいに立った。


 近くで向き合えば、先ほど列の中で見た以上に体格差は明確だった。頭一つまでは違わない。それでも肩の位置も腕の長さも違い、同じ姿勢で立てばカイルのほうが明らかに重い。


「両腕を取る。抜けろ」


「はい」


 カイルはエレジの両上腕をつかんだ。


「始め」


 エレジは右へ身体を切ろうとした。カイルがその方向を塞ぐと、今度は左へ動こうとする。どちらも止められたところで、両腕を外側へ開いた。


「それだ」


 エレジの動きが止まった。


「今、何をした」


「力で開こうとしました」


「相手が動かなければ?」


「別の方法に変えます」


「変えるまでに一手使ってる。最初から相手が動かない前提でやれ」


「はい」


「もう一度」


 同じ位置から始める。

 今度は腕を開こうとしなかった。右足を半歩内側へ入れ、腰を落とす。身体の向きが変わり、カイルの右腕にかかる力の方向がずれた。

 そのまま抜けようとしたエレジの腰を、カイルは左手で止めた。


「ここ」


 エレジは動きを止めた。


「最初はいい。ただ、次が遅い。俺がここを押さえたら終わる」


「はい」


「角度を作った時点で抜けろ。確認するな。もう一度」


 三度目は、エレジが先に動いた。

 カイルが両腕を固定した瞬間に足が入り、身体が斜めに沈む。腕を開く動きは出ない。肩が拘束の外へ抜け、そのまま距離を取った。


「それでいい」


「はい」


 一つの動作が終わり、次は背後からの拘束になった。


 しかしここからが問題だった。


 ひと通り各組を見て回り、再びエレジに目を戻したとき、エレジの相手になっていたのは彼女より十五センチほど背の高い受講者だった。

 男が背後へ回り、両腕ごと上半身を拘束する。エレジはすぐに腰を落とし、片側へ身体を切った。男がその方向へ足を入れて塞ぐ。エレジは反対側へ切り返したが、肩を抜く前に腕の位置を変えられ、もう一度身体を固定された。


 技術としては間違っていない。

 カイルはその組を見ながら、エレジがどこで次の動きを選ぶかを確認していた。だから最初は、相手のほうを見る必要はなかった。

 二度目の試行で、男がエレジを引き戻した。そこでカイルは相手の動きを見た。


 拘束する腕の位置そのものに問題はない。胸の下を横切らせ、両腕を身体の側面へ押さえ込んでいる。だが、エレジの腰が逃げるたびに自分の身体まで寄せていた。

 足と腕で空間を消せる場面でも、胸から腰までを使って押さえている。

近接戦闘では身体が触れる。必要なら密着もする。それだけなら、カイルも何も思わなかった。


「もう一度お願いします」


 エレジが言った。


「ああ」


 男が答え、もう一度背後へ入った。

 右腕が回る。エレジが腰を落とす。右を塞がれて左へ切り返し、肩を抜こうとする。

 男の手が腰へ移った。

 止めるために必要な位置だった。

 ただ、エレジの動きが止まったあとも、一瞬だけそこにあった。

 ほんのわずかな時間だった。

 エレジは気にした様子もなく、次にどう抜けるかを考えている。

 男のほうにも、表情に出るようなものはない。


 それでもカイルには分かった。

 露骨に何かをするつもりなら、そもそも訓練中にそんな真似はしない。本人に問いただしても、動きを止めるためだったと言える程度の接触しかしていない。

 だが、男が女に触れるとき、必要な接触にほんの少しだけ自分の意思を混ぜることがある。

 その程度のものは、同じ男のほうが気づくこともある。


「交代」


 カイルが言った。

 まだヴォルフの指示した回数は終わっていなかった。男が振り返る。


「少佐?」


「次は俺が見る。お前は三番へ入れ」


「了解しました」


 命令に疑問を挟むほどのことではない。男はすぐに離れ、別の組へ移った。

 エレジはその理由を尋ねなかった。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「今の二回、どこで止められた」


「最初は右を塞がれたあと、切り返しが遅れました。二回目は左肩を抜く前に腰を止められました」


 やはり、そこしか見ていない。


「そうだ。次は俺とやる」


「了解しました」


 エレジがカイルに背を向けた。カイルはその後ろに立った。

 自分とエレジの体格差は、先ほどの男と同じくらいだ。


「位置につく」


「はい」


 右腕をエレジの両上腕の外側から胸の下へ回した。肘から先を肋骨の前へ通し、左手で右手首を固定する。両腕を脇へ押さえ込み、腰を使う空間を消すために身体を近づける。

 それで十分だった。胸から腰まで押しつける必要はない。

 先ほどの男の動きが、やはり必要以上だったことを自分の身体で確認する。


 そうして呼吸をしたとき、ふわりと香りがして眉間に皺をよせた。目の前には髪がある。おそらく洗髪剤の香りだった。

 ここまで男とは違うのかと、今までも女性と組み手をしたことは何度もあるのに、それを感じた。

 腕の内側では、今度はエレジが息を吸った。

 肋骨がわずかに広がる。その動きが前腕に伝わり、背中からは訓練服越しの体温が伝わった。

 カイルは、自分がそれを認識したことに気づいた。


 必要な接触と、必要ではない接触の違いなら分かる。

 では、必要な接触の中で、必要ではないことまで感じ取るのは何なのか。


「始め」


 エレジが動いた。

 カイルは考えるのをやめ、右へ抜けようとした進路を足で塞いだ。


「止め」


 拘束を解いた。


「何を見た」


「右側が空いていました」


「俺が閉じた」


「はい」


「その次は」


「閉じられた時点で左へ変えます」


「やれ」


 エレジはもう一度背を向けた。同じ位置に腕を回す。

 先ほどと同じように身体が触れた。訓練服越しの熱も、呼吸によるわずかな動きも変わらない。

 カイルは足の位置を確認した。


「始め」


 右へ重心が移る。カイルが塞ぐ。その動きに抵抗せず、エレジは左へ切り返した。右足をカイルの足の内側へ入れ、自分の腰を低くする。背中を押しつけるのではなく、腕と胸の間に生まれたわずかな隙間へ左肩を滑り込ませた。

