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エーデルベルグの雪 ──北部山岳任務録──  作者: 有凪いちほ
北部山岳特殊任務課程

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1/159

行きたい場所・観察・ベルンハルト


1


 隣の机のランプは消え、壁際のストーブだけがときおり低い金属音を立てている。昼間に運び込まれた雪が軍靴の裏から溶け、床の隅に薄い水跡を残していた。


 カイル・グレイ少佐は、外出許可願へ視線を落としていた。


 氏名。所属。外出先。同行者。帰投予定時刻。書き漏らしはない。


 ベルンハルト市街。同行者三名。帰投予定、十八時四十分。


 問題があるとすれば、提出期限まであと十二分ということくらいだった。

 署名を入れ、許可証の部分を切り離す。


「次からもっと早く出せ」


「はい」


「締切まで十二分残っている、は早いうちに入らない」


 一瞬だけ、青年の表情が固まった。


「……はい、少佐」


 カイルは許可証を差し出した。


「帰投時刻は守れ」


「はい。ありがとうございます」


 紙を受け取った途端、今度は隠す気もなく顔が明るくなる。カイルはその変化を見て、ペンを机に置いた。


「そんなに嬉しいか」


「三週間ぶりの外出ですので」


「そうか」


「ベルンハルトで同期と飯を食って、それから時計塔の近くを――」


「俺は予定を聞いていない」


「失礼しました」


 そう言いながら、まだ嬉しそうだった。


「行け」


「はい。失礼します」


 扉が閉まる。廊下を遠ざかっていく軍靴の音が、途中から少し速くなった。


 カイルは残った書類へ目を戻した。


 上級山岳戦術課程が始まって、三週間余り。明日は受講者たちにとって、初めてのまとまった休養日だった。


 この基地へ集められたのは、新兵ではない。

 それぞれの部隊で勤務し、山岳行動に必要な基礎技術を身につけた現役軍人ばかりだ。階級も所属も違う。歩兵出身もいれば、偵察、通信、救難を専門にしてきた者もいる。


 それでも三週間も同じ場所で雪と風に晒され、朝から晩まで判断を試され続ければ、休みを待つ顔は若い兵士とたいして変わらなかった。


 全員が自由に外へ出られるわけではない。装備整備の遅れている者、医務室から経過観察を言い渡されている者、追加課題の残っている者もいる。それでも大半はベルンハルトへの外出許可を申請していた。


 基地から街までは、軍用車で四十分余り。


 下へ降りれば、温かい食事がある。酒場がある。衣料品店や書店、菓子屋もある。

 中央広場には古い時計塔があり、クリスマスを前に、その周囲にも飾りが増えているらしい。


 カイル自身はここ数週間、街へ下りていなかった。

 机の端へ置いていた最後の評価表を引き寄せる。


 射撃。長距離雪上行動。ロープ操作。地図判読。戦術判断。通信。寒冷環境下での装備管理。


 項目ごとに並んだ評価と、各教官の所見を確認していく。

 ここへ来る以前の経歴だけを見れば、全員が一定以上の能力を持っている。それでも実際に山へ出せば差は出る。


 体力に優れていても、判断が遅い者がいる。地図は正確に読めても、現地で視界を失うと位置を絞れなくなる者もいる。射撃成績が良くても、低温下で手指の感覚が落ちると精度を崩す者もいた。


