コーヒー
4
ベルンハルトへ下りた休養日から二週間が過ぎ、十一月も下旬に入ると、基地の周囲から色が減っていった。
空と雪と岩、それから針葉樹の暗い緑だけが残り、晴れた日でさえ山の光は硬かった。夜明け前には氷点下二十度を下回ることもあり、風が出れば露出した皮膚は数分で感覚を失う。
上級山岳戦術課程では、その頃から三日以上の連続行動が増えていた。
今回の訓練も三日間で、四人一組で基地を出発し、山中に設定された複数の地点を経由して、最終日に指定地点へ帰投する。
途中には偵察、通信、露営、経路選択が組み込まれ、教官は同行するものの、明確な危険がない限り判断には介入しない。
出発前、カイルは受講者たちの前に立った。
「三日間、予定どおりに進むことを目的にするな」
雪の上に置かれた装備を見渡す。
「予定は条件が変わる前に作ったものだ。現地の状態が変われば、判断も変えろ」
受講者たちは黙って聞いている。
「それから、初日の余裕を使い切るな。三日目まで動く人間を、初日だけ見て評価するな」
エレジは手元の記録板へ視線を落とした。
自分を人数に入れる。
最初の地図課題で指摘されて以来、状態確認や負荷配分のたびに意識していた。四人なら四人で、自分だけを別に扱わない。
「出発」
〇六四五、四人は基地を離れた。
初日の目的地は北西約十四キロの谷だった。午前中は晴れ、雪面は硬く、移動速度も予定どおりだった。エレジは二番手を歩きながら周囲の斜面を見る。風下側には雪が溜まり、尾根の一部には雪庇が伸びていた。
一〇一五、最初の休憩に入る。班長が状態確認を始めた。
「疲労」
「二」
「二」
「三」
エレジの番になる。
「二。右踵異常なし。冷えなし」
「了解」
エレジは水分を取り、行動食を口にした。空腹はほとんど感じていなかったが、次の行動時間を考えれば今のうちに食べておく必要がある。自分も三日間動く四人のうちの一人だった。
午後から雲が増えた。予定では尾根を越えて西側の谷へ下りることになっていたが、一三〇〇を過ぎた頃、風が急に強くなり、雪面の細かな雪が舞い上がって視界が落ち始めた。班は尾根へ上がる手前で停止した。
「上、見えないな」
班長が言う。
エレジはゴーグル越しに稜線を見る。輪郭がときどき消えていた。
「風も強くなっています」
「予報より早い」
無線を確認する。基地からの最新気象情報では夕方から悪化する予報だったが、すでに始まっている。
「予定どおり越える?」
班長が聞く。別の受講者が地図を広げた。
「ここまで来てる。尾根を越えれば下りだ」
エレジは時計を見る。一三一七。予定では一四〇〇前に尾根を越え、その後一時間半ほどで露営予定地に入る。今の状態なら、行けない距離ではない。
地図の南側を見ると、尾根へ上がらず森林帯を使って東へ回り込む経路がある。距離は約三キロ増える。
「南へ下がって森林帯を使ったほうがいいと思います」
班長がエレジを見る。
「今日の目的地には届かないかもしれない」
「はい」
「明日の行程が延びる」
「延びます」
「それでも?」
「尾根上で視界を失うよりいいです」
別の受講者が上を見る。
「まだ行けそうだけど」
「今は。ただ、風は強くなっています」
「越えるまで四十分くらいだぞ」
「四十分後も今と同じとは限りません」
班長はしばらく考えた。
「南へ下がろう」
経路を変更して森林帯へ入ると、風は弱くなった。代わりに雪が深くなり、移動速度は落ちる。
一五〇〇、本来の露営予定地までは直線で約四キロあり、このまま進めば到着は日没後になる。
「今日は切る」
班長が言った。
エレジも地図を見る。少し先に小さな窪地があり、風を避けられる地形になっている。
「ここなら露営できます」
「水は?」
「雪を使えます」
「明日は?」
「北へ戻れば予定経路へ復帰できます」
班長が頷いた。
「そこで泊まろう」
一五四〇、行動を終了した。雪を踏み固め、風除けを作り、天幕を張って火器を準備する。全員で作業を分担し、エレジは雪を溶かして水を作った。手袋を外す時間をできるだけ短くしながら指先の状態も確認する。冷えはなく、肩にも脚にも問題はなかった。
夕食を終える頃には、外の風音が大きくなっていた。尾根へ上がっていれば、まだ移動中だった可能性がある。それでもエレジは、だから南へ下がった判断が正しかった、と結論づけることはしなかった。