 肩までは通った。が、身体を回し切る前に、カイルは左手でエレジの腰を押さえた。

 逃げる方向への重心移動が止まる。


「そこまで」


 エレジは動きを止めた。


「肩を通したあとが遅い。空間を作ってから次を考えるな。作るのと抜けるのを続けろ」


「はい」


 腰から手を離し、続いて胸の前に回していた腕を解いた。そのあとまで、掌には触れていた位置の感覚が残っていたため強く拳を握って消した。それだけの接触を、手を離したあとまで認識している必要はない。


「もう一度」


 エレジが元の位置へ戻った。その後は三度繰り返した。

 三度目には切り返しが早くなり、四度目にはカイルが腰を押さえる前に身体の向きを変えた。五度目は最初から右を囮に使い、カイルが重心を動かした瞬間に左へ抜けた。


 次の動作に変わり、カイルは壁際へ戻り、エレジは次の組に移った。常にエレジだけを見ているわけにはいかない。二十四名全員について、拘束する側と離脱する側の両方を評価する必要がある。


 訓練は組み合わせを替えながら続いた。その中で、カイルは何度か同じ種類の違和感を覚えた。

 全員ではない。

 大半の受講者は、相手がエレジでも他の男でも変わらなかった。必要な位置をつかみ、必要なだけ身体を寄せ、動きを止めれば離す。訓練として当然の接触しかない。


 だが、そうではない者もいた。

 背後から拘束するとき、腕だけで十分に制御できているのに身体まで深く寄せる。腰の動きを止めるとき、手を置く位置を必要な範囲の中でわずかに選ぶ。離脱が止まったあと、解除までがほんの一拍遅い。


 どれも、動作だけを取り出せば必要なものとして説明がつく。

 もっと密着しろと教える技術もある。腰を押さえる必要もある。相手が完全に動きを止めたことを確認してから拘束を解くのも間違いではない。

 問いただしたところで、「訓練です」と答えられれば、それ以上のものはない。


 それでもカイルには分かった。

 男が男を相手にするときには選ばない触れ方を、エレジに対してだけ選んでいる。


 露骨な者はいなかった。二十四名まで残った受講者たちだ。そんなことを訓練中に表へ出すほど愚かではない。

 だからこそ厄介だった。


 エレジ自身は気づいていないようだった。

 拘束されれば、相手の足と腕を見る。使える関節と空いている方向を探す。相手が離せばすぐ次の試行について考えている。触れられたこと自体には、ほとんど意味を与えていない。

 それは訓練を受ける態度として正しかった。 


 カイルは評価票へ目を戻した。

 気づいたからといって、エレジの相手をすべて自分に替えることはできない。

 自分は彼女一人の教官ではない。


 それに、男性との身体接触が避けられない任務へ就く人間を、訓練でだけそこから遠ざけることにも意味はない。相手を選べない状況で技術を使えるようにするための近接戦闘だった。


 問題があるとすれば、エレジが大きな相手に密着された状態から抜けるまでに、まだ時間がかかることだった。

 訓練はしなければならない。


 その日の講義が終わったあと、カイルはヴォルフを呼び止めた。


「今日の近接、ヴァイス中尉の組を見てたか」


「見てました」


「技術の話じゃない」


 それだけでヴォルフには通じた。


「……何人かいましたね」


「お前も気づいてたか」


「はい。必要以上に寄せてるように見えるのが二、三人。全部見てたわけじゃないので、他にもいるかもしれませんね。離すのが遅いのもいたように思います。まあ、逆にぎこちなくなるのもいますが」


「注意するか」


「できます。ただ、今日の程度だと個別に注意するのは微妙ですね。拘束が解けたらすぐ離れろ、必要以上に身体を寄せるな。そのあたりは全員にもう一度言えます」


 ヴォルフはそこで言い淀んだ。

 カイルが先を促すと、ヴォルフは続けた。


「あれを全部、意図してやってるとは思いません」


「どういう意味だ」


「行為として明確ではないですし、こう言ってはあれですけど、ヴァイス中尉は魅力的ですからね」


 カイルの顔から表情が消えた。


「誤解しないでくださいよ。男二十三人の中に女が一人です。しかも、もう何か月もこの山の中にいる。外出できる日はあっても、生活のほとんどは基地と訓練です。言い方は悪いですけど、あいつらは飢えた狼みたいなもんですよ」


「だから仕方ないと?」


「まさか」


 ヴォルフは即座に否定した。


「欲があるのと、それを相手に向けるのは別です。嫌がる相手に触るのも、訓練を口実にするのも論外です。そこまで行けば俺も止めます。ただ、今日の何人かは、自分でもどこまで意識してるか分からないでしょうね」


「無意識に出てると?」


「半分は。女だと意識しないようにしてても、実際に身体が触れれば別です。近接は距離が近すぎる。腕も腰も触るし、身体ごと押さえることもある。そこで一瞬、男として意識するところまでは、なくせと言ってなくなるもんでもないでしょう」