 カイルは一枚ずつ所見を書き足していった。最後から三枚目で、手が止まる。


 エレジ・ヴァイス中尉。


 二十六歳、北方軍所属。

射撃、地図判読、状況判断、優。

長距離行動、通信、ロープ操作、良。


 どれか一つだけなら、彼女より上の受講者はいる。


 急斜面で荷重を背負ったまま高度を稼ぐ速さでは、別の山岳歩兵将校のほうがいい。

 ロープによる救出技術なら、救難部隊から来た受講者に及ばない。通信機器についても専門将校には敵わない。


 それでも総合すると上位に残る。目立つ失敗が少なく、一度指摘した失敗を繰り返すこともほとんどない。それに、単独で優秀なだけではなかった。

 隊列が崩れれば後方の速度に合わせ、他の受講者の装備に異常があれば、本人より先に気づくことがある。誰かが遅れているときに手を貸すのも早い。

 ただ、その行動には個人的に一つ気になるところがあった。

 だが、まだ三週間だ。性格なのか、訓練中の癖なのか、判断するには材料が足りない。


 カイルはその項目には何も書き足さず、次の紙へ移った。

 明日が休みだからといって、教官側の仕事まで消えるわけではない。最後の一枚を閉じたところで、ようやく息を吐いた。


 椅子の背にもたれ、首の後ろへ手を回す。長時間同じ姿勢でいたせいか、首の付け根が重かった。

 指で一度強く押してから立ち上がる。机上の書類を揃え、ペンを置く。窓際のコートを取り、腕を通してランプを消した。


 廊下へ出ると、いつもの夜より声が多かった。


「時計塔の前でいいよな?」


「その前にパン屋。昼前に行かないと売り切れる」


 階段の下から笑い声が上がってくる。別の二人は、明日どの店に行くかで本気の言い争いをしていた。


 三週間前、ここへ来たときには互いの階級章を確かめながら話していた連中も、今では訓練中の失敗を遠慮なく指摘し合うようになっている。


 悪い変化ではない。カイルは彼らに声をかけず、そのまま二階の廊下を進んだ。角を曲がったところで、足がわずかに止まった。


 廊下から一段引き込んだ場所に、小さな休憩用の空間がある。西向きの窓の前に低いテーブルが置かれ、古びたソファが置かれている。

 昼間なら、誰かが地図を広げていたり、装備の金具を直していたり、講義の合間にコーヒーを飲んでいたりする。


 今いるのは一人だった。

 座って外を見ている横顔には、黒に近い暗色の髪が顎のあたりまでかかり、長めの前髪が頬の脇へ落ちている。テーブルの上には、開けられた缶コーヒーが一本あった。


 本を読んでいるわけでも、手紙を書いているわけでもない。ただ、窓の外を見ている。


 カイルが近づくと、相手は足音に気づいた。淡い灰青色の目がこちらを捉えた途端、立ち上がる。


「少佐」


 姿勢を正したエレジを、カイルは手で制する。


「楽にしていい」


「はい」


 カイルはエレジが見ていた窓の向こうへ目を向けた。

 基地の照明が届く範囲を越えると、山腹はほとんど闇だった。そのさらに下、山裾を隔てた低いところに、ベルンハルトの灯りが見える。


「明日の外出許可願は出さないのか」


「はい」


 返事はすぐだった。


「休暇は少ない」


「はい。……でも、行きたい場所がないので」


 カイルは何も言わなかった。エレジも、それ以上は続けない。先ほどまでと同じように、窓の方を見ている。


 行きたい場所がない。


 街へ出られないことを残念がっているようには見えない。しかし、基地に残ることを楽しみにしているようにも見えなかった。


*


 三週間前。


 軍用輸送車は、雪の増えていく山道を登っていた。麓では道路脇に残っているだけだった白が、標高が上がるにつれて針葉樹の根元を埋め、やがて斜面のほとんどを覆うようになった。


「二千を越えたら、もう完全に積もってるらしい」


「今週の演習でそこまで上げると思うか?」


「初週から?」


「グレイ少佐ならやるって聞いた」


「会ったことあるのか」


「ない」


「じゃあ何を知ってるんだ」


「噂くらい聞くだろ」


 向かいに座った男たちが笑うのを聞きながら、エレジは窓の外に続く山を見ていた。黒い針葉樹の上から雪と岩肌が現れ、その先は低い雲の中へ消えている。


 上級山岳戦術課程は六か月。所属部隊から推薦を受け、選考を通ってここへ来た。山岳行動も偵察任務も経験している。射撃や地図判読にも不足はないつもりだったが、同じ輸送車に乗っているのは、それぞれの部隊から同じように選ばれてきた軍人たちだった。


 検問所を越えると、雪の斜面に沿って基地の建物が見えてきた。低い場所に車庫と倉庫、その上に兵舎、さらに奥には訓練棟があり、除雪された通路の両側には押し退けられた雪が積み上がっている。基地の北側からはさらに山が立ち上がり、その上部は雲に隠れていた。


 これから半年、自分が試される場所だった。


     *


 翌朝、二十四人の受講者が第一訓練棟前に並んだ。夜のうちに降った雪が通路の端へ新しい層を作り、列の間を抜ける風が細かな雪を運んでいた。


「二十四名、全員」


 担当の大尉の報告を受けて訓練棟から出てきた男の階級章を見て、エレジは前日の輸送車で聞いた名前を思い出した。


「カイル・グレイ少佐だ。この課程の主任戦術教官を務める。ここへ来るまでに、山の歩き方を知らない者はいないはずだ。地図の読み方、ロープの結び方、低温下での装備管理。だから、ここではそれ自体を一から教えるつもりはない。見るのは、その先だ」


 声を張り上げることもなく、カイルはそのまま続けた。


「予定していた経路が使えない。通信が切れる。負傷者が出る。天候が変わる。残り時間が想定より短い。そういう状況で、何を捨てて何を残すか。命令を待てば済む状況ばかりなら、この課程は必要ない。自分で見ろ。考えろ。判断しろ。そして、その理由を説明できるようにしておけ」


 それで訓示は終わった。気合を入れるための怒声も、長い説明もなかった。輸送車の中で名前だけを聞いたときには、どんな教官なのか想像する材料もなかったが、少なくとも声で人を従わせる種類の人間ではないらしい、とエレジは思った。


「始めろ」


「了解しました」


     *


 最初の二日間は、射撃、地図判読、雪上移動、ロープ、通信と、受講者がすでに持っている能力を測る訓練が続いた。


 初日の射撃で、エレジは五発目を右へ外した。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「五発目、原因は」


「撃発前に止める位置が呼吸で浅くなりました」


「修正できるか」


「はい」


「続けろ」


 次の五発では、同じずれは出なかった。


 外した理由も、修正する方法も、カイルからは何も言われていない。五発目を指摘され、自分で原因を答えただけだった。


 その程度なら、特別なことではない。射撃経験のある者に一から姿勢を教える必要もない。


 ただ、カイルは正解を確認するより先に、エレジ自身に原因を言わせた。


 初日の訓示で言っていた「自分で見ろ」というのは、こういうことなのだろうと、そのときは思った。


     *


 翌日の雪上移動では、前を行く山岳歩兵出身の大尉に登坂速度で離された。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「前と開いたな。理由は」


「登坂速度で負けています」


「それだけか」


 速度差があること自体は見れば分かる。カイルが聞いているのは、その説明ではなかった。


 エレジはここまでの登りを思い返した。深い場所で足を取られ、そのたびに同じ箇所を踏み直している。


「歩幅が大きすぎます。雪面を崩して踏み直しています」


「次」


「歩幅を狭くします」


「やれ」


「はい」


 修正しても、前の大尉より速くはならなかった。それでも踏み直しは減り、後半まで呼吸が残った。


 射撃のときとは少し違った。


 最初に答えた「登坂速度で負けている」は間違ってはいない。それでもカイルは、そこで終わらせなかった。


 起きていることを言うだけでは足りない。なぜそうなったのかまで、自分で見つけなければ次の判断には使えない。


 訓示で言っていた「理由を説明できるようにしておけ」の意味が、エレジの中で少し具体的になった。


     *


 数日後、地図判読の講義で、エレジは初めてその問いに答えられなくなった。


 四名で偵察任務から帰投中。予定経路は尾根道。視界不良、風速上昇、通信は断続的。帰投期限は十八時。


 最初の条件なら判断できた。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「どうする」


「予定経路を放棄し、西へ降ります。樹林帯へ入ったあと、南西へ回って基地へ戻ります」


「理由は」


「尾根上の視界と風速を考えると、予定経路を維持する利点がありません。南斜面は距離が短いですが、風向から積雪が不安定になっている可能性があります。西側は距離が伸びますが、樹林帯へ入れば風の影響を減らせます」