判断した時点で見えていたのは、風の増加、視界低下、予報とのずれであり、それを基に南を選んだ。そのあと風がさらに強くなったことは、判断後に起きたことだった。
成功したことと、判断の過程が適切だったことは同じではない。訓練で何度も問われてきたことだった。
夜間の交代警戒に入る前、班長が全員の状態を確認した。
「一人ずつ」
「疲労四。左足小指に圧迫感あり」
「疲労五。異常なし」
「疲労四。軽い肩の張り」
エレジは自分の身体を確認してから答えた。
「疲労四。右足首に軽い張りがあります。痛みなし。冷えなし」
「いつから?」
「一時間ほど前です」
「明朝確認」
「了解」
それだけだった。誰も、そんな程度まで言うのかとは言わない。自分でも、状態を口にすることへの抵抗は少なくなっていた。
二日目の朝、風はまだ残っていた。右足首の張りは消えている。班は予定より一時間早く起床し、食事と装備点検を済ませ、行動可能な明るさになるのを待って出発した。前日の遅れを一度に取り戻そうとはせず、北へ進み、低い地点から予定経路へ復帰する。
午前中に第一偵察地点へ到着し、指定された地形の観察を始めた。谷底には車両跡があり、林の中には人の移動痕がある。さらに遠方に人工物らしい影が見えた。
「テント?」
班員が双眼鏡を覗く。
エレジも見る。灰色のものが木々の間にあり、形は一定しない。
「断定できません」
「人工物ではある?」
「その可能性は高いです」
記録には、灰色の物体、推定距離八百、用途不明、と書く。その後も観察を続け、別角度から確認したところ、物体は岩だと分かった。
班員が記録を消そうとするのを止め、残してくださいとエレジは言った。
「岩だったぞ」
「最初に人工物の可能性が高いと判断したことも記録したほうがいいです」
「間違いも?」
「はい」
自分が何を見て、どう判断し、その後何が分かったか。それも情報だった。
二日目の午後には天候が回復したが、前日の経路変更による遅れは残っている。当初予定されていた第二偵察地点へ向かえば、その日の露営地への到着が遅くなるため、班は地図を囲んだ。
「第二を切る?」
「課題未達になる」
「行けなくはない」
エレジは時計を見る。一四二〇。日没まで二時間弱。第二地点まで約一時間、そこから露営予定地までさらに一時間半かかる。
「行けば、設営が暗くなってからになります」
「ヘッドランプはある」
「あります」
「ならできる」
できる。その言葉に、エレジは少し反応した。
「できることと、選ぶことは別です」
班員がこちらを見る。自分で言ってから、エレジもその言葉を聞いた。
「第二地点を取るために、暗くなってから露営地を探す必要はないと思います」
「じゃあどうする」
「第二を放棄して、露営を優先します」
「課題を一つ落とす」
「はい」
「理由は」
「明日の最終行程を残すためです」
班長は地図を見る。
「俺も賛成」
もう一人も頷き、第二偵察地点を放棄することになった。
その夜は、当初の露営予定地より約一キロ手前で行動を終えた。前日より早い時間に天幕を張ることができ、全員の状態も悪くない。ただし、偵察課題は一地点未達成になった。
三日目は夜明け前から起床し、行動可能な明るさになるのに合わせて出発した。最終日の行程は長かった。雪は止んでいたが、前日の風で場所によって雪面の硬さが大きく違い、硬い場所では歩きやすい一方、吹き溜まりでは膝まで沈む。
午前十一時、班員の一人の疲労が六まで上がった。
班長が言う。
「荷物を少し分ける」
以前なら、エレジは自分が多く取ったかもしれない。今は四人全員の状態を見る。
「無線は私が持ちます」
「じゃあ食料を俺が」
「予備装備はこっちへ」
三人で荷物を分け、エレジが取ったのは約三キロだった。まだ持てる余力はある。それでも、持てるという理由だけで自分へ集めることはしなかった。
一三三〇、基地まで約五キロ。帰投期限は一六〇〇で、時間には余裕がある。全員が疲れており、エレジ自身も疲労六だった。右肩に軽い張りがあり、足に異常はない。空腹もあった。
班長が休憩を取るか聞いた。
「取ったほうがいいです。時間はあります」
十五分休憩することになった。エレジは水を飲み、雪の上に座ったまま手袋をした手で小さな包みを開く。