 カイルには、その意味が分かった。

 自分も男だから分かる、という部分だけではなく、二十三人を何か月も見てきた。

 普段ならエレジを他の受講者と変わらず扱っている男が、身体を密着させた瞬間だけ、ほんのわずかに動きを変える。腕を置く位置、身体を寄せる距離、拘束を解くまでの一拍。その違いは、見ていれば分かった。


「ただ、ヴァイス中尉だけ組み合わせを変えるのは違うと思います。ここで避けても、実際にはもっと悪い条件で拘束される可能性がある。相手を選べない状況で抜けられるようにするための訓練ですから」


 そこはカイルも同意だった。

 訓練の中で抜けられればいいわけではない。実際に拘束されたときに使えなければ意味がない。相手の性別も体格も、どんな意図で触れてくるかも選べない。


「それに、女性だからって理由で条件を変えたら、本人が一番納得しないでしょう」


「ああ」


「なら、続けましょう。明日から接触の基準をもう一度全員に確認します。明らかに越える奴がいたら、その場で俺が止めます」


「頼む」


「ヴァイス中尉のほうは、今日の感じだと体格差がある相手への対応がまだ残ってますね」


「ああ。密着された状態で最初の動きを潰されると、次を選ぶまでに一度止まる」


「明日は床もあります。そっちでどう出るかですね」


「そうだな。それを見てから――」


 そこまで言って、カイルは言葉を止めた。


 明日の課目は床上での拘束だった。


 肩、腕、腰を押さえ、相手の体重を受けた状態から離脱する。立位より使える方向が少なく、体格差も直接出る。今日見つかったエレジの課題を確認するには適している。


 同時に、今日以上に身体が触れる。

 床に組み伏せられたエレジの姿が浮かんだ。

 今日と同じことが起きる可能性は高い。


 ヴォルフの言うとおり、すべてが意図的なものではないのだろう。だから事前に注意したところで完全にはなくならない。実際に起きても、訓練上必要な接触との境界が曖昧なら、その都度咎めることも難しい。


 まして二十四名が同時に動く。カイルもヴォルフも、エレジの組だけを見ているわけにはいかない。


 見ていないところで起きたものは、止めることさえできない。

 それを承知で、同じ条件を続けるのか。


 訓練はしなければならない。

 実任務では相手を選べない。


 だが、相手を選べない状況に対応するための訓練と、訓練中に必要のない接触まで受けさせることは、同じではない。


 必要な条件だけを残せばいい。

 大きな相手に拘束され、身体を密着させられた状態から抜けること。最初の動きを封じられても、止まらず次を選ぶこと。

 それらを身につけるために、組み合わせを変えて同じ課目を繰り返す必要はない。相手を固定すればいい。


 しかも、抵抗の強さと方向を変えられ、エレジの動きをすでに把握している人間に。


「グレイ少佐?」


 ヴォルフに呼ばれ、カイルは思考を切った。


「ヴォルフ曹長、明日の組み合わせを一部変える」


 ヴォルフは片眉を上げたが、続きを待った。


「密着の多い拘束からの離脱は、ヴァイス中尉を通常のローテーションから外す。体格差への対応とまとめて補講に回す」


「補講ですか」


「ああ。本課目の時間は他の組を見せる。拘束する側と抜ける側の動きを観察させて、どこで重心が変わったか、何を選んで失敗したかを記録させる」


「実技は別に?」


「そうする」


「相手はどうします」


「俺がやる」


 ヴォルフはわずかに間を置いた。


「少佐が?」


「俺なら体格差がある。抵抗の強さも方向も変えられる。今日の動きも見てる」


 理由はそれで足りた。

 相手を固定すれば、相手が変わるたびに生じる条件差もなくなる。どこまでがエレジ自身の判断の遅れなのかも見やすい。


「分かりました」


「手首や上腕みたいに、通常の接触で済む課目は今までどおり全員と組ませる。外すのは密着の多いものだけだ」


「それなら問題ないでしょう」


「明日の開始前に俺から話す」


「ヴァイス中尉、納得しますかね」


 そこはカイルも考えていた。

 女性だからという理由で訓練条件を変えられたと受け取れば、エレジは納得しないだろう。

 だが、訓練を減らすわけではない。別に時間を取り、必要な水準までやらせる。


「させる」


「強引ですね」


「必要な訓練を、必要な条件でやらせるのが教官だ」


 ヴォルフはそれ以上何も言わなかった。

 カイルも、この判断に今日見た何人かの男の手がどれだけ影響していたのかまでは考えなかった。


    *


 翌朝、格技場には前日と同じ二十四名が集まっていた。

 訓練が始まる前に、カイルはエレジだけを呼んだ。


「ヴァイス中尉」


「はい」


 壁際まで移動してから話をする。


「今日から近接の一部を別にする」


「別、ですか?」


「身体全体を使う拘束からの離脱は補講に回す。本課目ではその実技には入らず、他の受講者の動きを見てレポートを作れ」


「補講はいつですか」


「火曜と金曜。十八時三十分から一時間」


「相手は?」


「俺だ」


「……少佐が?」


「ああ」


「……分かりました」


 それだけだった。カイルは、理由を聞かれると思っていた。


「反対しないのか」


 エレジは質問の意味が分からないようだった。


「なぜですか」


「お前だけ通常課目から外す」


「免除されるなら反対します」


 答えはすぐに返ってきた。


「でも、補講ですよね」


「ああ」


「なら訓練が減るわけではありません。それに、教官が必要だと判断したことなら従います」


 カイルは、その答えを予想していなかった。


「理由を聞かなくていいのか」


「必要なら説明してくださるでしょう」


「ああ」


「なら、それでいいです」


 あまりにも簡単だった。

 カイルは、納得しなければ体格差から説明するつもりでいた。

 反応時間も、抵抗条件も、評価基準も並べられる。必要なら補講で何を確認するのかまで話すつもりだった。

 エレジは、そのどれも求めなかった。


「……分かった。戻れ」


「はい」


 エレジは列へ戻った。

 教官が必要だと判断したことなら従う。

 必要なら説明してくれると思っている。

 それは単に教官の指示だから従うのとは少し違った。


 カイルは、エレジが自分の判断をそこまで疑わずに受け取るようになっていたことを、このとき初めて知った。


 格技場の中央で、ヴォルフが訓練開始を告げた。


 