「分かった」


 そこへ、隊員一名が右足首を負傷し、歩行速度が通常の半分になるという条件が加わった。さらに一時間後、気温が十度下がり、降雪量が増え、風向も変化する。


「ヴァイス中尉。どうする」


 先ほど選んだ西への経路は、条件が変わったことで利点を失いつつあった。それでもエレジは、負傷者、移動速度、低温、通信、帰投期限をどう組み直せばいいのか、すぐには決められなかった。


 答えが出ないまま時間が過ぎた。


 こういうときは、何かを答えるよう促されるか、別の受講者へ回されるものだと思っていた。


 カイルはどちらもしなかった。


 正しい方向へ誘導することも、最初の判断のどこが問題なのかを指摘することもない。ただ、次の問いを重ねずに待っていた。


 その沈黙の中で、エレジは初めて、すぐに答えを出すことをやめた。


 最初から考え直す。


 西を捨てる。南も使わない。高地へ戻れば負傷者への負担が大きい。帰投期限そのものを守る必要があるのか。


「少佐、先ほどの判断を変更します」


「どうする」


「ここまで移動します。現在地から最短で樹林に入れます。高度差も小さい。帰投は諦めます」


「その後は」


「負傷者の状態を再確認。低温対策を優先して一晩待機します」


「帰投期限は完全に捨てるんだな」


「はい」


「正式な任務報告も遅れる。それでもか」


「はい」


「理由は」


「今の条件で帰投を優先すれば、負傷者だけでなく全員の低体温リスクが上がります。偵察結果の要点は移動前に送信できます。なら、帰投時刻より生存率を優先します」


 カイルは最後まで説明を聞いた。


「分かった。もう一つ。樹林へ入る前に、進路上の積雪が不安定だと分かった。確認が必要だ。誰を出す」


「私が確認します」


「なぜお前だ」


「負傷者は出せません。残る二名のうち一名は負傷者についていたほうがいい。もう一名は通信と野営準備に残します」


「確認地点で雪崩に巻かれる可能性は」


「あります」


「それでも行くのか」


「必要なら」


「他の方法は」


 そこで初めて、エレジは別の方法を考えた。


「……ロープで確保した上で、二名で確認します」


「なぜ最初にそれを出さなかった」


「人数を残すことを優先しました」


「お前が欠けた場合は」


「三名になります」


「そういう意味じゃない。お前も四名のうちの一人だ。自分を一人減らす前提で組むな。続けろ」


「……はい」


 次の受講者へ課題が移ったあと、エレジは自分の判断をもう一度考えた。


 戦力を一人失えば、残った三人の負担が増える。負傷者がいるならなおさらだ。それは分かっていたはずなのに、自分が確認へ出る場合だけ、その計算をしていなかった。


 カイルに指摘されたのは危険を引き受けたことではなく、自分だけを戦力の計算から外したことだった。


 だから、次からは条件に入れればいい。


 エレジは野帳の端に「自己を戦力数に含める」と記録した。この時点では、それを一つの判断上の修正点として受け取っていた。


     *


 その日の訓練後、エレジが装備庫で翌日の準備をしていると、カイルに呼び止められた。


「ヴァイス中尉」


 エレジが姿勢を正すと、カイルは手にしていた評価表を確認した。


「今日の最後の判断。なぜ最初に西を選んだ」


「風を避けられる樹林帯へ最短で入れると判断したためです」


「最初から野営は考えなかったのか」


「考えていませんでした」


「なぜ」


「帰投できる条件だと思っていました」


「条件が変わったから、判断を変えた」


「はい」


「変更するのが遅かった。理由は」


 エレジは講義中の自分の考え方を辿った。条件が変わったあとも、西へ降りるという最初の判断を残したまま、それを成立させる方法を探していた。


「最初に決めた経路を残そうとしました」


「そうだ。最初の判断を守る必要はない。状況が変われば、捨てろ」


「了解しました」


「ただし、変更したこと自体は問題ない。理由が説明できるなら、それでいい」


「はい」


「それと、昼間の件も忘れるな」


「自分を戦力数に含める、ですか」


「そうだ」


「記録しました」


「記録するだけじゃなく、判断に使え」


「了解しました」


「以上だ」


 会話はそれだけだった。

 装備確認へ戻ってから、エレジは昼間の講義を思い返した。


 射撃では、自分で原因を見つけるよう求められた。雪上移動では、最初に出した説明の先まで考えるよう求められた。そして今日は、答えそのものが出なくなった。


 それでもカイルは答えを与えなかった。

 分からないなら次、と切ることもしなかった。

 答えが出るまで待っていた。


     *


 その後の訓練でも、カイルのやり方は変わらなかった。


 提出した偵察経路について、「北は雪が深い」と答えれば、「確認したのか」と聞かれた。昨夜の気象記録からの推定だと答えると、「現地確認なしで確定するな」と言われた。


 射撃で散った一発を風のせいだと判断したときには、「本当か?」とだけ返された。考え直せば、原因は風ではなく、姿勢を作り直すのを急いで肩が落ちたことだと分かった。


 どうする。理由は。本当にそうか。


 三週間が経つ頃には、エレジはその問いを向けられても、急いで答えようとはしなくなっていた。


 ある日の午後、翌日の模擬偵察計画を説明していると、退路について問われた。


「侵入は東側の斜面を使います。退路も同じ経路です」


「それでいいのか」


 以前なら、すぐに自分の判断を説明したかもしれない。

 エレジは答えなかった。


 侵入経路を敵に把握された場合、同じ場所から戻れば待ち伏せされる可能性がある。一方、南側は侵入経路として使うには遠いが、退路だけなら許容できる。


 考えている間、カイルから次の言葉はなかった。


「……変更します。退路は南側へ取ります」


「理由は」


「侵入経路をそのまま使うと、敵に把握された場合に待たれる可能性があります」


「なら最初から南は」


「侵入には遠すぎます。時間がかかります」


「分かった。続けろ」


 講義室を出てから、エレジは自分が答えを出すまでの時間を思い返した。


 沈黙していることを、失敗だとは思わなかった。


 最初の地図課題のときも、カイルは待っていた。考えている途中で正解へ誘導せず、間違っていても最後まで聞く。答えが出なければ、出るまで時間を与える。


 これまでには、考えている途中で「違う」と言われたことも、答えに詰まれば「分からないなら次」と切られたこともあった。そのため、分からないときほど何かを答えなければならないと思っていた。