ベルンハルトで食べたものと同じ、木の実を砂糖で固めた菓子だった。街から戻ったあと、基地の売店にも似たものがあることに気づいて買っておいた。
班員が見る。
「それ好きだな」
エレジは一瞬止まった。
「……そうみたいです」
自分で答えた。
以前なら、別に、と言ったかもしれない。今は否定する理由がなかった。口へ入れて噛むと甘さのあとに木の実の香ばしさが広がり、疲れているせいか、いつもより味が濃く感じられた。
休憩を終え、最後の五キロを歩く。基地の建物が見えたのは一五〇〇前で、山岳門を通過したのは一五二七だった。四人全員が帰投し、負傷者はいない。
初日に予定経路を変更し、当初の露営予定地には到達しなかった。二日目には偵察課題を一地点放棄した。それでも、四人全員が自力行動可能な状態で帰ってきた。
装備を返却し、簡単な衛生確認を受けたあと、班ごとの講評が行われた。カイルは三日分の行動記録を机に置いていた。
「初日。予定経路を外れた」
「はい」
班長が答える。
「尾根を避け、森林帯へ変更しました」
「理由」
「風速増加と視界低下です」
「結果として尾根の天候はさらに悪化した」
「はい」
「それは判断理由に入るか」
班長が一瞬考える。
「入りません。変更時点では、その後の悪化は確定していませんでした」
「そうだ」
カイルは次の記録を見る。
「二日目。第二偵察地点を放棄」
「はい」
「任務未達成だ」
部屋が静かになる。
「誰が提案した」
エレジが「私です」と答える。
「理由」
「第二地点へ向かえば、露営地への到着が日没後になる可能性が高かったためです」
「夜間設営は可能だ」
「可能です」
「なら、なぜ行かなかった」
「三日目の行程を残していたからです。二日目に課題を一つ回収するために、班全体の疲労と夜間行動のリスクを増やす必要はないと判断しました」
「課題を落としてもか」
「はい」
「後悔は」
エレジは考えた。
「ありません」
カイルは数秒エレジを見た。
「分かった」
記録へ何かを書く。
「三日目。負荷配分は改善してる」
エレジは少しだけ姿勢を正した。
「誰か一人へまとめなかったな」
「はい」
「自分の疲労も報告してる、六だと」
「はい」
「以前ならどうした」
エレジは少し考えた。
「まだ動ける、とだけ考えたと思います」
「今回は」
「疲労六の人間が四人の中に一人いる、と考えました」
カイルはそこで少しだけ頷いた。
「それでいい」
講評は終わった。
*
その夜、エレジは宿舎へ戻り、シャワーを浴びてからベッドへ座った。全身が重く、足の裏は熱を持ち、肩も張っている。眠気もあったが、すぐには横にならず、鞄からベルンハルトで買った渡り鳥の本を取り出した。
しおりを挟んだところを開き、数ページ読む。山脈を越える鳥について書かれていた。風向、高度、休息地点、食料。何百キロも移動する途中で、どこに降りるのか。エレジはページをめくった。
疲れているし、眠い。それでも、もう少し読みたかった。
十五分ほどして本を閉じた。
翌日は午前中に装備点検と身体状態の確認だけがあり、午後は休養になっている。何をするかと聞かれれば、以前なら特にないと答えただろう。
今は本の続きを読みたい。
*
翌朝、食堂へ行くと、カイルが一人でコーヒーを飲んでいた。教官用の席ではなく、窓際の端だった。
エレジは少し迷ったあと、そのまま通り過ぎようとした。
「ヴァイス中尉」
呼ばれて足を止める。
「はい」
「足は」
「筋肉痛があります。疲労は二まで戻っています。右肩に軽い張り。歩行に問題ありません」
「そうか」
カイルは手元のポットを見た。
「飲むか」
エレジも見る。
「コーヒーですか」
「ああ」
ベルンハルトで買っていた豆だろうか、と考える。
「……はい」
カイルが空いているカップへ注いだ。それを受け取り、向かいへ座る。
一口飲むと、食堂で普段出るものより香りが強いのがわかった。ベルンハルトの店で飲んだものと似ていたが、同じかどうかまでは分からなかった。
「どうだ」
カイルに聞かれ、エレジはもう一口飲んだ。
「分かりません」
「まずいか」
「まずくはないです」
「うまいのか」
エレジはカップの中を見る。
「それも、まだ」
「そうか」
カイルは自分のカップへ口をつけ、それ以上は聞かなかった。
エレジももう一口飲む。
温かかった。
窓の外では、また雪が降っている。午後には本の続きを読むと決めている。ならそのあとは?