8


 火曜日の一八二〇、エレジは格技場へ入った。


 昼間の本課目では、予定どおり密着の多い拘束訓練から外れ、他の受講者の実技を観察していた。

 床上では立位より使える方向が少なく、最初に作った空間を塞がれたあと、そこで力を足した者ほど抜けられなくなっていた。昨日、自分がカイルに指摘されたのと同じ失敗だった。

 記録には、拘束側の重心が動いた方向と、離脱側が次に選んだ動きを書き留めてある。


 格技場には、カイルだけがいた。


「昼の記録は」


「持っています」


「あとで見る。実技を先にやる」


 エレジが記録板を壁際へ置くと、カイルはマットの中央を示した。


「背後、正面の順でやる。時間が残れば床まで行く」


「床からではないんですか」


「立った状態で直せるところを先に直す。床に行けば使える方向が減る」


「分かりました」


 痛みが出たら申告すること、抜けられないと判断したら三回叩くこと、停止の指示にはすぐ従うことを確認してから、最初の実技に入った。


 背後から胴体を拘束された状態からの離脱は、昨日も繰り返した形だった。


 エレジが背を向けると、カイルが後ろから両腕を回し、上腕ごと胴体を抱えるように固定した。肘を外へ開こうとしても動かせない程度まで腕の自由を奪い、そのまま背後から距離を詰める。背中側の空間がなくなり、上体だけを捻って逃げることもできなくなった。


 腕だけを強く締めつけているわけではない。肩、腰、足の位置を合わせて、エレジが力を出せる方向そのものを減らしている。

 抜けるには、まずわずかに残された方向へ動いて空間を作り、塞がれたならそこで力を競わず、別の方向へ切り替える必要がある。


「始め」


 エレジは右へ動き、カイルが塞ぐのに合わせて左へ切り返した。判断は昨日より早かったが、できた隙間へ肩を通したところで腰を押さえられた。上体だけが先へ出て、足が残っている。


「止め」


 拘束が解ける。


「切り返しは早い。そのあとは遅い」


「足ですか」


「ああ。肩と一緒に出せ。腰が残れば止められる」


「もう一度お願いします」


 二度目は、指摘された足の位置に注意した。右を塞がれてから左へ切り返し、肩と同時に足を運ぶ。今度は腰まで続けて回せたが、カイルが重心を移すのに対してわずかに力を足してしまい、そこで動きを止められた。


「止め」


 拘束が解けると、エレジは失敗した動作を頭の中でたどった。足の位置は合っていた。遅れたのはそのあとだ。


「今、押し返したな」


「はい」


「動かないと思ったら次へ変えろ。そこで勝とうとするな」


「はい」


 三度目は、最初の動きを止められた時点でそこを捨てた。カイルが右を塞ぐのに合わせて左へ切り返し、肩と足を同時に入れる。さらに重心を移されると、その方向へ力を足さず、空いた側へもう一度身体を返し、拘束が外れた。


「今のだ」


「はい」


 その後は、背後からの拘束でも腕を押さえる位置や身体の固定の仕方を変えながら繰り返した。

 両腕ごと胴体を抱え込まれる形だけでなく、片側の腕を強く制限される形や、腰の動きを先に封じられる形も試す。拘束が変われば、最初に使える方向も変わった。


 エレジは一つの抜け方を繰り返すのではなく、その都度どこが固定され、どこに動ける余地が残っているかを確かめた。最初を塞がれても力を足さず、次の方向へ切り替えられることを確認した。


「背後はいい。次、正面」


 エレジはカイルと向かい合った。


「腕力で広げようとするな。足と腰を使え。最初を止められたら固執するな」


「はい」


 カイルが正面から一歩入り、エレジの両腕ごと胴体を囲うように腕を回した。

 上腕を脇へ押さえ込まれ、肘を外へ開く余地がなくなる。さらに腰を使って逃げられないところまで間合いを詰められると、エレジの上体はカイルの胸元に近い位置で固定された。


 拘束の強さも、身体の距離も、先ほど背後から押さえられたときと大きくは変わらない。それなのに、正面から向かい合った途端、同じ接触には感じられなくなった。


 少し目線を上げれば、すぐ近くにカイルの顔がある。腕の位置を確認しようとして視線を動かしても、肩や胸元、その向こうにいるカイル自身まで自然と視界に入った。

 これまでは拘束されれば、どこを固定されているか、どちらへ動けるか、それだけを見ていたはずだった。


 昨日から何度もカイルに身体を押さえられている。背後から腕を回されたときも、腰を固定されたときも、それを訓練に必要な接触としてしか認識していなかったのに、それが今は違った。


 エレジは初めて、自分がカイルと身体を触れ合わせるほど近くにいることを意識した。


「始め」


 エレジが足を入れるより先に、カイルが重心を落とした。わずかに残っていた空間が消え、動き出したときにはもう腰を使える余地がない。


「止め。遅い」


「はい」


「もう一度」


 二度目は、カイルとの距離を意識しないようにした。拘束が完成したらすぐに足を入れ、腰を切る。最初の方向を塞がれたら、そこで力を使わず次へ変える。考えるのはそれだけでいい。