 ここでは、その必要がなかった。


 カイル・グレイ少佐は、自分で答えを出すまで待つ。


 三週間の訓練を経て、それがエレジの中にできた、カイルという教官への最もはっきりした印象になっていた。


     *


 今、二人は雪の向こうにあるベルンハルトの灯りを見ていた。

 先に口を開いたのは、カイルだった。


「明日の午前、軍病院へ返却する装備と、補給部へ回す書類のためにベルンハルトへ降りる。本来は補給担当に任せる予定だったが、一人、医務室に入った」


「負傷ですか」


「発熱だ。大したことはない。だが一人補助が要る」


 カイルがエレジに目を向けた。


「手伝えるか」


「……私ですか」


「そうだ」


 予想していなかったのは、自分が頼まれたことだった。休養日に基地へ残るつもりだったエレジは、断る理由を探す必要は感じなかった。


「はい」


「休養日だぞ」


「問題ありません」


「荷物は医療装備が二箱。重くはない。向こうで受領確認まで済ませる」


「了解しました。外出許可は」


「公用だから必要ない。身分証だけ持ってこい」


「はい。服装は勤務服ですか」


「いや。用件を済ませたあとは休養扱いにする。私服でいい」


「休養扱い、ですか」


「せっかく下まで行くんだ。そのまま車で基地へ戻る必要もないだろう」


「ですが、少佐のご予定は」


「俺にも用がある。帰りは午後になる」


「分かりました」


「〇八三〇だ。遅れるな」


「はい」


 カイルが去ったあと、エレジはテーブルに置いていた缶コーヒーを飲んだが、もう冷えていた。


 公用の手伝いなら、行く理由として十分だ。それだけだと思ったが、窓の向こうに見える街の灯りは、さっきまでとは少し違って見えた。



2


2



 消灯時刻を過ぎると、宿舎棟の窓が一つずつ暗くなっていった。


 カイルは教官宿舎の自室へ戻り、外套を壁際のフックへ掛けた。暖房は入っていたが、しばらく無人だった部屋にはまだ冷気が残っている。手袋を外して机へ置き、襟元を緩める。


 明日は休養日だが、カイルには午前中にベルンハルトへ下りる予定がある。

 軍病院へ返却する医療装備が二箱、補給部へ届ける書類が一式。本来同行する予定だった補給担当者が夕方から発熱し、医務室へ入った。


 補助は一人いれば足りる。


 休憩所にいたエレジへ頼んだ。それだけのことだった。


 カイルは机の引き出しから翌日の車両使用許可証を取り出した。〇八三〇出発。帰投予定は十六時。軍病院と補給部を回っても午前中には用件が終わる。

 書類を戻そうとして、手が止まった。


 『行きたい場所がないので』


 さっき聞いた言葉が残っている。

 カイルは引き出しを閉めた。


     *


 最初に引っかかったのは、訓練開始から数日後だった。


 前夜から降り続いた雪が斜面に残り、先頭を歩く者は膝近くまで脚を沈めていた。六人の班で指定地点まで高度を上げる。目的は速度ではなく、積雪下での経路選択と体力配分だった。


 カイルは最後尾から隊列を見ていた。


 先頭を一定時間で交代させながら進ませていたが、途中で一人の受講者の装備に不具合が出た。右足のアイゼンに雪が噛み、固定が緩んでいる。

 隊列が止まる。


「どうした」


「固定具です」


 答えたのはエレジだった。

 すでに本人の横へしゃがみ、留め具に詰まった雪を落としている。固定をやり直し、ベルトを引いて確かめる。


「歩けます」


 受講者が立ち上がった。


「ありがとうございます、中尉」


「いえ」


 エレジも立つ。

 停止したことで予定より時間を使っていた。先頭交代の地点でもある。


「私が行きます」


 エレジが前へ出た。


「お前は一度やっている」


「はい」


「次の者がいる」


「停止した分を戻せます。まだ余力があります」


 呼吸は乱れていない。足取りにも問題はなかった。

 カイルは数秒見てから先頭を許可した。


 エレジは膝まである雪へ入った。後続のために雪を踏み、進路を作る。速度は落ちなかった。

 そのときは、それだけだった。


 体力のある者が余分に負担すること自体は珍しくない。班全体の行動を考えれば、合理的な場合もある。

 だから評価には何も書かなかった。


     *


 数日後のロープ訓練では、別のことがあった。

 雪壁の下に負傷者がいるという想定で、二人一組で救出を行う。下降する者と、上部で確保する者に分かれていた。


 エレジの組は予定時間内に課題を終えた。そのあと、隣の組で下降器の操作に手間取っている受講者に気づき、自分の装備を片づける手を止めた。


「荷重を抜かないでください。右手はそのままで」


 横から操作を確認する。

 訓練は問題なく終わった。

 次の課題へ移る直前、カイルはエレジの右手を見た。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「手袋」