その先何をするかは、まだ分からない。
エレジは両手でカップを持ちながら、窓の向こうへ落ちていく雪を見た。今は、それでよかった。
5
十二月に入ると、雪に覆われた山を見ても、エレジは最初ほど白一色だとは思わなくなっていた。
風に削られた雪面は青みを帯び、日が当たる斜面には細かな光が散る。新雪の積もった場所と硬く締まった場所では歩いたときの音も違い、朝と午後では同じ斜面でも足裏へ返ってくる感触が変わった。
その日の訓練は、二人一組で行う経路選択だった。指定地点までの移動そのものは難しくないが、途中に複数の経路があり、どこを通るかによって所要時間と危険度が変わる。教官から与えられるのは地図、出発時刻、帰投期限、それから出発前の気象情報だけだった。
〇七一〇、エレジは組んだ受講者と基地を出た。空は曇り、気温は氷点下十二度。風は弱く、最初の分岐までは予定どおりだった。
「北と東、どっちにする?」
相手が地図を広げる。北側は短いが斜面が急で、雪の状態を現地で確認する必要がある。東側は森林帯を大きく回り込むため、三十分ほど余計にかかる。
「北を見ます」
「了解」
二人で斜面へ近づき、雪面を確認する。表面は硬く、新しい亀裂はない。雪庇も見当たらない。エレジはストックを刺し、数か所で状態を確かめた。
「今のところ問題なさそうです」
「行く?」
「はい」
北側を選び、斜面を越える。予定より二十分早く第一地点へ到着し、地形を記録して次の地点へ向かった。
午前中は順調だった。二人とも疲労は二、冷えも足の異常もない。一一二〇、短い休憩を取り、エレジは行動食を食べながら地図を見た。午後の経路は二つあり、西側の谷を使えば短く、南へ回れば長い。天候は安定し、時間にも余裕がある。
「西でいいよな」
相手が言った。
「たぶん」
「たぶん?」
「現地を見てからです」
「最近そればっかり言うな」
笑われ、エレジも少しだけ口元を緩めた。
「見ないと分からないので」
「グレイ少佐みたいになってきた」
「それは嫌です」
言ってから、自分でも少し驚いた。相手が声を上げて笑う。
「本人に言えよ」
「言いません」
休憩を終え、西側の谷へ向かった。入口までは問題なく、雪も深くない。だが谷へ入って十分ほどしたところで、相手の歩調が少し変わった。
エレジは後ろを見る。
「どうしました」
「何が?」
「左足」
相手が止まる。
「ちょっと踵が擦れてる」
「いつからですか」
「さっきから」
「確認しましょう」
「まだ平気だよ」
エレジは相手を見る。
「平気かどうかは、確認してから決めればいいです」
口にしてから、どこかで聞いたような言葉だと思った。相手も同じことを思ったらしい。
「本当にグレイ少佐みたいになってるぞ」
「座ってください」
「はいはい」
雪の上へ装備を下ろし、靴を脱いで確認する。左踵に赤みがあるが、水疱にはなっていない。
「痛みは」
「二くらい」
「出発時は」
「なかった」
保護材を当て、靴下を替える。立って数歩歩いてもらう。
「どうですか」
「ほぼない」
「なら行けます」
「医務官みたいだな」
「違います」
二人は再び歩き始めた。
谷の奥へ入ると、地形の状態が変わった。地図上では緩やかな谷だが、実際には数日前の風で雪が大量に溜まり、場所によって腰近くまで沈む。移動速度は大きく落ちた。
一二四五、第二地点まで残り約三キロ。帰投期限は一六三〇だった。
「このままでも行ける」
相手が言う。
「はい」
「ただ遅いな」
エレジは地図を見る。谷を抜ければ雪は浅くなる可能性がある。今の速度でも第二地点へ到達はでき、観察時間を短くすれば帰投期限にも間に合うかもしれない。
「進みます」
二人は続けた。十分、二十分と進んでも雪の深さは変わらず、交代で先頭を取るうちに身体が熱くなっていく。
一三一五、状態を確認する。
「疲労四。踵、痛み一」
相手が答える。エレジも自分を確認した。
「疲労三。異常なし」
時間を見る。ここから第二地点まで、現在の速度なら一時間近くかかる。到着は一四〇〇過ぎで、そのあとに観察と帰投が残る。
「どうする?」
相手が聞く。
「行けます」
答えたものの、エレジは地図を見たまま動かなかった。行けるという言葉が、さっきの自分の答えに残っている。
「待ってください」
「何?」
南側を見る。ここから低い尾根を越えれば森林帯へ出られる。第二地点へは遠回りになり、距離としてはさらに二十分ほど増えるが、今より雪が浅い可能性が高い。
「南へ出ます」
「遠回りだぞ」
「はい」
「今の谷も通れないわけじゃない」
「通れます」
「なら、どうして?」
エレジは谷の奥を見た。任務地点へは着ける。身体も動く。時間も、まだ完全に失ったわけではない。それでも、今分かっている条件を並べると、進めるという事実だけで西を選ぶ理由にはならなかった。
「この先の雪の深さが分かりません」
「うん」