 カイルが再び正面から両腕を回した。エレジは足の位置と重心に意識を向け、さっき気になった近さについては考えないようにした。


 ところが、考えないと決めたこと自体が、かえってそこへ意識を向けることになった。

 両腕を固定しているカイルの腕だけを見ればいいのに、その腕が自分の身体を囲んでいることまで分かる。胸元にあるわずかな距離も、そこから伝わる身体の動きも、さっきまでは単なる拘束の条件だったものが一つずつ意識に入ってきた。


 顔を上げる必要はなかった。見なくても、カイルがすぐ目の前にいることが分かる。そのことを意識から追い出そうとするほど、本来なら見る必要のない情報ばかりが鮮明になった。


「始め」


 指示と同時に動くはずだった。だが、エレジが足を踏み出したときには、カイルはすでに重心を落としていた。先ほどまで残っていたわずかな空間が塞がれ、腰を切るための余地がなくなる。


「止め」


 そこでカイルは力を抜き、拘束を解いた。

 遅れたのは、ほんの一拍だった。それでも、相手に先に動かれれば十分だった。


「疲れてるか」


「いいえ」


「腕は」


「問題ありません」


「息苦しいか」


「いいえ」


「怖いか」


「それはありません」


 最後の問いは迷わなかった。

 カイルに拘束されることへの恐怖はなかった。必要以上の力を使うことはなく、危険があれば自分より先に止める。それは昨日までの実技で十分に分かっている。


 身体にも問題がなく、手順も理解している。それでも開始が遅れるなら、同じ形を繰り返すだけでは直らない。

 カイルもそう判断したらしい。


「形を戻す。抵抗しない。動きだけ確認する」


「はい」


 カイルはもう一度正面からエレジを拘束した。ただし今度は、両腕を固定する形だけを作り、エレジの動きを止めるほどの力は加えなかった。


「足からだ。そこから腰、肩まで続けろ」


 エレジは指示された位置へ足を入れ、その一歩を起点に腰を切った。身体の向きが変わるにつれて腕との間に空間が生まれ、そこへ肩を通す。そのまま足を続ければ、動作は途中で途切れることなく拘束の外までつながった。


「もう一度」


 二度目も同じだった。抵抗されなければ、どこから動き始め、次に何をつなげればいいのか迷うことはない。手順そのものが分からなくなったわけではなかった。


 二度目の動きを確認すると、カイルは今度はエレジの両腕をしっかりと固定した。


「次は止める」


「分かりました」


 カイルの腕に力が入り、逃げられる方向が狭くなる。やはり距離は気になったが、エレジはそれを消そうとはせず、足を置ける位置だけを確認した。


「始め」


 最初に選んだ方向へ足を入れると、カイルがすぐに重心を移して塞いだ。エレジはそこで力を足さず、反対へ切り返した。腰を切り、できた空間へ肩を通し、足を続けると、拘束が外れた。


「今のはいい」


「はい」


 動作そのものに問題はなかった。正面から拘束されるとカイルとの接触は意識に入ってくるが、それを気にしないようにしたときとは違い、今はそのままでも必要な動きを選ぶことができた。


 その後は、腕を固定する高さやカイルの立つ位置を変え、いくつかの正面拘束から離脱を繰り返した。拘束の形が変わるたび、エレジはどこを固定され、どちらに動ける余地が残っているかを探し直した。


 カイルが正面にいることは、その間も意識から消えなかった。それでも、もうそれを消してから動こうとはしなかった。

 最初の方向を塞がれれば次へ変え、使える空間が変わればそれに合わせて選び直す。何度か条件を変えても、最初の二回のように動きが遅れることはなかった。


 ただ、昨日まで何とも思わなかったカイルとの接触が、なぜ今日になって気になったのかは分からなかった。


 いつの間にか、壁の時計は一九二〇を回っていた。


「床にはいかない。今日はここまでだ。今から始めても中途半端になる」


「はい」


 エレジは昼間に見た床上の実技を思い出した。仰向けになった離脱側を、拘束側が上から押さえる。立位より使える方向が少なく、身体の距離も近くなる。

 その課目を思い浮かべたとき、最初に考えたのは離脱の手順ではなく、カイルとの距離だった。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「さっき遅れた理由は分かったか」


 エレジは考えた。動きを遅らせた原因なら、ある程度は分かっている。必要のないことへ意識を取られて、開始への反応が遅れた。


「余計なことを気にしていました」


「何を」


 そこまで聞かれて、エレジは答えに詰まった。


 カイルとの距離が気になった、と言えばいいはずだった。自分でもそれは分かっている。それなのに、本人を前にして言葉にしようとすると、なぜかためらわれた。


「……まだ、うまく説明できません」


「そうか」


 カイルはそれ以上追及しなかった。


「なら無理に答えを作るな。分からないなら分からないままでいい」


「はい」


 補講を終えて格技場を出たあとも、エレジはそのことを考えていた。


 これまで他の受講者に拘束されたときは、どこを固定されているか、相手の重心がどちらにあるか、どこに逃げる余地が残っているか、それだけを見ていた。昨日カイルと組んだときも、今日背後から拘束されたときも同じだった。


 変わったのは、正面から向かい合ったときだった。

 拘束の方法が特別だったわけではない。身体の距離も、背後から押さえられたときと大きく違わない。それなのに正面から腕の中に拘束された途端、目の前にいるのがカイルだということまで意識に入ってきた。