 エレジが自分の右手を見る。


 掌側が裂けていた。完全には破れていないが、内側まで雪が入り込んでいる。


「いつからだ」


「先ほどの下降中です」


「なぜ交換しなかった」


「操作には支障ありませんでした」


「予備は」


「あります」


「替えろ」


「はい」


 背嚢から予備手袋を取り出す。濡れたものを外すと、指先が冷えて白くなっていた。

 エレジは特に気にした様子もなく、新しい手袋をはめた。


「破損した時点で交換しろ」


「了解しました」


 寒冷地で手指を損傷すれば、射撃にもロープ操作にも影響する。その程度のことを、エレジが理解していないはずはなかった。


 他の受講者の装備に異常があれば、本人より先に気づくことがある。

 自分の装備についても、点検そのものは細かい。


 それなのに、自分に生じた問題だけは、行動を継続できる限り後へ回す。

 そこで初めて、カイルは評価表の余白に短く印をつけた。


     *


 夜間の経路判断訓練では、一人が足を痛めた。

 歩行はできる。ただし、速度は落ちる。


 班長を任されていたエレジは負傷者を中央へ入れ、前後に経験のある者を置いた。負傷者の背嚢から重量物を抜き、他の隊員へ分ける。

 そこまでは問題なかった。

 だが、自分の背嚢へ最も多く入れた。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「重量は」


 エレジが答えたものは、元の重量に、負傷者から移した分が加わっている。


「他の二人には」


「分散しています」


「均等じゃないな」


「私が一番余力があります」


 事実だった。呼吸にも歩行にも余裕がある。


「残り四・二キロ。高度差二百六十。最後までそのままか」


「はい」


「そのあと条件が変わったら」


 エレジが少し黙った。


「対応します」


 今度は答えが遅れた。


「余力は今ある分で全部じゃない。残せ」


「……了解しました」


「分け直せ」


「はい」


 エレジは荷物を下ろした。

 不満そうには見えなかった。自分が多く持つことを当然だと思っているようにも、自己犠牲を誇っているようにも見えない。


 指摘されれば直す。


 ただ、指摘される前の最初の判断では、自分へ負担を寄せる。

 それが二度、三度と続いた。


     *


 そして今日の地図課題だった。

 負傷者一名。悪天候。低温。積雪不安定。

 進路を確認する人間が必要になったとき、エレジはほとんど考えずに答えた。


 私が確認します。


 他の三人を出さない理由はすぐに出てきた。負傷者は出せない。一人は負傷者につける。もう一人は通信と野営準備に残す。


 では、自分は。

 そこだけが抜けていた。


 雪崩に巻かれる可能性があると条件を足しても、「必要なら」と答えた。

 だからカイルは言った。


 お前も四名のうちの一人だ。

 自分を一人減らす前提で組むな。


 エレジは理解した。

 少なくとも、戦術上の意味は。


 カイルは机の椅子へ座った。

 三週間分の訓練を順に並べれば、傾向ははっきりしていた。


 仲間の異常にはよく気づく。誰かが遅れれば速度を調整し、装備に問題があれば手を出す。負傷者が出れば負担を引き受ける。


 それ自体は欠点ではない。部隊行動では、むしろ必要な資質だった。


 問題は、自分自身を扱うときだけ基準が変わることだった。


 危険な役割を取ることに躊躇がない、というだけでもない。軍人なら必要な危険は取る。任務によっては、誰かが危険な位置へ出なければならない。


 エレジの場合、危険を取る必要が本当にあるかを検討するより先に、自分が引き受ける案が出る。


 他の隊員を一人危険へ出すなら理由を考える。

 だが、それが自分だと、その手順が抜ける。


 カイルが認識しているのは、そこまでだった。

 なぜそうなっているのかは分からない。

 勇敢だからとも、自己犠牲的だからとも決めていない。所属部隊での経験によるものかもしれないし、単に訓練中だけに出る癖かもしれない。


 三週間の観察だけで、その内側まで判断するつもりはなかった。

 ただ、教官として修正する必要はある。

 自分を戦力数に含めること。次の訓練で実際の判断に反映されるか。それを見ればいい。

 