「今の速度で進めば、第二地点への到達はできます。でも、そのあとに余裕がほとんど残りません」
「南なら時間は増える」
「距離は増えます」
エレジは低い尾根を見る。
「ただ、森林帯へ出れば歩行速度は戻ると思います」
「確実?」
「いいえ」
「じゃあ同じじゃない?」
「同じではありません」
エレジは谷の奥を見る。
「ここは、すでに雪が深いことが分かっています」
相手も前を見る。
「なるほど」
「南へ出ます」
「了解」
二人は谷を離れ、尾根へ上がった。傾斜はあるが雪は締まっている。二十分後には森林帯へ入り、予想どおり雪は浅くなった。歩行速度が戻り、第二地点へ到着したのは一四〇七だった。
予定より三十七分遅れていたが、観察には予定どおり二十五分を使い、一四三二に離脱した。帰投期限までは一時間五十八分あり、通常の速度なら間に合う距離だった。
しかし、一五〇〇を過ぎた頃、相手の歩調がまた少し落ちた。
「踵ですか」
「少し」
「痛み」
「三」
エレジは止まった。
「見せてください」
「期限」
「まだあります」
靴を脱がせて確認すると、朝より赤みが強くなり、水疱ができかけていた。エレジは保護材を交換し、五分ほどしてからもう一度歩いてもらう。
「これでどうですか」
「二くらい」
「速度を少し落としましょう」
「間に合わなくなるかも」
エレジは時計を見る。
「その可能性はあります」
「俺は歩ける」
「分かっています」
「なら行けるだろ」
エレジは相手の顔を見た。その言葉に、少し前までの自分がいた。
「行けることと、選ぶことは別です」
相手が黙る。三日間訓練で自分が口にした言葉だったが、今度は別の条件の中で、もう一度同じ言葉が出てきた。
「痛みを増やしてまで、期限を守る必要はありません」
「課題は減点だぞ」
「はい」
「いいの?」
「いいです」
言い切ってから、少し考える。
「……いい、ではなくて、その減点を受けるほうを選びます」
相手はしばらくエレジを見ていたが、やがて笑った。
「了解、中尉」
二人は速度を落とした。
一六三〇、帰投期限を過ぎる。基地まではまだ十分ほどあり、エレジは時計を確認したが歩調を上げなかった。
一六四二、山岳門を通過した。十二分超過。
「二名帰投。同行者一名、左踵に発赤と水疱形成の兆候あり。歩行可能、処置済み」
帰投報告を終えたあと、二人で衛生室へ向かった。診察では軽度の靴擦れと判断され、翌日の訓練参加にも支障はないとのことだった。
*
夕方の講評で、カイルは帰投記録を確認した。
「十二分遅れ」
「はい」
エレジが答える。
「原因」
「西側谷部の積雪が想定より深く、移動速度が低下しました。その後、南側森林帯へ経路変更。帰投途中で同行者の左踵を再処置し、速度を落としました」
「南へ変えた時刻」
「一三一七」
「その時点で西を進むことは可能だったか」
「可能でした」
「なら、なぜ変えた」
「西側の積雪状況がこの先も継続する可能性があり、第二地点到着後の時間的余裕がなくなると判断しました」
「南なら確実に早いと分かってたか」
「いいえ」
「それでも選んだ理由は」
「西側には、すでに確認できている不利な条件がありました。南側には距離増加という不利がありますが、森林帯の地形から、歩行速度を維持できる可能性が高いと判断しました」
カイルは記録へ視線を落とした。
「分かった」
次の項目を見る。
「帰路。一五〇三に停止。踵の処置」
「はい」
「その時点で、期限超過の可能性は」
「ありました」
「同行者は歩けた」
「はい」
「なら、なぜ速度を落とした」
「痛みが三まで上がっていたためです」
「三なら行動可能だ」
「可能です」
「期限を守ることもできたかもしれない」
「はい」
カイルが顔を上げた。
「それでもか」
「はい」
「理由」
エレジは答えた。
「期限を守るためだけに、悪化させる必要はないと判断しました」
「悪化するとは限らない」
「はい」
「そのままでも帰れたかもしれない」
「はい」
「なら、安全側を選んだだけか」
エレジは少し止まった。そう言われると、何かが違った。
「……安全だから選んだわけではありません」
「じゃあ何だ」
「期限を十二分守ることと、同行者の足に追加の負荷をかけることを比べました」
カイルは黙っている。
「今回は、十二分にそれだけの価値はないと判断しました」
「もし帰投期限が救援可能時間の限界だったら」
「速度を維持します」
「同行者の痛みが六だったら」
「期限を超過してでも、さらに速度を落とすか、必要なら救援を要請します」
「任務が敵情報の緊急伝達だったら」
「可能な範囲で時間を優先します」
カイルはそこで頷いた。
「そうだ」
エレジは少しだけ息を吐く。
「安全なほうを選べば正しい、じゃない」
「はい」
「危険なほうを選べば勇敢、でもない」
「はい」
「条件を比べろ」
カイルは記録用紙に何かを書き込んだ。