 それを気にしないようにしたことで動きが遅れた。そこまでは分かっている。


 けれど、なぜカイルとの距離を意識したのかは分からない。それどころか、なぜ本人にはそのことを言えなかったのかも、エレジには説明できなかった。


     *


 金曜日。予定時刻の十分前に格技場へ入ると、カイルはすでにマットを確認していた。


「身体は」


「問題ありません」


「火曜の正面から確認する」


「はい」


 エレジがマットへ上がると、カイルが正面から両腕ごと胴体を拘束した。

 腕を回され、身体の自由がなくなるところまで距離を詰められる。やはり近い、とエレジは思った。

 けれど今度は、それを意識しないようにしなかった。

 近いことは分かっている。そのまま、足を置ける位置を見る。カイルの重心がどこにあり、最初にどちらへ動けるかを確かめる。近さを感じていることと、必要な情報を見ることは、同時にできるはずだった。


「始め」


 エレジはすぐに足を入れた。カイルがその方向へ重心を移して塞ぐと、そこで押し返さずに反対へ切り返す。腰を切って生まれた空間へ肩を通し、そのまま足を続けると、拘束が外れた。


「もう一度」


 二度目は、カイルが最初に塞ぐ方向を変えた。

 エレジもそれを見て選択を変えた。最初の動きに固執せず、空いた側へ腰を切り返して抜ける。


「火曜の遅れはないな」


「はい」


「理由は分かったか」


 火曜日には、うまく説明できないと答えた。

 けれど今なら、何が動きを遅らせていたのかは分かる。カイルとの距離を意識したことではない。それを気にしないようにして、かえってそこへ意識を使いすぎたことが原因だった。


 ただ、なぜカイルとの距離が気になるのか。それだけは、二日考えても分からなかった。


「何が気になっていたのかは分かりました。でも、なぜ気になるのかは分かりません」


「そうか」


 カイルはそれ以上答えを求めず、床上の訓練へ移った。


 エレジはマットの中央に仰向けになった。昼間に何度も見た姿勢だったが、自分が下になると、立位より使える方向が少ないことが身体ではっきり分かった。


 カイルはすぐには拘束に入らなかった。エレジの横で一度姿勢を確認してから、まず肩を押さえる位置を示し、次に腰へ手を移して、どこまで動きを制限するかを確かめる。関節に無理な力がかからず、それでも離脱に必要な動きはきちんと妨げられる位置を確認しているのだと、エレジにも分かった。

 それからカイルは、実際に拘束する位置へ身体を移した。


「腕で俺を持ち上げようとするな。腰で空間を作れ。最初を塞がれたら変える」


「はい」


「痛みが出たら言え。三回叩くのも同じだ」


「分かりました」


 カイルはエレジの身体をまたぐように位置を取り、先ほど確認したとおりに肩と腰を押さえた。体重をそのままかけているわけではない。

 それでも、背中を床につけた状態で上から動きを制限されると、自分より大きな身体をはっきり感じた。


 火曜日の正面拘束で意識したカイルとの距離は、床の上ではさらに近く感じられた。

 それでも、やるべきことは分かっている。腕で押し返さず、腰で空間を作る。塞がれたら、力を足さず別の方向へ変える。


「始め」


 拘束が始まり、肩と腰に圧力が加わった瞬間、エレジは思わず身体を強張らせた。腰を動かすより先に両腕でカイルを押し返していた。

 そこで初めて、自分が教わったのとは逆のことをしていると気づいた。押しても、カイルの身体はほとんど動かなかった。


「止め。腕で押すな」


 カイルが拘束を緩めた。


「はい」


「昼に見てただろ。力で離そうとするほど、相手の重さをまともに受ける。腰から動け」


「はい」


「もう一度」


 二度目は腰から動くことだけを確認してから拘束を受けた。

 カイルの重さが肩と腰にかかる。床との間に動ける余地がほとんどなくなると、また相手との距離が強く意識に入った。エレジはそれを無視しようとして、火曜日と同じことをしていると気づいた。

 その迷いが残ったまま、開始の指示が来た。


 今度は腕を使わず、腰を切って片側に空間を作ることには成功した。だがカイルが重心を移してそこを塞ぐと、反対へ切り返す判断が遅れた。わずかにできていた空間が消え、身体を動かせなくなる。


「止め」


 カイルが拘束を解いた。


「火曜と同じだ」


「……はい」


 正面では動けたのに、床へ移るとまた遅れた。立位より距離が近くなったことで、火曜日と同じ迷いが戻っている。


「続けられるか」


「はい」


 カイルがもう一度、拘束する位置へ入った。

 肩と腰に重さがかかり、身体の自由がなくなる。近さは変わらない。しかし今度はそれを意識から外そうとはせず、カイルの重心がどこにあるかを確かめた。


「始め」


 腰を切って片側に空間を作ると、カイルがすぐに重心を移して塞いだ。エレジはそこで力を足さず、軽くなった反対側へ身体を返す。

 カイルも追ってきたが、その移動によって別の側にわずかな隙間ができた。肩を滑り込ませ、腰を回して拘束から抜けた。


「今のだ。もう一回」


「はい」


 もう一度同じ条件で繰り返した。今度も、最初を塞がれたところで方向を変え、動きを止めることなく抜けることができた。


「抵抗を上げる」


「はい」


 三度目は、拘束された時点で違いが分かった。肩と腰を押さえる位置は同じでも、先ほどまでより動ける余地が少ない。


「始め」


 エレジは腰を切った。

 カイルはすぐに重心を移し、作ろうとした空間を塞いだ。反対へ返しても、その動きについてくる。これまでなら抜けるきっかけになっていた程度の重心移動では、十分な隙間ができない。