 カイルは再び机の上の車両使用許可証に目を向ける。

 休養日に何をするかは本人の自由だ。基地に残って寝ていても、本を読んでいても、何もしなくても問題はない。休養できているなら、教官が口を出すことではなかった。


 ただ、休憩所にいたエレジは、基地に残ることを選んで楽しみにしているようにも見えなかった。


 カイルは椅子の背へ身体を預けた。

 任務では、何をするかをすぐに決める。

 誰かに問題が起きれば、何をすべきかもすぐに決める。

 休養日になった途端、何もない。


 そのことと、訓練中の判断の偏りが同じ理由から生じているのかは分からなかった。結びつけるだけの材料もない。


 明日は補助が一人必要だった。

 用件が終われば休養扱いにする。ベルンハルトで何をするかは本人の自由だ。


 それでも、何も楽しみにしていないように見えた顔が、少しだけ頭に残っていた。

 時計を見る。明日の出発は〇八三〇。

 車両使用許可証を引き出しへ戻し、机のランプを消した。



3


3



 翌朝、エレジは目覚ましが鳴る前に目を覚ました。


 休養日なので、廊下はいつもの朝より静かだった。カーテンの隙間から入る光もまだ薄く、窓の向こうでは細かな雪が降っている。


 枕元の時計を見ると〇六〇二。もう一度眠るには中途半端だった。


 洗面台で顔を洗い、髪を整える。

 濃い色のセーターと厚手のズボンを着て、その上から冬用のコートを羽織る。身分証を内ポケットへ入れた。

 〇八三〇まで、まだ時間はある。


 食堂へ行くと、外出する受講者が何人か朝食を取っていた。昨日より声が明るい。ベルンハルトで何を食べるか、どこへ寄るか、帰りに何を買うかという話が聞こえてきた。

 自分とは関係ない話だとは、完全には思わなかった。


     *


 〇八二五。車庫前には、小型の軍用四輪駆動車が停まっていた。

 エレジが近づくと、後部扉が開いている。中には木箱が二つ積まれ、固定用のベルトが掛けられていた。


 カイルは荷台の横に立ち、書類と箱の番号を照合していた。


「少佐」


 声をかけるとカイルはペンを止めた。


「ああ。早いな」


「五分前です」


「知ってる」


 エレジは荷台を見る。


「これですか」


「軍病院へ返却する。補給部へ回す書類は前だ」


「確認します」


 箱の表示を見る。医療訓練用の固定具と保温資材。返却票に記載された番号と一致している。

 固定用のベルトにも手を掛ける。緩みはない。


「問題ありません」


「なら乗れ」


 助手席へ回る。エレジは運転兵が来るものだと思っていたが、カイルがそのまま運転席へ乗った。


「少佐が運転されるんですか」


「俺の使用許可で出している」


「そうでしたか」


 エレジも助手席へ座り、シートベルトを締めた。

 エンジンが始動すると、低い振動が床から伝わってきた。


 車庫を出て、検問所へ向かう。

 守衛へ書類を渡し、エレジも身分証を提示する。確認が終わると遮断棒が上がり、車が基地を出た。


 三週間前、輸送車で上ってきた道を、今度は逆方向へ下っていく。

 路面は除雪されていたが、昨夜の雪が薄く積もっている。カイルはカーブの手前で速度を落とし、対向車が来るたびに十分な間隔を取った。


 エレジは窓の外を見る。

 基地周辺では道路脇の雪が高い。標高が下がるにつれて少しずつ低くなり、針葉樹の枝に積もる量も減っていく。


 しばらく会話はなかった。

 気まずいとは思わなかった。訓練中にも、必要がなければカイルは話さない。


「ベルンハルトは初めてか」


 不意に聞かれて、返答は少し遅れた。


「はい」


「来るときは通っただろ」


「輸送車で通過しただけです」


「そうか」


 会話はそこで途切れた。さらに十分ほど下る。

 木々の間から家が見え始めた。煙突から細い煙が上がっている。窓辺には赤い布や針葉樹の枝が飾られ、玄関先の雪を掻いている人もいた。


 やがて道幅が広がった。

 石造りの建物が増える。除雪された歩道を人が行き交い、店先には赤や金色の飾りが並んでいた。建物と建物の間には細い紐が渡され、そこから針葉樹の枝が下がっている。


 その向こうに時計塔が見え、エレジは窓の外を追った。

 昨日、基地から見えていた灯りの中にいる。

 車が交差点で止まると、赤い帽子を被った子どもが歩道を走っていった。母親らしい女性が後ろから何か言い、子どもが振り返る。角の店では焼きたてのパンを外へ運んでいた。


 エレジは身体を少し起こした。

 信号が変わり、車が動き出す。

 カイルは何も言わなかった。


     *


 軍病院での用件は二十分ほどで終わった。

 返却品を担当者へ渡し、エレジが箱の番号を読み上げる。担当者が確認し、受領票へ署名する。


「日付と数量、問題ありません」


 エレジは受領票を確認し、カイルへ渡す。


「ああ」


 次は北方軍の補給部だった。

 車で十分ほど移動し、封をされた書類を担当者へ渡す。受領印を取り、控えをファイルへ入れた。


 建物を出たとき、時計は一〇時を少し回ったところだった。

 エレジは腕時計を確認する。


「終わりましたね」


「ああ」


「基地へ戻りますか」


「まだ戻らない」


 カイルは車の鍵をポケットへ入れた。


「帰りは午後だと言っただろ」


 昨日の言葉を思い出す。


「俺の用事を済ませる」


 エレジは車の方を見る。


「私はここで待ちますか」


「何時間もか」


「必要なら」


「必要ない」


 カイルは歩き出した。


「来い」


「はい」


 二歩進んだところで、カイルが振り返る。


「勤務じゃない」


 エレジは足を止めた。


「はい?」


「用件は終わった。ここからは休養扱いだ」


「分かりました」


 カイルはまた歩き出す。エレジもそのあとについていった。


     *


 街の中心へ向かう道は緩い下り坂だった。 

 基地とは音が違った。

 雪を掻く音。荷車の車輪が石畳を通る音。店の扉についた鈴。話し声。笑い声。


 歩道の脇には除雪された雪が積まれ、その上に小さな子どもが手袋で穴を掘っていた。

 エレジはカイルの半歩後ろを歩いた。


「どこへ行くんですか」


「コーヒー豆を買う」


「豆ですか」


「そうだ」


「基地にもありますよね」


「ある」


 カイルはそれ以上説明しなかった。

 数分歩くと、小さな店の前で止まった。


 扉を開けた瞬間、温かい空気が流れてくる。外の冷気で冷えていた頬に触れ、エレジは一度瞬きをした。


 そのあとにコーヒーの香りが来た。


 壁際には麻袋が積まれ、棚にはいくつもの瓶が並んでいる。


「いらっしゃい」


 奥にいた店主が顔を上げ、カイルを見る。


「久しぶりだな」


「しばらく下りられなかった」


「いつものか?」


「ああ。二袋」


 エレジは入口の近くで止まった。

 いつもの。

 その言葉だけが少し意外だった。

 店主が豆を量る。


「そっちは?」