「今日の十二分は許容できる」
「了解しました」
「ただし」
ペンが止まる。
「今度は安全側へ逃げる癖をつけるな」
エレジは顔を上げた。
「逃げる、ですか」
「危険を取らないこと自体が目的になれば、判断じゃなくなる」
「はい」
「必要なら行け」
エレジは三日間訓練を思い出した。二日目には第二偵察地点を放棄して翌日の行程を残し、三日目には疲労した班員の荷物を三人で分けた。あのときも、課題を達成できるかどうかだけで決めたわけではない。
今日は期限を捨てて、同行者の状態を優先した。
けれど、いつも課題を捨てればいいわけではない。いつも期限を諦めればいいわけでもない。
「条件次第、ということですか」
「そうだ」
「毎回?」
「毎回だ」
エレジはわずかに眉を寄せた。
「面倒ですね」
言った瞬間、カイルがエレジを見る。自分でも口に出すつもりはなかった。
数秒の沈黙のあと、カイルが言った。
「今さら気づいたか」
エレジは返事に困った。
「……はい」
「残念だったな」
声はいつもと同じだったが、カイルの口元が少し緩んだのが見えた。しかし一瞬のことですぐ消えてしまう。
「以上」
「ありがとうございました」
*
講評室を出て宿舎へ戻り、夕食を済ませたあと、エレジは机へ向かった。ベルンハルトで買った渡り鳥の本はもう半分ほどまで読み進めており、ページの間には細く折った紙片が挟んである。
本を開いて読み始め、途中で机の端へ手を伸ばして木の実の菓子を一つ取った。包みを開いて口へ入れ、そのまま次のページをめくる。
数行読んだところで、昼間の講評で言われたことが頭に戻ってきた。
『条件を比べろ』
『必要なら行け』
訓練中の指摘をあとから思い返すことは珍しくない。何を見落としたのか、別の条件ならどう判断するのか。次に同じ状況が来たとき迷わないよう、理解できるまで考える。
だから、その二つが残っていることに不思議はなかった。
けれど、そのあとに交わしたやり取りまで思い出したのは、少し違った。
『今さら気づいたか』
『残念だったな』
あれは訓練上の指摘ではない。覚えておく必要もなければ、あとから考え直すような内容でもない。
それなのに、言葉だけではなくカイルの声と、一瞬だけ見えた表情までよく覚えている。
エレジは本へ意識を戻した。しかし、数行読んで、同じところをもう一度読んでいた。
内容が頭に入っていなかった。
エレジは少しだけ眉を寄せた。疲れているせいだろうと思い、今度は意識して文章を追う。しばらくすると、また普通に読めるようになった。
ただ、ページをめくったあとも、昼間の短いやり取りだけは、なぜかまだ頭に残っていた。
6
十二月半ば。朝になるたび新しい雪が前日の足跡を消し、訓練場の端に積み上げられた雪壁は人の肩を越える高さになっていた。
日は短く、午後の訓練を終えて戻る頃には、山の稜線からも明るさが消えかけていた。
エレジは前日の観測訓練で提出した偵察記録を差し戻されていた。敵役の移動経路について、確認した事実と推定した情報が一つの文章に混ざっている箇所があった。
夕食前、エレジは修正した記録を持って教官棟へ向かった。廊下の奥まで進み、カイルの執務室をノックする。
「入れ」
「失礼します」
扉を開けると、カイルは机で別の書類を読んでいた。
「偵察記録の修正版を持ってきました」
「見せろ」
エレジは机の前まで進み、記録を差し出した。カイルは読んでいた書類を脇へ置いて受け取り、その場で最初のページを開く。
室内には紙をめくる音と暖房器具の低い音だけがあった。窓際には何枚かの地図が重ねられ、その横に金属製のポットが置かれている。しばらくして、エレジはそこから漂っている匂いに気づいた。
ベルンハルトへ行った日、カイルが豆を買っていた店と同じ匂いだった。
「ヴァイス中尉」
呼ばれて、エレジは机へ視線を戻した。
「ここ」
カイルが一行を指している。
「『三名程度が北方向へ移動したと判断』。根拠は」
「足跡です」
「何人分確認した」
「二種類です。ただ、歩幅と踏み込みの重なりから、別の一名がいる可能性が高いと判断しました」
「可能性が高い、だな」
「はい」
「三人目を確認したわけじゃない」
「していません」
カイルはその行を鉛筆の先で軽く叩いた。
「なら、確認した二名と推定した一名を同じ文章に入れるな」
エレジは記録を覗き込んだ。
「『少なくとも二名が北方向へ移動したことを確認。足跡の重なりから、さらに一名が同行した可能性あり』」
「それならいい」
カイルが短く印をつけ、その先を読み進める。エレジは一歩下がった。
やがて最後のページまで確認すると、カイルは記録を閉じた。
「直すのはそこだけだ。明朝出せ」
「了解しました」
記録を受け取り、エレジは踵を返しかけた。
「ヴァイス中尉」
「はい」
「時間あるか」
壁の時計を見る。一七二〇。夕食までは四十分ほどあった。