 エレジは押し返す代わりに、自分の身体の向きを変えた。

 カイルもそれを止めるために重心を移す。その瞬間、それまで強く押さえられていた反対側の圧力がわずかに抜けた。

 エレジはすぐに腰を返した。カイルが再び塞ぐより先に、できた隙間へ肩と身体を滑り込ませ、拘束が外れた。


「できるようになったな。何が違った」


 エレジは、最初にカイルを腕で押し返したときから、今の動きまでを思い返した。

 違ったのは、距離を意識している自分をどうにかしようとしなくなったことだった。


「気にしないようにするのを、やめました」


「何を」


 聞かれて、もう何が気になっていたのかまで曖昧にする必要はないと思った。


「少佐が近いことです」


 カイルはすぐには何も言わなかった。訓練上の報告として聞いているはずなのに、その沈黙が思ったより長く感じられた。


「それが気になってたのか」


「はい」


「嫌なのか」


「いいえ」


「怖いのか」


「それも違います。理由は分からないんです」


 そこだけは、火曜日から二日考えても変わらなかった。

 カイルはしばらくエレジを見ていたが、それ以上理由を聞こうとはしなかった。


「なら今はそれでいい。それで動きを止めなくなったなら訓練上は問題ない」


「はい」


 その後も何度か抵抗を上げた状態で繰り返したが、動きが遅れることはなかった。

 近さは最後まで気になっていた。それでももう、その理由が分からないことまで、今ここで解決する必要はなかった。


 ふと壁の時計を見ると一九三〇を過ぎていた。カイルは記録板を取り、今日の結果を書き込んだ。


「背後、正面、床。最初を止められたあとの選択は問題ない」


「はい。ありがとうございました」


 カイルが記録を書き込むのを見ながら、エレジはふと考えた。

 カイルは本当に自分を動けなくしようとしていたわけではない。最初の動きを塞いでも、エレジが正しく次を選べば抜けられるだけの余地を残していた。

 では、その余地までなくしたらどうなるのだろう。

 気になると、口に出していた。


「少佐。一つ、お願いがあるんですが」


 カイルが記録板から顔を上げた。


「言ってみろ」


「一回だけ、本気でやってくれませんか」


 カイルは明らかに顔を顰めた。


「駄目だ」


「絶対に少佐が勝ってしまうからですか」


「そういう問題じゃない」


「でも、勝ちますよね」


「勝つ」


 即答だった。

 エレジも、その答えを疑ってはいなかった。だからこそ、カイルが次の選択肢を残さなければどうなるのかを知っておきたかった。


「自分がどれだけ無力なのか、分かっておきたいんです」


 カイルの表情から、拒否の色が少し薄れた。


「何のために」


「今までのは、私が技術を使えるように少佐が条件を作ってくれていました」


「ああ」


「体格も力も技量も上の相手が、本当に私を押さえようとしたら、どれだけ何もできないか知っておきたいんです」


 カイルはすぐには答えなかった。


「確認してどうする」


「その条件で、できるつもりにならずに済みます」


 それで意図は伝わったらしい。


「分かった」


「いいんですか」


「お前が知りたいのは、勝てるかどうかじゃない。差がどこにあるかだろ」


「はい」


「なら一回だけだ。ただし、本気と言っても怪我をさせる力は使わない」


「分かりました」


 エレジはマットへ向かいかけて、カイルを振り返った。


「立った状態からでもいいですか」


「ああ。……なら、拘束方法だけ先に決めろ」


「私が決めるんですか、なぜ」


「怖がらせたくない」


 予想していなかった答えだった。


 エレジはカイルを見た。これまでの補講でも、痛みがあれば言え、抜けられなければ叩けと何度も確認されている。怪我をさせないためだと思っていたし、それは間違っていないはずだった。

 けれど今の言い方は、少し違った。


「私が少佐を怖がると思いますか」


「思ってない。だからって、何をしてもいいことにはならない」


「……そうですね」


 せっかくカイルが加減をやめてくれるのなら、自分が本当に抵抗できなくなるところを知りたかった。

 力を入れても、方法を変えても、それ以上は状況を動かせないと自分で分かるところまで。


「床でお願いします」


「仰向けか」


「はい。そこから動けなくなるまで」


「分かった。ただし、怪我をするような力は使わない。関節は極めないし、首も使わない」


「はい」


「拘束が完成したら俺が言う。途中で無理だと思ったら三回叩け」


「分かりました」


 二人はマットの中央で向かい合った。さっきまでと同じ格技場なのに、これまでとは違って見えた。


「準備はいいか」


「はい」


「始め」


 エレジはすぐに距離を取った。

 カイルが来るのを待つ理由はない。正面を外し、腕を取られない位置へ回ろうとした。だが、カイルはその後を追うようには動かなかった。エレジが逃げようとした方向へ先に身体を入れ、使える空間そのものを狭めてくる。


 反対へ切り返した。

 その判断をしたときには、カイルも動いていた。

 腕を取られるが、エレジは引かなかった。取られた側へ踏み込み、身体を回して手を外そうとする。

 補講で覚えたとおり、一つ目が塞がれたなら次へ変える。

 だが、変えた先にもカイルがいた。


 手首を外す前に肘の位置を制限され、身体の向きを変えられる。ならば足を入れ直して重心を戻す。そう判断した瞬間、カイルはその足が支えになる前にエレジの身体を崩した。

 速さだけではなかった。

 自分が一つ選ぶたびに、その選択が次の動きの材料にされている。


 身体が傾き、床へ落とされると分かったときには、もう立て直せる姿勢ではなかった。

 エレジは反射的に受け身を取ろうとした。だが、予想していた衝撃は来なかった。カイルは崩した勢いのまま床へ叩きつけることはせず、エレジの身体を最後まで制御しきったまま背中をマットへ着けさせた。