 エレジが自分を指されていると気づくまでに一拍かかった。


「部下だ」


 カイルが答えた。


「訓練中です」


「こんな日に大変だな」


「今日は休養日です」


「じゃあ、なおさらこんなところに立ってないで座ればいい」


 店主が笑い、奥の小さなテーブルを示した。


「今淹れたのがある。飲むか?」


「いえ、私は――」


「もらう」


 言ったカイルをエレジが見る。


「嫌いか」


「いいえ」


「なら座れ」


 店主が小さなカップを二つ置いた。

 エレジはコートを脱がずに椅子へ座り、カップを持った。温かい。

 一口飲む。

 基地で飲むものより苦味が弱かった。飲み込んだあとに、少し甘い香りが残り、もう一口飲んだ。


「どうだ」


 カイルが聞いた。


「基地のものと違います」


「それは分かる」


 エレジはカップを見る。


「……こっちのほうが飲みやすいです」


「そうか」


 カイルはそれ以上聞かなかった。

 エレジはもう一口飲んだ。


「少佐は、これが好きなんですか」


「ああ」


「どうしてですか」


 聞いてから、少し妙な質問だったかと思ったが、カイルは特に気にした様子もなかった。


「毎日飲むからだ」


 エレジはカイルを見る。


「毎日飲むから好きなんですか」


「違う」


 カイルがカップを置いた。


「毎日飲むものなら、うまいほうがいい」


 エレジは自分のカップへ視線を戻した。

 基地のものでも飲める。飲めるのに、わざわざ四十分かけて街まで来て、同じ店で豆を買う。

 その違いを考えながら、残っていたコーヒーを飲んだ。


     *


 店を出ると、カイルの手には紙袋が一つ増えていた。


 次に入ったのは文具店だった。

 カイルは細い鉛筆を数本と、小型の防水手帳を買った。

 エレジは待っているあいだ、壁際の棚を見ていた。

 便箋。封筒。インク。小さなノート。


 濃紺の表紙のノートに目が止まった。何の変哲もない。野帳より薄く、軍用ではない。

 手に取り、開く。罫線のない白い紙だった。


「何か要るのか」


 横から声がした。エレジはノートを閉じた。


「いいえ」


 棚へ戻すと、カイルはそれ以外何も言わず、店を出た。

 エレジも続く。次は食料品店だった。


 乾燥肉や保存食のほかに、瓶詰めの果物や香辛料が並んでいる。

 カイルが蜂蜜の瓶を一つ取った。


「蜂蜜は基地にないんですか」


「ある」


「では、なぜ」


「こっちのほうがいい」


「何がですか」


「味が」


 エレジは瓶を見る。


「パンに?」


「ああ」


「甘いもの、食べるんですね」


 カイルがこちらを見る。


「食べるが」


「少し意外です」


「俺を何だと思ってる」


 エレジは考えた。


「教官です」


「それは知ってる」


 返事が少し早かった。

 エレジはカイルを見る。

 カイルはもう蜂蜜を籠へ入れている。

 口元がわずかに動きそうになり、エレジは商品棚へ視線を戻した。


     *


 広場へ近づくにつれて、人が増えた。

 中央には大きな針葉樹が立っている。枝には小さな灯りが巻かれ、まだ昼前なのにいくつかは点いていた。


 屋台が並ぶ。焼いた肉。パン。果物。菓子。木工品。

 エレジは歩きながら周囲を見た。 


 基地では、見るものには意味がある。

 雪面を見れば積雪を読む。木の枝を見れば風を読む。人の歩き方を見れば疲労や負傷を考える。


 ここでは、何の判断にも使わないものが次々に目へ入った。

 窓辺に置かれた人形。赤い手袋をした子ども。湯気の上がる鍋。店先へ吊られた木製の飾り。

 必要のないものばかりだった。

 それでも目が向く。


「前」


 カイルの声がした。

 エレジが顔を戻した瞬間、右足が滑った。

 雪の下に薄い氷があった。

 身体が後ろへ傾く。

 足を出すより早く、腕を掴まれた。強く引かれ、肩がカイルの胸元へぶつかり、固定される。


「大丈夫か」


 低い声が近くでして、エレジは止まった。

 右足を地面へ戻すと、自分の左手がカイルのコートを掴んでいた。


「……すみません」


「足は」


「大丈夫です」


「捻ってないか」


 カイルの腕が離れると、エレジは右足へ体重をかけた。足首を一度動かす。


「疼痛なし。荷重可能です」


 カイルが黙った。


「何ですか」


「そこまで報告しなくていい」


「状態を確認されたので」


「今は訓練じゃない」


 エレジは少し考える。


「でも、確認は必要ですよね」


「……そうだな」


 カイルは先に歩き出し、エレジも続く。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「今度は前を見ろ」


「見ています」


「さっきもそのつもりだっただろ」


 エレジは答えなかった。

 今度は少しだけカイルとの距離を縮めて歩いた。


     *


 昼が近づいた頃、カイルが屋台の前で止まった。

 焼いたソーセージをパンに挟んだものが並んでいる。


「食うか」


「基地へ戻れば昼食があります」


「戻るのは午後だ。腹は」


 聞かれて、エレジは自分の状態を確かめた。


「少し減っています」


「なら食え」


「少佐は?」


「食う」


「分かりました」


「だから、今は勤務じゃない」


 エレジは財布を出しながら止まった。


「……では、食べます」


「それでいい」


 二人分を買い、広場の端へ移動する。

 エレジは紙に包まれたパンを持った。熱が手袋越しにも分かる。

 一口食べる。

 温かく、ソーセージの塩味が強く、そのあとに香辛料の味が残った。

 もう一口食べ、隣へ目を向けた。カイルは黙って食べている。


「これは、よく食べるんですか」


「たまに」


「好きなんですか」


「嫌いなら買わない」


 エレジはパンを見る。


「そうですね」


 当たり前のことだ。なのに、少し考える。

 嫌いなら買わない。好きだから買う。

 必要だからではない。

 パンをもう一口食べた。


     *


 広場の端を歩いていると、エレジの視線が頭上へ向いた。

 建物と建物の間に、針葉樹とは違う枝が吊られている。丸い葉の間に白い実がつき、赤い紐で束ねられていた。


「何ですか、あれ」


 カイルが視線を追う。


「ヤドリギだ」


「ヤドリギ」


「ああ」


 エレジは見上げた。


「この辺りに生えるんですか」


「生える」


「近くで見たことがありません」


 数歩そちらへ近づく。カイルは止まった。

 エレジは気づかず、さらに一歩進んだ。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「こっちだ」


「でも」


「行くぞ」


 カイルが別の通りへ向かった。

 エレジはヤドリギとカイルを交互に見た。


「少佐」


「何だ」


「あれを見ようと思っていたんですが」


「見えてただろ」