「あります」
「コーヒー飲むか」
エレジの視線が、窓際のポットへ向かった。
三日間訓練を終えた翌朝、食堂で一度飲ませてもらったことがある。最後まで飲んだものの、何が好まれているのかはよく分からなかった。ただ、香りは覚えていた。
「……飲みます」
「座れ」
カイルは立ち上がり、棚からもう一つカップを出した。エレジは机の横にある椅子へ腰を下ろす。
ポットから黒い液体が注がれる。カイルは自分のカップを満たしてから、エレジの前へもう一つを置いた。
「砂糖は」
「……どちらでも」
「どちらでも、は禁止だ」
エレジは顔を上げた。カイルは砂糖入れを手にしたまま待っている。
「入れるか、入れないか」
エレジはカップと砂糖入れを交互に見た。砂糖を入れれば飲みやすくなるだろうし、入れなくても飲めないわけではない。それでもカイルは、どちらでもいいという答えでは砂糖入れを置かなかった。
「……入れないです」
「了解」
カイルはそれ以上何も言わず、砂糖入れを元の場所へ戻した。
エレジはカップを両手で持った。指先に熱が伝わってくる。息を吹きかけてから少し飲むと、食堂で飲んだものより香りが強く、苦味のあとに舌の奥へわずかな酸味が残った。
「どうだ」
「苦いです」
「前も似たようなこと言ってたな」
エレジはカップから顔を上げた。
「言いましたか」
「食堂で飲んだとき」
「覚えているんですね」
「一か月も経ってない」
「そうですけど」
カイルは自分のカップを取った。
「まずくはない。うまいかはまだ分からない、だったか」
エレジはカップから口を離した。
「…覚えているんですか」
たしかに、そんなやり取りをした。でも、カイルが自分の言葉まで覚えているとは思わなかった。
そのとき、少しだけ記憶に何かがよぎったが、すぐ次の言葉が聞こえて打ち消される。
「それで、今は」
聞かれて、もう一口飲んだ。さっきほど苦味には驚かず、代わりに鼻へ抜ける匂いが少し分かった。
「やっぱり、よく分かりません」
「そうか」
カイルはそれだけ答えて飲む。
エレジもカップへ視線を落とした。湯気がゆっくり上がっている。そこへ顔を近づけると、味より先に香りが来る。
「でも、匂いは好きです」
「そうか」
「味はまだ苦いです」
「なら、次は豆を変えるか」
エレジは顔を上げた。
「私のためにですか」
「俺も飲む」
「少佐は今のが好きなんですよね」
「好きだ」
「なら、そのままでいいです。少佐のコーヒーなので」
「別のを飲みたいこともある。新しく好きになるものもあるだろうしな」
エレジはもう一口飲んだ。苦味は変わらない。それでも、最初よりは味の違いが分かる気がした。
「ベルンハルトでも、そうでしたね」
「何がだ」
「蜂蜜です。基地にもあるのに、こっちのほうが味がいいと言って買っていました」
「よく覚えてるな」
「覚えてないんですか」
「蜂蜜を買ったことは覚えてる。何を言ったかまでは覚えてない」
「私は覚えています」
「そうみたいだな」
エレジはそこで、ベルンハルトでのことを自分が思っていた以上に覚えていることに気づいた。
コーヒー豆を二袋買ったことも、蜂蜜を選んだことも、昼に食べたものも、そのときカイルが何と答えたかも残っている。
「少佐は、好きなものが多いんですね」
「急に何の話だ」
「コーヒーも、蜂蜜も、あのソーセージを挟んだパンも好きでした」
「普通だろ」
「そうなんですか」
「お前にはないのか」
今度はエレジが考える番だった。
「木の実の菓子は好きです」
「知ってる」
「どうしてですか」
「訓練に持ってきてただろ」
「あれだけで?」
「休憩のたびに食ってれば分かる」
「毎回ではありません」
「似たようなものだ」
「違います」
「そこは否定するのか」
エレジは少し笑った。
「事実と違うので」
「偵察記録と一緒にするな」
「少佐が事実と推定を分けろと言ったんです」
「菓子の話にまで適用しなくていい」
「基準は同じでは?」
「違う」
「どう違うんですか」
カイルはカップを置いた。
「今日は質問が多いな」
言われて、エレジは初めて会話の長さに気づいた。記録の確認はとっくに終わっている。訓練について話していたわけでもない。それなのに、コーヒーから蜂蜜、菓子へと話が続き、自分から終わらせようともしていなかった。
「……すみません」
「謝れとは言ってない」
「では、聞いてもいいんですか」
「もう十分聞いてるだろ」
もっともだった。エレジはまた少し笑って、コーヒーを飲んだ。
「少佐は、いつからコーヒーが好きなんですか」
「まだ聞くのか」
「今のは、さっきから聞こうと思っていました」
「そうか」
カイルは諦めたようにカップを取った。
「覚えてない」
「そんなに前ですか」
「十年以上は飲んでる」
「最初から好きだったんですか」
「分からんな」
エレジは少し意外に思った。