 けれど、背中が床についた瞬間からは違った。

 エレジはすぐに腰を切ろうとした。床上訓練で何度も繰り返した動きだったが、そのための重心を作るより早く、カイルの位置が変わる。肩と腰を同時に制限され、身体を大きく動かせる方向が消えた。


 それでも、わずかに動かせる右側へ腰を切った。

 カイルは押し返さなかった。ただ重心を移し、その方向を塞いだ。

 ならば左へ変える。さっきまでなら、それで反対側の圧力が抜け、次の動きにつなげられた。

 今度は違った。

 エレジが左へ返す動きに合わせてカイルの身体も移り、空間ができる前に肩の動きを止められる。もう一度右へ戻そうとしたときには、最初に残っていたはずの余地までなくなっていた。


 そこで初めて、これまでカイルが何を残してくれていたのかが分かった。

 正しい方向を選べば抜けられるように、次の一手を打てるだけの空間があったのだ。

 今は、それがない。


「完成だ」


 そう告げられても、エレジはまだ動こうとした。

 ここで終われば、ただ止めただけになる。自分から頼んだのは、本当に何もできなくなるところまで知るためだ。まだ自分が見つけていないだけかもしれない。そう思って、腰を動かした。

 大きく返すだけの余地がないなら、わずかでも重心をずらして空間を作る。だが、その動きが形になる前にカイルの位置が変わり、腰から肩へつなげるはずだった力が途切れた。

 ならば肩から向きを変える。そこも塞がれる。脚を使って身体ごとずらそうとしても、踏ん張るための姿勢を作る前に重心を崩された。


 カイルは力任せに押さえつけているわけではなかった。痛みもない。息も苦しくない。それなのに、エレジが何かをしようとするたび、その動きが力になる前に終わらされる。

 腰も、肩も、脚も使った。方向も変えた。さっきまで教えられたとおり、一つが駄目なら次を選び続けた。

 それでも、何も変わらなかった。

 もう一度どこかを動かそうとして、エレジはやめた。

 いや、次は何をすればいいのかを考えようとしても、もう試してみようという気持ちが起こらなかった。


 動けば止められる。方向を変えても、その先を塞がれる。何度それを繰り返しても、自分の身体が自由になる瞬間は一度もなかった。その事実が身体の感覚として分かってしまうと、まだ抵抗しなければ、という気持ちそのものが静かに消えていた。

 

 エレジは力を抜いた。

 そのまま、すぐ上にいるカイルを見た。カイルもエレジを見ていたが、さっきまでとは目が違った。


 動きの良し悪しを見ているときの目ではない。抵抗しようと思えなくなっている自分を見ながら、その先に別の状況を考えているように見えた。

 エレジには、それが何なのか分からなかった。


「少佐、何を考えてますか」


 カイルはすぐには答えなかった。何を言うかではなく、どこまで言うかを決めているような間だった。


「実戦のことだ」


 エレジは少し笑った。


「実戦なら、負けていますね」


「そういうことじゃない」


 返事は思ったより強かった。エレジの笑みが消えた。


「相手が俺なら、負けてもそこで終わる。お前が叩けば離す。実戦では、そうならない」


 その言葉で、エレジにもようやく、カイルが何を見ていたのか少し分かった。

 負けることそのものではない。

 自分より大きく、強く、技量も上の相手に床へ組み敷かれ、逃げる手段を一つずつ失い、最後には抵抗しようという気持ちまでなくなった、そのあとのことを考えていたのだ。


「少佐、」


「ヴァイス中尉、叩け」


 エレジの言葉を遮るようにカイルは終わりを促した。エレジはマットを三回叩く。カイルはすぐに拘束を解いた。

 身体にかかっていた重さがなくなってからも、エレジは数秒そのまま仰向けでいた。自分が何をしても状況を変えられなかった感覚だけが残っている。

 カイルが手を差し出した。

 エレジはそれを取って起き上がった。


「どうだった」


 エレジは答えられなかった。立った状態から始めた。距離も取った。最初に動く自由もあった。それでも最後には、最初に決めたとおり仰向けで拘束された。


「全部止められました」


「そうだな」


「どう動くか決めてましたか?」


「床で押さえるところしか決めてない」


「途中は?」


「お前を見て決めた。動いたのを見てからでも間に合う」


「……それは、かなり嫌ですね」


「何がだ」


「私がずっと少佐に教えられてきたことを、そのままやられました」


「条件が変わったら次を選べ、だろ」


 エレジは黙って、さっきの動きを思い返した。右へ逃げればそこを使われ、反対へ変えればその変化を使われた。

 自分の判断が間違っていたというより、判断したあとの状況が次々に変えられていた。


「……私、弱いですね」


「俺と比べてるなら、当たり前だ。二十六の中尉が近接戦闘で俺と同じなら、俺が困る」


「もう少し言い方がありませんか」


「正しく動いても通らない相手がいると知りたかったんだろ。自分が弱いって話に変えるな」


 エレジは間を置いて頷いた。自分が無力だったという最初の感想は、少し違っていたかもしれない。

 判断はしていた。ただ、正しく選んだというだけでは、それを上回る相手に通用する保証にはならない。

 想像していたより差は大きかったが、それも含めて、頼んだ意味はあった。


「知れてよかったです。ありがとうございました」


「ああ」


 上着を取りに向かう。背後でカイルも記録板を片づけ始める。

 その音を聞きながら、エレジはふと、戦う前に言われた言葉を思い出した。


 『怖がらせたくない』


 本気で押さえ込まれたことより、そちらのほうが意識に残っていた。



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