「近くで」


「必要ない」


「危険なんですか」


「違う」


「では、なぜ」


 カイルは少しだけ黙った。


「混んでる」


 エレジはヤドリギの下を見る。

 確かに何人かいる。

 しかしこちらの通りも同じくらいだった。


「こっちも混んでいます」


「そうだな」


 カイルは歩き続ける。

 エレジは納得できないまま、そのあとを追った。


 一度だけ振り返る。

 ヤドリギの下に若い男女が立っていた。

 女性が何か言って笑う。男性が顔を寄せる。

 人の流れに隠れたので、エレジは前へ向き直る。

 何だったのだろう。


「ヴァイス中尉」


「はい」


「前」


「見ています」


     *


 カイルが次に入ったのは、小さな雑貨店だった。


「何を買うんですか」


「補修用の紐」


「基地にあります」


「私物に使う」


 店内には革紐や金具だけでなく、木工品や手袋、小さな置物が並んでいた。

 カイルが奥で店主と話しているあいだ、エレジは棚の間を歩いた。

 小さな木製の鳥があった。

 翼を広げた形をしている。羽根には数本の線が彫られていた。


 エレジは足を止めた。

 隣には鹿。その隣には狐。鳥を手に取り、見た目より軽いそれの翼の形を指でなぞる。


「欲しいのか」


 背後から声がして振り返ると、カイルが立っている。


「いえ」


 鳥を棚へ戻した。

 カイルはそれ以上聞かなかった。


 店を出るが、数歩進んでから、一度だけ振り返る。

 窓越しに、さっきの鳥が見えた。けれど、そのまま歩いた。


     *


 次にカイルが入った店で、エレジは入口に立ったまま動かなかった。

 紙と古い木の匂いがした。

 壁一面の棚に本が並んでいる。


「どうした」


 カイルが振り返る。


「いえ。少佐も本を買うんですか」


「ああ」


「何を」


「地誌」


「仕事ですか」


「半分は」


 カイルは奥へ歩いていった。

 エレジもついていこうとして、横の棚へ視線を向けた。


 自然科学。地質。気象。

 その隣に動物の棚があり、足が止まった。カイルは数歩進んだあとで振り返った。


「そこにいるのか」


「はい」


「分かった」


 それだけ言って奥へ行く。エレジは棚の前に残った。

 何かを探していたわけではない。

 背表紙を見る。北方の植物。雪山の動物。河川と地形。渡り鳥。

 最後の一冊で目が止まった。


 本を抜いて見ると、季節ごとの鳥の移動について書かれた本だった。

 ページを開けば、山脈を越える経路が地図に描かれている。風向や気流、高度によって経路が変わるらしい。

 次のページを開く、さらに次へと。

 山の形によって、同じ種類の鳥でも越える場所が違う。エレジはページを戻した。


「ヴァイス中尉」


 顔を上げると、カイルが少し離れたところにいた。


「そろそろ行くぞ」


 エレジは時計を見る。三十分以上経っていた。


「すみません」


 本を閉じ、棚へ戻す。カイルが出口へ向かうのを追おうとして、二歩進んで止まり、振り返った。

 さっきの本の背表紙が見える。

 少し迷ってから棚へ戻り、もう一度抜いた。


 店から出ると、カイルは扉の近くで待っていた。

 エレジの持つ紙袋を見る。


「買ったのか」


「はい」


「一度戻してただろ」


「はい」


「なら、なぜ買った」


 エレジは少し考えた。


「……分かりません」


「そうか」


 カイルが歩き出し、エレジも隣を歩く。十歩ほど進んでから、エレジは口を開いた。


「戻したあと、もう少し読みたいと思いました」


「そうか」


 少し考えて、エレジはカイルを見る。


「自分で判断しろ、ですか」


「本一冊買うのに作戦判断を出すな」


 エレジは黙った。少しして、口元が緩んだ。

 カイルは前を見ていた。


     *


 広場へ戻る途中、甘い匂いがした。

 エレジは歩きながら屋台を見る。

 木の実を砂糖で固めた小さな菓子が並んでいた。

 足が止まる。カイルは数歩進んでから振り返った。エレジの視線の先を見る。


「欲しいなら買えばいい」


「別に必要ではありません」


「必要なものしか買わないのか」


 エレジは答えなかった。

 空腹でもない。買わなくても何も困らない。それでも、さっきから匂いが気になっていた。

 エレジは屋台へ戻り、紙袋を受け取った。


 一つ取って口へ入れる。甘く、噛めば木の実の香ばしさが強くなった。もう一つ食べる。そうしているのをカイルが横で待っていた。


「どうだ」


 エレジは紙袋を見る。


「おいしいです」


 言ってから顔を上げた。カイルは特に何も言わず、歩き出した。

 エレジも続く。紙袋から、もう一つ取った。


     *


 広場を抜け、車を停めた場所へ戻る。

 まだ午後二時前だったが、冬の曇った空の下では、店先の小さな灯りが朝よりはっきり見えた。時計塔の文字盤にも淡い光が入り、中央の針葉樹に巻かれた灯りが雪の上へ映っている。

 エレジは歩きながら何度か振り返った。


「転ぶぞ」


「前も見ています」


「信用できないな」


「一度だけです」


「一度転びかければ十分だ」


「転んではいません」


「俺が止めたからだ」


 エレジは少し黙った。


「ありがとうございました」


「今さらか」


「まだ言っていなかったので」


 二人はそのまま歩いた。

 いつの間にか、エレジはカイルの半歩後ろではなく、隣にいた。


     *


 車へ戻ると、エレジは後部の荷台を確認した。

 問題はない。


 助手席へ乗ると、買った本を膝の上へ置き、シートベルトを締める。

 カイルがエンジンを始動した。


 暖房から最初は冷たい風が出た。しばらくして、少しずつ温かくなる。

 車が動き出し、ベルンハルトの街路を抜けていく。

 エレジは窓の外を見ていた。


 広場。店。時計塔。さっき通った道。

 すべてが後ろへ流れていく。


 昨日まで、ベルンハルトは基地から見える灯りでしかなかった。

 来る必要がなければ来なかった。

 今日も、公用がなければ来なかった。


 エレジは膝の上の紙袋へ手を置いた。

 中には、買う予定のなかった本が入っている。


 必要ではなかった。誰かに頼まれたわけでもない。課題にも使わない。

 それでも、戻したあとでもう少し読みたいと思った。


 車が街の外へ出た。

 建物が減り、針葉樹が増えていく。

 木々の隙間から、ベルンハルトの灯りが見えた。


 エレジはしばらくそれを見ていた。

 行きたい場所がない。

 昨夜、自分はそう言った。

 今も、次にどこへ行きたいのかと聞かれれば、答えは出ない。


 でも、今日見たものの中には、もう一度見てもいいと思うものがいくつかあった。

 エレジは膝の上の本へ手を置いたまま、灯りが木々の向こうへ消えるまで窓の外を見ていた。



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