「少佐でも、分からないことがあるんですね」
「あるに決まってるだろ」
「訓練では、何を聞いても答えるので」
「教えられることを聞かれてるからだ」
「今のは教えられないことですか」
「俺の十年前の好みを、どう教えろっていうんだ」
エレジはとうとう声を立てて笑った。それが自分としても何年振りかというくらい珍しいことだと、気づかないほど自然に。
カイルも少し驚いたようにエレジを見ていた。
「それもそうですね」
「……納得したなら飲め。冷めるぞ」
「はい」
エレジはカップへ口をつけた。最初より少し冷めていて、苦味もさっきほど強く感じなかった。
会話が途切れると、カイルは机の端に置いていた別の書類を取り、ページを開いた。エレジはカップを持ったまま窓の外へ目を向けた。
いつの間にか雪が降り始めていた。細かな雪が、暗くなりかけた空を風に押されて横へ流れている。基地にいれば珍しくもない景色だった。
訓練中なら風向きや視界への影響を見る。移動中なら積雪と足場を見る。今はカップから上がる湯気の向こうで、雪が窓を横切っていった。
「ヴァイス中尉」
「はい」
「冷めるぞ」
「飲んでます」
「ならいい」
エレジはまた窓へ目を戻した。
しばらくして時計を見ると、一七四五になっていた。
「夕食は」
カイルが書類から目を離さずに言う。
「行きます」
カップの底には一口分だけ残っていた。エレジはそれを飲み切って立ち上がる。
「ごちそうさまでした」
「ああ」
「記録は明朝提出します」
「そうしろ」
「失礼します」
記録を抱え、扉へ向かう。
「ヴァイス中尉」
振り返ると、カイルはもう次の書類を手にしていた。
「明日の訓練、一三〇〇開始だ。遅れるな」
「了解しました」
廊下へ出ると、執務室より空気が冷たかった。扉が閉まるとコーヒーの匂いも薄くなり、代わりに教官棟特有の乾いた空気が戻ってくる。
エレジは記録を抱え直し、そのまま食堂へ向かった。口の中には、まだ少し苦味が残っていた。
*
数日後、エレジは別の偵察記録を持って、再びカイルの執務室を訪れた。
今度の記録に差し戻しはなかった。カイルは数分で最後まで目を通し、書類を閉じる。
「問題ない」
「はい」
「前より読みやすい」
「ありがとうございます」
エレジは記録を受け取った。
机から一歩離れたところで、窓際に前とは違う紙袋が置かれているのが見えた。口を折って紐で留めてある。エレジがそちらへ視線を向けていると、カイルが椅子から立った。
「飲むか」
「はい」
少しして、エレジの前にコーヒーの入ったカップが置かれる。エレジは受け取り、少し冷ましてから飲んだ。一口目で違いが分かった。
「豆、変えました?」
「ああ」
「前より苦くないです」
「軽いだろ」
「はい」
もう一口飲む。前のものより柔らかく、香りにも少し甘さがある。今度は味を確かめるように口の中へ少し残してから飲み込んだ。
「こっちのほうが好きです」
カイルはポットを元の場所へ戻した。
「そうか」
エレジはカップを両手で包んだ。
カイルが自分の椅子へ戻る。
「砂糖は」
「なしで」
「了解」
今度は考えなかった。カイルも砂糖入れには触れず、そのまま椅子へ座った。
「この前、私が苦いと言ったから変えたんですか」
「それもある」
「それも?」
「前のがなくなった」
「そうなんですか」
「ああ」
エレジは窓際の紙袋を見る。
「少佐は、こっちも好きですか」
「悪くない」
「前のは?」
「好きだ」
「両方ですか」
「ああ」
もう一度コーヒーを飲む。前より好きだった。もう一口飲んでも、そう感じるのは変わらなかった。
そのあとは、翌日の集合時刻と装備の確認、それから前回の観測訓練でエレジが見落とした地形について少し話した。
カイルが地図を広げると、エレジはカップを持ったまま机へ寄り、指された場所を覗き込んだ。
「ここ。尾根の影になってただろ」
「はい」
「正面からだけ見て終わってる」
「もしかして、東へ十メートル移動すれば見えましたか」
「そうだ。観測地点そのものを固定するな」
「了解しました」
カイルが地図を畳み、エレジは椅子へ戻る。カップにはまだ半分ほど残っている。
カイルは別の書類を手に取り、エレジは急がずにコーヒーを飲んだ。室内では暖房器具が低い音を立て、窓の外では屋根から落ちた雪が細かく崩れていた。
十分ほどして、エレジは空になったカップを机の端へ戻した。
「ごちそうさまでした」
「ああ」
「失礼します」
記録を抱えて廊下へ出る。
扉を閉め、数歩進んだところで、エレジは腕の中の記録へ目を落とした。
今回は修正箇所がなかった。
階段まで来て、一段目へ足を下ろす。
そこで止まり、一度だけ振り返った。廊下の奥に、さっき閉めた扉が見える。
数秒そのまま立ってから、エレジは前へ向き直り、階段を下りていった。
口の中には、さっき飲んだコーヒーの香りがまだ少し残っていた。




